恋雪にTS転生したので、猗窩座を救いたい人生だった 作:自分の性癖に素直になろう小説
障子の隙間から差し込む光が、いつの間にか赤みを帯びていた。
一日を、丸ごと眠って過ごしてしまったらしい。
体を起こそうとすると、節々が軋むように痛んだ。熱はまだ完全には引いていない。頭の芯に鈍い重さが残っていて、思考がうまく像を結ばない。それでも、布団の上に座り込んだ
静かすぎる。
いつもならこの時刻、台所から母の立てる物音が聞こえてくるはずだった。夕餉の支度をする包丁の音、鍋の湯気、父さんを呼ぶ声。だが、今日はそのどれもない。
――そういえば、母さんは。
記憶を辿ろうとするが、うまくいかなかった。昨日の夕方、「行ってきます」と言う母の声を聞いた気がする。だがそれきりだ。今日一日、母の姿を見た記憶がまったくない。眠っていたからか。それとも――
胸の奥に、説明のつかない不安が兆した。
廊下の方で、父さんの声がした。誰かに何かを尋ねているような、いつになく硬い声だった。
その時だった。
表の戸が、乱暴に引き開けられる音がした。息を切らした誰かが、土間に駆け込んでくる気配。近隣の者の声だとわかったのは、聞き覚えのある訛りのせいだった。
「
それ以上の言葉は、続かなかった。あるいは続いたのかもしれないが、
一拍の沈黙があった。
それから、父さんの重い足音が土間へと駆けていく音がした。
夕暮れの赤が、次第に藍色に溶けていく。屋敷の中は、父さんが出ていった後、恐ろしいほどに静まり返っていた。外の方からは、人の声がいくつも重なって聞こえてくる。だが、遠すぎて何を話しているのかまではわからない。ただ、その声の調子だけが、何か取り返しのつかないことが起きたのだと、
暗くなっていく庭先を、ただ見つめていた。
どれくらいの間、そうして庭先を眺めていたのか、
藍色だった空は、いつしか完全な闇に沈んでいた。遠くの声はまだ途切れ途切れに続いている。それを聞くともなしに聞いているうちに、思考だけが妙に冷えていくのを感じた。
――待っていて、何になる。
ふと、そう思った瞬間、体が勝手に動いていた。
気づいた時には、
表の道に出ると、闇の向こうに、いくつもの松明の明かりが揺れているのが見えた。声のする方角へ、
途中、何度か体がよろけた。塀に手をついて息を整え、また歩く。誰かに支えを求める余裕もなかった。ただ、その明かりの方へ、引き寄せられるように進んでいった。
川縁に着いた時には、息が上がりきっていた。
人だかりの間から、松明の明かりに照らされた川辺が見えた。
見慣れた着物が、まず目に入った。
藍染めの布地は水を一度吸って重く、地面に張りついて乾いていた。その上に横たわる体は、驚くほど小さく見えた。頬に落ちた髪も、長い事放置されていたのか乱れて額に貼りついている。白い、というより、青みを帯びた色をした顔だった。
誰かが、その傍らで膝をついていた。父さんの背中だとわかるまでに、少し時間がかかった。
周りの大人たちの声が、いくつも重なって聞こえてくる。何かを指示する声、誰かをなだめる声、すすり泣くような声。だがそのどれもが、妙に遠かった。まるで水の中で聞いているように、輪郭だけがぼやけて耳に届く。
いつもなら、こういう時こそ頭の中で誰かが口を挟むはずだった。軽口を叩き、皮肉を吐き、現実から少し距離を取ろうとする、あの声が。
だが、何も浮かんでこなかった。
言葉が、出てこない。
それは驚きでも悲しみでもなく、もっと単純な、空白そのものだった。喉の奥に何かが詰まっているわけでもない。ただ、発するべき言葉自体が、どこにも見当たらなかった。
――見張っていたのに。
――何度も、伝えようとしたのに。
――体を壊してでも、動こうとしたのに。
それらの記憶が、意味を成さないまま頭の中を通り過ぎていく。積み重ねてきたはずの行動のひとつひとつが、今この光景の前では、何の重みも持たずにただ横たわっていた。
それから先の数日のことを、
気づけば
僧侶の読経が、家の中に低く響いていた。抑揚のあるその声を、
弔問に訪れる人々の姿も、輪郭がぼやけていた。近隣の顔見知りたちが、一人、また一人と入れ替わり立ち替わり、線香を上げては帰っていく。「まだお若いのに」「お労しい」という声が、幾度となく耳を通り過ぎていった。その度に、
隣り合う道場でありながら、その一線だけは、はっきりと保たれていた。日頃の嫌がらせを思えば、当然のことなのかもしれない。だが、それを不思議に思う余力すら、今の
父さんの様子だけは、断片的な記憶の中でも、妙にはっきりと残っている。
普段のあの豪快な声も、笑い方も、どこにもなかった。
出棺の日、
誰かに支えられていたのだと、後になって知った。自分の足で立っていたという実感すら、なかった。
土が盛られていく音だけが、やけに耳に残った。
それが終わった時、何かが終わったのだという実感は、なぜか湧いてこなかった。
葬式が終わってから、
熱はぶり返し、体はいっそう重くなっていた。だが、その苦しさをつらいと感じる余地すら、今の
何を見ているというわけでもない。視線の先に映るものが、庭木なのか、光の加減なのか、それすらどうでもよかった。時間が過ぎていく感覚だけが、ひどく間延びしていた。
その日も、
「……おい」
声がした。振り返るまでもなく、それが誰の声かはわかった。だが、体はすぐには反応しなかった。しばらくして、ようやく視線だけがそちらへ向いた。
縁側の向こうに、
いつものような偉そうな仁王立ちではなかった。どこか落ち着かない様子で、視線を庭木の方へ逃がしたり、
「……その、聞いた。
声の調子も、普段とは違っていた。乱暴さの角が取れて、どこか探るような響きがある。
「……おい、聞いてるのか」
返事がないことに苛立ったのか、
「いや……悪い。そういうつもりじゃ……」
言葉を探すように、
「あー……その、なんだ。母親が死ぬってのは、辛いよな。オレは、母上が生きてるから……わからねぇけど」
言った直後、
「いや、違う、そういう意味じゃなくてよ……」
その反応の鈍さに、
「おい、
揺さぶられて、
「おい……なんとか言えよ。いつものお前は、もっと……」
その先の言葉は、続かなかった。何を言おうとしたのか、
やがて、
「……また来る」
それだけ言い残し、庭先を横切るようにして去っていった。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
一人になった部屋の中は、また静かになった。
障子の向こうの庭は、さっきと変わらない景色のままそこにあった。
――何が、いけなかったんだろう。
頭の中で、その問いだけが繰り返されていた。何度も、何度も。答えが出ないまま、同じところに戻ってくる。
見張っていた。夜も、昼も。母の様子がおかしいと思った時には、必ず誰かに伝えようとした。父さんに言った。知っている大人にも言った。信じてもらえなかった時も、それでも言い続けた。声が嗄れるほど、体を壊すほど。
それのどこが、足りなかったのか。
いや、足りなかったんじゃない。最初から、無駄だったんじゃないか。
その考えが浮かんだ瞬間、また別の考えがそれを打ち消しにかかる。無駄なわけがない。何かは変わったはずだ。何かを、変えられたはずだ。でなければ、あの熱も、あの咳も、あの倒れた夜も――全部、意味がなかったことになる。
意味が、なかった。
その言葉が、頭の中で嫌な形に居座った。追い出そうとしても、また戻ってくる。まるで同じ場所を、ぐるぐると歩き続けているようだった。
――お前、いつものお前は、もっと。
もっと、何だったのだろう。軽口を叩くはずだった。減らず口で切り返すはずだった。それが「いつもの自分」だったはずだ。だが、その回路が、今はどこにも見当たらない。探そうとしても、手が届かない場所に落ちてしまったかのようだった。
いつもなら、こういう時こそ頭の中で誰かが茶化すはずだった。「まあ原作知識()があっても所詮こんなもんよ」とか、そういう、軽さで包んで誤魔化す声が。
でも、それすらもう、信用できなかった。
原作知識。前世の記憶。それを武器のように扱ってきたつもりだった。知っているから、備えられる。知っているから、変えられる。そう思っていた。だが結局、母は死んだ。原作通りに。まるで、自分が知っていたことなど最初から関係なかったかのように。
知っていたのに。
あがいたのに。
それでも。
同じ言葉が、また頭の中で繰り返される。堂々巡りだとわかっていても、止められなかった。考えれば考えるほど、その中心にあるはずの答えが遠ざかっていくような気がした。
障子の外は、いつの間にか薄暗くなり始めていた。
――物語は、原作通りに。
ふと、その一言だけが、やけに輪郭を持って頭に残った。
それ以外のことは、もう何も、うまく考えられなかった。
***
その日、家の中はいつも通りに静かだった。
俺は自室の布団の中で、ぼんやりと微睡んでいた。あの夜から、季節が一つ巡っていたが、体の弱さそのものは相変わらずだった。発作の頻度こそ減ったものの、少し気を抜けばすぐに熱を出す。今日もまた、そんな一日だった。
父さんは、朝から出かけていた。何の用事かは聞かされていない。俺はただ、いつものように、帰りを待つでもなく待たないでもなく、何も変わらない天井を眺めて時間を過ごしていた。
やがて、表の方から騒々しい足音が近づいてくる。
どたどたと、遠慮のない歩き方。それだけで、父さんが帰ってきたのだとわかった。だが、その足音には、もうひとつ別の、不揃いな気配が重なっていた。引きずるような、あるいは、無理に歩調を合わせようとしているような足音。
「いやぁ、参った参った! まさかこんな拾いものをするとはな!」
父さんの笑い声が、門の向こうから響いてきた。上機嫌な、いつもの豪快な声だった。俺はその声に、体を起こす気力を絞り出した。
「ほら、しゃんとしろ。うちに着いたぞ」
声にはどこか、面倒見の良さと呆れが同居していた。誰かを引っ張ってきたらしいことは、その口調からも伝わってきた。
一度、玄関から家の中に入ったのか声は届かなくなった。
そして、再び足音と共に、今度はどこか澄んでいて、そして口調だけを荒々しいものに無理やり変換したかのような少年の声が聞こえ始める。
「……娘一人の家に、罪人の俺を置いていっていいのかよ」
「罪人のお前は、先刻ボコボコにしてやっつけたから、大丈夫だ!」
知っている。
そのやり取りを、俺は知っている。
足音が、部屋の前で止まった。
「起きてるか、
いつものように、断りもなくふすまが開け放たれる。差し込む光に、俺は目を細めた。
「紹介する。俺の娘の、
咳が込み上げてきた。けほ、けほ、と小さく喉を鳴らしながら、俺はゆっくりと体をそちらへ向けた。
父さんの傍らに、一人の少年が立っていた。
いや、立っているというより、かろうじて自分の足で踏ん張っている、というのが正しいかもしれない。頬は赤黒く腫れ上がり、片方の目の周りには早くも青みが浮き始めていた。唇の端が切れ、乾いた血がわずかに残っている。着物は土と砂埃にまみれ、あちこちが擦り切れていた。
「――道場から少し離れた町の方でな、大人を七人も相手取って、一人でやり合ってたんだよ、こいつ」
父さんは、少年の肩を乱暴に、それでいてどこか誇らしげに叩いた。少年が痛みに顔をしかめる。
「子供のくせに、しかも一人で、大人相手にだ。見た時ぁ驚いたね。俺が駆けつけた時にゃ、もう片付けちまってた。まったく、大した奴だ」
それから父さんは、声のトーンを少しだけ落とした。
「まあ、その後、助けに入った俺にまで突っかかってきたもんだから、こっちも容赦なく叩きのめしてやったがな」
悪びれる様子もなく、父さんはそう言って豪快に笑った。少年の顔には、その時に増えたのだろう新しい痣が、いくつか重なっていた。
腫れ上がった顔が、俺の方を見た瞬間、驚いたように一瞬だけ動きを止めた。
大人七人を相手に立ち回り、その後さらに父さんにまで叩きのめされて、それでもまだ驚けるだけの余力が残っていることに、俺はどこか場違いな感心を覚えた。
だが、それよりも先に、目が離せなくなっていた。
腫れた瞼の下に覗く瞳は、それでもまっすぐだった。怯えも、卑屈さもない。ただ、状況について行けていないだけの、まだ幼さの残る目。それでいて、その奥には、何か擦り減らずに残っている芯のようなものがあった。
父さんが、少年の背をぽんと押した。
「こいつなあ……名前を言わねぇから、俺が戻るまで聞き出してくれ」
その言葉に、少年の表情が微かに揺れた。何と返せばいいのかわからない、というような、戸惑いの色だった。父さんはそれ以上、多くを語らなかった。ただ、少年の肩に置いた手に、少しだけ力を込めた。
「腕っぷしはある。あとは、ちゃんと使い方を覚えりゃあいい。ここで預かってやろうと思ってな」
俺は、その一連のやり取りを、布団の上からただ見ていた。
――ああ。
頭の中で、何かが確信に変わっていくのを感じた。理屈ではない。もっと本能に近い部分で、俺はその存在を認識していた。
名前を、まだ聞いてもいない。
それでも、わかってしまった。
あの日から、屋敷の暗がりの中で何度も繰り返した「物語は、原作通り」という言葉が、ふとまた頭をよぎる。だが、今浮かんできたその言葉には、あの日とは違う響きがあった。絶望だけではない、もっと複雑な何かが、その奥に滲んでいた。
咳の合間に、俺は小さく息を呑んだ。
久しぶりに、胸の奥で何かが動いていた。
あの日から凍りついたまま動かなくなっていたはずの何かが――今、確かに、音を立てて動き出していた。
「あの……か、顔。怪我、大丈夫……?」
>第一章――了