「こんにちは! アビドス高校一年生の梔子ユメです!」
そう名乗った少女は、まるで何年も待ち続けた客人をようやく迎えられたような満面の笑みを浮かべており、そのあまりの勢いに、つい先ほどまで第十三回十二大戦で死んだはずの自分が、なぜ見知らぬ砂漠の学校にいるのかという問題を整理しようとしていた憂志井は、珍しく返答の機会を失った。
「……これはどうも」
とりあえず頭を下げる。
少女――梔子ユメは、そんな憂志井を上から下まで改めて眺めた。
砂埃にまみれた服、焼け焦げた袖、ところどころ裂けた布地、乾いた血痕、そして靴にまで入り込んだ大量の砂。
その顔から、先ほどまでの明るい笑顔がゆっくりと消えていく。
「……えっと」
「何だろうか」
「もしかして、ここまで歩いてきたんですか?」
「ああ」
「砂漠を?」
「そうだ」
「一人で?」
「他に誰もいなかったからね」
ユメはしばらく黙り込み、もう一度憂志井の全身を見た後、なぜか両手を腰に当てた。
「それ、見学どころじゃないですよ!」
「見学については訂正したいことがあるんだがね」
「まず着替えです!」
「話を聞いてくれると助かるんだが」
「それからお水!」
「それもありがたいが」
「あと怪我!」
「怪我はほとんどない」
「服がこんなことになってる人の『ほとんどない』は信用できません!」
言い切ったユメは、憂志井の返事を待つことなく手招きして歩き始めた。
「こっちです!」
「……」
憂志井はその背中を見送り、ほんの数秒だけ考えた。
この少女を信用していいのか。
今いる場所が何なのかも分からない。
国も分からない。
街の名前も分からない。
自分がなぜ生きているのかも分からない。
そして目の前の少女は、砂漠の真ん中にある人気のない高校で、見知らぬ血まみれの少年を見つけても警戒するどころか、水と着替えの心配をしている。
警戒する要素なら、いくらでもあった。
「どうしました?」
少し先まで歩いていたユメが振り返る。
「来ないんですか?」
憂志井はその顔を見て、小さく息を吐いた。
少なくとも悪意は感じない。
殺意もない。
罠を張る者特有の視線も、仲間へ合図を送る動きもない。
何より。
「……いや、行こう」
ここで疑い続けるより、人と話せる場所へ行く方が得るものは多い。
そう判断し、ユメの後を追った。
廊下を進みながら、憂志井は改めて校内を観察した。
外から見た時にも感じたが、随分と大きな学校だった。
複数階建ての校舎、長い廊下、いくつもの教室、掲示板、階段、窓の向こうに見える広いグラウンド、それら全てが相当数の生徒を受け入れることを前提として設計されている。
だというのに。
人の気配がない。
一人もいない、というわけではない。
遠くで物を動かす音がする。
どこかの部屋から紙をめくる音も聞こえる。
しかしそれだけだ。
学校という場所特有の雑音が、あまりにも少ない。
「今日は休みなのか?」
「え?」
前を歩くユメが振り向いた。
「学校だ。随分静かだからね」
「あー……」
ユメの足が一瞬だけ遅くなる。
ほんの僅かな変化。
普通なら見逃す程度。
だが、他人の挙動を読むことがそのまま生死に直結する場所で育った憂志井には、十分すぎる反応だった。
「今日は休みではないんですけど……その、今はちょっと人が少なくて」
「なるほど」
それ以上は聞かない。
少なくとも今は。
ユメもそれ以上説明しなかった。
少しだけ気まずい沈黙が流れた後、彼女はわざとらしいほど明るく声を上げる。
「でも、いい学校なんですよ! 広いですし、設備もちゃんとしてますし、それに昔はもっと生徒もたくさんいたんです!」
「昔は?」
「あ」
また一瞬止まる。
「……まあ、その話はあとで!」
「そうか」
どうやら触れられたくない事情があるらしい。
憂志井は頭の片隅に記憶しておくことにした。
しばらくしてユメが一つの部屋の前で止まる。
扉を開けると、中には棚やロッカーが並んでいた。
「ここです!」
「更衣室か」
「正確には倉庫も兼ねてるんですけどね。制服の予備がいくつかあるんです」
ユメは棚を開き、中を覗き込んだ。
「あったかなー……えっと……」
何着もの制服をかき分ける。
大半は女子用だった。
当然と言えば当然なのかもしれない。
ユメが女子生徒であることを考えれば、この学校が女子校なのかとも思ったが、先ほど廊下で見た掲示物の一部には男女双方を想定したような表記があった。
つまり男子生徒もいるか、少なくとも過去にはいた。
「ありました!」
ユメが嬉しそうに一着引っ張り出した。
濃い色を基調とした上着とシャツ、それに男子用のスラックス。
「男子制服です!」
「あるんだな」
「失礼ですよ! ちゃんと男子用だってあります!」
「いや、女子校かと思っていた」
「違いますよ!」
ユメは少し頬を膨らませる。
「ただ……」
制服を抱えながら、声が少し小さくなる。
「男子生徒はかなり少ないですけど」
「どれくらいだ?」
「えーっと……」
ユメは視線を泳がせた。
「今は、その……」
言葉に詰まる。
憂志井は察した。
「答えにくいなら構わない」
「すみません」
「謝ることでもないだろう」
それよりも。
憂志井は渡された制服を見る。
「これを借りていいのか?」
「もちろんです!」
「貴重なんじゃないか?」
「着る人がいない方が制服もかわいそうです!」
随分と独特な理屈だった。
しかし、憂志井としても今の服で歩き続けるよりはありがたい。
血と焦げ跡だらけの服では、誰に会っても警戒される。
「では借りよう。後で洗って返す」
「そんなの気にしなくていいですよ」
「借りたものは返すべきだ」
「真面目ですねえ」
「普通だと思うんだがね」
ユメはくすりと笑った。
「じゃあ私、外で待ってますね。サイズが合わなかったら言ってください!」
「分かった」
扉が閉まる。
憂志井はしばらく制服を見つめた後、自分の服を脱ぎ始めた。
改めて見ると酷い有様だった。
十二大戦の戦闘で切られ、刺され、血を浴び、最後には爆発に巻き込まれた。
本来なら服どころか身体そのものが残っていないはずだった。
それが今は。
身体には傷らしい傷がほとんどない。
古傷はある。
十二年間の戦場生活で刻まれた傷。
刃物。
銃弾。
爆風。
転落。
火傷。
骨折。
それらの痕跡だけは、以前と変わらず身体に残っている。
だが第十三回十二大戦で負った傷だけが消えていた。
「……ますます妙だな」
身体だけが戦闘前へ戻されたのか。
いや。
それなら服も戻るはずだ。
では傷だけ治癒したのか。
誰が。
何のために。
分からない。
分からないことを考え続けても仕方がない。
憂志井は制服へ袖を通した。
少し大きい。
しかし問題ない。
シャツを整え、上着を羽織り、スラックスを履く。
鏡があったので見る。
「……高校生に見えるな」
自分で言ってから、少し間を置く。
年齢だけを言えば高校生なのだから当然だ。
ただし自分には学校生活というものがほとんどない。
教室で授業を受けたことも。
友人と昼食を食べたことも。
部活動をしたことも。
試験前に勉強したこともない。
幼い頃から生きてきた場所は、学校ではなく戦場だった。
制服というものも、潜入任務以外ではほとんど着た経験がない。
「似合っているかどうかは分からないが」
問題はない。
服として機能すれば十分。
脱いだ服を簡単に畳む。
破れが酷い。
後で縫える部分だけでも修繕しよう。
扉を開ける。
外で待っていたユメが振り返り。
目を丸くした。
「おお……!」
「何だ」
「似合います!」
「そうか」
「すごく似合います!」
「二度言うほどか?」
「だってちゃんとアビドスの生徒っぽいですよ!」
「私は生徒ではないんだがね」
「……え?」
ようやく言えた。
ユメが固まる。
憂志井は少し申し訳なく思いながら続けた。
「さっきから訂正しようとしていたんだが、私はこの学校を見学しに来た中学生ではない」
沈黙。
「…………え?」
「そもそも中学生でもない」
さらに沈黙。
ユメが憂志井を見る。
制服を見る。
顔を見る。
もう一度制服を見る。
「じゃ、じゃあ……高校生?」
「年齢だけならそうなる」
「年齢だけなら?」
「学校へ通った経験がほとんどない」
「……?」
疑問符が顔に浮かんでいる。
当然だろう。
「事情を説明すると長くなる。私自身、今の状況を完全には理解していない」
「ええっと……」
ユメは数秒悩んだ後。
「じゃあ、とりあえず座って話しませんか?」
「助かる」
「お水も持ってきます!」
「ああ。それは本当にありがたい」
それだけは心底から言った。
喉が限界に近い。
ユメは近くの部屋へ憂志井を案内した。
小さな会議室らしい。
机と椅子。
窓。
棚。
憂志井が座ると、ユメはしばらくして冷たい水の入ったペットボトルを持って戻ってきた。
「どうぞ!」
「ありがとう」
蓋を開ける。
一気には飲まない。
少しずつ。
喉を湿らせる。
身体へ水分が染み込む感覚。
「……生き返るな」
「そんなに喉渇いてたんですか?」
「砂漠を歩いたからね」
「どこから来たんです?」
「それが分からない」
「え?」
「気がついたら砂漠にいた」
ユメは黙る。
疑っている。
当然。
「記憶喪失ですか?」
「記憶はある」
「じゃあ迷子?」
「それとも違うと思う」
「家出?」
「帰る家はない」
ユメの表情が僅かに曇った。
しまった。
と思った。
こういう話をすると、人は大抵同情する。
憂志井はそれがあまり得意ではない。
「それほど深刻に考えなくていい。昔からそうだから」
「昔から……」
「一人には慣れている」
本当にそうなのだが。
ユメはなぜか余計に悲しそうな顔をした。
「……そういう意味で言ったわけじゃないんだがね」
「すみません」
「君が謝ることではない」
空気が重くなる。
憂志井は少し考え。
話題を変える。
「それより、ここはどこだ?」
「ここですか?」
「ああ。アビドス高等学校という名前は読めたが、それ以上は分からない。国名でも地名でも聞いた覚えがない」
ユメは不思議そうな顔をした。
「アビドスはアビドスですよ?」
「その説明で理解できるのは地元の人間だけだと思う」
「あっ」
ユメは恥ずかしそうに笑った。
「そっか。外から来たんですもんね」
「外という言葉がどこまで外を指すのかも、今の私には分からないが」
「ここはキヴォトスですよ」
「キヴォトス?」
初めて聞く。
「学園都市キヴォトスです」
「学園都市」
「はい」
ユメは当たり前のように言う。
しかし憂志井にとっては、その言葉だけでも随分奇妙だった。
都市全体が学校なのか。
あるいは多数の学校が集まった自治都市なのか。
「国ではない?」
「うーん……国っていうより、キヴォトスはキヴォトスというか……」
「難しいな」
「説明しづらいです!」
ユメが困ったように笑う。
憂志井も少し笑った。
「では、徐々に教えてもらおう」
「はい!」
ユメの表情がすぐに明るく戻る。
本当に分かりやすい少女だ。
「じゃあ、せっかくだから学校の案内を続けますね!」
「案内?」
「はい!」
「私は見学者ではないと説明したばかりなんだが」
「でもキヴォトスもアビドスも知らないんですよね?」
「ああ」
「なら見学した方がいいじゃないですか!」
「……なるほど」
理屈としては間違っていない。
「それに」
ユメは制服姿の憂志井を見て、満足そうに頷いた。
「今なら完璧にアビドスの生徒ですよ!」
「勝手に入学させないでもらいたいんだがね」
「体験入学です!」
「話が変わっているな」
ユメは楽しそうだった。
憂志井は拒否する理由を探した。
特にない。
現在地を知るにも、この学校を知るにも、ユメについて行くのが一番手っ取り早い。
「分かった。案内を頼む」
「任せてください!」
ユメは立ち上がる。
憂志井も後を追う。
再び廊下。
先ほどとは違い、今度はユメが一つ一つ説明してくれた。
「ここが一年生の教室です!」
教室。
広い。
だが机の使用状況を見る限り、生徒数は少ない。
「こっちが二年生!」
同じ。
「三年生は向こうです!」
やはり少ない。
「図書室もあります!」
蔵書は意外に充実している。
「体育館!」
大きい。
「食堂!」
広い。
「生徒会室!」
それなりに立派。
設備だけを見れば、中規模以上の学校。
しかし人がいない。
「やはり妙だな」
思わず口に出る。
「何がです?」
ユメが振り返る。
「この学校だ」
「え?」
「設備の規模と、人の数が合っていない」
ユメの笑顔が僅かに止まる。
「昔は、もっと多かったと言っていたね」
「あ……はい」
「どれくらい?」
「……」
今度は答えなかった。
憂志井は少し待つ。
そして。
「話したくないなら、それでいい」
「え?」
「無理に聞き出すほどのことでもない」
「……すみません」
「だから謝らなくていい」
ユメは黙って歩き始めた。
その背中が、先ほどまでより少し小さく見えた。
憂志井は何も言わず後を追う。
事情はある。
間違いなく。
砂に沈みかけた街。
異常に大きな学校。
人のいない廊下。
貴重だという男子制服。
昔は生徒がもっといたという言葉。
それらを繋げれば、学校が衰退していることくらいは推測できる。
だが。
自分には関係ない。
本来ならそうだ。
ここがどこなのか確認し、自分の状況を把握し、帰れる方法があるなら帰る。
それだけ。
戦場でも、知らない土地でも、余計な事情へ首を突っ込めば死ぬ確率は上がる。
十二年間で何度も学んだ。
関わらない方がいい。
深入りしない方がいい。
まして自分は今、武器も金も身分証もない。
他人を助ける余裕などない。
「……」
そのはずだった。
少し先を歩くユメを見る。
砂に沈む学校を案内しながら、それでも彼女は楽しそうに話している。
図書室。
体育館。
教室。
食堂。
まるで自慢するように。
まるでこの学校が大好きなのだと、全身で語っているように。
「どうしました?」
ユメが振り返る。
「いや」
憂志井は首を振った。
「何でもない」
「そうですか?」
「ああ」
まだ何も知らない。
何が起きているのかも、誰が困っているのかも。
そもそも困っているのかどうかすら。
勝手に決めるのは正しくない。
だから。
まず見る。知る。聞く。
正しいことをしようとするなら、最初に必要なのはそれだ。
「ユメ」
「はい?」
「もう少し、この学校のことを教えてくれるか?」
ユメの目が少し大きくなる。
そしてすぐに。
嬉しそうに笑った。
「もちろんです!」
その笑顔を見て憂志井は思う。
どうやら。
この学校には、もう少しだけいることになりそうだった。