凍てつくような夜風が、葉を落とした冬の木々を揺らしている。
丑三つ時の森は、本来ならば静寂に包まれているはずだった。しかし今、この空間を支配しているのは、空気を凍らせるほどの異常な冷気と、鉄の錆びたような血の匂い、そして――。
「ふうっ……、はぁっ……!」
胡蝶カナエの肺は、とうの昔に限界を超え、悲鳴を上げていた。
一歩踏み出すごとに、極寒の空気が刃のように気管を切り裂く。薄紅色の蝶の羽織にはいくつもの赤い染みが広がり、彼女の体力を確実に削り取っていた。浅い傷の蓄積。致命傷こそ避けているものの、全身の筋肉は強張って鉛のように重い。
対して、彼女の眼前に立つ男――虹色の瞳を持つ鬼、上弦の弐・童磨は、まるで夜の散歩でも楽しむかのような軽快な足取りで、金色の対扇を弄んでいた。
「楽しいねぇ。僕は笑顔が好きなんだ」
童磨は、無邪気な子供のように笑った。その顔には、一切の悪びれも、殺意すらも浮かんでいない。ただ純粋に、目の前で血を流し、もがき苦しむ人間を観察することを楽しんでいる。
「君も笑ったらいいのに」
扇が優雅に振られるたび、空気中の水分が凍りつき、鋭い氷の刃となってカナエを襲う。それを日輪刀で弾き落としながら、カナエは忌々しげに、けれど静かに言葉を返した。
「……笑えませんよ」
「どうして?」
「あなたが……そんな顔をしているからでしょうか」
「僕、そんなに怖い顔してる?」
童磨がきょとんと首を傾げる。その仕草すら、彼にとっては遊戯の一部に過ぎない。
「いいえ」
カナエは荒い息を吐きながら、日輪刀の柄を強く握り直した。
「……とても楽しそうだからです」
「うん! とっても楽しいよ!」
童磨は満面の笑みで答えた。
他者の痛みも、絶望も、彼にとっては等しく娯楽であり、救済すべき対象への供物でしかない。カナエは直感していた。この鬼には、人間の感情を理解する機能が根本から欠落しているのだと。
だからこそ、恐ろしい。
どれだけ刀を振るおうと、どれだけ言葉を交わそうと、底なしの虚無に石を投げ込んでいるような絶望感だけが降り積もっていく。
――ここまで、なのかもしれない。
しのぶの顔が脳裏をよぎった瞬間だった。
ぞわり、と。
カナエの肌が、極寒の空気とは全く別の理由で粟立った。
「……ふむ」
森の奥から、濃いもやを割って歩み出てくる影があった。
低い、だがひどく響く男の声。
足音はなかった。ただ、その影が一歩近づくごとに、童磨の血鬼術が作り出していた凍てつくような冷気が、まるで巨大な熱源に押し流されるように霧散していく。
もやの中から現れたのは、彫刻のように鍛え上げられた肉体を持つ、ひとりの男だった。
赤い髪に、血のように赤い瞳。
そして何より異様なのは、この凍てつく冬の深夜において、男が『上半身裸』であることだった。
男――マヤは、転移の反動で消失した上着のことは気にも留めず、自身の状態を軽く確認するように首を鳴らすと、カナエと童磨の間にふらっと歩み出た。
「君は誰?」
童磨が、初めてわずかな興味を示して扇を止めた。
「せっかくの救済の邪魔をしないでくれるかな」
カナエは地面に膝をつきそうになるのを堪えながら、男を見つめた。
異常だ。この男から放たれているのは、鬼の妖気でも、剣士の闘気でもない。もっと根源的で、圧倒的な質量を持った『闘気』。愛する笑顔がない為、僅かに修羅の荒々しさを帯びたその気配は、ただそこに立っているだけで周囲の空間を軋ませていた。
マヤは童磨の言葉を受けると、面倒くさそうに頭を掻き、淡々と言い放った。
「救うって言いながら、ずいぶん嬉しそうに痛ぶるんだな」
「すぐ殺すのはもったいないだろ? 楽しんであげないと」
童磨が扇で口元を隠し、くすくすと笑う。
マヤは静かな視線を横に動かし、肩で息をしているカナエを見た。
「……お前、笑顔が好きなのか?」
「うん! だって楽しいからね!」
「でも、こいつ笑ってないだろうが」
マヤがカナエを指差して言う。
あまりにも素朴で、あまりにも当たり前の事実。だが、その言葉にカナエは一瞬、呼吸を忘れた。この圧倒的な化け物を前にして、この見知らぬ男は、極めて本質的な『異常性』を真っ向から突きつけている。
童磨は気にした様子もなく、にっこりと笑った。
「最後には笑うよ。僕の中で永遠になるんだから」
「それ、お前が笑わせたいだけじゃない?」
マヤの言葉に、童磨の顔から僅かに笑顔が消え、きょとんとした表情に変わる。
「僕は笑顔が好きなんだよ」
「俺も好きだよ」
「本当? じゃあ仲良くできそうだね!」
「いや、無理」
マヤの即答に、童磨の目がわずかに細められた。
「どうして?」
「お前の笑顔、この女が笑ってないのに成立してるだろ?」
マヤの声には、怒気も、正義感ぶった説教の響きもない。ただ、目の前の事象に対する純粋な疑問と、明確な『拒絶』だけがあった。
「相手を苦しめて、自分だけ楽しそうにしてるのに、それを笑顔って呼ぶの?」
「……」
「女性はよ、大事にしないとダメだろ。お前にはわからない感情なのかもな。……さみしい奴だな」
その言葉が、凍りついた森に静かに響き渡る。
童磨の笑みが、ゆっくりと、しかし確実に形を変えた。目尻が下がり、口元だけが三日月のようにつり上がる。
「寂しい? 僕が?」
童磨の纏う空気が、一気に殺意を帯びた。
手にした対の扇から、今までとは比べ物にならないほどの濃密な冷気が溢れ出す。
「とっても楽しいさ。最後は僕の糧になるんだからね」
童磨は、まるで自らの教義を語るようにうっとりと目を閉じた。
「泣いたり、悲鳴を上げたり……そういうのも全部、僕を喜ばせてくれる」
風が、止まった。
カナエは、隣に立つマヤの気配が、決定的に変わったのを感じた。
先ほどまでただ漂っていた荒々しい闘気が、一瞬にして凝縮され、どす黒い重圧へと変貌する。肌が焼けるような錯覚。空気が重すぎて、息を吸うことすら苦しい。
マヤは、ただじっと童磨を見据えていた。
相手を理解しようとした数秒。そして、女の苦痛を喜ぶ手合いだと理解した瞬間の、完全な『見切り』。
「……そっか」
短く息を吐き出す。
「じゃあ、もういいや」
対話を打ち切ったマヤの態度に、童磨は肩をすくめた。
「話が合わなくて残念だよ。それじゃあ、まずは彼女から――」
童磨が扇を翻し、カナエの首元へ向けて致死の氷撃を放とうとした、その瞬間だった。
すっ、と。
マヤの姿がブレたかと思うと、童磨の真正面に割り込んでいた。
「それはダメだろ」
「どうして?」
「女の人を傷つけるの、嫌いなんだよ」
「へえ?」
童磨が扇を振り抜こうとするよりも早く。
マヤは、一切の予備動作なく、無造作に右の拳を突き出した。
「だから、お前には悪いけど――」
――ドンッ。
打撃音ではなかった。
それは、空間そのものが破裂したような、爆発音に近かった。
マヤの拳から放たれた異常なまでに練り上げられた『闘気』が、童磨の腹部を真正面から捉えたのだ。血鬼術の氷の盾など、紙切れほどの役にも立たなかった。
「……っ!?」
童磨の顔から、初めて余裕が完全に吹き飛んだ。
衝撃波が森を突き抜け、周囲の雪を、木々を、地面の土ごと放射状に吹き飛ばす。
圧倒的な質量を持った暴力。上弦の鬼の強靭な肉体が「くの字」に折れ曲がり、童磨は砲弾のような速度で後方の暗闇へと弾き飛ばされていった。
バキバキバキッ! と、何本もの大木をへし折る音が遠ざかり、やがて森は静寂を取り戻した。
「……え?」
あまりの出来事に、カナエは日輪刀を握ったまま呆然と座り込んでいた。
舞い上がった雪煙が晴れていく。
前方には、童磨が吹き飛ばされたことによってできた、直線状の不自然な獣道が、森の奥深くへと続いていた。
あの化け物が、ただの一撃で。
剣技でも、呼吸でもない。純粋な理不尽の塊のような一撃。
遠くの暗闇の奥で、童磨の気配がわずかに揺らぐのが分かった。しかし、彼がこちらへ戻ってくる気配はない。本能的に悟ったのだろう。この得体の知れない半裸の男とこれ以上やり合うのは、己の命に関わると。
上弦の気配が、完全に森から消え去った。
「はぁ……」
マヤは右手を軽く振りながら、短く息を吐き出した。
そして、ゆっくりと振り返り、へたり込んでいるカナエを見下ろす。
赤髪に赤い瞳。極寒の中で上半身を晒しながらも、寒がる素振りは一切ない。
「立てるか?」
無造作に差し出された手。
カナエは、自分をいたぶっていた鬼の残した恐怖と、目の前の男が放つ温かいが異質すぎる気配の狭間で、ただ無言でその手を見つめ返すことしかできなかった。
カナエは小さく息を呑み、震える手を伸ばして、その温かい大きな手を取った。
上弦の弐との遭遇。これまでなら確実に柱の命が失われていたであろう絶望的な戦いは、ひとりの異物の介入によって、カナエが致命傷を免れるという形で幕を下ろした。
数日後。
生還した胡蝶カナエの口から、産屋敷耀哉、そして鬼殺隊の柱たちへと詳細な報告がなされた。
「上弦の弐」――扇を使い、肺を凍らせる恐るべき氷の血鬼術を操る、虹色の瞳を持つ鬼。そして何より、他者の苦痛を「救済」と呼んで楽しむ、その狂気に満ちた異常な精神性。
これまで、上弦の鬼に遭遇した隊士は例外なく命を散らしてきた。だからこそ、その詳細な能力や性質が組織に持ち帰られることはなかった。
しかし、カナエが生き残り、その正確な情報と「上弦の圧倒的な脅威」を持ち帰ったことは、鬼殺隊にとって歴史的な転換点となる。
『上弦の鬼とは、これほどの化け物なのか』
その共通認識は、組織全体に強烈な危機感を植え付けた。
各柱の訓練基準は即座に引き上げられ、部隊間の情報共有の速度、そして有事における初動の警戒レベルが、かつてないほどに跳ね上がる。
より早く、より正確に、誰かが命を落とす前に現場へ到達する。組織全体の練度と意識が、この日を境に一段階上の領域へと引き上げられたのだ。
――そして、数年後。
雪深く、凍てつくような冬の山奥。
静寂に包まれていたはずの一軒の家が、今まさに、最悪の鬼の襲撃を受けていた。
雪を赤く染める血の匂い。静かな山に響く無慈悲な破壊音。
だが、その惨劇の現場へ向かって、雪山を猛烈な速度で駆け抜ける影があった。
数年前のあの日から組織全体に浸透した「より早い初動と危機感」によって、かつてない速度で現場へ急行する水柱・冨岡義勇の姿が、そこにあった。