一九四二年も、既に九月になろうとしている。最近は、めっきり涼しくなり、夏が終わり徐々に季節は秋に移りつつあることを思わせた。外に行けばさらに秋を感じることができるのだろうが、今の彼女にはそれができなかった。彼女に与えられているものは、病室とは名ばかりの鉄格子で固められた一室であった。
外からかすかに見える空の色を虚ろな目で眺めたのち、寝台へ倒れこんだ。今の自分はかつての海を駆け巡り、深海棲艦を屠る存在ではない。この時の彼女はただの実験道具に過ぎず、部屋の表札には「実験体:N」と記されていた。
三か月前の浦賀沖海戦で、重傷を負いながらも辛うじて浦賀に漂着した彼女はその基礎能力の高さを買われ、治療の名目で徹底的な人体実験が行われていた。彼女は耐え続けたが、もはやそれも限界に近かった。
(ここで、私は死ぬのか……)
ここ連日の実験は彼女、長門の肉体的にも精神的にも大きく追い詰めていた。たださえ傷が癒えていない彼女の体は既に通常なら廃人なってもおかしくないほどのダメージを負っていた。この時はさしもの彼女も死を覚悟したらしい。
一眠りしようかと思ったとき、不意に扉を叩く音が聞こえた。
(また奴らの好きな時間外の「診断」か)
こういう時長門は藪医者の相手が面倒のため、狸寝入りをすることにきめていた。しかし入るよ、との言葉に違和感をおぼえた。くそ医者どもは一声かけずに勝手に入ってくる。彼女は予定を変更し、上体を起こして来客を出迎えた。
彼と初めてあった印象は、この男は軍人なのかというものだった。顔は軍人らしからぬやさ顔で海軍にしてはやや癖のある収まりの悪そうな黒髪をもっていた。体のほうも中肉中背で身長はやや自分より少し高い程度ものだった。恐らく白亜の2種軍装を来ていなければ軍人でなく、文学者や学生という雰囲気をもっていた。
さらに驚いたのは、この男が少佐であるということだった。どう見ても未だ二〇代前半であろう彼は、本来なら少尉程度のはずだった。これは当時の海軍士官の若手、中堅クラスが四年前の小笠原諸島沖海戦でほぼ壊滅状態になったため、急速錬成し穴埋めするためだった。
さて、この厄介な来客にとっととおかえりいただくべく長門が思案を巡らせていると、少し彼は逡巡したのち口を開いた。
「君が、戦艦長門か」
長門の思考は一瞬で中断させられた。
(馬鹿な)
何故、私の名を知っている―そう彼女が思うのも無理はなかった。この当時艦娘の存在は、日本では軍のごく一部しか認識されておらず、また深海棲艦と同じような存在―魔女と言われていた。そんな彼女達を本来の名で呼ぶのは、これまで艦娘部隊創設者である高野五十六のみであった。
「……何故」
かなりの間の後ようやく長門はその問を、絞り出すよう声に出した。
「何故わかる、私の名が。何処で知った」
「ふむ」
彼は天井を見上げ何か考えている風であったが、そのうちこちらをやたらと見つめてきた。その視線を意識すると、どうにも気恥ずかしくなり彼女の顔は自分で分かるほど紅潮してきた。研究対象として見られることに慣れている彼女も、このような感情を抱くのは初めてのことだった。さすがの彼女もおかしくなってきてつい照れ笑いした。
「いつまでそうしているつもりだ」
「いや」
少し彼も笑いながらからかうように言った。
「せっかく綺麗な顔をしているのに、ずっとしかめっ面だったのでな。やはり女性には笑顔でいてほしいし、そうあってほしいと思っている」
「本当に、変わったやつだ。私たちは軍内部では化け物扱いされているのに、人としてみてくれたのはお前で二人目だよ」」
長門は呆れつつも、この男がそこらの海軍士官と違うことを認めつつある。彼女は少し表情を戻した。
「それはともかく、まだ質問の答えを聴いていない」
「あまり信じてもらえないかもしれないが…」
突然彼は神妙な表情をした。どうやら相当とんでもない内容らしい。
「別に私のような存在そのものがとんでもない奴もいるんだ。気兼ねすることもないだろう」
彼女は、質問に窮する学生に対して声をかける教師のような口調になっている。
「じゃあ言うが」
「うむ、言ってみろ」
「夢で見たんだが…私は君たちが艦であったときのことを知っている。そのせいか知らないが雰囲気で君たちの名前が頭に浮かんでくる、そんな感じだが」
頭をかきながら話す彼を見ながら、彼女は再び呆然とした。
この時代、艦娘の存在は軍内部でも機密事項となっていた。さらに言うと彼女達が何者で、何処から来たのかといった事も全く知られていない、というより彼女たち自身が自分たちのことを語っていなかった。もっとも、その後艦娘が広く知られるようになっても、彼女たちは公の場ではそういったことに関し多くは語らなかった。それ故現在でも彼女たちがかつてのこの世界とよく似た所から転生してきたといったことしか明らかになっていない。
それだけに、当時の海軍では彼女たちが深海棲艦に唯一対抗可能と知りながら、殆ど正当評価せず、逆に抑圧するという今では考えられないことを行っていた。
これに異を唱えたのが、先も出た高野五十六である。彼女たちと同じ世界から来たと広言していた彼は、彼女たちの力を活用すべきという持論から艦娘部隊を創設し、実力によって大局を変えようとした。が、その道半ばに深海棲艦による襲撃を受け斃れた。
この時点で、この世界には自分たちの理解者はもういないのではないか、という思いが彼女たちに蔓延していた。それだけにこの時長門が受けた衝撃は、彼女がその生涯の中で最も大きなものであったと晩年語っている。
「――まあ、わかった。それから今日私を訪ねてきた理由は」
ようやく頭を整理した長門はおそらく彼の目的を訊いた。
「単刀直入に言う。私は艦娘部隊の再建を任された」
「ふむ」
ふざけた表情が消え、軍人らしい精悍な表情になった彼を見て彼女は感心した。どうやらただの書生あがりではないようだ。彼は続ける。
「士気が完全に崩壊している今の状況を考えれば、数年単位でかかるだろう。そこで君に彼女たちの先頭に立ってもらいたい」
「私が……か。他に候補はいないのか」
少し彼女は不安そうに声を出した。
「私はこの任は二人しか適任がいないと思っている。そのうちの一人は君だ」
彼は少し諭すような口調になっている。
「確かに戦力だけ見れば君の代行が務まるものはいる。だがこの任はかつて、連合艦隊旗艦――さらに言うと海軍の象徴だった君以外、現状の艦娘でこの重責に耐えられるものはいない」
長門は黙って聞いている。
「もう一つ言うと今他のものは君と同等、もしくはそれ以下の待遇にある。当然士気も低い」
「……何」
ようやく長門は口を開いた。
「連中、私だけでなく他のものにもこのような仕打ちを」
「そうだ、だからやるなら早いほうがいい」
長門は腕を組み、少し考えているような体裁をとっている。しかし既に彼女の答えは決まっていた。五分ほどの沈黙ののち、彼女は言った。
「……私は敗残の身だ。艦娘としても再起不能と言われ、おめおめ醜態をさらして腐っていくだけだと思っていたが、まだ少しはやれることがあるか」
「――引き受けてくれるか」
「戦艦長門、これより貴官の指揮下に入る。―存分に使ってくれ」
先ほどの死んだ目は消え失せ、朱の瞳に不死鳥のごとく炎が再び蘇った。彼女自身、数か月ぶりの気分の高揚を感じていた。その姿を見た彼は、満足げに頷いた。
「さて、そうと決まればこんなところからとっととおさらばするか」
彼女の決意を聴くやいなや、彼は手に持っていた鞄から軍服を一着取り出し長門に差し出した。
「い、いやちょっと待て」
「ん、着替えるなら外で待ってるぞ」
「そうじゃない。お前にそんな権限があるようには思えないのだが」
彼女の懸念はもっともだった。この研究所は軍令部直轄の施設であり、本来なら一少佐の彼にどうこうできる問題ではない。だが彼はある切り札を持っていて、それを長門の前で出した。
「それは」
「委任状だ。艦娘に対する指揮、人事等の権限の全権を任されている。――簡単に言えば」
彼は長門に目線を合わせて言った。
「今日より我が国に存在する艦娘は全て私の命令下になる。上層部としては、得体のしれない“化け物ども”を一介の少佐に押し付けたつもりだろうが、そちらのほうがこちらもやりやすい。好きにやらせてもらうさ。そして君をここから出すことが」
「最初の仕事、ということか」
彼女は少し笑うと、寝台から立ち上がった。背丈は高身長の私と同程度か、と思いながら未だ彼の名を訊いていないことに気づき尋ねた。彼は、海軍少佐伊藤誠一と名乗った。