「もちろんです!」と、梔子ユメはぱっと顔を明るくして答えた。
その一言を皮切りに、校内案内は再開された。憂志井は借りたばかりのアビドス高等学校の男子制服に身を包み、先を歩くユメの後を静かについていく。つい先ほどまで砂と血と煤に汚れた服を着ていたせいもあるのだろうが、今の姿だけを見ればずっと以前からこの学校に通っていた生徒のようにも見えた。ただし本人にその自覚はなく、歩きながら窓の位置、廊下の幅、階段の数、非常口、消火器、死角になりそうな場所、外へ抜けられそうな経路などを無意識に確認しているあたり、学校生活より戦場生活の方が圧倒的に長かったことは隠しようもなかった。
「こっちが図書室で、その向こうが視聴覚室です! 図書室、結構広いんですよ。私もたまに使うんですけど、気づいたら寝ちゃってることが多くて」
「図書室で寝るのか」
「静かだから気持ちいいんですよ」
「本来の用途とは少し違う気がするんだがね」
「本を枕にしてないから大丈夫です!」
「そこが問題なのではないと思うがね」
ユメは気にした様子もなく扉を開け、少し誇らしげに中を見せる。蔵書は意外に多く、棚も広く取られている。ただ、よく見れば奥の方には長く人の手が入っていない棚もあり、床には薄く埃が積もっていた。
「蔵書は多いな」
「ですよね!」
「ただ、随分と使われていない棚もあるようだがね」
「あ……」
ユメの顔に、一瞬だけ困ったような色が浮かぶ。
憂志井はそれ以上言わなかった。先ほどから何度か見ている表情だった。アビドスのことを誇らしげに話している時には明るいのに、「昔は」「以前は」「生徒が多かった頃は」といった話題へ触れると、その明るさの奥にほんの僅かな陰りが差す。
この学校には何かある。
そしてユメは、その何かを知っている。
ただし、本人が話したがっていないものを無理に引き出す必要はない。少なくとも今は。
「次は屋上も見ます?」
ユメが振り返る。
「ああ。せっかく案内してくれるというなら、見ておきたいがね」
「よーし、じゃあこっちです! あ、階段ちょっと砂入ってるので滑らないでくださいね。前に私、思いっきり転びました!」
「自分で注意しておいて自分が転ぶのか」
「一回転んだから今は詳しいんです!」
「それを経験豊富とは言わないと思うがね」
ユメはけらけら笑いながら階段を上っていく。憂志井はその後ろ姿を見ながら、妙に気の抜ける少女だと思った。明るく、よく笑い、少し抜けていて、それでいてこの学校を大切にしていることだけは嫌というほど伝わってくる。
そして階段を上がる途中で、憂志井はようやくそれに気づいた。
正確には、これまでも見えていた。
ただ、あまりにも自然に存在していたせいで、今まで「そういうもの」として視界から流してしまっていた。
ユメの頭上。
淡い光。
輪のようなもの。
「……ユメ」
「はい?」
「一つ聞いてもいいだろうかね」
「もちろんです」
憂志井は少し迷ってから、ユメの頭上を指差した。
「それは何だ?」
「それ?」
「頭の上に浮いているものだ」
「……?」
ユメが自分の頭上を見ようとする。もちろん自分では見えないが、指摘されたものが何かは理解したらしい。
「ああ、ヘイローですか?」
「ヘイロー」
「はい」
「それは普通にあるものなのかね」
「え?」
「人間の頭上に、光る輪が浮かんでいることが」
ユメは数秒間、何を言われたのか理解できないような顔をした。そして今度は逆に、憂志井をじっと見る。頭。顔。もう一度頭。少し背伸びまでして確認する。
「……ない」
「何がだ」
「ヘイロー」
「だから私は、そのヘイローというもの自体を今知ったところなんだがね」
「ええっ!?」
階段にユメの声が響いた。
「ヘイローないんですか、憂志井君!?」
「見れば分かるだろう」
「いや、そうなんですけど! でも普通あるじゃないですか!」
「少なくとも私の知る世界では普通ではないがね」
「世界?」
憂志井はそこで少しだけ眉を動かした。言い方を間違えた。
ユメがその部分に食いつく。
「世界ってどういう意味ですか?」
「そのままの意味だがね」
「えっと……憂志井君って、外国から来たとかじゃなくて?」
「国が違うという程度なら、私もそう思いたかったんだがね」
憂志井は階段の踊り場で足を止めた。このまま誤魔化しても意味はない。今後この場所に留まるなら、最低限自分の状況は伝えておいた方がいい。
「ユメ。私はここに来る直前まで、別の場所にいた」
「はい」
「砂漠ではない」
「はい」
「それどころか、昼ですらなかった」
ユメの表情が真剣になる。
「そこで私は、ある戦いに参加していた」
「戦い……?」
「十二大戦、と呼ばれている」
「十二大戦」
「十二年に一度、十二支の名を冠する十二人の戦士が、一つの願いを叶えるために殺し合う。そういう催しだがね」
ユメの顔から完全に笑みが消える。
「私は丑の戦士として参加していた。そして最後に、卯の戦士と相討ちになった」
「相討ちって……」
「爆弾でまとめて吹き飛ばした」
「……」
「その結果、私は死んだはずだった。ところが目を覚ましたら、アビドスの砂漠にいた。傷も消えていた。理由は分からない」
しばらく沈黙が続く。
窓の外から風の音だけが聞こえる。
ユメはじっと憂志井を見ていた。
当然だろう。突然現れた少年が、自分は十二支の戦士で、殺し合いに参加し、爆発で死んだ後にここへ来たと言い出したのだ。普通なら信じない。むしろ頭がおかしいと思われても仕方がない。
「……やはり信じにくいかね」
憂志井がそう言うと、ユメは少し考えてから唇に指を当てた。
「うーん……かなり信じにくいです」
「そうだろうな」
「でも」
ユメは憂志井を見る。
「嘘をついてるようにも見えないんですよね、憂志井君」
「それは助かる」
「それにヘイローもないし」
「そこが一番説得力を持つのかね」
「キヴォトスでは大事ですよ!」
どうやら本当にそうらしい。
「じゃあ、本当にキヴォトスの外から来たんですか?」
「外、という表現で合っているかも分からない。ただ、私がいた場所にキヴォトスという都市は存在しなかった。日本という国を知っているかね?」
ユメの目が丸くなる。
「日本って、どこです?」
今度は憂志井が黙る番だった。
「……存在しないのかね」
「少なくとも私は聞いたことないです」
「なるほど」
そこで初めて、憂志井の中で「別世界」という可能性がかなり現実味を帯びた。単なる外国でも、記憶障害でも、誘拐でも説明がつかない。
「困ったな」
「全然困ってる顔に見えませんけど」
「困っているとも。これでもだがね」
「そうなんですか?」
「ああ。帰り道が分からないのは、それなりに困るのだがね」
「帰りたいですか?」
ユメの問いに、憂志井は少しだけ考えた。
帰る。どこへ。
元いた世界。そこへ戻って何をする。
十二大戦は終わった、自分は死んだ、願いも叶わなかった。
家もない、家族もいない、待っている人間も、おそらくいない。
「……分からない」
「え?」
「帰れるなら帰った方がいいのかもしれない。だが、帰って何をするのかと聞かれると答えられないんだがね」
「……」
ユメが少し寂しそうな顔をする。
まただ。
この少女は他人の話にいちいち感情移入しすぎる。
「そんな顔をする必要はないがね」
「でも」
「私は昔から一人で生きてきた。別に珍しいことではない」
「それ、普通にかなり大変だと思うんですけど」
「慣れるものだがね」
「慣れちゃ駄目なやつじゃないですか?」
「そうなのか」
「そうです!」
随分と強く断言された。
憂志井は少しだけ笑う。
「君は面白いな」
「えっ」
「いや、悪い意味ではないがね」
ユメが少し頬を膨らませる。
「なんだか子供扱いされてる気がします」
「そんなつもりはない」
「本当ですか?」
「ああ」
そこでふと疑問が浮かぶ。
「そういえば、君はいくつだ?」
「十六です。今年で」
「……」
「どうしました?」
「同い年か」
「え?」
「私も十六だ」
ユメが固まる。
憂志井を上から下まで見る。さらに顔を見る。
「……同い年?」
「ああ」
「私と?」
「そうだがね」
「えっと……じゃあ敬語いらなくない?」
切り替えは驚くほど早かった。
「……何?」
「だって同い年でしょ?」
先ほどまでの「です」「ます」が消えている。
憂志井は数秒目を瞬かせる。
「君は随分と距離の詰め方が早いんだな」
「せっかく同い年なんだし、堅苦しいの嫌じゃない?」
「私の口調は元からこうなんだがね」
「それはもう分かってる」
ユメが笑う。
「じゃあ私だけ普通に喋るね、憂志井君」
「好きにするといい」
「それと、私のことはユメちゃんでいいよ!」
「自分でちゃん付けを要求するのかね」
「かわいいでしょ?」
「……君は本当に面白いな」
「また言った!」
憂志井は少しだけ考えた。
「では、ユメでいいかね」
「えー、ちゃん付けは?」
「それは少し難易度が高いがね」
「そんなに!?」
「私にはな」
ユメは少し残念そうにしたものの、すぐに笑う。
「じゃあ今はユメでいいよ、憂志井君」
「分かった」
「うん!」
それだけで随分嬉しそうだった。
憂志井にはよく分からない。ただ、悪い気分でもなかった。
「ではユメ、もう一つ質問があるがね」
「なに?」
「さっきから気になっていた」
憂志井の視線が、ユメの肩口へ移る。
そこにあるもの。
銃。
今まで見慣れすぎていたため、異常だと認識するのが遅れた。
「なぜ学生が銃を持っている?」
ユメはまた固まる。
「……え?」
「銃だ」
「これ?」
「ああ」
「持ってちゃ駄目なの?」
「むしろ普通は持たないのだがね」
「普通に持つよ?」
「普通に?」
「うん」
「全員?」
「大体?」
「学校に?」
「持ってくるよ?」
会話が噛み合わない。
憂志井はしばらく無言でユメの銃を見つめた。
銃そのものが嫌いなわけではない。
使い慣れている。どれほど簡単に人を殺せる道具なのかも、誰よりよく知っている。
だからこそ学生が、それを日常的に当然のように持ち歩いている。
その事実に、わずかな嫌悪感に近いものを覚えた。
「……随分と物騒な世界なのだね」
「そうかな?」
「そうだがね。少なくとも私のいた場所では、学生が銃を提げて登校するのは一般的ではない」
「へえ……」
「むしろ、あまり好ましい光景には見えない」
ユメが少し不思議そうに首を傾げる。
「銃、嫌い?」
憂志井は少し考える。
「嫌いというより、よく知っている」
「よく?」
「人を殺すための道具だということを、だがね」
ユメの表情が少し真面目になる。
「だから、学生がそれを当たり前のように持っているというのは、正直あまり好きではない」
「そっか」
ユメは少しだけ自分の銃を見る。
「でもキヴォトスだと、本当に普通なんだよ」
「それが普通であること自体に、私は少し引っかかるんだがね」
「憂志井君って、変なところで真面目だね」
「変なところで、は余計だ」
「でも、ちょっと分かるかも」
「そうかね」
「うん。私は当たり前だと思ってたから、そんな風に考えたことなかった」
憂志井は少しだけ目を細める。
否定されると思っていた。
だがユメは、ただ受け止めた。
「君は柔軟なんだな」
「褒めた?」
「今度は褒めたがね」
「やった!」
本当に分かりやすい。
屋上へ向かう予定だったが、結局二人はその場でかなり長く話し込んだ。キヴォトスには多くの学園が存在すること。学校が単なる教育機関ではなく、それぞれが大きな自治権を持つこと。生徒たちが武装していること。ヘイロー。学園同士の関係。行政。常識。説明を聞けば聞くほど、憂志井の知る世界とは違っていた。
「……理解するのに時間がかかりそうだ」
「大丈夫、私が教えるよ、憂志井君」
ユメは簡単に言う。
「随分親切だな」
「困ってるんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ助ける」
あまりにも簡単だった。
憂志井は一瞬言葉を失う。
ユメは不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの、憂志井君?」
「いや」
少しだけ、本当に少しだけ。昔のことを思い出した。
四歳、何も持たず。何も分からず。戦場に一人でいた自分とそこへ来た男。
何も聞かず。
何も求めず。
ただ助けた。
「何でもないがね」
憂志井はそう答えた。
「屋上はまた後でいい。先にもう少し話を聞かせてくれないかね」
「もちろん!」
二人は会議室へ戻った。
そこで初めて、ユメは憂志井の身の回りのことを一つずつ尋ね始めた。
「憂志井君、携帯端末とか持ってる?」
「ない」
「お財布は?」
「ない」
「お金も?」
「ない」
「学生証とか、身分証は?」
「持っていない」
「荷物は?」
「今着ているもの以外は、ほぼ何もないがね」
ユメは思わず憂志井の横に置かれた、血と煤で汚れた元の服へ視線を向ける。
「本当に何も持ってないんだ……」
「爆発に巻き込まれて、そのまま砂漠だからね。むしろ服が残っていたこと自体、不思議なくらいだ」
「じゃあ、キヴォトスに知り合いは?」
「君だけだな」
その一言でユメがぴたりと止まった。
「……私だけ?」
「ああ。今のところはね」
「そっか」
なぜか少し嬉しそうだ。
「何だ」
「別に?」
「そうかね」
憂志井は気にしないことにした。
するとユメは、今度はもっと根本的なことに気づいたように顔を上げる。
「じゃあ今日どこで寝るの?」
「適当な場所を探す」
「適当って?」
「砂漠以外ならどこでもいい。屋根があるだけで十分だがね」
「野宿?」
「慣れている」
「駄目」
即答だった。
「なぜだ」
「駄目なものは駄目」
「理由になっていないがね」
「十六歳が一人で野宿するの普通じゃないでしょ」
「十二年間やってきた」
「もっと駄目じゃん!」
また怒られた。
「しかし、他に行く場所がない」
「ならここにいればいいよ、憂志井君」
「……ここ?」
「アビドス」
「いや」
「なんで?」
「さすがにそこまで世話になるわけにはいかない。制服まで借りて、水も貰って、さらに寝床までとなれば一方的に恩を受けすぎるがね」
「恩とかいいって」
「私はよくない」
「頑固だね、憂志井君」
「よく言われる」
「誰に?」
「……昔の知り合いに」
誰だったか。
失井だったかもしれない。
違ったかもしれない。
もう十二年前。
記憶も曖昧になっている。
ユメは少し考えた。
「じゃあ、恩を返してくれればいいよ」
「何?」
「ここに泊まる代わりに、何か手伝って」
憂志井は目を細める。
「取引か」
「うん」
「それなら話は別だがね」
「やった!」
ユメが小さく拳を握る。
「それで何をすればいい?」
「うーん……」
そこまで考えていなかったらしい。
「掃除とか?」
「それで宿泊代になるのかね」
「なるなる」
「随分と安い宿だな」
「細かいことは気にしない!」
「君は時々、かなり雑だな」
「天然ってよく言われる!」
「自覚があるなら天然とは言わない気もするがね」
「え、そうなの?」
「多分な」
そうして、憂志井はアビドス高等学校へ一時的に滞在することになった。
案内されたのは、現在使われていない旧寮の一室だった。
扉を開ける。
埃が大量。床、机、棚、窓枠にも。
「……」
憂志井は部屋を見る。
ユメも見る。
「明日、一緒に掃除しよっか、憂志井君」
「いや」
「え?」
「今やる」
上着を脱ぎ、袖を捲る。
「え、今から?」
「寝る場所を掃除せずに寝る方が嫌だがね」
「疲れてない?」
「これくらいなら問題ない」
そう言って始めた。
最初に窓を開ける。
換気、埃を外へ。
次に不要物を分類。使えるもの、捨てるもの。
修理できるもの。雑巾、箒、バケツ。
掃除道具の場所をユメに聞き、黙々と動く。
「……手際良すぎない?」
ユメが呆然と見ている。
「普通だがね」
「絶対普通じゃないよ」
「掃除だろう」
「そうだけど」
埃を払い、床を拭き、机を動かし、歪んだ棚の蝶番を調整し、外れかけたカーテンを直す。
一時間もしないうちに、先ほどまで廃部屋に近かった部屋が、人間の生活できる空間へ変わっていた。
「すご……」
「まだ甘いが、今日はこれくらいでいい」
「憂志井君って何者なの?」
「丑の戦士だ」
「丑の戦士って掃除もできるの?」
「丑だからではないがね」
「じゃあ何で?」
「一人暮らしが長い」
憂志井は淡々と答える。
「掃除も洗濯も料理も、自分でしなければ誰もやらない。できなければ困るから覚えただけだがね」
「料理も?」
「ああ」
ユメの目が光った。
「本当に?」
「そこまで食いつくことかね」
「だって料理できる男子って珍しいし」
「そうなのか」
「少なくとも私はそう思う」
「なら夕食くらい作ろうか」
「いいの!?」
「宿泊代だと思えばいいがね」
その後、二人は食堂へ向かった。
冷蔵庫、中を見る。
卵、野菜、少量の肉、調味料。食材は多くない。
だが。
「十分だな」
「これで?」
「ああ」
憂志井は手を洗う。
包丁、まな板、鍋、フライパン。
長年使ってきた道具と多少形は違っても、用途は同じ。
野菜を切る、肉を処理する、火を入れる、調味。
手際に迷いがない。ユメは横からずっと見ていた。
「包丁使うの上手いね、憂志井君」
「刃物だからな」
「なんか怖い言い方」
「料理の話だがね」
「本当に?」
「本当だ」
しばらくして、簡単な炒め物とスープ、卵料理、米が並んだ。
大した料理ではない。
憂志井本人としては、戦地で余った材料を使って作る食事とさほど変わらなかった。
だが。
「おいしい!」
一口食べたユメが、心底嬉しそうに言った。
「そうか」
「すごくおいしい!」
「それなら良かったがね」
「憂志井君、これ毎日作れる?」
「なぜ毎日作る前提なんだ」
「だっておいしいし」
「私は一時的な滞在者だがね」
「えー」
ユメが残念そうにする。
「それに料理程度なら、長く一人で生きていれば誰でも覚える」
「またそれ言う」
「事実だ」
「十二年ずっと一人だったの?」
箸が一瞬だけ止まった。
「ほとんどは、だがね」
「……そっか」
またユメの声が少しだけ沈む。
憂志井はそれに気づいたが、今度は何も言わなかった。
「失井と一緒にいた時に、基本は教わった」
「失井君?」
「君付けするのかね」
「だって人の名前でしょ?」
「……まあ、そうだな」
「その失井君って、昔世話になった人?」
「ああ」
「料理もできたんだ?」
「料理だけではない。生きるために必要なことは、大体あの人に教わった」
「今は?」
「死んだ」
ユメの動きが止まる。
「……ごめん」
「なぜ君が謝る」
「だって」
「十二年前の話だがね」
「でも」
「悲しいことと、君が謝ることは別だ」
静かな声だった。
ユメは少しだけ俯いて。
「うん」
それ以上聞かなかった。
憂志井はそれがありがたかった。
食事を終え、皿を洗う。
ユメも手伝った。そして片付けが終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「憂志井君」
「何だ」
「これからどうするの?」
唐突な質問。
憂志井は布巾を絞る手を止めた。
「これから?」
「うん。キヴォトスで」
考える。
帰る方法を探す。
それが普通だろう。だが、本当に帰りたいのかまだ分からない。そもそも帰れるのかも分からない。
なら。
「まずは、この世界を知ることだろうな」
「世界を?」
「ああ。何も知らないまま動いても仕方がないがね」
「じゃあ」
ユメが笑う。
「アビドスからだね、憂志井君」
「そうなるのかね」
「だって今いるのアビドスだし」
「まあ、理屈としては正しい」
「でしょ?」
「君の言うことにしては珍しく」
「ちょっと!」
憂志井は少しだけ笑った。
ユメも笑う。
それから二人は別れ、憂志井は旧寮の部屋へ戻った。
窓を開ける。
夜風。昼間よりかなり涼しい。
遠くに砂へ沈んだ住宅街。
その向こう。
闇。静かだった。
戦場の静けさとは違う。銃声も、爆発も、悲鳴もない。
「平和……なのか」
少なくとも今は。
憂志井は窓枠へ寄りかかる。
そして昼間から見続けてきたものを思い出す。
広すぎる校舎、空の教室、使われていない設備、砂へ沈む街、生徒の少なさ。
「昔はもっと人がいた」
そう言った時のユメ。
明るく笑っていた。
けれど。
「あの少女」
憂志井は小さく呟く。
「随分と無理をして笑うんだな」
戦場では、笑う人間を何人も見てきた。
恐怖を隠すため。
絶望を隠すため。
誰かを安心させるため。
自分自身に大丈夫だと言い聞かせるため。
だから分かる。
ユメの笑顔が嘘だとは思わない。
あれは本当に笑っている。
本当にこの学校が好きで、本当に誇りに思っている。
だからこそ、その笑顔の裏にあるものも、少しだけ気になった。
本来なら自分には関係ない。
帰る場所もない、武器もない、金もない、この世界の常識すら知らない。
他人の事情へ首を突っ込んでいる場合ではない。
そのはずなんだがね。
「……まあ」
憂志井は夜のアビドスを眺める。
「事情を知るくらいは構わないか」
それくらいなら、正しいとか間違っているとか、そんな大層な話ですらない。
ただ。
困っているように見える人間がいる。
なら。
何に困っているのかくらいは、知っておいてもいい。
そう思っただけだった。