蝶屋敷の離れに密かに作られた地下空間は、地上に降り注ぐ真夏の暴力的な日差しから完全に切り離され、ひんやりとした静謐な空気に包まれていた。
最新鋭の換気設備が微かな駆動音を立てる中、整然と並べられた大正の最新医療機材がランプの光を反射して鈍く光っている。海外から取り寄せられた大型の遠心分離機、無菌状態を保つための硝子箱。そして、部屋の中央に置かれた巨大で精密な顕微鏡。
そのレンズを覗き込んでいた胡蝶しのぶは、白衣の袖をギュッと握りしめ、ふぅっと熱い感嘆の吐息を漏らした。
「……すごい。今まで採取してきたどの鬼の血とも、細胞の密度も再生速度も桁違いです」
「ええ。これほど濃い無惨の細胞情報が手に入るなど……奇跡としか言いようがありません」
しのぶの隣に立ち、同じく白衣を纏ってデータを見つめている珠世の瞳にも、静かな興奮の炎が揺らめいていた。
先日、マヤが命懸けで持ち帰った『下弦の陸』の血液。それは、二人の天才的な頭脳を持つ医者にとって、途方もない価値を持つものだった。
数百年にわたり珠世が蓄積してきた膨大な鬼の基礎データと、しのぶが研鑽を積んできた高度な薬学理論。無惨の血が濃く刻まれたこの検体を前にして、二人の知恵は瞬く間に交差し、融合していく。
「珠世さん、ここを見てください。鬼の細胞が破壊された直後、修復に向かう際のエネルギーのベクトルです。この偏りを特殊な藤の毒で阻害できれば……」
「なるほど……破壊成分の逆転ですね。ただ壊すのではなく、人間の細胞へと修復を促す薬理作用の要。しのぶさん、あなたのその着眼点は見事です」
二人の間で交わされる高度な専門用語の応酬は、夜を徹しても終わる気配がない。
鬼と人間。本来ならば互いに殺し合う宿命にあるはずの二人が、肩を並べて同じ顕微鏡を覗き込み、一つの悲願に向けて知恵を絞っている。そのあり得ないはずの光景は、マヤという規格外の男が強引に繋ぎ合わせたからこそ生まれた、奇跡の産物だった。
「あの人は……本当に無茶苦茶な人です」
ふと、しのぶが顕微鏡から顔を上げ、苦笑交じりに呟いた。
「自分の身を危険に晒してまで人間の命を優先し、下弦の血を奪い……その足で浅草から珠世さんを攫ってくるなんて」
「ふふふ。ええ、本当に。まるで嵐のような方ですね」
珠世もまた、困ったように、しかし心底愛おしそうに微笑んだ。
二人の天才は、自分たちをここに繋ぎ止めた『日常柱』の広い背中を思い浮かべながら、再び無惨を滅ぼすための研究へと没頭していった。
***
季節外れの藤の花が狂い咲き、神聖な香りに包まれた産屋敷邸の庭。
ギラギラと照りつける夏の太陽の下、玉砂利の上に片膝をつき、深く頭を垂れる八人の剣士たちの姿があった。
彼らこそが、鬼殺隊の最高位たる『柱』。
上座の縁側には、当主である産屋敷耀哉が穏やかな笑みを浮かべて座っている。
「皆、今日は集まってくれてありがとう。空も青く、皆が健やかにこの日を迎えられたことを嬉しく思うよ」
耀哉の『1/fのゆらぎ』を持つ心地よい声が庭に響き渡る。
「お館様におかれましても御健勝で何よりです! 本日の柱合会議、益々のご多幸をお祈り申し上げます!」
炎柱・煉獄杏寿郎が、ハキハキとした快活な声で挨拶を返した。
「ありがとう、杏寿郎。さて、本日の議題だが……すでに手紙で伝えている通り、胡蝶カナエの妹である胡蝶しのぶを、新たに『蟲柱』として推挙したいと思う」
耀哉の言葉に、柱たちの視線が集まる。
「異議なし! 彼女が独自に開発した『鬼を殺す毒』、そして卓越した医療技術は、我ら鬼殺隊にとって必要不可欠なものだ! 派手に歓迎するぜ!」
音柱・宇髄天元が、宝石のついた額当てを鳴らして笑う。
「俺も賛成だァ。上弦の弐から生還したカナエの妹ってだけあって、根性も頭脳も申し分ねェ」
風柱・不死川実弥が、傷だらけの顔を歪めて同意を示した。
「南無阿弥陀仏……小さく弱い体で、毒という業を背負い柱まで上り詰めた……可哀想に、立派なことだ……」
岩柱・悲鳴嶼行冥が大粒の涙を流して合掌する。
水柱の冨岡義勇は無言のまま僅かに頷き、他の柱たちも次々に賛同の意を示した。
妹の努力が正式に認められたことに、花柱であるカナエは誇らしげに胸を撫で下ろした。その時だった。
「はいっ! はいはいっ!」
列の端で、桜餅色の髪を三つ編みにした少女が、ピシッと元気よく手を挙げた。恋柱・甘露寺蜜璃である。
「蜜璃、何か意見があるのかな?」
耀哉が優しく問いかける。
「はいっ! しのぶちゃんが柱になるのは私も大賛成です! ずっと応援してましたから!」
甘露寺は両頬を桃色に染め、目をキラキラと輝かせながら、とんでもない言葉を続けた。
「……あっ、それよりカナエちゃん! 蝶屋敷に、すっごく素敵で強い殿方が出入りしてるって本当ですかぁ!?」
ピタリと。
厳粛だった柱合会議の空気が、一瞬にして「女子校の休み時間」のように変わった。
「えっ……!?」
カナエが素っ頓狂な声を上げ、顔を一気に真っ赤にして動揺する。
「だってぇ、事後処理部隊の隠の人たちが『最近、蝶屋敷にデカくてめちゃくちゃ強い男の人がいる』って噂してて! どんな殿方なのか、私すっごく気になっちゃって! あわよくば……なんて、キャッ!」
甘露寺は両手で顔を覆いながら身悶えした。恋多き乙女である彼女にとって、「未知の強い殿方」という存在は好奇心とときめきの対象以外の何者でもない。
しかし、その無邪気な爆弾発言に対し、柱たちはそれぞれの思惑で強烈な反応を示した。
「……おい」
最も素早く、そして最も恐ろしい殺気を放ったのは蛇柱・伊黒小芭内だった。
首に巻きついた白蛇の鏑丸がシャーッと威嚇の声を上げ、伊黒のオッドアイが、どす黒い憎悪の炎を燃やしてカナエを睨みつける。
「甘露寺が……男の話を……だと……? 蝶屋敷の男……? 許さん。どこの馬の骨か知らないが、甘露寺の純真な心を乱すなら、俺がそいつを八つ裂きにしてやる……ッ!」
「うむ! それは興味深い!」
伊黒の殺気などどこ吹く風で、煉獄杏寿郎が大声を上げた。
「蝶屋敷の乙女たちを守護する未知の強者! 俺は大いに興味があるぞ! 是非一度言葉を交わしてみたいものだ!」
「へェ……」
不死川実弥が、獰猛な笑みを浮かべて首を鳴らした。
「隠の間で噂になるぐれェには強ェってことか。なら一度、俺が直接ぶちのめして、その実力が本物かどうか測ってやらァ!」
「強い男ねェ。ま、少し興味はあるが、むさ苦しい男の話じゃあ派手さに欠けるな」
宇髄天元は少し肩透かしを食らったようにつぶやき、水柱の冨岡義勇に至っては「……俺には関係ない」と完全に興味を失って視線を逸らしていた。
「南無阿弥陀仏……うら若き乙女たちを守る謎の男……その魂の形、私もひどく興味を惹かれる……」
悲鳴嶼行冥が涙を流しながら数珠を擦り合わせる。
柱合会議の議題が、完全に『蝶屋敷の謎の男(マヤ)』へとすり替わり、凄まじい熱量と殺気が飛び交い始めていた。
(ま、まずい、このままではマヤさんに柱の皆さんが押し寄せてしまう……!)
カナエは強引に話題を逸らすべく、声を張り上げた。
「あ、あれは、その……うちの、門番です! ただの居候と言いますか! そ、それよりお館様! 実は、蝶屋敷の近辺の森で、下弦らしき鬼の気配がありました!」
その報告に、柱たちの空気が一変し、剣士としての鋭い緊張感が走る。
「下弦だと? ならばすぐに討伐に向かおう」
冨岡義勇が再び口を開いた。
「いえ、当方で対処可能です!」
カナエが即座に遮った。すでにマヤが下弦の陸の血を奪い、生け簀として放置しているのだ。他の柱が手を出せば、珠世との共同研究のための貴重な検体が失われてしまう。
「現在、こちらで事態は掌握しております。他の柱の方々にご足労いただくには及びません!」
その毅然としたカナエの態度に、柱たちが押し黙る中。
「下弦!? それなら私も応援に行くわ!」
甘露寺が再び元気よく手を挙げた。
「女の子だけじゃ危ないし、万が一のことがあったら大変だもの! それに、その門番さんにもご挨拶したいし!」
「……甘露寺が行くなら、俺も行こう。その下弦とやらもろとも、蝶屋敷の男を確実に排除する」
伊黒がギラギラと目を光らせて立ち上がろうとする。
「待ちなさい、小芭内」
耀哉の静かな、しかし絶対の威厳を持つ声が、伊黒の動きをピタリと止めた。
「君には別の任務がある。それに、下弦とはいえすでにカナエたちが掌握しているのなら、柱を何人も向かわせる必要はない。……蜜璃だけ、カナエたちの同行をしておくれ。他の皆は、それぞれの任務へ戻るように」
「御意……!」
伊黒はギリギリと歯を食いしばりながら、深々と頭を下げた。
(蝶屋敷の男……俺の甘露寺に近づいたら、絶対に殺す……ッ!)
(ふふ……マヤの採血が順調に進み、研究が軌道に乗っているのだね。頼もしい限りだよ)
耀哉は内心で安堵の微笑みを浮かべながら、柱たちを見渡した。
彼という規格外の駒は、鬼殺隊の凝り固まった常識を次々と破壊していく。その変化が、やがて来る無惨との決戦に必ず活きると、耀哉は確信していた。
「彼には……その門番の男には色々と力になってもらっている」
耀哉が、ふと思いついたように言葉を紡ぐ。
「本当に、得難い人物だよ。……そのうち、また彼をここに呼んで、皆にも正式に紹介しよう」
「お館様が、そこまで評価する男だと……!?」
不死川が驚愕に目を見張る。他の柱たちも、お館様からの桁違いの評価にどよめいた。
その言葉を聞いたカナエの背筋に、冷たい汗が流れた。
(お、お館様の前に、またお呼びする予定ができてしまった……! あの人、この間下弦の血を浴びて、陣羽織が血塗れになったままだわ。柱合会議が終わったら、大急ぎで仕立て直さないと……!)
***
一方、その頃の蝶屋敷。
「しかし、これ……洗って落ちるか?」
マヤは井戸端にしゃがみ込み、たらいの中で血塗れになったお気に入りの陣羽織をゴシゴシと力任せに擦っていた。
「せっかくカナエが見立ててくれたアゲハの模様が台無しだ。後でカナエが帰ってきたら、どうやって染みを抜くか相談してみるか……ん?」
不意に、マヤは手を止め、立ち上がって南の空を睨みつけた。
彼の研ぎ澄まされた闘気が、遠くからこちらへ向かって一直線に近づいてくる、二つの気配を捉えたのだ。
(誰か来る。一つはカナエだ。だが……もう一人はなんだ?)
マヤは眉をひそめた。
気配の大きさが、そこらの一般隊士とはまるで違う。途方もなく練り上げられた、極めて密度の高い身体能力と剣気。カナエと同等か、それ以上の強者の気配。
柱クラスのバケモノだ。
(なんで柱が一緒に来るんだ? 会議が終わったから遊びに来たのか? いや……)
マヤの脳内に、最悪のシナリオがよぎる。
今、蝶屋敷の地下施設には、珠世と愈史郎がいるのだ。
柱のような鼻の利くバケモノが屋敷に上がれば、どれだけ気配を殺しても、鬼特有の匂いや血の匂いを嗅ぎつけられる危険性が極めて高い。お館様との極秘事項とはいえ、他の柱に鬼の存在がバレれば、問答無用で斬り合いに発展する。
「やばい、珠世がバレる!!」
マヤは血塗れの陣羽織を放り捨て、弾丸のような速度で離れの納屋へと疾走した。
隠し扉を開け、地下の階段を駆け下りる。実験室では、しのぶと珠世が並んで顕微鏡を覗き込んでいた。
「おい! お前ら、客だ!!」
マヤのただならぬ怒声に、二人がビクッと肩を揺らす。
「客って……マヤさん、急に大声を出さないでください! 今、大事なデータが……」
「カナエが、誰か柱クラスの強え奴を連れて戻ってくる! おそらくあと一分で着くぞ!」
「ええっ!?」
しのぶの顔から血の気が引いた。
「珠世! 愈史郎! お前らは絶対になんの物音も立てるな! 奥の暗室に入って鍵をかけろ、息もするなよ!」
「わ、分かりました……!」
珠世が慌てて暗室へと駆け込み、愈史郎がしっかりと内側から鍵をかける。
「し、私はどうすれば……」
「お前は上で平然としてろ! 不自然に地下に引きこもってたら逆に怪しまれる!」
マヤはパニックになりかけているしのぶの細い腕を乱暴に掴むと、彼女の言葉を待たずに強引に階段を駆け上がり、地上へと引っ張り上げた。
「ちょっ、痛いですマヤ! 私は白衣のままで……!」
「細かいことは気にするな! ほら、庭の草でもむしってろ!」
マヤが納屋の隠し扉を閉め、完全に偽装を終えた、まさにその瞬間だった。
蝶屋敷の重厚な正門の向こうから、鈴を転がすような明るく可愛らしい少女の声が響き渡った。
「こんにちはーっ! カナエちゃーん、着いたわよー! 開けて開けてー!」
マヤはゆっくりと正門の方へ向き直る。
そこには、桜餅色の髪を揺らし、胸元が大きく開いた隊服を着た恋柱・甘露寺蜜璃が、キラキラとした好奇心の目を輝かせて立っていた。
嵐を呼ぶ恋柱の来訪に、マヤとしのぶは顔を見合わせ、引きつった笑いを浮かべるしかなかった。