恋雪にTS転生したので、猗窩座を救いたい人生だった   作:自分の性癖に素直になろう小説

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第五話 原作破壊をするのが転生者の宿命であると、どこかの偉い人が言った気がする

 

 珠世(たまよ)さんとの邂逅から数日。俺はまだ寝床の中にいた。

 

「……マジか」

 

 天井の木目を睨みながら、俺は今日何度目かも分からない独り言を漏らす。喉の奥がひゅう、と鳴る。発作の後遺症だ。あの夜、無理を押して外に出て、倒れて、そして――現れた。

 

 黒髪、紫の瞳、牙。そして何より、あの纏う空気。原作で何度も何度も挿絵を見た、あの珠世(たまよ)さんが。

 

「覚えておく」

 

 たったそれだけ言い残して去っていった背中を、俺は今でもはっきり覚えている。夢じゃない。都合のいい妄想でもない。あれは現実だ。

 

 ――ここは、『鬼滅(きめつ)の刃』の世界だ。

 

 これまでは半分冗談みたいなものだった。「道場の名前が素流(そりゅう)とか、絶対ネタだろ」「恋雪(こゆき)って名前、聞いたことある気がするんだよなあ」なんて、居酒屋で同僚とアニメの考察でもするみたいなテンションで、心のどこかでは「まさかね」と笑っていられた。だがもう笑えない。笑えるはずがない。

 

 珠世(たまよ)さんは実在した。牙も瞳の色も、原作絵そのままだった。ということは――。

 

 俺は布団の中で、震える指先をぎゅっと握りしめた。

 

(母さんが、死ぬ)

 

 母・雪奈(ゆきな)さんが。あの、いつも縁側で俺の額に濡れた手拭いを乗せてくれる、優しい母さんが。あと数年もしないうちに、井戸だか川だかに身を投げて死ぬ。原作のたった数コマで語られたその結末が、頭の中で急に重さを持って迫ってくる。

 

 不思議と、涙は出なかった。

 

 代わりに込み上げてきたのは――どちらかといえば、あの、前世で散々味わった感覚だった。月曜の朝、山積みのタスクリストを見た時のあの感じ。「詰んでる」と思いつつも、体の芯のどこかが妙に冷静に動き出す、あの感覚。

 

「……知ってるなら、対処できるだろ」

 

 誰に言うでもなく、俺はそう呟いた。

 

 考えてみれば、これはある意味、俺が一番慣れている状況のはずだ。突然無茶振りされたプロジェクト。前任者が逃げた炎上案件。納期はもう決まっていて、リソースは足りなくて、それでも「なんとかしろ」とだけ言われる。ああいうのを、何年やってきたと思ってるんだ。

 

 原作を知ってるということは、少なくとも「いつ」「どこで」「何が起きるか」の当たりはついているということだ。全くの手探りで突っ込むよりは、よっぽどマシな状況のはずだった。

 

「よし」

 

 俺は布団から、細い腕を持ち上げてみせた。病弱な体は起き上がるだけでも一苦労だが、今はその苦労にすら、なんだか変な使命感が湧いてくる。

 

 そうだ。ここが『鬼滅(きめつ)の刃』の世界で、俺が恋雪(こゆき)で、母さんが死ぬ運命にあるというなら――それを知っている俺には、それを変える“力”があるんじゃないか。

 

 

 一人で気合いを入れたはいいものの、体はまだ鉛のように重かった。俺は壁に手をついて、なんとか文机の前まで這うように移動する。そこに置かれた小さな手鏡――ガラスではなく銅を磨いた鏡面に、ぼんやりと自分の顔が映る。

 

 見慣れたはずなのに、何度見ても妙な感覚がある。

 

 色白を通り越して青白い肌。骨が浮くほど細い首。汗で額に張り付いた黒髪。そして、潤んだような大きな瞳。客観的に見れば、掛け値なしに整った、儚い美少女の顔だった。前世の自分が見たら「深窓の令嬢か」と思うような容姿を、今は自分の顔として見ている。

 

 ――この顔は、本当に俺のものなんだろうか。

 

 ふとした瞬間に、その疑問が頭をもたげる。俺は中身が入れ替わった前世の記憶を持つ人間だ。だが、じゃあ「本来の恋雪(こゆき)」はどこに行った。俺が生まれた瞬間からこの体に入っていたのか。それとも、どこかの時点で本物の恋雪(こゆき)と入れ替わって、俺がこの子の人生を、体を、乗っ取ってしまったんじゃないか。

 

 もしそうなら、今この瞬間もどこかで、本物の恋雪(こゆき)が泣いているんじゃないか――。

 

 考えても答えの出ない問いだった。今更どうしようもない。それでも鏡の中の自分と目が合うたび、胸の奥がちくりと痛む。分からないまま、この子の名前を、この子の人生を、俺は生きている。

 

「……こんなこと考えてる場合じゃないんだけどな」

 

 自嘲気味に呟いて、俺は視線を鏡から逸らした。今考えるべきは、そんな答えの出ない問いではない。目の前の、確実に迫っている結末の方だ。

 

 改めて部屋を見回す。畳の上に敷かれた薄い布団、行灯(あんどん)の頼りない灯り、隙間風の入る建具。前世なら、真夏でもエアコン一つで快適に過ごせた。冬は床暖房、風呂は蛇口を捻ればいつでも熱い湯が出た。今は違う。井戸から水を汲み、薪で湯を沸かし、寒い夜は震えながら布団にくるまるしかない。

 

 着物だって面倒だ。何枚も重ねて着付けて、帯を締めて、厠(かわや)に行くたびに裾を捲って気を遣う。動きにくいことこの上ないし、病弱な体では着替えひとつにも体力を使う。食事も、白米は贅沢品で、日々の膳は質素な雑穀と汁物、季節の野菜が中心。前世で当たり前に食べていたコンビニ飯やレトルト、ファストフードの類は、この世界には影も形もない。

 

 不便で、不自由で、そして――何より、医療がまともに存在しない時代だ。

 

 前世なら、こんな喘息じみた発作、吸入薬の一本もあれば済んだ話だ。病院に駆け込んで、点滴の一本も打ってもらえば、数時間で楽になった。だがここでは、発作が起きればただ横になって、嵐が過ぎるのを待つしかない。医者と呼べる存在すら、この村には碌にいない。

 

 ――そんな時代に、母さんは死ぬ。

 

 俺はもう一度、鏡の中の自分を見た。青白い顔、細い肩、今にも折れそうな体。こんな体で何ができるのか、正直自分でも分からない。乗っ取ったのか、生まれ持ったのか分からないこの体で、何かを変えられるのか。

 

 それでも。

 

 分からないなりに、この体で、この時代で、今を生きているのは俺だ。だったら、俺にできることをやるしかない。

 

 前世で誰も救えなかった、社畜として消費されるだけの人生の分まで。今度こそ。

 

「――絶対に、死なせない」

 

 まだ何の勝算もない。手立てもほとんど思いついていない。それでも俺は、病床の中でひとり、静かに拳を握った。

 

 

 

 

 翌日から、俺の「母親監視作戦」が始まった。

 

 作戦名は仰々しいが、やることは地味だ。まず手始めに、母さんの行動範囲を把握することにした。前世で言うところの、行動パターン分析というやつだ。

 

「お母さん、今日はどこに洗濯に行くの?」

「あら、いつも通り裏の井戸よ。どうして?」

「ううん、なんとなく」

 

 なんとなく、で誤魔化しながら、俺は縁側からその様子をじっと観察する。桶を運ぶ後ろ姿、水を汲む仕草、井戸端に立つ時間の長さ。何か異変はないか。思い詰めた表情はしていないか。とにかく目を離さないことが第一だと思った。

 

 三日目にして、俺は自分の作戦の限界に気づいた。

 

 そもそも、寝たきりに近い病弱児が、母親の一挙手一投足を四六時中監視するのは物理的に無理がある。俺の視界は縁側から見える範囲だけで、雪奈(ゆきな)さんが裏の畑や川に行けば、もう何も分からなくなる。前世で言うなら、監視カメラなしで24時間張り込みしようとしているようなものだった。

 

「じゃあ、井戸端に近づかせなければいいんじゃないか」

 

 我ながら名案だと思った。俺はさっそく実行に移す。

 

「お母さん、洗濯物、わたしがやるよ」

「恋雪(こゆき)が? だめよ、あなたそんな体で無理しちゃ」

「大丈夫だから、ね、ね」

 

 もちろん無理だった。桶を持ち上げようとした瞬間、腕がぷるぷると震え、水が半分こぼれ、挙句に軽くむせて咳き込んだ。母さんに背中をさすられながら、俺は内心で盛大に舌打ちする。

 

(くそ、STRが足りてねえ……)

 

 前世でゲームのステータス画面を思い出しながら現実逃避している場合ではなかった。次の手を考える。

 

「じゃあ、井戸には近づかない方がいいと思う。あそこ、なんか、変なのが出るって聞いたよ」

「変なの?」

「その、幽霊とか鬼とか、そういう……」

 

 母さんはきょとんとした顔で俺を見つめ、それから困ったように笑った。

 

「恋雪(こゆき)ったら、そんな怖い話、誰から聞いたの」

 

 誰からも聞いていない。俺が今、この場ででっち上げた。だが咄嗟に出た嘘にしては悪くない出来だと思った。江戸時代なら幽霊話の一つや二つ、それなりに説得力があるはずだ。

 

 結果から言うと、まったく効果はなかった。

 

 母さんは「まあ、恋雪(こゆき)は本当に想像力が豊かねえ」とだけ言って、翌日もいつも通り井戸端に向かった。俺の渾身の怪談は、ただの微笑ましいエピソードとして処理されただけだった。

 

(そりゃそうだよな……毎日使う井戸を、娘の作り話一つで避けるわけないよな……)

 

 冷静に考えれば当たり前の話だった。前世なら「セキュリティ意識向上のための注意喚起メール」を一通送ったくらいで、業務フローがいきなり変わるわけがないのと同じだ。組織というのは、そう簡単には動かない。家庭も同じらしい。

 

 作戦は次々と失敗していった。

 

「今日は縁側でお話ししようよ」と外出そのものを妨害しようとすれば、「あら、でも今日は井戸端の方の草むしりもしなきゃいけないし」とやんわりかわされる。

 

「わたし、川の音が苦手なの、近くに行かないで」と情に訴えれば、「あらあら、それは知らなかったわね」と優しく頭を撫でられて終わる。撫でられて嬉しい気持ちと、作戦が失敗した悔しさが同時に押し寄せてくるのは、なかなか複雑な気分だった。

 

 一番の誤算は、俺自身の体力だった。

 

 母さんの行動に目を光らせ続けるには、当然ながら起きている時間を増やす必要がある。普段なら昼過ぎには横になって休む時間も、俺は歯を食いしばって起き続けた。井戸端が見える位置に座り、畑仕事の様子を遠くから眺め、夜も物音がするたびに薄目を開けて確認する。

 

 その結果として、息が上がるのが早くなった。

 

 以前なら半刻は持った縁側での座り仕事が、今では四半刻もしないうちに肩で息をするようになっている。喉の奥がひゅうひゅうと鳴る回数も、目に見えて増えていた。

 

「わたし、絶対に無理してないから」

 

 誰に聞かせるでもなく、そう呟きながら、俺は自分の身体をさすった。

 

 嘘だった。無理はしていた。だが今、ここで手を緩めるわけにはいかない。母さんが死ぬ未来を知っていて、それでも何もしないという選択肢だけは、俺の中に存在しなかった。

 

 たとえその抵抗が、井戸端に近づけさせない苦肉の怪談話程度の、実に頼りないものだったとしても。

 

 

 

 七日が過ぎる頃には、俺の体は完全に悲鳴を上げていた。

 

 朝起きた瞬間から頭が重い。視界の端がちかちかと点滅する。以前なら数日おきだった発作が、今では一日に一度は必ず起きるようになっていた。喉が締まる感覚に襲われるたび、俺は「またか」と思いながらも、それを表に出さないよう必死に取り繕う。

 

 父さんが異変に気づいたのは、そんなある朝のことだった。

 

「恋雪(こゆき)、お前、顔色が悪いぞ」

 

 道場から戻ってきた父さんが、縁側に座り込んでいた俺の顔を覗き込む。太い眉がぎゅっと寄せられていた。

 

「へ、平気だよ。ちょっと寝不足なだけ」

「寝不足って、お前……」

 

 父さんの視線が、俺の目の下の隈に落ちる。前世でいうところの「深夜残業明けのビジネスマン」みたいな顔をしている自覚は、正直あった。隠しきれるはずもなかった。

 

「最近、夜もあまり眠れてないんじゃないか。医者を呼ぶか」

「だ、大丈夫、大丈夫だから」

 

 慌てて手を振ってみせたものの、説得力はゼロに等しかった。

 

 母さんの心配も、日を追うごとに色濃くなっていった。

 

「恋雪(こゆき)、また起きてるの。もう戌の刻はとっくに過ぎたわよ」

 

 夜、井戸端の様子をこっそり確認しようと縁側に出た俺を見つけた母さんが、心配そうな顔で近寄ってくる。

 

「ちょっと、月がきれいだったから」

「そんな薄着で。体が冷えたらどうするの」

 

 肩に上掛けをかけられながら、俺は曖昧に笑ってごまかした。実際には月など見ていない。ただ母さんの部屋の灯りが消えているか、そればかりを気にしていただけだった。

 

「無理をしちゃだめよ。あなたの体は、人よりずっと弱いんだから」

 

 その言葉に、俺は「うん」とだけ答えた。分かっている。分かっているからこそ、こうして無理をしているのだと、母さんに言えるはずもなかった。

 

(ここで止まったら、意味がない)

 

 心の中で、その言葉だけが呪文のように繰り返される。ここでやめれば、俺は本当にただ指をくわえて母親の死を見送るだけの傍観者になってしまう。前世で散々、見て見ぬふりをしてきた自分を思い出す。上司の理不尽にも、同僚の過労にも、結局は「自分には関係ない」と目を逸らし続けた、あの人生を。

 

 今度は違う。今度こそ、目を逸らさない。

 

 そう決意を新たにするたびに、体は正直にその代償を払わされた。

 

 ある夜、俺は自分の記憶を頼りに、井戸端付近の地形を頭の中で描き直そうとしていた。原作のあの回想シーン、確か井戸は道場の裏手、竹林を抜けた先にあったはずだ。いや、待て。川だったか。井戸だったか。

 

 ――あれ。

 

 記憶が、思ったよりも曖昧だった。

 

 前世で漫画やアニメを見ていたのはもう何年も前のことだ。細かい背景の描写までは、正直言って覚えていない。原作の絵面はうっすらと浮かぶのに、それが「井戸」だったのか「川」だったのか、はたまた両方が混ざった記憶の捏造なのか、自分でも判断がつかなくなってきていた。

 

(嘘だろ……そこ、一番大事なとこじゃねえか)

 

 背筋に冷たいものが走った。

 

 母の死の詳細な状況すら定かでないまま、俺は手探りで対策を打っていたことになる。井戸端を警戒していたつもりが、実は見当違いの場所を守っていたのだとしたら。今までの苦労は、一体何だったのか。

 

 不安は、じわじわと胸の奥に広がっていった。

 

 原作知識という武器を頼りに動き出したはずが、その武器の刃はとっくに鈍っていたのかもしれない。うろ覚えの記憶と、目の前の現実。二つがどこかで食い違い始めている感覚が、日に日に強くなっていく。

 

「本当に、これで合ってるのか……」

 

 誰に問うでもない呟きが、夜の静寂に溶けて消えた。

 

 その晩、俺は久々に大きな発作を起こした。息が詰まり、視界が白く濁り、意識が遠のく寸前まで喉を掻きむしった。駆けつけた慶蔵(けいぞう)さんに抱えられながら、俺はぼんやりとした頭の中で、ただ一つのことだけを考えていた。

 

 ――このままじゃ、いけない。

 

 

 

 熱に浮かされたような日々の中で、俺はある変化に気づいた。

 

 母さんの笑顔が、以前より減っていた。

 

「お母さん、今日のご飯、何?」

「……ああ、そうね、今日は」

 

 一拍の間。ほんのわずかな沈黙。以前なら間髪入れずに返ってきたはずの言葉が、今は少しだけ遅れて返ってくる。目が合っても、以前のように優しく細められるまでに、一瞬の間があった。

 

 気のせいだと思おうとした。だが一度気づいてしまうと、その些細な違和感は日を追うごとに輪郭をはっきりさせていった。

 

 洗濯物を畳む手が、時折止まる。針仕事の途中で、ふと針を持ったまま、遠くを見るような顔をする。夕餉の支度をしながら、鍋を見つめる横顔に、以前はなかった翳りが差している。

 

 俺の"抵抗"は、何も変えていなかった。

 

 それどころか――もしかすると、逆効果だったのではないか。そんな考えが頭をよぎる。井戸端の怪談、外出を止めようとする不自然な引き止め、根拠のない心配。それら一つ一つは、母さんの目にどう映っていたのだろう。

 

 娘の、原因不明の怯え。説明のつかない不安げな態度。

 

 もしかしたら母さんは、そんな俺の様子を見て、何かを感じ取ってしまったのではないか。俺が防ごうとしていたはずの何かに、逆に、俺自身が近づける手助けをしてしまったのではないか――。

 

 考えれば考えるほど、その可能性が拭えなくなっていった。

 

「お母さん」

 

 ある夜、俺は縁側で洗い物をする母さんの背中に声をかけた。振り返った顔に、一瞬、見慣れない表情が浮かんだ気がした。何かを堪えるような、あるいは何かを諦めたような。

 

「なあに、恋雪(こゆき)」

 

 すぐにいつもの柔らかな笑みに戻る。だが俺の目には、その笑顔が、ほんの少し貼り付けたもののように映った。

 

「ううん、なんでもない」

 

 それ以上、何も聞けなかった。聞いたところで、何を言えばいいのか分からなかった。「お母さん、死なないで」とでも言えば、それこそ全てを台無しにする気がした。

 

 焦りだけが、胸の中で募っていく。

 

 数日後の夜、限界が来た。

 

 その日、俺は母さんが夕暮れ時に一人で家を出ていくのを見た。行き先を確かめなければ、そう思って追おうとした瞬間、視界が大きく歪んだ。

 

 音が遠のく。喉が絞られる。立っていられず、俺はそのまま縁側に崩れ落ちた。

 

「――恋雪(こゆき)っ!」

 

 誰かの叫び声が遠くで聞こえた気がした。それが父さんの声なのか、母さんの声なのか、判別する余裕はもうなかった。意識が急速に暗く落ちていく中で、体の芯が焼けるように熱いことだけを、ぼんやりと感じていた。

 

 

 

 

 高熱と激しい発作。目を覚ましたのは、それから丸一日以上が経った後だったという。

 

 薄闇の中で目を開けた時、真っ先に映ったのはいつもの天井の木目だった。あの日、確信を得たときと同じ景色。だが今はもう、あの時のような妙な前向きさは、どこにも残っていなかった。

 

 体を動かそうとしても、指先ひとつ満足に動かない。頭の芯がまだ熱を持って重い。

 

 俺はただ、天井を見つめながら、乾いた声でひとり呟いた。

 

「……物語っていうのは、簡単に変わってくれないんだなぁ……」

 

 分かっていたはずだった。原作知識というのは、こちらの都合のいいように現実を書き換えてくれる魔法の杖ではないのだと。それでも、どこかで期待していたのかもしれない。知っていれば、動けば、何かが変わるはずだと。

 

 だが現実は、静かに、そして容赦なく、決められた筋書きへと近づいていく。

 

 まるで、どんなに抗っても押し戻される、太い川の流れのように。

 

 俺はもう一度、目を閉じた。次に何をすべきか、その答えは、まだどこにも見えなかった。

 

 

 

 

 ***

 

 

 雪奈(ゆきな)は、最近の恋雪(こゆき)が少しおかしいと思っていた。

 

 井戸端に近づくなと言い出したり、洗濯物を代わりにやろうとして体を壊したり、夜更けに物音がするたびに目を覚まして起き出してきたり。突拍子もない怪談話を持ち出したかと思えば、翌日には無理をしながら取り繕いながらも「気のせいだった」と笑う。

 

 不審といえば不審だった。だが同時に、雪奈(ゆきな)にはその不審さの正体に、ほんのりと心当たりがあった。

 

(この子、きっと――わたしのことを、心配してくれているのね)

 

 そう考えると、胸の奥がじんわりと温かくなる。まだ幼い体で、満足に動くこともできないというのに、母を気遣って、母のために何かをしようとしている。それがどんなに不器用で、的外れで、時に滑稽な形であっても、その根っこにある気持ちだけは、まっすぐに伝わってきた。

 

「母さん、今日はどこに行くの」

「今日はわたしがやるから、座ってて」

「あんまり、根を詰めすぎないでね」

 

 一つ一つの言葉を思い出すたび、雪奈(ゆきな)は自然と口元が緩むのを止められなかった。あんなに体の弱い子が、精一杯背伸びをして、母親の顔色を窺っている。可愛くて仕方がなかった。母の身を案じるより先に、自分の体を大事にしてほしいのに――そう思いながらも、その気遣いが嬉しくないはずがなかった。

 

 だが、その裏で、雪奈(ゆきな)の胸には別の重さも同居していた。

 

 恋雪(こゆき)が無理をするたびに、あの子の顔から色が抜けていく。息が上がる回数が増え、夜中に咳き込む声で目を覚ますことも珍しくなくなった。季節が移ろうにつれて、その頻度は明らかに増していた。

 

 もとより丈夫とは言い難い体だった。それがここ最近は、以前とは比べ物にならないほど、寝込む日が長く続いている。粥(かゆ)もろくに喉を通らない日があり、熱に浮かされてうわ言のように何かを呟いている夜もあった。

 

(わたしが、こんな体に生んでしまったから)

 

 その思いは、何度打ち消しても消えることはなかった。生まれた時から病がちだったこの子の体は、母である自分に責任の一端があるように、どうしても思えてしまう。もっと丈夫に、もっと健やかに産んでやれていたなら、あの子はこんなふうに、幼いうちから寝込んでばかりの日々を送らずに済んだのではないか。

 

 夫の慶蔵(けいぞう)の顔を思い出すたび、その思いはさらに重さを増した。

 

 大らかで、いつも笑っているあの人が、恋雪(こゆき)の寝顔を見るたびに、ほんの一瞬だけ表情を曇らせることを、雪奈(ゆきな)は知っていた。口には出さないが、あの人もまた、同じことを考えているのだろう。夫にこんな苦労を背負わせてしまっていることが、申し訳なくてならなかった。

 

 夜風に湿った土の匂いが混じるようになった頃、雪奈(ゆきな)は行灯(あんどん)の灯りを絞って、恋雪(こゆき)の寝間をそっと覗いた。

 

 布団の中で、恋雪(こゆき)は小さく丸まって眠っていた。浅い呼吸のたびに、薄い肩がかすかに上下する。頬はまだ熱を持ったように赤いが、それでも眠っている今だけは、穏やかな顔をしていた。

 

 雪奈(ゆきな)は枕元にしゃがみ込み、乱れた前髪をそっと払ってやる。

 

「……ごめんね」

 

 誰に聞かせるでもない、小さな声だった。健やかに産んでやれなかったこと。この子にばかり重い荷を背負わせてしまっていること。詫びる言葉は、いくつ並べても足りない気がした。

 

 それでも、この子は今日も、母を案じて無理を重ねている。その健気さが、愛おしくて、そして少しだけ、怖かった。

 

 雪奈(ゆきな)は闇の中でしばらくその寝顔を見つめ続け、やがて静かに行灯(あんどん)の火を消した。

 

 

 

 

 ――だから、ごめんなさいね

 ――慶蔵(けいぞう)さん、恋雪(こゆき)……

 

 

 

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