水は、待つことを厭わない。
川底の流れの緩やかな淀みに身を沈め、その鬼――深潭はどれほどの時間そうしているのか、自分でも数えたことがなかった。川底を渡る流れが着物の裾を揺らしても、髪の先から滴るものが本当に水なのか、それとも己の輪郭そのものが滲んでいるだけなのか、境目はとうに曖昧だった。
人間は、光の屈折くらいでは気づかない。川面の月夜が鏡のように凪いでいるとき、そこに映るのがただの空でないことに。
深潭は自分を、悪いものだとは思っていない。
――俺は、何もしていない。
誰かを引きずり込んだことは、一度もない。手を伸ばしたことすら、ない。ただ、水面を少しばかり歪めてやるだけだ。あとは向こうが、勝手に覗き込み、勝手に見つけ、勝手に足を踏み出す。溺れるのは、いつだって向こうの意志だ。
――水の底は静かだぞ。
その言葉を、深潭は何十回、何百回といくつもの川辺で囁いてきたか分からない。囁くたびに、遠い記憶の底で、まだ人間だった頃の自分が小さく軋む。子供を助けに飛び込んだ川。届かなかった手。冷たくなっていく小さな体温。あの日から、深潭にとって「助ける」と「沈める」は、もう区別のつかないものになっていた。
今夜も、川はいつも通り凪いでいる。
深潭は水面すれすれに顔を上げ、闇の向こうにひとつの人影を認めた。
女だ。夜更けに、人目を避けるようにして川辺をふらつく足取り。纏う気配には、隠しきれない疲弊と――何か、思い詰めた者特有の、危うい静けさがあった。
深潭の暗い青灰色の瞳に、波紋のような模様がゆっくりと滲んだ。
――ちょうどいい。
彼は、待つ。
女が水面を覗き込むその瞬間を。
女は、川辺に膝をついた。
着物の裾が土に汚れるのも構わず、ただ水面を見つめている。深潭は気配を殺したまま、その横顔を観察した。目の下の隈、乾いた唇、指先の震え。ここ数日、いや、数ヶ月かけて少しずつ擦り減ってきた人間の顔だ。
深潭は、こういう顔が好きだった。
好き、という言葉が正しいのかどうか、彼自身よくわかっていない。ただ、追い詰められた人間の目にだけ宿るあの色を見ると、水の底で何かが凪ぐような気がする。それは愛おしさに似ているようで、もっと乾いた、値踏みするような感覚に近かった。
彼は静かに、水面の反射を歪めた。
揺らぎは、最初はほんのわずかだった。月明かりの角度が変わったようにしか見えない、その程度の狂い。だが女の視線が水面に吸い寄せられた瞬間、深潭は屈折の角度を確かめるように、ゆっくりと像を結び直していく。
幼い子どもの輪郭。
黒い髪。折れそうに細い手足。
――水の中でもがいている、大切な子供の幻影。
「……こゆき?」
女の声が、掠れて震えた。深潭はその震えの質を聞き分けるのが得意だった。恐怖ではない。困惑ですらない。もっと純粋な、体の奥から突き上げてくる衝動――助けなければ、という一点にすべてが収斂していく音だ。
深潭は、動かない。
声を張り上げることもしない。ただ水面の奥で、幻影の口をわずかに動かし、遠くから聞こえるようなくぐもった声を這わせる。
「……たすけて」
その一言だけで、十分だった。
女が腰を浮かせる。裸足のまま水際に踏み出す。深潭は、その様子を微塵も急かさなかった。急ぐ必要などない。獲物を追い立てる鬼など、下等だ――と彼は思っている。追い立てれば、そこに深潭の意志が混ざってしまう。それでは駄目なのだ。あくまで、女自身が選び取らなければ。
「こゆき……! 待って……! 待ってて、今……!!」
女の声は、もう深潭に向けられたものではなかった。水面の向こう、幻の我が子にだけ届けばいいと思っている声だ。片足が水に浸かる。冷たさに息を呑む音がした。それでも、止まらない。
深潭はこの瞬間がいちばん好きだった。
助けようとする者が、助けられる者へと変わっていく瞬間。境界が溶けていく、あの一拍。
女の体が、水に沈んでいく。
もがく音。水面が乱れ、幻影も共に崩れていく。深潭はそれを、ただ眺めていた。手を貸すことも、押さえつけることもしない。彼にとってこれは救助でも殺害でもなく――ただの、観察だった。
水音が、次第に小さくなっていく。
やがて、静かになった。
深潭は水面に映る自分の顔を見た。波紋がおさまっていく。そこに映るのは、何の感慨もない、凪いだ表情だけだった。
「……ほら」
誰にともなく、彼は呟いた。
「俺は、何もしていない」
ゆっくりと、深潭は水際に足を進めた。空腹感というより、儀式に近い緩やかな欲求に従って。女の体は、もう浮かび上がってこようとはしない。深潭にとって、それは当然のことだった。水は、拒む者を選ばない。
あと数歩。
深潭の指先が、水面に触れかけたその時――
空気が、変わった。
夜気が、裂けた。
深潭が指先を止めるより早く、闇の奥で何かが跳ねた。音ではない。圧だった。まるで川そのものが息を止めたような、重く張り詰めた気配が、一瞬にして水辺を塗り替える。
次の刹那。
水面が、真っ二つに割れた。
斬撃と呼ぶには生易しい。それは川そのものを両断するような、水柱を突き上げる一撃だった。飛沫が夜空高くまで舞い上がり、月明かりを弾いて無数の光の粒に変わる。その真ん中を、ひとつの影が滑るように踏み込んでくる。
深潭は反射的に身をねじった。避けたのではない。避けさせられたのだ、と気づいたのは、脇腹を掠めた斬撃の冷たさを感じてからだった。
着地の音は、ほとんどしなかった。
長い髪が水気を纏ってひと筋、夜風に流れる。高い背丈からまっすぐに深潭を見据える双眸には、驚きも、憎悪すらもなかった。ただ、静かな確信だけがそこにあった。
「……遅かったか」
声は低く、波立たない。感情を殺しているのではなく、そもそも波立てる必要がないというふうに、淡々とした響きだった。男は、倒れ伏した女の体に一度だけ視線を落とし、それから深潭に向き直る。
「一条静馬」
名乗りは短かった。刀を構え直す仕草すら最小限で、無駄がひとつもない。
「鬼殺隊、水柱――参る」
言い終える前に、彼はすでに踏み込んでいた。
深潭が反応した時には、もう遅かった。夜の水辺に、白刃が水面を切り裂く音が二度、三度と連続して弾ける。深潭は初めて、己の血鬼術が意味を持たない相手を前にしていることを悟った。
揺らぎを見せる暇もない。
深潭の暗い瞳の奥で、波紋の模様がわずかに歪んだ。数年ぶりに感じる、苛立ちに似た何かだった。
最初の一合は、技ではなかった。
静馬が踏み込んだ瞬間、深潭は反射的に爪を振るった。鬼としての本能に近い動きだった。刃と爪がぶつかり合い、鈍い火花が散る。水飛沫の中で、二つの影が交差した。
深潭は驚いていた。
弾き返された。しかも、力負けではなく、あしらわれた感触があった。まるで最初から、こちらの膂力を測るためだけに合わせられたような一撃だった。
静馬は、それ以上踏み込まなかった。
間合いを取り、深潭の動きをただ見ている。刀を構えてはいるが、まだ何かを仕掛ける気配はない。深潭にとって、その静けさは苛立たしいものだった。
「……先に来ないのか」
深潭が低く言うと、静馬は表情を変えずに答えた。
「お前の術を、まだ見ていない」
深潭の口元が、わずかに歪んだ。それは笑みに近い形をしていたが、目はまるで笑っていなかった。
「ならば、見せてやる! 〈血鬼術:水鵺〉!!」
水面が、複数箇所で同時に揺らいだ。今度は最初から本気だった。散らばる水たまりのすべてに、異なる像を結ばせる。溺れる子ども、崩れ落ちる誰か、血にまみれた見知らぬ顔――深潭は静馬の反応を探るように、次々と像を切り替えていった。
静馬の視線は、動かなかった。
水面のどこにも留まらず、ただ深潭本体だけを見据えている。深潭はそのことに、かすかな寒気を覚えた。人間は、必ずどこかで目を逸らすはずだった。恐怖からでも、好奇心からでも、隙は生まれるはずだった。この男には、それがない。
業を煮やした深潭が、初めて自ら間合いを詰めた。
爪が唸る。静馬は最小限の動きでそれを弾き、そのまま体を沈めて足払いのように刀を薙いだ。深潭は跳んでかわしたが、着地と同時に二撃目が来る。今度は真正面からの突きだった。名もない、ただの直突き。深潭は身を捻ってかわしたが、頬に浅い裂傷が走った。
――技ではない。
深潭は理解した。この男は、名のある型を使うまでもなく、素のままの太刀筋だけで十分に鬼を斬れる。型はあくまで、仕上げのようなものだ。
深潭は苛立ちを飲み込み、再び距離を取った。水中に沈み込みながら、次の一手を練る。
静馬は、追わなかった。
ただ静かに、刀を下げたまま待っている。まるで、深潭がどれだけ手数を尽くしても構わないというふうに。その余裕こそが、深潭にとって最も腹立たしいものだった。
深潭が、水中に沈むと同時に姿勢を変えた。
複数の水柱を持ち上げ、背後・側面・頭上――三方向から同時に爪を突き立てる幻影を作り出す。今度は惑わせるためではない。目くらましの物量で、純粋に反応を遅らせるための術だった。
「参ノ型」
静馬の体が、水のようにしなった。
「流流舞い」
三方向の幻を、まるで最初から知っていたかのように体をくねらせてすべてかわす。無駄のない、流れるような回避だった。深潭はその隙を突こうと踏み込んだが、そこにはもう静馬の姿がなかった。
消えた、と思った刹那。
脇腹に、鋭い痛みが走った。
「……っ」
深潭は咄嗟に飛び退った。傷は浅い。だが、その一撃の性質に、深潭は初めて明確な悪寒を覚えた。斬られたのではない。刺されたのだ。刃の面ではなく、切っ先だけが正確に肉を抉っていた。
静馬の得物の運びは、そこで初めて色を変えた。
斬撃ではなく、突き。しかも一つではない。深潭が体勢を立て直す間もなく、二の突き、三の突きと、まるで水滴が水面を叩くような速さで切っ先が繰り出される。深潭は身をねじり、爪で弾き、なんとか急所だけは外し続けたが、腕に、肩に、浅い刺し傷が次々と刻まれていった。
――この男は、斬るより刺す方が得意なのか。
深潭は悟った。静馬の太刀筋には、力任せの豪快さがない。代わりに、恐ろしいほどの正確さがあった。狙った一点だけを、寸分違わず貫く。まるで水滴が石を穿つように、深潭の防御の薄い場所だけを執拗に突いてくる。
深潭は反撃に出た。
水面を割り、静馬の足元に幻影を這わせる。溺れかけた誰かの手――届きそうで届かない、救いを求める指先。だが静馬はそれに一瞥もくれず、逆に踏み込みの勢いを利用して体を回転させた。
「弐ノ型」
独楽のような回転から、刃が円弧を描く。
「水車」
深潭は跳んでかわしたが、着地の瞬間を狙い澄ましたように、静馬の切っ先が再び伸びてくる。それは型の名のない、ただの追撃の突きだった。深潭は爪でそれを叩き落としたが、衝撃で体勢が崩れる。
好機、とばかりに静馬が畳みかけた。
「陸ノ型」
うねる軌道の斬撃が、深潭の逃げ道を先回りするように迫る。
「ねじれ渦」
深潭は水中に潜ることでかろうじてかわしたが、浮かび上がった瞬間、そこにはすでに静馬が待ち構えていた。逃げ場を潰すように、次々と繰り出される突き。深潭はそのたびに、水の膜を割って軌道をわずかに逸らすことしかできなかった。
「肆ノ型」
連続する斬撃が、まるで波状攻撃のように水面を叩き潰す。
「打ち潮」
その勢いのまま、静馬は最後に切っ先を深く沈めた。
「漆ノ型」
狙いは、心臓。
「雫波紋突き」
深潭はぎりぎりで身を捻り、急所を外した。だが完全にはかわしきれず、切っ先が脇腹を深く貫いた。声にならない呻きが漏れる。水中に、濃い血の帯が尾を引いた。
深潭は、その痛みの中ではっきりと理解した。
この男は、最後まで一度も斬撃だけで仕留めようとしなかった。すべての型の締めくくりに、必ず突きを置いている。まるで、刃の切っ先こそが本来の得物であるかのように。
――これ以上は、無理だ。
深潭は身を翻し、水中の深い闇の奥へと沈み込む。静馬は追わなかった。追ってももう、間に合わない距離だと分かっていた。
静馬は静かに刀を納めた。
伍ノ型――慈悲の一太刀を振るう機会は、ついに訪れなかった。
静馬が身を起こしたその時、ふと背筋に、掴みどころのない違和感が走った。
視線を巡らせる。
何もない。木々の輪郭、川面に映る月夜、夜露に濡れた草――いつもと変わらぬ景色が、そこにあるだけだった。だが、確かに何かが、遠くから自分を見ている――そんな気配があった。鬼の気配とも少し違う気がする。もっと静かで、冷たさを含んだ視線だった。
静馬は刀の柄に指をかけたまま、しばらくその場に立ち尽くした。
しかし、いくら意識を凝らしても、何も掴めない。ただの夜風だったのかもしれない。水に巣食う鬼を取り逃がした苛立ちが、感覚を過敏にさせているだけかもしれなかった。
「……気のせい、か」
呟きは、自分自身に言い聞かせるようなものだった。静馬は柄から手を離し、もう一度だけ女の亡骸に視線を落とすと、静かにその場を後にした。
それは、入水自殺をしたとされた恋雪の母親――雪奈の亡骸であった。
そのころ、遠く離れた山中で。
珠世は、ふと足を止める。
手にした薬草の束を抱えたまま、闇の向こうへ視線をやる。誰かがそこにいるわけではない。ただ、遠く離れた場所で何かが起きた――そんな気配だけが、頼りなく肌を撫でていった。
水の匂いがした。
正確には、匂いではない。もっと感覚的な、鬼特有の気配の揺らぎだった。誰かが、誰かの大切なものを利用した――そういう種類の、後味の悪い歪みが、遠い川辺から漂ってきたような気がした。
珠世はしばらく、その場に立ち尽くした。
深く探ろうとは、しなかった。今の自分に、確かめる術も、動く理由もない。それでも、こうした歪みに出くわすたび、どうしても足が止まってしまう。かつて自分自身が、大切なものを利用され尽くした側だったからかもしれない。
「……また、どこかで鬼が人を襲う」
呟きは、闇に溶けて消えた。
珠世は薬草の束を抱え直すと、何事もなかったように歩き出す。だが胸の奥には、小さな棘のような予感が、確かに残っていた。