真夏の太陽が、空の天頂から容赦のない白光を突き刺す昼下がり。
むせ返るような青葉の匂いと、耳鳴りがするほどの蝉時雨に包まれた蝶屋敷の正門前で、出撃の準備を整えた三人の姿があった。
「それじゃ、留守は頼んだぞ、しのぶ、カナヲ」
陣羽織を羽織り、腰になぜか『木刀』を一本だけ差したマヤが、見送りに来た二人に軽く手を上げる。
「はい。どうかお気をつけて」
「……いってらっしゃい、マヤ」
しのぶとカナヲが、短い言葉と共に深く頷く。その眼差しの奥には、ただ帰りを待つだけではない、重大な極秘任務――地下施設にいる珠世の隠蔽と防衛――を全うするという、静かなる決意が宿っていた。
それを見たカナエも、安心したように微笑みを向ける。
「さて、蜜璃ちゃん。下弦の鬼が潜む森までは少し距離がありますが、急ぎましょう」
「はいっ、カナエちゃん! ……あの、マヤさんは大丈夫ですか? 私たち柱の移動速度はかなり速いですけど……無理しないでくださいね?」
甘露寺蜜璃が、少し心配そうにマヤの大きな背中を見上げる。
鬼殺隊の柱ともなれば、その脚力は馬をも凌ぐ。いくら屈強な肉体を持つとはいえ、呼吸法を持たない門番の男がついてこられるのか、純粋な気遣いだった。
「ん? ああ、みつりちゃん。俺のことは気にしないでくれ。置いてかれないように必死でしがみついていくからよ」
マヤがニッと笑う。
「ふふっ、無理ならおんぶしてあげますからね! それじゃあ、行きましょう!」
甘露寺が元気よく跳躍し、それに続いてカナエがふわりと蝶のように舞い上がった。
マヤもまた、地面を蹴って二人の後を追う。
木々の枝から枝へ、屋根から屋根へと、すさまじい速度で景色が後方へ飛び去っていく。
夏の熱風を顔に受けながら、先頭を走る甘露寺は、チラリと後ろを振り返った。
(やっぱり、すごい……!)
甘露寺の瞳が、驚きと感嘆に揺れる。
柱である自分たちが本気で駆け抜けているというのに、最後尾をついてくるマヤは、息一つ乱していない。それどころか、足音すら全く立てずに、まるで散歩でもしているかのように平然と並走しているのだ。
(あの体格で、こんなに身軽なんて……。料理もできて、優しくて、本当に理想的な殿方だわ……!)
甘露寺は顔を赤くし、さらに速度を上げた。
一方、その真ん中を走っていたカナエは、周囲の景色が移り変わっていくのを見ながら、ふと奇妙な感覚に囚われていた。
(……ここ、意外と遠くない?)
カナエの脳裏に、数日前の夜の記憶がフラッシュバックする。
血まみれになって蝶屋敷に飛び込んできたマヤ。下弦の鬼が人間を喰いかけていたところへ割り込み、鬼を放置してでも人命を優先し、瀕死の男を抱えて逃げてきたと言っていた。
あの時、マヤが家を出てから帰ってくるまでの時間は、ほんのわずかだった。
(あの夜……マヤさんは、意識のない大人の人間を一人抱えながら、この距離を往復したの……!?)
カナエは、思わず背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
今、柱である自分たちが全力で向かっても、優に小一時間はかかる距離だ。それを、重い人間を抱えた状態で、数十分で往復するなど。
(この人は……一体、どれだけの力を隠しているの……?)
カナエが思わず振り返ると、マヤが「どうした?」とばかりに小首を傾げて微笑んだ。その底知れない大らかさに、カナエは引きつった笑みを返すのが精一杯だった。
やがて、太陽が少し西へ傾き始めた頃。
一行は、鬱蒼とした深い森の入り口へと到着した。真昼だというのに木々が陽光を遮り、内部は薄暗く、ひんやりとした不気味な空気が漂っている。
「……ここですね。間違いありません、十二鬼月特有の、ひどく濃くて淀んだ気配がします」
甘露寺が桜餅色の髪を揺らし、日輪刀の柄に手をかけて真剣な表情を作った。
「ああ、奥の方に潜んでるな」
マヤが顎をしゃくり、カナエの耳元へ顔を寄せた。
「なぁ、カナエ」
「はい、何でしょう?」
カナエも小声で応じる。マヤの熱い吐息が耳元をくすぐり、少しだけ肩がビクッと跳ねた。
「今回、採血用のガラス管を十本も持ってきちゃったんだが、さすがにみつりちゃんの前で鬼の血を抜くのを見られるのはまずいだろ?」
「……ええ。お館様の極秘承認があるとはいえ、彼女に鬼を『生かす』理由を説明するのは今の段階では困難です」
「だから、俺が先行して気絶させて血を抜く。終わったら適当に起こして、俺は逃げるフリをするから、そこに駆けつけて頸を斬ってくれないか?」
その作戦を聞いて、カナエは思わずこめかみを押さえた。
「……分かりました。上弦の弐を一撃で吹き飛ばしたあなたですから、下弦に遅れを取ることはないでしょうし。ですが、どうやって適当に起こすおつもりですか?」
「おう、任せとけ。あ、今回は怪しまれないように、一応武器も持ってきたぜ」
マヤが腰からスッと引き抜いたのは、蝶屋敷の物置から適当に見繕ってきた、何の変哲もない使い古しの『木刀』だった。
「手加減する(殺さない)ためにな」
「……」
カナエは、下弦の鬼相手に木刀で手加減をするというこの男の常識外れな発言に、もはやツッコミを入れる気力すら失っていた。
「みつりちゃん!」
マヤが甘露寺の方へ向き直る。
「少し気配が奥へ移動したみたいだ。俺が先行して様子を見てくるから、十分くらいしたら後を追いかけてきてくれないか?」
「えっ!? だめですマヤさん、危ないわ! 鬼殺隊じゃないあなたが一人で先に行くなんて……!」
「大丈夫だ、俺は逃げ足だけは柱にも負けねえからな。カナエ、頼んだぞ!」
甘露寺の制止を振り切り、マヤは木刀を肩に担いだまま、あっという間に森の暗がりへと姿を消してしまった。
「ああもうっ! カナエちゃん、マヤさんが……!」
「大丈夫よ、蜜璃ちゃん。彼はああ見えて、とても鼻が利くの。少しだけ、ここで待ちましょう」
カナエが落ち着いた声でなだめるが、甘露寺は気が気ではない様子で森の奥を睨みつけていた。
一方、森の深部。
昼間は活動を停止し、巨大な木の洞の中で休眠状態にあった下弦の陸は、突如として首筋に走った激痛に目を剥いた。
「ガ、ア……ッ!?」
悲鳴を上げる間もなく、マヤの手刀が脳天に直撃し、鬼は一瞬にして意識を刈り取られた。
「よし、一発。さてと、急いで抜くか」
マヤは手早く革袋から十本のガラス管を取り出すと、気絶している鬼の血管に次々と針を刺し、貴重な下弦の血液をたっぷりと採取していった。
わずか数分で作業を終え、ガラス管を厳重にしまい込む。
「さて、カナエたちが来る前に、こいつを起こさねえとな」
マヤは木刀を両手で構えると、気絶している鬼の頭部に向かって、思い切りフルスイングした。
ボッコォォンッ!!
森中に響き渡るような凄まじい打撃音。
「グギャアアアッ!?」
頭蓋骨が砕けるような激痛と共に、下弦の陸が跳ね起きるようにして覚醒した。
「マヤさん!!」
その音に反応し、約束の十分を待たずに駆けつけてきたカナエと甘露寺が、木々の隙間から飛び出してきた。
「みつりちゃん! カナエ! こっちだ!」
マヤが木刀を構えながら後ろへ飛び退き、合図を送る。
甘露寺は、マヤの手に握られているものを見て唖然とした。
「マ、マヤさん!? 本当にその木刀で戦うつもりなんですか!?」
「日輪刀は持ってないからな。しかたない、俺がこっちで応戦するから、お前らは頸を狙ってくれ! 頼むぞ二人とも!」
マヤの悲壮な(演技の)叫びに、甘露寺の正義感と恋心が爆発した。
「私達に任せてください!! 危険です、マヤさんは後ろに下がってて!」
甘露寺が特殊な形状の、リボンのようにしなる日輪刀を引き抜き、鬼へ向かって踏み込もうとする。
だが、カナエは隣で静かに深呼吸をしていた。
(……なんだか、蜜璃ちゃんを騙している気分でひどく罪悪感がありますけど……)
カナエは、この後の展開を思い描き、一つ決断を下した。
(マヤさんの実力を、同じ柱である彼女にもしっかり見せておくべきだわ。そうすれば、お館様の前でも彼を不必要に危険視する声は減るはず)
「……マヤさん」
カナエの凛とした声が、森に響いた。
「もう、一撃で気絶させちゃってください」
「……えっ?」
マヤが間の抜けた声を出し、甘露寺も踏み込もうとした足をピタリと止めた。
「い、いいのか?」
「はい。彼女も柱です。あなたの『門番』としての実力を見せるべきだと判断しました。やってください」
甘露寺は完全に困惑していた。
(え……? 気絶? 下弦の鬼を? 木刀で……何を言ってるの、カナエちゃん……?)
マヤは木刀を肩に担ぎ直し、ゆっくりと鬼の方へ向き直った。
「了解、当主様」
その声は、先程までのとぼけたものではなく、地の底から響くような、圧倒的な強者のそれへと変貌していた。
「人間の分際で、舐めた真似を……! 喰い殺してやるゥ!!」
怒り狂った下弦の陸が、血走った眼球を剥き出しにしてマヤへ飛びかかる。
次の瞬間だった。
空気が、爆ぜた。
マヤの姿がブレたかと思うと、音を置き去りにした木刀の連撃が、鬼の全身を嵐のように打ち据えた。
骨が砕け、肉が弾け飛ぶ音が連続して響く。日輪刀ではないため頸は落ちないが、その物理的な破壊力は、鬼の異常な再生速度を完全に凌駕していた。
最後の一撃。マヤの木刀が、鬼の腹部に深々と突き刺さるような形でめり込む。
「ゴァッ……!?」
凄まじい衝撃波が背中の木々を吹き飛ばし、下弦の陸は白目を剥いて、目玉の『陸』の文字を晒したまま、崩れ落ちるように完全に沈黙した。
静寂が降りた森の中で、木刀を肩に担ぎ直したマヤが、ふぅと短く息を吐く。
「……ええ……ええええええっ!?」
甘露寺の口から、悲鳴のような歓声が漏れた。
「つ、強い……! 料理も美味しくて、優しくて家庭的で……おまけにこんなに強いなんて……! すっごく、理想の殿方ですぅ……っ!!」
両頬を真っ赤に染め、両手で顔を覆いながら身悶えする甘露寺。その頭からは、ぽっぽと湯気が立ち上っているようだった。
(ああもう、言わんこっちゃない……)
カナエは額に手を当て、頭を抱えるしかなかった。
「みつりちゃん、今はそういうことじゃないでしょ? 早く、その鬼の頸を」
「あ、はいっ! では、私が頸を……!」
甘露寺が飛び出し、気絶して動かない下弦の陸の頸を、しなる刃で鮮やかに斬り落とす。十二鬼月との戦闘とは到底思えない、あまりにもあっけない勝利だった。
鬼の体が灰となって崩れ去っていくのを見届けた後。
甘露寺は日輪刀を鞘に納めると、キラキラと星が飛ぶようなお目々でマヤを見上げた。
「あの、マヤさん……! すっごく強いって、本当だったんですね! 私、びっくりしちゃいました!」
「お、おう。ありがとうな。でも、日輪刀じゃないから頸は斬れないんだわ。みつりちゃんがいてくれて助かったぜ」
マヤが照れくさそうに頭を掻く。
「日輪刀、お館様に頼んで作ってもらえばいいのではないですか? マヤさんなら、すぐに柱になれますよ!」
無邪気な甘露寺の提案に、マヤは静かに首を振った。
「それはできない。日輪刀ってのは、鬼殺隊の覚悟と魂だろ? 組織に入りもしない俺が背負える資格はねえのさ。俺はただの門番だ。蝶屋敷のあいつらを守るので精一杯さ。だから、あんたらの力が必要なんだ。ありがとうな、みつりちゃん」
マヤの真っ直ぐな言葉に、甘露寺はハッと息を呑んだ。
自分の強さを誇示するわけでもなく、ただ大切なものを守るためだけに力を振るう。その潔い矜持に、甘露寺の胸はさらに激しく打ち鳴らされた。
「背負える覚悟、ですか……。なんか、すごくかっこいいですね……」
「ん、んんっ。とりあえず、鬼も討伐しましたし、蝶屋敷へ戻りましょう」
これ以上マヤの好感度が上がるのを恐れたカナエが、わざとらしく咳払いをして話を区切った。
「そうだな。しかし、下弦ってのはこんなもんなんだろ? 意外とあっけなかったな」
「柱にとっては、そうですね。マヤさんも、すでに柱くらいの実力があるということです。でも、それを蝶屋敷の皆さんの為だけに振るうって、なんだかとっても素敵ですね」
甘露寺はふにゃりと笑うと、思いついたようにカナエの手を取った。
「ねえ、カナエちゃん。私、もしよかったら少しの間、蝶屋敷に御厄介になろうかなぁ?」
「えっ……」
カナエの顔が引きつる。
「い、一応、お館様に聞いてからで……。まぁ、拠点にするのはいいかもしれませんけど。そこは鬼殺隊の任務もあるので私からは何とも言えませんが、受け入れはします」
(悔しいですがね……! このまま蜜璃ちゃんを屋敷に置いたら、マヤさんがどうなるか……!)
「そうだね! お館様も、マヤさんに会いたいって仰ってたし、ちょうどいいかもしれないわ!」
「え? お館様が、俺に?」
マヤが目を丸くする。
「あ、そうか。ドタバタしていて話す暇がありませんでしたね」
カナエがため息をつきながらマヤに向き直る。
「そうです。今度の柱合会議で、あなたを特別にお呼びして、他の柱の皆さんにも紹介したいそうです。……できますでしょうか?」
鬼殺隊の最高峰が集う会議への出席要請。
だが、マヤは全く動じることなく、ただカナエを見つめ返した。
「カナエの、当主としての判断に委ねるぞ。俺の直属の上司は、カナエ、お前だからな。お前が行けと言うなら行くし、断れと言うなら断る」
絶対の服従と、家族としての信頼。
その言葉を聞いた瞬間、カナエの顔が林檎のように真っ赤に染まった。
「あ、ありがとうございます……っ」
「わぁ……」
そのやり取りを横で見ていた甘露寺が、ひどく羨ましそうに溜息を漏らす。
主従でありながら、互いを深く思いやる温かい関係性。甘露寺の求める「理想の殿方」の姿が、まさにそこにあった。
夏の夜風が、木々のざわめきを運んでくる。
蝶屋敷への帰路につく三人の足取りは、行きよりも少しだけゆっくりとしたものになっていた。
これから始まる、甘露寺蜜璃を交えた波乱の同居生活。そして、柱合会議での一波乱を予感させるように、夜の闇は深く、静かに彼らを包み込んでいた。