その貧しい家では、雨の匂いが、すえた湿った匂いが強く感じられた。
狛治の父は、もう何年も臥せっていた。若い頃に負った古傷が季節の変わり目ごとに膿み、働けぬ体になってからは、狭い長屋の隅で咳をすることだけが日課のようになっていた。稼ぎ手のいない家に、米が入ることは少なかった。
「今日は、いい月だ」
父はよく、そう言って笑った。痛みで眠れぬ夜、狛治が肩をさすってやると、決まってそんな取るに足らないことを口にした。腹の足しにもならない言葉だったが、狛治はその声を聞くと、なぜか自分の内側の何かが少しだけ緩むのを感じた。
薬代は、狛治が稼いだ。もっとも「稼ぐ」というのは体のいい言い方で、実際にはスリや夜の商家などに忍び込み、米や銭をかすめ取ることが多かった。一度目は運良く逃げおおせた。二度目は追われ、殴られて放り出された。三度目に捕らえられたとき、役人は容赦なく狛治の腕に焼印を刻みつけた。罪人の証だった。
狛治はその夜、腕の痛みよりも、父にどう告げればいいのかということばかり考えていた。だが、家に戻ると父は何も聞かなかった。ただ、狛治の腕にできたばかりの傷に、そっと薬を塗ってくれただけだった。その指先は、驚くほど冷たかった。
「お前は、悪くないさ。だから、もういいんだ、狛治……」
それが、父の最後にまともに交わした言葉になった。
結局のところ、金が足りないから、何度も盗み、喧嘩、恐喝と続けていくごとに、父親との会話が減っていく。
そして、罪人の証が三つになった時。
町奉行で刑罰を受けて戻った狛治が目にしたのは、梁から下がる父の姿だった。拙い文字しか書けぬ父からの手紙が一枚、狛治に宛てに残されていた。読めない字が多かったが、「もう、お前に罪を背負わせたくない。迷惑をかけて申し訳なかった」というような意味の言葉だけは、狛治にもかろうじて読み取れた。
その傍らに、亡くなった母の形見だという古い櫛が、ひとつ置かれていた。父が長年肌身離さず持っていたものだ。狛治はそれを拾い上げ、握りしめた。声は出なかった。涙も、不思議なほど出てこなかった。ただ、腕の焼印が、やけに熱を持っているように感じられた。
父を弔ってから、狛治は行くあてもなく歩くようになった。誰かに雇われては喧嘩になり、居場所を失っては次の村へ流れる。そんな日々の中で、自分の拳が思いのほか強いのだと、狛治は次第に気づき始めていた。誰にも習ったわけではない。ただ、殴られる前に体が動いた。
ある日の夕暮れ、街道の外れで、老いた男が数人の男たちに囲まれているのを見た。貸した銭を返せという理屈らしかったが、殴る蹴るの音に理屈も何もなかった。周りの人間は、皆見て見ぬふりをして通り過ぎていく。
狛治もまた、無視しようと別の道に行こうとして背を向けて歩き始める。だが、ふとした拍子に、父親の顔を思い出してしまい、気が付けば駆け出していた。
そして、戻った先には、先ほどの老人がボロくずのように倒れているだけだった。
「おい、爺さん、大丈夫か」
声をかけながら助け起こしたとき、狛治は初めて、老人の顔色がひどく悪いことに気づいた。殴られた場所が悪かったのか、それとも元々弱っていた体に、暴力が止めを刺してしまったのか。狛治には分からなかった。ただ、老人は何か言おうと口を動かしたが、声にはならず、そのまま狛治の腕の中で動かなくなった。
狛治はしばらく、冷たくなっていく体を抱えたまま、街道に座り込んでいた。立ち上がったとき、狛治の目に映る景色は、来たときと同じはずなのに、以前よりも色褪せた景色になっていた。
あの日から、狛治は自分自身がどこか遠いもののように感じるようになっていた。自分の拳を強く握れば握るほど、指の隙間から何かがこぼれ落ちていくような、そんな感覚だった。それでも歩くしかなかった。歩いていれば、何も考えずに済んだ。
季節がひとつ変わる頃、狛治はある山道に差しかかっていた。木々の合間から夕陽が差し込み、道はもう赤く染まりかけている。その先で、また同じような声がした。怒鳴り声と、殴打の音。狛治の足は、考えるより先に止まっていた。
行こうか、行くまいか。
前の一件が、脳裏をよぎる。助けたところで、何も変わらないのかもしれない。それでも足は、もう地面を蹴っていた。
着いた先には、旅装束の老人が、三人の男に囲まれて地面に転がされていた。荷物を奪われかけているらしい。狛治は今度こそ躊躇わず、男たちの間に割って入った。拳を交わすたびに、容赦なく急所を選んで打ち込む。そして、三人は完全に気絶させた後、先ほどからずっと怯える老人に声をかける。
「……大丈夫か、爺さん」
助け起こすと、老人は咳き込みながらも、はっきりとした目で狛治を見上げた。前の老人よりも、顔色はずっと良かった。それだけで、狛治の胸の奥が少しだけ軽くなった。
「いや……いや、助かった。恩に着るよ、兄さん」
老人は、旅の薬売りだと名乗った。国を渡り歩いて商売をしているが、今日はとんだ災難だったと、しわがれた声で何度も礼を言った。行く先が同じ方向だと分かると、老人のほうから「しばらく道連れにしてくれないか」と持ちかけてきた。人ひとりを守れたばかりの狛治に、断る理由はなかった。
それから数日、狛治は老人と共に歩いた。老人は口が達者で、旅先の土地の話や、若い頃の失敗談などを面白おかしく語った。狛治が多くを語らずとも気にする様子もなく、夜には手ずから干し飯を分けてくれることもあった。誰かと肩を並べて歩くのは、父が死んでから初めてのことだった。狛治は、自分でも気づかぬうちに、その道中を少しだけ心地よく感じ始めていた。
油断だった、と後になって思う。
ある晩、川辺で野宿をしたとき、狛治は珍しく深く眠り込んだ。翌朝、目を覚ますと、隣にあったはずの荷が消えていた。慌てて懐を探る。父の形見だった、母の櫛。それを包んでいた布ごと、なくなっていた。道中の路銀として肌身離さず持っていた、なけなしの銭も。
老人の姿は、どこにもなかった。
狛治は、しばらくその場に立ち尽くしていた。追おうにも、どちらへ向かったのかさえ分からない。何よりも、あの老人が最後まで自分に見せていた顔を思い出すと、追う気力そのものが萎えていくのを感じた。人の良さそうな、あの笑い皺を。
殴られて死にかけていた爺さんが、今頃どこかでぴんぴんして笑っているのだろうか。
それを思うと、腹の底から込み上げてくるのは、怒りよりも先に、ひどく間の抜けた安堵だった。──ああ、生きていて良かった。あのとき助けた命が、こんな形で自分を裏切るくらいに、達者でいるのなら。
だが同時に、腕の焼印がまた熱を持つように、狛治は自分の中の何かが冷えていくのも感じていた。誰かを助けたところで、その先で何をされるかなど分かりはしない。守った拳の先に、恩など何ひとつ保証されていない。人を助けるということが、これほど愚かしく、割に合わないものだったとは。
それでも、と狛治は思う。
あの爺さんを見捨てていたら、たぶん自分は今頃、櫛も銭も残ったままで、代わりに何か別のものを失っていた。何を失うのか、自分でもうまく言葉にはできなかったが。
狛治は、空になった懐に手を当てたまま、しばらく川面を見つめていた。それから、何も持たずに、再び歩き出した。
道の先に、まだ見ぬ町の輪郭が、薄闇の向こうにぼんやりと浮かび始めていた。
その町に足を踏み入れたのは、雨上がりの昼下がりだった。
狛治にはもう、目的地というほどのものはなかった。ただ、足が止まらなかっただけだ。腹は減っていたが、物乞いをする気にはなれず、かといって盗む気力も湧かなかった。何をしても、結局は同じことの繰り返しのように思えていた。
通りの雑踏を、狛治は苛立ちを押し殺しながら歩いていた。誰かとすれ違うたびに、腹の底では、何かがずっとくすぶっていた。あの老人の笑い皺が、まだ目の奥にこびりついている。そして、いつしかそれが病で弱った親父の小さな背中になっていた。
その苛立ちを堰き止めていたものが切れたのは、些細なことだった。
大柄な男たちが、大股で道の真ん中を歩いてきた。人を避ける気などまるでない歩き方だった。案の定、一人の男の腕が、道端で遊んでいた小さな子供の頭にぶつかった。子供は尻餅をついて、火がついたように泣き出した。
「うるせえな」
男は舌打ちひとつ残して、そのまま通り過ぎようとする。詫びる素振りすらなかった。
狛治の中で、何かが弾けた。
子供のためではない。狛治自身、驚くほどはっきりとそれを自覚していた。ただ、むしゃくしゃしていた。誰でもよかった。そこに、ちょうど都合のいい的がいただけだった。
「おい」
声をかけたときにはもう、狛治は男の肩を掴んでいた。男が振り返る間もなく、狛治の拳がその顔面に叩き込まれる。
男の連れだったのか、それとも通りすがりの野次馬か、瞬く間に六、七人の大人たちが狛治を取り囲んだ。「舐めた真似しやがって」「痛い目みせてやる」と口々に喚きながら、殴りかかってくる。数の利をいいことに、腕っぷしに覚えのある者ばかりが集まっているらしかった。そのうち一人、二人が、懐から短刀を抜いた。刃が鈍く光る。
狛治は、それでも足を止めなかった。
殴られれば、殴り返す。拳が届かない間合いに入られれば、体ごとぶつかって崩す。刃物を突き出されれば、紙一重でかわし、その勢いのまま相手の腕を折る。頬を打たれ、脇腹を蹴られ、腕に浅く刃が掠っても、狛治の動きは止まらなかった。痛みは感じているはずなのに、どこか遠くの出来事のようだった。
守りたいものなど、もう何もない。だから、恐れるものもない。
最後の一人が、肩で息をしながら膝をついたとき、通りには狛治一人だけが、まだ立っていた。着物は裂け、あちこちから血が滲んでいたが、狛治自身、それにどこか気づいていないような顔をしていた。
辺りを囲んでいた野次馬たちが、ざわめきながら道を開ける。
その人垣の向こうから、一人の大柄な男が、悠然とした足取りで歩み出てきた。
その男は、地面に転がる七人の大人たちと、その真ん中に突っ立つ狛治とを、ゆっくりと見比べた。恐れる様子も、咎める様子もない。ただ、値踏みするような、それでいてどこか楽しげな目で、狛治をまっすぐに見つめていた。
「おー、おー大したもんだ。子供一人が殺されそうになりそうだってんで、呼ばれてきてみれば。大人七人を素手で伸しちまってる」
その男は豪快にニカっと狛治に笑いかける。
「お前、筋がいいなあ。大人相手に武器も取らずに勝つなんてよ、気持ちのいい奴だなあ」
のんきだが、大きく優しい声が町中に響いた。
「俺の道場に来ないか──」
こうして、狛治はその日。
心の底から、命に代えても守りたいと思える“二人”に出会うことになる。
しかして、これも原作通り。
「役立たずの狛犬」の物語、ここに開幕なり。