島を担当する郵便配達員・ミナトのもとに届くのは、切手も消印も差出人もない灰色の手紙。やがてその手紙は、二十二年前に海で亡くなったはずの灯台守の娘へと繋がっていく。
届くはずのない手紙と、消えた灯台守。
二十二年間止まっていた父娘の時間をめぐる、少し不思議な海辺の物語。
海から灯台が消えたのは、夏の終わりのことだった。
正確には、灯台そのものが消えたわけではない。
岬の先には今も、白い石造りの塔が立っている。百年以上、潮風に削られながら港を見守ってきた、高さ三十メートルほどの古い灯台だ。
消えたのは、その灯だった。
八月三十一日の夜を最後に、岬の灯台は二度と光らなくなった。
そして翌朝、灯台守の老人も姿を消した。
*
九月三日。
郵便配達員のミナトは、朝一番の船で島へ渡った。
島の名前は久白島という。
人口百七十三人。港と小さな集落、漁港、診療所、それから岬の灯台くらいしかない島だった。
「だから、もう郵便なんぞ船着き場に置いときゃいいんだよ」
桟橋で郵袋を担いだミナトに、漁師の源造が言った。
「じいさんばあさんばっかりなんだから。誰も盗みゃしねえ」
「郵便法にそんな特例ありませんよ」
「固いねえ」
「仕事ですから」
二十五歳のミナトは、この島を担当して三年になる。
本土の郵便局から週に三回、朝の連絡船で島へ来て、昼過ぎの便で戻る。
島の端から端まで歩いても二時間とかからない。郵便物も多くない。
だから島民の名前と顔は、ほとんど覚えていた。
診療所の看護師、井上春江。
民宿を営む浜田夫妻。
元教師の小松先生。
港の漁師たち。
そして灯台守の榊冬一郎。
「まだ見つからないんですか」
ミナトが尋ねると、源造は海へ唾を吐いた。
「船もねえ。服も財布も灯台に残ったまんま。なのに人間だけ消えちまった」
「警察は?」
「昨日また来たよ。崖から落ちたんじゃねえかって探し回ってた」
「海なら……」
「ああ。見つからんこともある」
源造の顔から、いつもの軽口が消えた。
九月の海は穏やかだった。
遠く、本土へ向かう貨物船の白い航跡が一本、青い水面を切っている。
ミナトは岬を見た。
灯台はそこにあった。
ただ、昼間であるにもかかわらず、妙に暗く見えた。
「そういや」
源造が言った。
「今日も来てるぞ」
「何がです?」
「灯台守宛ての手紙だよ」
ミナトは郵袋を見下ろした。
確かに一通あった。
宛名は、
――久白島灯台 榊冬一郎様。
差出人の名前はない。
消印もない。
*
最初にその手紙が届いたのは、一年前だった。
郵便局の仕分け棚に、いつの間にか混ざっていた。
切手は貼られていない。
消印もない。
封筒は古びた灰色で、住所と名前だけが青いインクで記されていた。
本来なら郵便物として配達できるものではない。
だが局長が、
「島の誰かが直接持ってきて、窓口のやつが処理を忘れたんだろう」
と言ったため、ミナトが持って行った。
榊老人はその手紙を見ると、しばらく黙っていた。
「差出人がありません」
ミナトが言うと、
「そうか」
老人は答えた。
「待っていた」
それだけだった。
その後、同じ手紙は月に一度ほど届いた。
やはり切手も消印もなく、差出人もなかった。
老人は毎回、何も聞かず受け取った。
そして三か月ほど前から、その頻度が増えた。
二週間に一度。
一週間に一度。
八月に入ってからは三日に一度。
灯台の灯が消え、老人が失踪した翌日にも、一通届いた。
そして今日もまた。
ミナトは、いつもの配達順を少し変えた。
最後に灯台へ向かった。
*
岬への道は、島の集落を抜けたところから急に細くなる。
右は松林。左は断崖。
潮風にあおられながら二十分ほど登ると、白い灯台と小さな官舎が現れた。
入口には警察が張った黄色いテープが残っていた。
灯台守はすでに無人化されて久しく、榊冬一郎は正式には「保守員」という立場だった。
それでも島民は皆、彼を灯台守と呼んだ。
毎朝レンズを磨き、機械を点検し、夕方になれば灯りを確認する。
自動化されても老人の暮らしは変わらなかった。
それを五十年近く続けていた。
「榊さん」
もちろん返事はない。
ミナトは官舎の郵便受けへ手紙を入れようとして、手を止めた。
郵便受けから、一通の封筒がのぞいていた。
取り出してみる。
見覚えのある灰色の封筒だった。
だが宛名が違う。
――郵便屋の青年へ。
ミナトは辺りを見回した。
風が松の枝を鳴らしている。
「……何だよ、これ」
誰かの悪戯だと思った。
それでも封を切った。
便箋が一枚入っていた。
『次の手紙は、灯台の中へ届けてください』
それだけだった。
*
「開けたの?」
診療所の看護師、春江は呆れた顔をした。
「俺宛てでしたから」
「それでも気味悪いでしょう」
「気味悪いですよ」
昼休み。
ミナトは診療所の軒先で缶コーヒーを飲んでいた。
春江は四十代半ばの女性で、島の事情なら知らないことはない。
「榊さんに身寄りっていましたっけ」
「いたわよ。娘さん」
「初耳だ」
「島を出たの、三十年以上前だからね」
「今どこに?」
「亡くなった」
ミナトは缶を口元で止めた。
「いつ?」
「二十二年前」
「じゃあ、奥さんは?」
「その前に亡くなってる」
春江は診療所の白い壁にもたれた。
「娘さん、名前は澪ちゃんっていった。島じゃ珍しいくらい勉強のできる子だったよ。中学を出て本土の高校へ行って、そのまま大学へ進んで」
「戻ってこなかった?」
「ほとんどね」
春江は少し迷ってから続けた。
「榊さんと喧嘩したらしい」
「何で」
「灯台よ」
「灯台?」
「榊さんは、澪ちゃんにも島へ戻ってほしかったんだって。昔は灯台守って家族ごと住み込んでたでしょう。自分の後を継げとは言わないまでも、島で暮らしてほしかった。でも澪ちゃんは東京へ行きたかった」
「それで?」
「最後に島へ帰ってきた日に、大喧嘩」
春江は海を見た。
「その帰りの船が、事故に遭ったの」
ミナトは何も言えなかった。
「台風が近づいてた。普通なら欠航になるところだった。でもその日はまだ海が持つって判断されたらしい。港を出て一時間もしないうちに急に天候が悪化して」
「沈んだんですか」
「十四人乗って、十二人助かった」
「二人は?」
「澪ちゃんと、船長」
風が吹いた。
診療所の軒先に吊された風鈴が、ちりん、と鳴った。
「榊さん、その夜も灯台にいたのよ」
春江は言った。
「ずっと光を回してた」
*
翌日。
本土の郵便局へ出勤したミナトは、局長に例の封筒を見せた。
「こんなの、仕分けた覚えあります?」
局長は老眼鏡を掛けた。
「ないな」
「最近、榊さん宛てのこの封筒、多かったでしょう」
「ああ」
「どこから来てるんです?」
「どこからって」
「切手も消印もない」
「……そういやそうだな」
「一年前からですよ」
局長は怪訝な顔をした。
「そんな前からだったか?」
ミナトは、妙な感覚を覚えた。
自分だけが強く記憶している。
灰色の封筒。
青いインク。
宛名。
「防犯カメラ、見られます?」
地方の小さな郵便局だが、出入口と仕分け室にはカメラがある。
二人で前日の映像を確認した。
配達物が届いたのは午前五時四十分。
配送車から郵袋が運び込まれる。
職員が袋を開ける。
仕分けが始まる。
ミナトは画面を止めた。
「ここ」
午前六時十二分。
仕分け台の上に、灰色の封筒がある。
「誰が置いた?」
映像を巻き戻す。
六時十一分。
ない。
六時十二分。
ある。
二人は無言になった。
「映像が飛んでる?」
局長が確認した。
時刻表示は連続している。
職員たちも自然に動いている。
ただ、ほんの一瞬、誰かが前を横切った隙に封筒が現れている。
「手品ですね」
ミナトは言った。
「そういうことにしておこう」
局長は映像を閉じた。
「局長」
「深入りするな」
「でも」
「榊さんは行方不明だ。警察の仕事だろ」
もっともだった。
その日の配達物を詰め始めた。
久白島行き。
浜田家。
井上春江。
小松正一。
水道料金通知。
通販の箱。
そして最後に。
灰色の封筒。
宛名は、
――郵便屋の青年へ。
*
『灯台の鍵は、三段目の石の下です』
封筒にはそう書かれていた。
ミナトは一時間後、久白島の岬に立っていた。
警察の捜索は縮小されている。
官舎の前。
玄関脇の石段。
一段目。
二段目。
三段目。
持ち上げると、本当に鍵があった。
「犯罪になるんじゃないかな……」
不法侵入。
証拠物件への干渉。
郵便配達員の服務規程以前の問題である。
だがミナトは鍵を手にした。
灯台へ向かった。
鉄扉を開ける。
内部には螺旋階段が続いていた。
ひんやりしている。
壁は白く塗られ、所々に錆が浮いていた。
一段ずつ登る。
上へ行くほど風の音が大きくなる。
最上部。
巨大なフレネルレンズのある灯室へ出た。
レンズは透明な城のようだった。
中央には消灯した光源。
制御盤を見る。
停止している。
「故障……?」
点検記録があった。
八月三十一日。
榊冬一郎の字。
『異常なし』
それが最後だった。
机がある。
工具。
油差し。
双眼鏡。
日誌。
そして隅に、小さな木箱。
その上に灰色の封筒が置かれていた。
――郵便屋の青年へ。
三通目だった。
『箱を開けてください』
「指図が多いな」
誰もいない部屋で呟いた。
木箱を開ける。
中には数十通の手紙があった。
すべて、あの灰色の封筒だった。
榊老人へ届いた手紙。
開封済みで、几帳面に日付順に並んでいる。
ミナトは一番古い封筒を取った。
一年前。
便箋を開く。
『お父さんへ。
たぶん、あなたはこの手紙を信じないと思います。
それでも書きます。
私は澪です』
ミナトの手が止まった。
*
手紙は長くなかった。
『こちらには海がありません。
空もありません。
ただ、とても遠くまで見えます。
不思議な場所です。
あなたがまだ灯台にいることも知っています。
毎晩、灯りをつけていることも。
二十二年前のあの日のことを、まだ後悔していることも。
でも、あれはあなたのせいではありません』
二通目。
『最後に言った言葉を覚えていますか。
「灯台なんかなくなればいい」
私はそう言いました。
あなたは、
「二度と帰ってくるな」
と言いました。
あれが最後になりましたね。
私はずっと謝りたかった』
三通目。
『船の上から灯台が見えました。
嵐の中でも見えました。
本当に最後の最後まで。
怖かった。
でも灯りが見えている間は、島がそこにあると分かりました。
お父さんがいると分かりました。
だから、少しだけ怖くなかった』
ミナトは、そこで読むのをやめた。
外で海鳥が鳴いた。
ありえない。
死者から手紙が届くはずがない。
誰かが榊老人を騙していた。
そう考えるのが当然だった。
だが。
誰が。
何のために。
そして、どうやって郵便局へ封筒を置いた?
ミナトは最後の手紙を探した。
八月三十一日。
灯台が消えた日。
『お父さんへ。
そろそろ、灯りを消してください』
その一文から始まっていた。
『もう十分です。
あなたは二十二年間、一日も休まず灯台へ登りました。
台風の日も。
雪の日も。
熱を出した日も。
足を痛めた日も。
灯りが自動化されたあとも。
毎日レンズを磨いていましたね。
私が帰ってくると思っていたのでしょうか。
海から帰ってくる船に、私が乗っているかもしれないと。
だから灯りを消せなかったのでしょうか。
お父さん。
私は帰りません。
帰れません。
だから、もう待たなくていいです。
灯りを消してください。
そして家へ帰ってください』
文章はそこで一度途切れていた。
最後に、少し震えた字で一行。
『私は、ちゃんと灯りを見つけました』
*
ミナトはその日の午後、警察へ連絡した。
手紙については、すべて話した。
当然、まともには信じてもらえなかった。
それでも木箱は証拠品として回収された。
筆跡鑑定も行われた。
二十二年前に残された榊澪の手紙と比較した結果、担当者は「極めて類似している」と述べた。
だが断定はされなかった。
紙もインクも現代の市販品。
指紋は検出されなかった。
防犯カメラにも差出人は映っていない。
結局、事件性を示す証拠にはならなかった。
榊老人の捜索は続いた。
海岸。
松林。
断崖。
無人の小屋。
古井戸。
漁船。
一週間。
二週間。
一か月。
見つからなかった。
島では少しずつ、老人は海へ落ちたのだろうという話になっていった。
灯台は故障ではなかった。
制御盤の主電源が手動で切られていた。
榊老人自身が消した可能性が高い。
航路標識としての役割はすでに沖合の新しい灯標へ移されていたため、古い灯台はそのまま廃止されることになった。
十月。
最後の保守点検が行われた。
灯室は施錠された。
それでもミナトは、島へ来るたび岬を見た。
白い塔。
光らない灯台。
老人はどこへ行ったのか。
本当に海へ落ちたのか。
それとも。
答えは出なかった。
*
十二月二十四日。
島に雪が降った。
久白島で雪が積もるのは珍しい。
「帰りの船、欠航するかもよ」
春江が言った。
「困るなあ」
「泊まっていけば?」
「クリスマスですよ」
「彼女でもいるの?」
「いません」
「じゃあ何が困るの」
「それを本人に言わせます?」
春江は笑った。
午後二時。
港へ戻る途中だった。
ミナトは郵袋の底に何かが残っていることに気づいた。
灰色の封筒。
息が止まる。
三か月ぶりだった。
宛名。
――郵便屋の青年へ。
ミナトはその場で封を切った。
『最後の配達をお願いします』
中に、もう一通の封筒が入っていた。
表には住所が書かれている。
久白島。
岬。
灯台。
そして宛名。
――榊澪様。
「逆だろ」
思わず声が出た。
榊澪は死んでいる。
その父親も行方不明だ。
届けられるはずがない。
だが封筒の裏には、差出人の名前があった。
榊冬一郎。
*
雪の中、ミナトは岬を登った。
自分でも馬鹿なことをしていると思った。
死者宛ての郵便を届けるために、廃灯台へ向かっている。
灯台の鉄扉は施錠されていた。
入れない。
「ここまで来させといて」
ミナトは呟いた。
雪が強くなる。
仕方なく灯台の入口前に立った。
手紙をどうすればいいのか。
郵便受けは官舎側にある。
そこへ入れるか。
いや。
『最後の配達』
あの手紙は、灯台へ届けてほしいと言っていた。
ミナトは鉄扉の前に封筒を置いた。
「榊澪さん」
馬鹿馬鹿しいと思いながら名前を呼んだ。
「郵便です」
返事はない。
雪。
風。
波の音。
「お父さんから」
その瞬間だった。
灯台の中で、音がした。
カチン。
小さな機械音。
続いて、低い駆動音。
ミナトは顔を上げた。
「嘘だろ」
灯室に光がともった。
ゆっくりと。
巨大なレンズが回転を始める。
白い光が、冬の海を切った。
岬。
松林。
港。
沖。
一周。
二周。
三周。
二十二年前と同じように。
灯台は海を照らしていた。
ミナトは動けなかった。
やがて、背後から声がした。
「郵便屋さん」
振り返った。
坂道に老人が立っていた。
*
榊冬一郎だった。
三か月前より、少し痩せていた。
濃紺のコートを着て、杖をついている。
「……生きてたんですか」
「まあな」
「まあな、じゃないでしょう!」
ミナトは初めて、八十近い老人を本気で怒鳴った。
「警察がどれだけ探したと思ってるんですか! 島中大騒ぎですよ! 海まで捜索して!」
「すまん」
「どこにいたんです!」
「東京」
「東京!?」
「娘が暮らしていた町を見てきた」
あまりに普通の答えだった。
「そのあと京都へ行った。奈良も。広島も見た」
「旅行?」
「旅行だな」
老人は照れたように笑った。
「生まれて初めての」
「何で誰にも言わずに……」
「言えば止められると思ってな」
「財布も置いてあったでしょう」
「へそくりがあった」
「船は?」
「前の日の最終便で出た」
「じゃあ失踪した日にはもう島にいなかった?」
「ああ」
ミナトは額を押さえた。
捜索の前提そのものが間違っていたのだ。
「警察には」
「さっき港で話した。えらく叱られた」
「当然ですよ」
「春江にも叱られた」
「当然です」
「源造には殴られた」
「それもまあ……当然でしょう」
二人はしばらく雪の中に立っていた。
「これ」
ミナトは足元の封筒を拾った。
「あなたが出したんですか?」
「ああ」
「どうやって郵便局に?」
「何のことだ」
「とぼけないでください」
「本土へ戻ってから、普通に郵便で出したぞ」
「切手がありません」
「貼った」
「消印もない」
「そんなはずはない」
老人は本当に不思議そうな顔をした。
「そもそも俺は、それを郵便屋さん宛てには出してない」
ミナトは黙った。
「誰宛てに?」
「自分宛てだ」
「……何ですって?」
「旅行の最後に、手紙を書いた」
老人は灯台を見上げた。
「澪に届いた手紙への返事だ」
「でも宛名は」
ミナトは封筒を見た。
――榊澪様。
「この字、あなたのですよね」
「ああ」
「だったら」
「俺が書いたときはな」
老人は言った。
「宛名を書かなかったんだ」
ミナトの背中を冷たいものが走った。
*
「最初の手紙が届いたのは去年だ」
老人は灯台の石壁に触れた。
「澪が死んでから二十一年、俺は一度も夢にさえ見なかった。それなのに突然、手紙が来た」
「信じたんですか」
「最初は信じなかった」
「ですよね」
「二通目も信じなかった。三通目で少し怖くなった」
「どうして」
「俺と澪しか知らんことが書いてあった」
老人は手袋を外した。
皺だらけの手だった。
「あの日、俺たちが最後に何を言い合ったか。澪が小学生の頃、灯台の階段で転んだこと。妻が死ぬ前、三人で撮った写真を俺がどこに隠したか」
「誰かに話していた可能性は」
「ないとは言わん」
「じゃあ」
「だからずっと疑っていた」
老人は笑った。
「死んだ人間から手紙が来るなんて、まともな話じゃない」
「そうですね」
「だがな」
灯台の光が二人の上を通り過ぎた。
「人間は、まともじゃない話に救われることもある」
ミナトは何も言わなかった。
「俺は二十二年間、あの夜から動けなかった」
老人は海を見た。
「あの日、澪を止められなかった。いや、本当は止める資格なんか俺にはなかった。あいつは自分の人生を生きようとしただけだ。それなのに俺は、自分のそばにいないことを裏切りだと思った」
雪が肩に積もっていく。
「船が沈んだと聞いたとき、最初に思ったのは何だったと思う」
ミナトは答えなかった。
「俺が殺した、だ」
静かな声だった。
「俺があんなことを言わなければ。俺が引き止めていれば。俺が灯台なんぞに縛られていなければ。何千回考えたか分からん」
「でも」
「俺のせいじゃない」
老人は言った。
「ようやく、それを認めることにした」
ミナトは、灰色の封筒を見つめた。
「手紙のおかげで?」
「そうだ」
「偽物かもしれませんよ」
「ああ」
「誰かの悪戯かもしれない」
「ああ」
「本当に娘さんが書いた証拠はない」
「分かっとるよ」
老人は笑った。
「郵便屋さんは真面目だな」
「仕事ですから」
「手紙というのはな」
老人はゆっくり言った。
「誰が書いたかと同じくらい、誰が読むかが大事なんだ」
*
榊老人は、娘宛ての手紙を受け取った。
「これをどうするんです?」
「さあな」
「俺は確かに配達しましたからね」
「ああ」
「受領印ください」
「死者宛てでもいるのか」
「冗談です」
「固い郵便屋にも冗談が言えるんだな」
二人で少し笑った。
老人は封筒を胸の内ポケットに入れた。
そのとき、灯台の光が止まった。
「あ」
レンズの回転がゆっくり落ちていく。
光が一度、沖合を照らす。
それから消えた。
二度と点かなかった。
「今の、あなたが?」
ミナトが尋ねた。
「いや」
「じゃあ何で」
「知らん」
老人は灯台を見上げた。
その顔は、穏やかだった。
「故障だろう」
「都合のいい故障ですね」
「機械なんぞ、そんなものだ」
*
翌春、久白島の灯台は正式に閉鎖された。
榊冬一郎は島を出た。
東京近郊にある高齢者住宅へ入ったと聞いた。
「都会はうるさくてかなわん」
と書かれた絵葉書が、ミナト宛てに一度だけ届いた。
切手あり。
消印あり。
差出人あり。
至って普通の郵便だった。
それから三年が過ぎた。
ミナトは異動になり、久白島の担当を外れた。
五年後には郵便局そのものを辞めた。
理由はいくつかあった。
結婚。
転居。
父親の仕事を手伝うこと。
そしてほんの少しだけ、あの出来事も関係していた。
三十歳になったミナトは、本土の港町で小さな古書店を始めた。
本を売る傍ら、店の一角に机を置いた。
そこには便箋と封筒がある。
『届かない手紙、預かります』
そう書いた札を置いた。
亡くなった人へ。
もう会えない人へ。
行方の分からない人へ。
言えなかった言葉を書くための机だった。
手紙は投函しない。
店の奥にある木箱へ入れる。
一年経ったら希望者に返す。
それだけのものだ。
意外なほど、多くの人が書いた。
亡くなった夫へ。
母へ。
昔の恋人へ。
生まれなかった子供へ。
自分自身へ。
手紙を書いたあと泣く人もいた。
笑う人もいた。
何も言わず帰る人もいた。
ミナトは中身を読まなかった。
郵便屋だった頃から、手紙の中身は自分のものではないと思っていた。
*
ある冬の朝。
開店準備をしていると、入口の郵便受けに一通の封筒が入っていた。
灰色だった。
ミナトはしばらく、それを見つめた。
「まさか」
手に取る。
切手はない。
消印もない。
差出人もない。
青いインク。
宛名は、
――元郵便屋の青年へ。
「もう青年じゃないんだけどな」
ミナトは苦笑した。
封を切る。
一枚の便箋。
『父が昨日、亡くなりました』
ミナトは息を止めた。
『眠るような最期でした。
こちらへ来てから父は、ずいぶんいろいろな話をしてくれました。
東京。
京都。
奈良。
広島。
海のない町。
灯台のない夜。
どれも楽しそうでした。
ありがとうございました。
最後の手紙も、受け取りました。
返事はありません。
もう必要ありませんので。
あなたにも、いつか届けられない手紙を書く日が来るでしょう。
そのときは、書いてください。
届くかどうかは気にしなくて大丈夫です。
大切なのは、出すことです』
署名はなかった。
ただ最後に、小さな文字で一行。
『灯りは、見える人にだけ見えればいいのです』
*
その日の夕方。
ミナトは久しぶりに久白島行きの船に乗った。
冬の海は荒れていた。
船は大きく揺れた。
島へ着いた頃には日が暮れている。
かつての灯台へ向かう道を登った。
今は観光用の遊歩道になっている。
灯台は立入禁止のまま保存されていた。
白い壁はさらに古びていた。
レンズも撤去されたと聞いている。
当然、光るはずはない。
岬の先に立った。
海は暗かった。
遠く本土の町明かりが見える。
ミナトはコートのポケットから便箋を取り出した。
船の中で買った安物だった。
ペンを握る。
しばらく考えた。
そして書いた。
『榊さんへ。
あなたが亡くなったと聞きました。
あのときは本当に迷惑でした。
島中があなたを探しました。
警察も海上保安庁も出ました。
反省してください。
でも。
旅行は楽しかったようで、何よりです。
あなたに言われた言葉を覚えています。
手紙は、誰が書いたかと同じくらい、誰が読むかが大事だと。
今でも完全には納得していません。
差出人は大事です。
切手も消印も大事です。
宛先も正しく書くべきです。
元郵便屋として、そこは譲れません。
ただ。
届くはずのない手紙というものが、この世にはあるのかもしれないと、今は少しだけ思っています』
そこで手を止めた。
波の音。
冬の風。
遠い船の汽笛。
ミナトは最後に書いた。
『あなたの娘さんから、手紙が来ました。
ちゃんと届いたそうです』
便箋を折った。
封筒へ入れた。
宛名を書く。
――榊冬一郎様。
差出人も書いた。
切手は持っていない。
「これは郵便じゃないな」
ミナトは笑った。
灯台の扉の前に、封筒を置いた。
「配達完了」
そう呟いた。
その瞬間。
背後の海が、白く光った。
振り返る。
沖を進む船の灯りだった。
ただそれだけだった。
灯台は暗いまま。
奇跡など起こらない。
死者が戻ってくることもない。
過去が変わることもない。
それでも白い光はゆっくり海面を滑り、岬をかすめ、ミナトの足元を照らした。
ほんの一瞬。
古い灯台が再び光ったように見えた。
ミナトは何も言わなかった。
しばらく海を見ていた。
それから背を向け、坂道を下り始めた。
もう振り返らなかった。
灯りは、帰る人間のためだけにあるのではない。
これからどこかへ行く人間にも、必要なのだ。
冬の海の向こうで、船の光がもう一度だけ瞬いた。