浅草の珠世の隠れ家を訪れた夜から数日後。
蒸し暑い夏の夜気の中、蝶屋敷の縁側で夜空を見上げていたマヤは、ふと立ち上がって陣羽織を羽織った。
「大体の場所が割れた。今日の夜、行ってくる」
その短くも確信に満ちた言葉に、居間で茶を飲んでいたカナエとしのぶの顔色が一変した。
先日マヤが感知した、上弦よりは劣るが明らかに強大な鬼の気配――下弦の鬼。それがついに動き出したのだ。
「お待ちください! やはり、私も行きます!」
カナエが弾かれたように立ち上がり、日輪刀の柄に手をかけた。
「相手は十二鬼月、下弦です! いくらマヤさんでも、単独で挑むのは危険すぎます。柱である私が同行しないわけには……!」
「私も行きます! 下弦に届くかわかりませんが、毒の調合は万全です。医療のサポートもできますから!」
しのぶも立ち上がり、必死の形相でマヤに詰め寄った。
しかし、マヤは二人の前に立ちはだかり、その大きな両手で二人の肩をポンと軽く叩いた。
「駄目だ。お前らはここを守れ」
「ですが……!」
「俺は『日常柱』だぜ? お前らの帰る場所と、この蝶屋敷の安全を確保するのが俺のやり方だ。それに……」
マヤはニッと、いつものように屈託なく笑った。
「もし俺が少しでも遅れたら、その時は鬼殺隊の『柱』として、お前らが俺を助けに来てくれ。頼めるか?」
その、あまりにも真っ直ぐで、自分たちを完全に信頼しきっている瞳。
カナエとしのぶは、それ以上言葉を続けることができなかった。ここで意固地になってついて行くことは、彼の覚悟と信頼を踏みにじることになると悟ったからだ。
「……っ。分かりました。ですが、約束してください」
カナエが、祈るように両手を胸の前で組む。
「どうか、ご無事で。必ず帰ってきてください」
「おう。行ってくる」
マヤは短く応えると、夜の森へと音もなく跳躍していった。
残されたカナエとしのぶ、そしてカナヲは、彼が消えた暗闇をいつまでも無言で見つめていた。
***
蝶屋敷から数山を越えた、鬱蒼とした深い森の中。
血の匂いが、夏のむせ返るような青葉の匂いに混じって漂っていた。
「アァァ……アァア……ッ!!」
人間の男の悲鳴と、肉が裂ける無惨な音が森に響く。
月明かりに照らされた獣道には、一人の村人が血溜まりの中に倒れ伏し、その上に覆い被さるようにして、異形の鬼が涎を垂らしていた。その眼球には、はっきりと『下弦』『陸』の文字が刻まれている。
「ククク……やはり人間の血肉は良い。これであの方からさらに血を……ン?」
鬼が貪ろうと大きく口を開けた、まさにその瞬間だった。
――ヒュンッ。
風の音すら置き去りにするような圧倒的な速度で、マヤが下弦の陸の背後に音もなく着地した。
鬼が背後の異常な気配に気づき、振り向こうとした刹那。
「わりぃな、お前には用はねえんだ」
ゴッ!!という鈍い音と共に、マヤの分厚い手刀が下弦の陸の延髄に正確無比に叩き込まれた。
頸を斬り落とすのではない。マヤの練り上げられた極大の『闘気』を物理的な打撃に乗せ、鬼の再生能力すら一時的にショートさせる一撃。
「ガ、ア……ッ!?」
下弦の陸は、己に何が起きたのかすら理解できないまま、白目を剥いて地面に崩れ落ちた。
「よし、一撃だ。さて、とっとと血を貰うぞ」
マヤはすぐさま懐からガラスの注射器を取り出すと、気絶している下弦の陸の首筋に太い針を突き立て、赤黒い血液を二本分、一気に吸い上げた。
注射器を厳重に革袋へしまい込んだマヤは、足元で血の海に沈んでいる人間の男を見下ろした。
腹部を大きく裂かれ、虫の息だ。放っておけば数分で命を落とすだろう。
(……ここで俺の力を全部流し込んで、傷を完全に治癒させることもできるが……)
マヤは小さく舌打ちをした。
(普通の人間からすれば、一瞬で致命傷が塞がるなんてバケモノの所業以外の何者でもねえ。余計な混乱を招いて、蝶屋敷に迷惑がかかるかもしれねえな)
マヤは男の胸ぐらを掴むと、自身の闘気を極めて精密にコントロールし、男の体内に流し込み始めた。
死にはしない。だが、全快にはしない。ギリギリの重傷状態を保つように、裂けた内臓と血管だけを繋ぎ止めるという、針の穴を通すような神業。
「くそっ……手加減する方がよっぽど疲れるぜ……!」
額に大粒の汗を浮かべながら、マヤは男の命を強引に繋ぎ止めた。
鬼殺隊の基本理念であれば、人間がどうなろうと、目の前で気絶している下弦の鬼の頸を落とす(あるいは朝日を待つ)のが絶対の正義である。
だが、マヤは気絶している下弦を一瞥すらしなかった。鬼の命などどうでもいい。今は一秒でも早く、この男をしのぶの医療設備へ運ぶことが最優先だ。
「死ぬなよ、おっさん」
マヤは血まみれの男を俵担ぎにすると、自身の陣羽織をべっとりと血で染めながら、蝶屋敷へ向けて弾丸のように森を駆け抜けた。
***
蝶屋敷の居間では、重苦しい沈黙が降りていた。
時刻はすでに丑三つ時を回っている。いつもならとうに帰ってきているはずの時間が過ぎるにつれ、カナエとしのぶの顔には明らかな焦燥が浮かんでいた。
ズダンッ!!!
突然、庭の木戸が乱暴に蹴り開けられ、重い足音が庭の砂利を踏みしめた。
「マヤさん……!?」
カナエとしのぶ、そして起きて待っていたカナヲが弾かれたように縁側へ飛び出す。
そこにいたのは、全身を赤黒い血で染め上げ、荒い息を吐きながら膝をつくマヤの姿だった。
「……わりぃ。ちょっと、疲れちまった……」
ドサリ、と。マヤがその場に座り込み、担いでいた人間をゆっくりと床板に下ろす。
暗がりの中、マヤの着物と陣羽織がべっとりと血に濡れているのを見た瞬間。
「……っ!!」
カナヲが誰よりも早く縁側を飛び降り、自発的にマヤの元へ駆け寄った。彼女は血まみれになったマヤの陣羽織の袖を小さな両手でぎゅっと掴み、ポロポロと大粒の涙を溢れさせた。声も出さず、ただただ「いなくならないで」と訴えるように。
「マヤ、さん……? 嘘、血が……こんなに……!」
カナエの視界がぐらりと揺れた。
足の力が抜け、その場にへたり込みそうになる。いつも軽口を叩き、絶対に自分たちを守ってくれると信じていた強大な男が、血に染まって座り込んでいる。
(嫌だ、死なないで、置いていかないで……!)
マヤを失うかもしれないという強烈な恐怖が心臓を鷲掴みにした瞬間、カナエの胸の奥で、今まで抑え込んでいた感情が完全に決壊した。
自分は、この人が好きなのだ。家族としてではなく、一人の女性として、この男を深く愛してしまっているのだと、18歳の彼女ははっきりと『恋』を自覚した。
「ど、どいてください! 私が診ます!! 私は医者です、しっかりしなさい胡蝶しのぶ……っ!」
しのぶが半狂乱になりながら医療カバンを掴み、縁側を飛び降りた。
医者として冷静に対処しなければならない。そう頭では分かっているのに、手がガタガタと震えて止まらない。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、視界にモヤがかかったように息ができない。
(嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ……っ! マヤさんが死ぬなんて、絶対に嫌……!)
まだ恋という言葉すら知らない15歳の少女の胸を、名状しがたい焦燥感と熱情が激しく掻き乱していた。
泣きじゃくるカナヲ、顔面蒼白で震えるカナエ、そして涙目で包帯を握りしめているしのぶ。
三人の悲痛な様子を見て、息を整えたマヤは不思議そうに目をパチクリと瞬かせた。
「お、おい、どうしたお前ら。……とりあえず、なんとかこれ(下弦の血)は二本採れたぞ」
マヤは懐から無傷の注射器を取り出し、縁側に置いた。
「……それより、こいつの治療を頼む。死にかけてる」
「何を言ってるんですか!! あなた自身の傷が先です!! これだけの血を流して……っ」
しのぶが悲鳴のように叫ぶ。
「ん? 俺の傷?」
マヤは自分の血まみれの服を見下ろし、ああと納得したように笑った。
「違う違う。これ全部、こいつの返り血だ。俺は無傷だぞ? 手加減して治癒の力を流し込むのに神経使って、ドッと疲れただけだ」
ピタリと。
庭の空気が、時が止まったように静まり返った。
「「「…………え?」」」
三人の声が見事にハモる。
「だから、俺はどこも怪我してねえよ。ほら」
マヤが立ち上がり、ピンピンしている腕を回して見せる。
「……じゃあ、その血は……」
カナエがへたり込んだまま、呆然と問う。
「おう。こいつが喰われかけてたから、まずは人命救助を優先した。鬼にトドメを刺すのは後回しにして逃がしちまったが、位置は把握してるし、血だけはしっかり奪ってきたぜ」
その言葉を聞いた瞬間、しのぶの目からボロボロと安堵の涙が溢れ出した。
「あなたって、人は……! どれほど、どれほど心配したと思ってるんですか……バカァッ!」
「本当によかった……っ。無事で、本当によかったです……っ」
カナエが立ち上がり、血の汚れなど気にも留めずにマヤの胸に飛び込んで、力強く抱きついた。カナヲもマヤの腰にしがみついて離れない。
「お、おいおい、お前ら服が汚れちまうぞ……?」
マヤが困惑しながら二人の頭を撫でる。
しのぶは、泣きながら倒れている人間の男の止血処置を始めていた。
鬼殺隊の剣士であれば、人間を見捨ててでも、目の前にいる十二鬼月を斬るのが絶対の掟である。それが、結果としてより多くの命を救うことに繋がるからだ。
だが、この男は違った。目の前の、今消えかかっているたった一つの命を繋ぐために、迷うことなく下弦の鬼を放置して帰ってきたのだ。
(ああ……この人は、どこまでも優しい……)
医者として、生命を何よりも重んじるしのぶにとって、マヤのその決断は、どれほど立派な剣士の偉業よりも尊く、深く心を打つものだった。しのぶの心の中で、マヤへのモヤモヤとした感情が、確固たる『特別なもの』へと変わっていくのを、彼女自身も止められなかった。
***
人間の男の処置が終わり、命の危機を脱したのを確認した後のこと。
血を洗い流し、着替えてさっぱりとしたマヤは、机の上に置かれた赤黒い下弦の血を見下ろした。
「で、これが下弦の血なわけだが。……よし。今すぐ珠世をここに呼ぼう」
真顔で放たれたマヤの提案に、しのぶは目を剥いた。
「はい!? 何を言ってるんですか! 鬼をこの蝶屋敷に招き入れるなんて、いくらなんでもお館様が……」
「俺は『日常柱』だぜ? ここの安全と、極秘任務の権限は俺にある」
マヤは親指で自分を指差し、自信満々に笑う。
「それに、せっかくの新鮮な下弦の血だ。一秒でも早く珠世に見せて、お前と一緒に研究させた方が効率がいいだろ? 夜の間に俺がササッと連れてくれば問題ねえ。地下の実験室には俺たちしか入れないようにするしな」
「それとこれとは話が違います! そもそも、珠世さんがこんな深夜の急なお誘いに乗るはずが……」
「まかせておけ! ちょっくら行ってくるわ!!」
しのぶの制止も聞かず、マヤは夜の闇へと飛び出していった。
***
【浅草・珠世の隠れ家】
「え? 蝶屋敷に? い、いくらなんでも今からは……きゃあっ!?」
状況を説明するや否や、マヤは珠世の細い体をひょいと横抱きに――いわゆるお姫様抱っこで抱え上げた。
「悪いな珠世! 急ぎでよ、下弦の血は新鮮なほうがいいだろ!?」
「マヤさん!? あの、せめて心の準備が……!」
「貴様ァァァ!! 珠世様に何をする気だァァ!! 離せェェこの野蛮人!!」
異変に気づいた愈史郎が、奥の部屋から鬼の形相で飛び出してきた。
「お前もついてくるか愈史郎! 振り落とされるなよ!」
「誰が乗るかァァ!! 珠世様を返せェェ!!」
愈史郎の絶叫を背に受けながら、マヤは「しっかりつかまってろよ!」と笑い、浅草の夜景を眼下に凄まじい速度で跳躍した。
「ひっ……!」
あまりの速度と高さに、珠世は思わずマヤの胸倉をぎゅっと強く掴み、その広い胸に顔を埋めた。
鬼となって数百年。誰かに抱き抱えられることなどなかった珠世だが、マヤの力強い腕の中は不思議なほど揺れず、心地よい温もりと絶対的な安心感に包まれていた。
(この人は……本当に、どこまでも型破りな方……)
珠世は恥ずかしさに顔を赤くしながらも、マヤの体温に身を委ねていた。
***
ズタンッ!!
再び、蝶屋敷の庭に重い着地音が響いた。
急いで縁側に出たカナエ、しのぶ、カナヲの三人は、その光景を見て完全に言葉を失い、ポカンと口を開けた。
「よっ! 珠世を連れてきたぜ!」
満面の笑みで立つマヤの腕の中には、顔を真っ赤にして縮こまっている美しい女の鬼、珠世がすっぽりと収まっている。
「……ほ、本当にお持ち帰りしてきちゃった……」
しのぶが、頭を抱えてその場にへたり込む。
「マヤさん……あなたという人は……」
カナエも乾いた笑いを漏らすしかなかった。
かくして、強引すぎる夜の訪問者と共に。
鬼と人間による、下弦の血を用いた前代未聞の共同研究の夜が、静かに、そしてドタバタと幕を開けたのである。