「ごめん、なさい……」
ソザの言葉には微かな力もこもっていなかった。白地に青の幾何学模様が描かれた、しゃれたラグマットに正座して頭を下げるから、ほとんど土下座のようになっていた。いや、ほんとうは土下座をしたかったのかも知れない。座卓とベッドの隙間は彼にとってはあまりに狭く、お腹まわりはあまりに大きく、正座に腰を折るのが精々だったのだ。
ヨテはベッドに胡坐をかいていた。その顔は掃き出し窓へ向けられて、窓を透かす陽の光に目を細めていた。なぜかカーテンは掛けられておらず、代わりとばかりにカーテンレールには二着の服が掛けられている。どちらも揃えのメイド服で、その安っぽいデザインはヨテがすでに見知ったものだ。洗濯され、丁寧に皺を伸ばされているのが窺える。
今のソザは紺のスウェットの上下を着ていた。おろしたてのツヤをまだ残していたが、これも安物だろう。
一方のヨテはキャミソールにシアートップス、ジーンズと彼女のよく着ている私服そのままで、これは記憶の限り昨日に着ていたものである。袖に寄った皺が戻らず、ヨテは手首のあたりを繰り返し引き伸ばした。
昨日。ファミレスで偶然にも彼らは再開した。理由もないのにいつか訪れたカフェへ足を向けた。ヨテの記憶はそこから怪しくなる。
たしか、ディナーどきで料理と一緒に酒を頼んだのだ。ヨテは普段まったく酒を口にしなかった。初めて安居酒屋で飲んだハイボールの味が忘れられなかったからだ。しかし昨日は何かが彼女を駆り立てていた。ソザが興味ありげにアルコールメニューを見ていたというのもある。注文したのはサングリアだったはずだが、これがたいへんに美味しく、飲みやすかった。……それがよくなかった。
ヨテは鈍く痛むこめかみに指をあてる。ソザはまだベッドの足元で丸まっている。コトの次第などはさほど重要ではない、彼女は端的に言った。
「えーっと。やっちゃった?」
ソザが縮こまった身を震わせる。
「……やってません」
「だよねえ」
ちらりとも疑わず彼女は頷く。着乱れたところがなかったのもそうだし、彼女の鋭敏な嗅覚は性交に伴う様々な匂いのほとんどがないことを感じ取っていた。しかし同時にソザが欲情していたことも窺い知れた。それが彼の今の態度の一因なのだろう。彼女が寝ている間、ひとりで何をしていたのやら。
ヨテは腕を組み、数瞬の間だけ悩んだ。失敗をしたなと思った。けれど彼女の中に後悔はなかった。ましてやソザを責めようという気持ちなどあるはずもない。
「いいよ。なんにもしてないんでしょ」
「…………はい」
「正直でよろしい。ほら、大の大人がそんなにちっちゃくならないの。水をもらってもいい?」
悄然と項垂れながらもソザは頷き、すごすごと立ち上がる。足がしびれていたのだろうか、幾分足取りのおぼつかない背中を横目に見つつ、ヨテは部屋をぐるりと見渡した。
随分簡素なワンルームだ。ベッド、ラグマット、座卓。家財道具と呼べるものはほんとうにそれだけだ。ソザが立っているキッチンには冷蔵庫や洗濯機すら見当たらず、それらが収まるべき空間だけがぽっかりと空いている。極めつけは開け放たれたクローゼットで、これもまた空っぽだった。ヨテは妙な座りの悪さを感じる。
紙コップを持ってソザは戻ってきた。
「ありがと」
「うん。冷えてないけど」
ヨテに渡したものももちろん、自分に注いだ一杯までも紙コップであることが彼女の目に留まる。
ソザは力のない笑みを浮かべた。
「あはは、コップ、捨てちゃってさ」
まるで間違えて捨てるか割るかしたような言いぶりだが、部屋の様相がそうでないと静かに告げている。座卓やラグマットがスウェット同様にまだ新しいものであることも気にかかった。捨てちゃった、というのはもしかしたらほんとうなのかも知れない。彼は一度、何もかもを捨ててしまったのかも知れない。ヨテはそんなことを思った。
メイド服を着ている理由を「まあ趣味だよ」と語った、あの日のソザの顔がヨテの脳裏を過る。今問うたら、答えてくれるのだろうか。座卓の向こうで床に座った彼を見遣って、ヨテは常温の水をひと息に呷った。
今の彼に聞くのは卑怯だろう。
「もういいってば。あたしも悪かったし。それともほんとうは何かしたの?」
「して、してない! ほんとになにもしてない」
「でしょ。むしろあたしが粗相をしたんじゃないかな、そうだったらこっちこそごめん。まったくおぼえてないんだけどさ」
「まあ、まあ」
ソザが歯切れ悪く頷く。ヨテは改めて、二度と酒は飲まないと心に誓った。
「帰る。このお礼はまたするから。絶対するから。急にファミレス辞めたりしないでよ」
「あはは、うん。ぼくは日中、大概はあそこで働いているから」
ヨテは頷いてベッドから立ち上がった。キッチンを借りて顔を洗う。当然のようにタオルはなく、申し訳程度にペーパータオルがキッチンの端に置かれている。食器の類も見当たらない。掃除しているのか、使っていないのか、小ぎれいなままのコンロはまるで内見にでも来ているようだ。
ヨテがうがいをして戻ってくると、ソザはいつの間にかメイド服に着替えている。床に置かれたスウェットは一応畳まれてはいたが、その手つきが不慣れだったことは明らかだ。ヨテの口に笑いがこみあげる。彼女はようやくこの家に生活感を見たのだった。
ソザはヨテの浮かべた笑みの意味に気がついたのだろうか、恥ずかしげに彼女を玄関へ促した。
「さっきのスウェットのままでいいのに」
「あれはパジャマなの。それに、ぼくには大事なのさ、これが」
「趣味だから?」
「……そう。よくおぼえていたねえ」
玄関を出た先、アパートの共用廊下から見下ろした景色にヨテは覚えがあった。ファミレスからもヨテの自宅からもそう離れていない。これまでも彼らはすれ違っていたのかも知れない。もっとも、ほんとうにすれ違っていたらヨテはふとっちょメイド服おじさんを忘れられなかっただろうが。
軽やかに階段を降りるヨテの後ろを、ソザは大変そうにおりてくる。体が大きいのもそうだが、メイド服が窮屈なことにも原因がありそうだ。
下から見上げるヨテにソザは苦笑いで応える。ようやくヨテに追いついて隣に並んだ彼は、息が整うのを待ってから口を開いた。僅かの間に何かを逡巡し、落とした視線をヨテに据えた。その目の深い色にヨテは戸惑った。
「ぼくは、物語の主人公っていうガラじゃないからさ。せめて名ありの脇役くらいにはなりたいじゃない?」
「え?」
「自分は自分の人生の主人公、って言葉があるじゃない。あれが苦手でさ」
「そう、なんだ?」
ヨテが首を傾げると、ソザははにかんで「忘れて」と手を振った。そのままさっさと先を行ってしまう。
ヨテは慌ててあとを追いかける。彼にとっては何か大事な告白だったに違いないのだが、彼女はそもそもその「言葉」とやらを知らなかった。
それが理由なのだろうか。メイド服を着るのも、部屋の家財道具をすべて捨ててしまったのも、あの寂しげな笑みも?
けれども彼はそれ以上話を続けることはなかった。
ソザのアパートの前にある交差点で彼らは立ち止まる。信号が青に変わろうとする直前にヨテは言った。
「ここまででいいよ。道、わかるし」
「そっか。そうだね」
「じゃ」
「うん」
簡単に手を振りあって、ヨテは青に変わった信号を渡っていく。小走りに横断歩道を渡る間、彼女は振り返ることもしなかった。
渡り切って、歩調を緩める。やはり彼女は振り返らなかった。
その背中に。
「ねえ!」
ソザの声がかかった。その途端にヨテの足が止まる。一瞬の躊躇もなく彼女は振り返っていた。
信号は点滅を始めていた。その下をふとっちょメイド服おじさんがぽてぽてと走っている。ネコミミ少女の耳がぴんと立ち上がった。
蒼天にきつい日差しは照り付け、濃い影を足もとへ投げかける。折しも風はやみ、競うように蝉が声を高めた。
彼らはぎこちなくも向かい合う。
「ねえ……、あの」
「うん」
「あの、さ」
「うん」
「また、会おうね」
「あははっ、うん!」