真夏の太陽が、容赦なく蝶屋敷の庭を照りつけている。
けたたましい蝉時雨が降り注ぐ中、裏庭の井戸端では、ジャバジャバと勢いよく水を被る音が響いていた。
「しかし、これ……洗って落ちるか?」
たらいの前にしゃがみ込んでいたマヤは、水に浸された血塗れの陣羽織をゴシゴシと擦りながら、小さく息を吐いた。
うだるような暑さと、力を込めた水仕事。たまらず上衣を脱ぎ捨てていたマヤの上半身は、太陽の光を弾いてギラギラと汗に濡れている。
分厚い胸板、丸太のように太い腕、そして鋼のように引き締まった腹筋。その屈強な肉体には、過去の激戦を物語る無数の傷跡が刻み込まれており、彼がただの門番などではない、底知れない死線を潜り抜けてきた男であることを無言で証明していた。
そこへ、産屋敷邸での柱合会議を終えたカナエが、一人の少女を伴って正門をくぐってきた。
桜餅のような淡い桃色と緑色の髪を揺らし、胸元が大きく開いた隊服を身に纏う恋柱・甘露寺蜜璃である。
「マヤさん、ただいま戻りまし……あっ」
裏庭へ案内しようとしたカナエが、足を止める。
その視線の先で、甘露寺の大きな薄緑色の瞳が、水も滴る半裸の巨漢――マヤの姿を捉え、見開かれていた。
(き、きゃあああっ……!?)
甘露寺は両手で顔を覆いながらも、指の隙間からその姿をガン見していた。
変な男だとは微塵も思わなかった。むしろ逆だ。
(な、なんて立派な体格なの……! 傷だらけで、絶対に自分より強いって分かるくらい凄い筋肉……! なのに、お家で一生懸命お洗濯してるなんて、家庭的でとっても素敵な殿方じゃないのーっ!!)
理想を絵に描いたような殿方の不意打ちに、甘露寺の心臓が早鐘のように鳴り始める。
実のところ、同行していたカナエや、音を聞きつけて縁側に出てきたしのぶも、顔を真っ赤にして固まっていた。普段、夜の出撃や着流し姿しか見ていなかったため、真夏の太陽の下で見るマヤの凄まじい肉体美に、改めて度肝を抜かれていたのだ。
「ん? おっ、おかえりカナエ」
視線に気づいたマヤが、悪びれる様子もなく振り返る。
「おっと、わりぃ。暑くてな」
マヤは手ぬぐいでガシガシと頭と首の汗を拭うと、ニッと人懐っこい笑みを浮かべた。
「あんたがカナエの言ってた柱か? 俺は門番のマヤだ。よろしくな」
「こ、恋柱の甘露寺蜜璃ですぅ……っ! よ、よろしくお願いしますっ!」
甘露寺は顔を真っ赤にしながら、ペコリと深く頭を下げた。
「恋柱? ははっ、面白い名前だな。……みつりちゃんは、タイプとかあるの? 俺みたいなの、どう?」
マヤが冗談めかして、からかうように笑う。
それはマヤ特有の、全く悪気のない無自覚な距離の詰め方だったが、恋多き乙女である甘露寺には劇薬すぎた。
「ほええっ!? わ、私なんて、その、筋肉の密度がおかしくて、普通の女の子らしくないっていうか……力が強すぎて、お見合いでも……」
不意に過去のトラウマが蘇り、甘露寺はモジモジと指を絡ませながら視線を落とした。自分のこの特異体質を知れば、きっとこの素敵な殿方も引いてしまうのではないか。
しかし、マヤは目を丸くして、心底感心したように頷いた。
「なんだそりゃ。すげえ才能じゃねえか」
「え……?」
「筋肉の密度が常人より高いんだろ? だからあんたは柱になれるほど強くて、たくさんの人を助けられてる。それに……」
マヤは甘露寺の目を真っ直ぐに見つめ、優しく微笑んだ。
「その体質があったから、みつりちゃんは今ここで、俺と出会えたんだろ? 俺はすげえ嬉しいぜ」
――ドッキュン!!
甘露寺の胸の奥で、決定的な音が鳴った。
自分の抱えてきたコンプレックスを、こんなにもあっさりと、太陽のような笑顔で全肯定してくれた。顔から火が出るほど赤面し、甘露寺の頭からプシューッと湯気が上がる。
「筋肉の密度か……。実は、俺も結構すげえぞ? 触ってみるか? みつりちゃん」
「えっ!? い、いいんですかぁ……!?」
甘露寺がおそるおそる手を伸ばし、マヤの分厚い胸板と腹筋にそっと触れる。
「わあっ……! すっごく硬いのに、弾力がある……! こんな筋肉、見たことないわ……!」
目をキラキラさせて感触を確かめる甘露寺。
すると、マヤの後ろから、カナエとしのぶ、そしていつの間にかやって来たカナヲの三人が、無言でスッと手を伸ばし、マヤの背中や腕の筋肉をペタペタと触り始めた。
「……ん? なんでカナエたちまでどうした?」
「門番の体調管理も、屋敷の主の務めですから……(真顔)」
「マヤさんはすぐ無茶をしますから、筋肉に異常がないか医者として診ているだけです……(真顔)」
「……マヤ、かたい(真顔)」
(へー、心配してくれてるんだな。……)とマヤはされるがままになっていた。
***
その後。応接間に案内された甘露寺は、出された冷たい麦茶を飲みながら、ふと真剣な顔つきになった。
「ねえ、カナエちゃん、しのぶちゃん……。さっきマヤさんが洗ってた陣羽織の血……あれ、人間のものよね? まさか……」
柱としての鋭い嗅覚が、あの血の異常性を嗅ぎ取っていた。
しのぶは静かに首を振り、口を開いた。
「あれは、マヤさんが救助した方の返り血です。昨日、下弦の鬼が人を喰おうとしていたところに割り込み、鬼を放置してでも人命を優先して……その方を抱えて逃げてきたんです」
「ええっ!?」
甘露寺が驚愕に目を見張る。
「下弦相手に、救助を優先して逃げてきたってことですか!?」
「はい。助けるだけで精一杯だったと……」
カナエが静かに相槌を打つ。本当はマヤが下弦を赤子の手をひねるように一撃で気絶させ、治療の手加減で疲れただけなのだが、それは胸の内にしまっておいた。
「それは……凄いです! あの人……少し、その、あの……あはははっ」
甘露寺は両頬を手で包み込み、身悶えするように体をよじらせた。
ただ強いだけじゃない。優しくて、何よりも命を大事にする人。甘露寺の心の中で、マヤへの評価が天井を突き破って急上昇していく。
(……やばい!!)
その様子を見ていたカナエ、しのぶ、カナヲの三人の背筋に、冷たい汗が流れた。
甘露寺が鬼殺隊に入った理由。それは『自分よりも強い殿方を見つけ、添い遂げるため』である。
(このままだと、マヤさんが蜜璃ちゃんに持っていかれる……!)
三姉妹はかつてないほどの危機感を共有し、無言のまま視線を交わした。
そこへ、廊下から足音が近づいてきた。
「よし、待たせたな。みんな、飯ができたぞ」
マヤが、大きなお盆に山盛りの食事を乗せて運んできた。
お櫃には山のような白米、大皿には脂の乗った焼き魚が何尾も並び、具沢山の味噌汁から湯気が立ち上っている。カナヲも隣で配膳を手伝っていた。
「みつりちゃん、急いで走ってきたんだろ? たくさん食べるってカナエから聞いてたから、ガンガン食えよ。足りなきゃ肉でもなんでも焼いてやるから、食いたいもんがあったら言えよ? 走った後だから、まずは魚と味噌汁で胃を整えた方がいいと思ってな」
マヤの屈託のない笑顔と、その圧倒的な食事の量に、甘露寺の動きがピタリと止まった。
「……いいんですか? 私がこんなに食べても……気持ち悪くないんですか……?」
過去のお見合いで、その大食いを気味悪がられ、激しく拒絶されたトラウマ。どれだけ明るく振る舞っていても、心の奥底には「本当の自分を見せれば嫌われる」という恐怖がこびりついていた。
「??? えーと……俺の飯食って気持ち悪くなる(お腹を壊す)ってことか? 口に合わなかったらごめんな」
きょとんとするマヤ。
「あのー、そういう意味の気持ち悪いじゃないと思いますけど?」
しのぶが呆れたようにツッコミを入れる。
「ふふっ。マヤさんの料理は本当に美味しいから大丈夫よ、蜜璃ちゃん」
カナエが優しくフォローを入れる。
「あ、えと、なんか、すいません……勘違いさせたみたいで……」
甘露寺が慌てて手を振る中。
「……いただきます」
カナヲが、小さな両手を合わせてポツリと言った。
「おっ、偉いぞカナヲ!」
マヤが嬉しそうにカナヲの頭を撫でる。
「食べる前の、神様への感謝の言葉だからな。腹一杯食えるってのは、本当に嬉しいことだ。自然と笑顔も出るしな。……だからみつりちゃんも、何も気にせずガンガン食えよ!」
その底抜けの大らかさと、存在のすべてを包み込むような全肯定に、甘露寺の大きな瞳にブワッと涙が浮かんだ。
(この人は……私の全部を、当たり前みたいに受け入れてくれる……!)
「んんっ、今日もとっても美味しいご飯ですね!」
しのぶが、甘露寺の視線を逸らすようにわざとらしく明るい声を上げた。
「本当においしいね。さあ、蜜璃ちゃんも冷めないうちに」
「はいっ、はいっ、美味しいです……! こんな山盛りによそってもらっても、すぐ食べちゃいますぅ!」
涙を拭い、満面の笑みで白米をかき込む甘露寺。
それからわずか数十分後、特大のお櫃はすっかり空になり、甘露寺は見事にすべてを平らげていた。
「ぷはーっ! いい食べっぷりだな〜!」
マヤが満足げにお茶をすする。
「デザートとかも用意できたらよかったんだがよ、時間がなくてな。今度、腹一杯甘いもん用意しておくからよ」
――ドッキィィィン!!!
甘露寺が顔を真っ赤にして、胸の奥を強く押さえる。
(……ああもう、この無自覚タラシは……ッ!!)
しのぶとカナエは、揃って天を仰いだ。これ以上マヤに口を開かせると、本気で恋柱の心を完全に奪われてしまう。
(……デザート、楽しみ)
カナヲだけは、幸せそうにほうじ茶を飲んでいた。
***
食後。話題は、下弦の鬼の討伐へと移った。
「下弦は、ここから少し遠くの森にいる。まだ人間を襲うためにウロウロしてるはずだ」
マヤが茶飲み茶碗を置きながら言う。
「そうですか。では……今日のお昼頃にでも、ここを出発しましょうか?」
カナエが常識的な移動時間を計算して提案した。
「あ……ああ、そうだね、それくらいがいいかもな!?」
マヤは内心で少し焦った。普段、自分一人なら一瞬で往復している距離だが、柱であるカナエたちと歩調を合わせるなら、それくらいかかるのが普通なのだ。危うくボロが出るところだった。
「私もお手伝いします! なんせ下弦ですからね、絶対に許せません! 一緒に頑張りましょう!」
甘露寺が意気込んで両手を握りしめる。
「頼もしいわ、蜜璃ちゃん。……留守番は頼みましたよ? しのぶ、カナヲ」
「「はい」」
しのぶとカナヲが頷く。ただ留守を預かるだけではない。地下施設にいる珠世たちの護衛と隠蔽という、極秘の重大任務が含まれていた。
「みつりちゃん、手伝いに来てくれてありがとうな」
マヤは立ち上がると、無意識のうちに、大きな手で甘露寺の桜色の頭をポンポンと優しく撫でた。
「ほええっ!?」
甘露寺の顔から、再びボフッと湯気が噴き出す。
(!!!!! またやってる! なんなのその癖!?)
しのぶとカナエが、般若のような形相でマヤを睨みつける。
すると、カナヲが無言でトコトコと歩み寄り、自分の頭をマヤの前にスッと差し出した。
「おっ、カナヲも留守番頑張るんだぞ。ありがとうな」
マヤがカナヲの頭も撫でてやる。
しのぶとカナエは、もはや言葉を発することなく、凄まじい目力と無言の圧力でマヤをジッと見つめ続けた。
「…………あ、おう。カナエもしのぶも、いつもありがとな」
その異様な気迫に圧され、マヤは恐る恐る二人の頭も撫でた。
二人の顔がみるみるうちに赤く染まり、医務室の空気がなんとも言えない甘くも殺伐としたものへと変わる。
顔を真っ赤にして放心する甘露寺と、どこか満足げでありながらも油断なく恋敵を牽制する三姉妹。
下弦討伐という死地へ向かうはずの蝶屋敷は、嵐を呼ぶ恋柱の来訪によって、かつてないほど騒がしくも温かい空気に包まれていた。