新章:第5話 生きる
うだるような熱気が、大正の街並みをすっぽりと覆い尽くしていた。
空には巨大な入道雲がそびえ立ち、ジリジリと肌を焼く太陽が沈むのを待って、ようやく夜の帳が下りる。しかし、日が落ちてもなお、むせ返るような湿気と青葉の匂いが風に乗り、庭先の木々からはけたたましい蝉の鳴き声が絶え間なく響いていた。
季節は完全に夏へと移り変わっていた。
人々の動きが活発になるこの時期、それは同時に、暗闇に潜む鬼たちの動きが活発化することも意味している。
蝶屋敷の「日常柱」にして門番を自称するマヤは、夜な夜な街や森を巡り、広大な索敵網を敷いていた。
生け簀として管理している弱い鬼からの採血、蝶屋敷の地下施設と浅草の珠世の隠れ家を行き来する日々の合間を縫って、彼は己の『闘気』を静かに、しかし確実に周囲へ張り巡らせていた。
そんなある蒸し暑い夜のことだった。
(……ん?)
屋根の上に降り立ち、街の喧騒から少し離れた森の奥深くへと意識を向けていたマヤは、微かな、しかし決定的な『異物感』を感知した。
これまで生け簀にしてきたような、怯えて弱り切った鬼の気配ではない。かといって、あの上弦の弐――氷の血鬼術を操ったあの腐りきった化け物ほどの圧倒的なプレッシャーでもない。
だが、その気配の芯にある「血の濃さ」は、そこらの有象無象の鬼とは一線を画していた。
(上弦の氷野郎よりは弱いが……決してただの雑魚じゃねえ。なんだ、この気配は)
マヤは目を細めた。
気配はまだ静かだ。無闇に暴れ回り、人を手当たり次第に喰らっているような動きは見られない。どこか遠方から、何らかの理由でこの周辺に移住してきたか、あるいは息を潜めて機を窺っているのか。
(……下弦、か。それに近い幹部クラスってとこだろうな)
マヤは風向きを確かめると、音もなく屋根を蹴り、蝶屋敷へと帰路についた。
***
「……上弦よりは弱いが、雑魚ではない鬼、ですか」
蝶屋敷の居間。
夜気を取り込むために開け放たれた縁側の向こうで、夏の虫たちが鳴いている。
マヤからの報告を受けた胡蝶カナエは、湯呑みを持つ手を止め、スッと表情を引き締めた。その瞳の奥には、鬼殺隊を支える最高位の剣士『柱』としての鋭い光が宿っている。
「ええ。十中八九、十二鬼月……下弦の鬼だと考えて間違いないでしょう」
隣に座るしのぶも、険しい顔つきで頷いた。
「今までこのあたりでそんな強力な鬼の気配はなかったはずです。どこからか移住してきたのか、それとも何か目的があって潜んでいるのか……」
「ま、今のところ派手に動いてる気配はねえ。ただ、放置しとくには少しばかり血が濃すぎる匂いがした」
マヤが胡座をかきながら、事も無げに言う。
カナエが静かに立ち上がった。
「マヤさん。情報の共有、ありがとうございます。……それが下弦の鬼であるならば、私が行きます。柱として、幹部級の鬼をこのまま野放しにするわけにはいきません」
日輪刀を手に取ろうとするカナエ。しかし、その細い手首を、マヤの大きな手がそっと、だが有無を言わさぬ力強さで掴んだ。
「……マヤさん?」
カナエが驚いて目を見開く。
「待て、カナエ。お前はここを守れ」
マヤの声は低く、そして絶対の安心感を伴って居間に響いた。
「俺が行ってくる。留守を頼むぜ」
「で、ですが……! もし本当に下弦だとしたら、いくらマヤさんでも万が一ということが……! 私も行きます、柱としての責任が……」
「だから、ここはお前の家だろうが」
マヤはカナエの目を真っ直ぐに見据えた。
「俺はここの『日常柱』だ。家の周りをうろつく厄介な野良犬を追い払うのは、門番の仕事だ。お前は柱である前に、この蝶屋敷の主だろ。しのぶやカナヲ、それに屋敷で療養してる隊士たちを守ってやってくれ。俺が後ろを任せられるのは、お前しかいねえんだよ」
その言葉に、カナエはハッと息を呑んだ。
自分の強さを誇示するわけでもなく、ただ「後ろを任せる」と告げた男の背中。柱としての重圧を背負い続けてきたカナエにとって、それほどまでに絶対的な信頼を寄せられ、同時に『守られる側(留守を預かる家族)』として扱われたのは、両親が生きていた頃以来のことだった。
カナエの胸の奥で、トクン、と。
今まで感じたことのない、甘く切ない動鐘が鳴った。
「……分かりました」
カナエは、掴まれた手首の熱に微かに頬を染めながら、ゆっくりと頷いた。
「どうか、ご無事で。必ず……帰ってきてくださいね」
「おう。まかせておけ」
しのぶもまた、マヤの言葉に医者としての冷静さを取り戻しつつあったが、同時にその頼もしすぎる背中に、名状しがたい焦燥感と安堵が入り交じった感情を抱いていた。
(この人は……本当に、どこまで私たちを……)
「じゃ、まずは浅草に寄ってから行くわ。珠世にも意見を聞いておきてえしな」
マヤは立ち上がると、夜の闇へと溶け込むように出立していった。
***
浅草の街は、夜になっても人々の熱気が渦巻いていた。
大正ロマンを象徴する煉瓦造りの建物がガス灯に照らされ、行き交う人々のざわめきが遠くから聞こえてくる。
珠世の隠れ家は、その喧騒から切り離されたように静まり返っていた。
応接間に通されたマヤは、冷たい麦茶を喉に流し込みながら、珠世と愈史郎に先程の推測を語って聞かせた。
「……なるほど。上弦ほどではないにせよ、特異な濃い気配を持つ鬼……下弦の鬼の可能性が高いですね」
珠世は真剣な面持ちで顎に手を当てた。
「ああ。まだ悪さしてる気配はねえが、どこかから移住してきたのかもしれねえ。で、俺がそいつをシメに行くついでに聞きたいんだが……」
マヤは身を乗り出し、珠世の目を見た。
「下弦みたいな、少し格上の血が手に入れば……お前としのぶの研究はどうなる? 人間に戻す薬の完成に近づくか?」
その問いに、珠世は目を見開いた。
「……それは、劇的な進歩をもたらすはずです」
珠世の声が、微かに上擦る。
「無惨の配下の中でも、彼に近しい者……血を多く分け与えられている十二鬼月の血には、無惨の細胞の極めて濃い情報が刻まれています。その血の構造を解析できれば、細胞の破壊と再生を逆転させる理論は、机上の空論から現実の薬へと一気に昇華されるでしょう」
「そうか」
マヤはニヤリと笑った。
「なら、俺が全力でその血をぶっこ抜いてきてやるよ」
「ま、マヤさん……! ですが、相手は下弦の鬼です! いくらあなたが強くとも、血を奪うためだけに彼らに接触するのは危険すぎます!」
珠世が身を乗り出して止める。愈史郎も「そうだ! 素人が無茶をするな!」と声を荒げた。
しかし、マヤは事も無げに手を振った。
「心配すんな。俺は逃げ足にも自信があるんだ。それに……今、目の前に希望があるんだからよ。俺は全力で頑張るぜ」
マヤはふっと表情を和らげ、珠世を真っ直ぐに見つめた。
「珠世。お前も、いつか人間に戻れよな」
その言葉が、静かな部屋に落ちた。
珠世の体が、びくりと震える。
人間に、戻る。
以前にもマヤから投げかけられたその言葉。だが、珠世の心の中には、何百年も消えることのない深い絶望と罪悪感がへばりついている。
「……マヤさん。私は……」
珠世は俯き、自分の膝の上で強く手を握りしめた。
「私には、そのような資格はありません。私は過去に……自らの飢えに抗えず、愛する夫と子供を、この手で喰い殺した罪深き鬼なのです。私が無惨を倒すための研究をしているのは、ただの贖罪……いえ、復讐です。私が人間に戻り、再び幸せを願うなど……決して、許されることではないのです」
初めて明かされた、珠世の凄惨な過去。
愈史郎が悲痛な顔で珠世を見つめる中、マヤは静かにその告白を受け止めていた。
軽蔑も、哀れみもない。ただ、彼女が背負ってきた何百年という途方もない苦しみの重さを、そのまま受け入れるような静かな瞳だった。
「……そうか。つらい過去があったんだな」
マヤはぽつりと呟き、ゆっくりと口を開いた。
「珠世。こんな言葉、知ってるか?」
「……?」
「『恨みでは、恨みは晴らせない』ってな」
珠世がハッとして顔を上げた。
マヤは腕を組み、窓の外の夜空を見上げながら続ける。
「お前が何百年も抱えてきた後悔や憎しみは、俺なんかが簡単に口出しできるもんじゃねえ。無惨を憎む気持ちも分かる。だがよ……復讐を果たして、その後に何が残る? ずっと過去に縛られたまま、自分を罰し続けて生きるのか?」
マヤの視線が、再び珠世の瞳を射抜く。
「なら……お前が幸せに、笑顔で生きるってのが、無惨への一番の仕返しになるんじゃないか?」
――幸せに、笑顔で生きる。
その言葉は、珠世の心の最も深い、凍りついていた場所に、真っ直ぐに突き刺さった。
無惨によって鬼にされ、家族を奪われ、絶望の中で彼を憎むことだけで生き延びてきた。自分の存在意義は、無惨を道連れに滅びることだと信じて疑わなかった。
だが、この男は言うのだ。
『お前が幸せになることが、あいつへの最大の仕返しだ』と。
珠世の心の中で、マヤの言葉が何度も、何度も反芻される。
(恨みでは、恨みは晴らせない……)
そうだ。無惨を憎むあまり、自分自身を不幸の底に縛り付けることこそ、無惨の呪いに囚われ続けている証ではないのか。
罪は消えない。死んでいった家族が戻るわけではない。
だが、もし。もし本当に人間に戻る薬が完成したのなら。その時は、自分のこの気持ちを大事にして、少しだけ、未来を夢見てもいいのだろうか。
「……っ」
珠世の大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「珠世、様……」
愈史郎が息を呑む。彼もまた、何百年も珠世の苦しみを見てきたからこそ、マヤの言葉が彼女の魂をどれほど深く救済したかを理解していた。
(この男は……本当に。珠世様がそれで喜ぶというのなら……俺は、こいつを少しだけ認めてやってもいい)
愈史郎は小さく舌打ちをしながらも、その目元を乱暴に拭った。
珠世は涙を流しながら、しかし、憑き物が落ちたような、ひどく晴れやかな微笑みを浮かべていた。
彼女はゆっくりと立ち上がると、マヤの座るソファーの前に進み出た。
そして。
珠世の白く細い両手が、マヤの分厚く大きな右手を、そっと、だが確かな力を込めて包み込んだ。
「……えっ?」
マヤが思わず素っ頓狂な声を上げる。
「ありがとうございます……マヤ。あなたの言葉に、私は……本当に、救われました」
珠世の手は、鬼特有の冷たさを持っていた。しかし、そこから伝わってくる感情は、火傷しそうなほどに熱く、真っ直ぐな感謝と敬意だった。
「お、おい、珠世……?」
マヤは完全に動揺していた。
普段、自分からしのぶの頭を撫でたり、空気を読まずに珠世の手を握ったりと、積極的で無自覚なスキンシップを繰り返しているマヤだが、いざ『一点の曇りもない純粋な好意』を正面から、しかも相手から向けられると、途端に耐性がなくなるのだ。
マヤの顔がみるみるうちに赤くなり、視線をどこへやっていいか分からずに泳ぎ始める。
「あー……いや、俺は別に、その、当たり前のことを言っただけで……」
しどろもどろになるマヤを見て、珠世は涙ぐんだまま、ふふっ、と小さく吹き出した。
「ふふふ……。マヤは、普段はあんなに積極的なのに……そういうことなんですね」
「な、何がだよ」
「真っ直ぐな気持ちを向けられることには、少し不慣れなのでしょう? 可愛らしいところがあるのですね」
「か、可愛らしいって言うな! 俺は門番だぞ!」
照れ隠しに声を荒げるマヤを見て、珠世はさらに深く、心からの笑顔を見せた。
その笑顔は、何百年という呪縛から解き放たれた、一人の美しい女性の本来の姿だった。
「いい笑顔してるぞ、珠世」
マヤも、照れくさそうに鼻の頭を掻きながら笑い返した。
「……マヤ。いつか、私の過去のすべてを……聞いてくれますか?」
珠世が、祈るように問う。
「ああ、もちろんだ。今回の仕事が片付いて、薬の目処が立ったらな。じっくり聞かせてくれ。色々語ろうぜ」
二人の間に、確かな絆が結ばれた瞬間だった。
マヤはそっと珠世から手を引き抜くと、立ち上がって陣羽織の襟を正した。
「よし。気合も入ったし、ちょっくら下弦の血をぶっこ抜いてくるわ」
「どうか、ご武運を。決して無理だけはなさらないでくださいね」
「おう。愈史郎、珠世を頼んだぞ」
「言われるまでもない! さっさと行ってこい!」
マヤは浅草の夜闇の中へ、再び足を踏み出した。
彼が向かう先には、十二鬼月という得体の知れない強敵が待ち構えている。
しかし、マヤの足取りに迷いはなかった。帰りを待つ蝶屋敷の家族たち、そして、今まさに未来への希望を取り戻した珠世のためにも。
彼は必ず、その血を奪って帰還しなければならない。
夏の夜風が、彼の背中を力強く押し出していた。