下弦の陸の討伐を終え、マヤたちが蝶屋敷に帰還したのは、真夏の夜の蒸し暑さが少しだけ和らぐ丑三つ時のことだった。
「ふぁぁ……なんだか、あっという間に終わっちゃったわね」
「本当にお疲れ様、蜜璃ちゃん。今日はもう遅いから、奥の客間でゆっくり休んでちょうだい」
「うんっ! ありがとう、カナエちゃん!」
甘露寺蜜璃は、戦闘の疲労よりもマヤの規格外の実力を目の当たりにした興奮で少しだけ頬を上気させていたが、案内された客間の布団に潜り込むと、安心したようにすぐに健やかな寝息を立て始めた。
蜜璃が完全に眠りに落ちたのを確認すると、マヤは足音を完全に殺し、離れの納屋――地下施設へと向かった。
軋みひとつない隠し扉を開け、ひんやりとした階段を下る。
そこには、深夜だというのに白衣姿で顕微鏡と睨み合っている胡蝶しのぶと、資料の整理をしている珠世の姿があった。
「よう、しのぶ。珠世。夜遅くまでご苦労さん」
「あ……マヤさん! おかえりなさい! ご無事で何よりです」
しのぶが顔をパッと輝かせ、珠世も安堵の笑みを浮かべて立ち上がった。
「おう。ただいま。……ほら、土産だ」
マヤは懐から革袋を取り出し、コトリと実験台の上に置いた。
「なんとか、みつりちゃんに見つからずに抜いてきたぜ。下弦の血、十本だ」
「「じゅ、十本!?」」
二人の天才の瞳が、限界まで見開かれた。
「ま、マヤさん……! これだけの量を、一体どうやって……!?」
「いや、俺が先行して気絶させてから、急いで抜いただけだ。みつりちゃんには『俺は逃げ足が速いから先に行く』って言ってな。あの娘、素直だからコロッと信じてくれたよ。ま、騙してるみたいで少し心苦しかったが」
マヤがポリポリと頭を掻くと、珠世は震える手でガラス管の一本を手に取った。
「素晴らしい……なんて濃い無惨の気配。しかも鮮度は申し分ありません。これほどの量があれば、仮説の立証実験が何度でも行えます……!」
珠世の目には、明らかな希望の涙が滲んでいた。
「マヤ、本当にありがとうございます。あなたは……私たちの、いえ、人間の希望そのものです」
「おいおい、大げさだぜ珠世。俺はただ血を抜いてきただけだ。本当にすごいのは、これを薬に変えるお前たちだろ」
マヤは優しく微笑むと、しのぶと珠世の頭にそれぞれポンポンと大きな手を置いた。
「だが、無理はするなよ? 睡眠不足は肌荒れの原因になるって言うしな。綺麗な顔が台無しになったら、俺が悲しいぜ」
「っ……! も、もう、マヤさんったら……子供扱いしないでください」
しのぶが顔を赤らめてプイとそっぽを向くが、その口元は嬉しそうに緩んでいる。
珠世もまた、何百年ぶりかに味わう「女性としての優しい気遣い」に、頬を染めて静かに頷いた。
「じゃ、俺も寝るわ。おやすみ」
二人の女性に極上の甘い言葉を無自覚に落としていき、マヤは飄々と地上へ戻っていった。
***
翌日の昼下がり。
ジリジリと照りつける太陽から逃れるように、蝶屋敷の広い縁側には心地よい日陰ができ、風鈴がチリンと涼しげな音を奏でていた。
「わぁぁぁぁ……っ!! すっごぉぉぉい!!」
縁側に用意された大きなちゃぶ台を前に、甘露寺蜜璃は目を星のように輝かせていた。
ちゃぶ台の上には、氷水でキンキンに冷やされた巨大なガラス鉢が置かれている。中には、色鮮やかなスイカ、桃、蜜柑、そして琥珀色の寒天がたっぷりと浮かんだ特製のフルーツポンチ。
さらにその横には、卵をたっぷりと使った濃厚な焼きプリンが、人数分、大きな器で用意されていた。
「約束したからな、みつりちゃん。腹一杯甘いもん食ってくれ!」
前掛け姿のマヤが、自信満々に胸を張る。
「マヤさん、これ全部手作りですか!? んんっ、美味しそう〜っ!!」
「おう。フルーツの皮剥きはカナヲが手伝ってくれたけどな」
マヤが横に座るカナヲの頭を撫でると、カナヲは嬉しそうに小さくコクリと頷いた。
「いただきますっ!!」
蜜璃がスプーンを手に取り、フルーツポンチを口に運ぶ。
「んんんん〜〜〜っ!! 冷たくて甘くて、最高ぉぉぉ!! プリンも滑らかで卵の味が濃くて、ほっぺたが落ちちゃいそうですぅ!!」
両頬を押さえ、身悶えしながら次々と平らげていく蜜璃。
「ははっ、いい食いっぷりだ。足りなかったらまだまだあるからな」
マヤは自分の分のプリンをカナヲの皿にひょいと移してやりながら、ニコニコと蜜璃を見つめている。
女性が美味しそうに食事をする姿を見るのは、マヤにとって至福の時間だった。
「……マヤさん、自分は食べないんですか?」
向かいに座ってお茶を飲んでいたしのぶが、ジト目で尋ねる。
「俺は甘いもんはそこまで得意じゃねえんだよ。男が甘いもんガツガツ食うのもなんだかな。女の幸せそうな顔見てるだけで十分腹一杯だ」
マヤは、女性にはとことん甘く優しかった。
(もしこれが野郎だったら、「甘ぇもん食ってねえで素振りでもしてろ!」って蹴り飛ばしてるところだがな)
心の中でそんなことを思いながら、マヤは蜜璃の空になった器に次々とフルーツを継ぎ足していく。
「あーん、マヤさん優しすぎますぅ! 蝶屋敷の子たちが羨ましいわぁ……」
「そうだろう? うちの門番は優秀なのよ」
カナエが誇らしげに微笑みながら、自分もプリンを口に運ぶ。
そこへ、バッサバッサと羽音を立てて、一羽の鎹鴉(かすがいがらす)が縁側の手すりに降り立った。
「カァァッ!! 伝令! 伝令ェェ!!」
「おっ、カナエの鴉か」
マヤが鴉に視線を向ける。オスであるその鴉は、マヤの鋭い闘気に少しだけビビりながらも、大声を張り上げた。
「胡蝶カナエヨリノ報告、オ館様御照覧アッテ!! 下弦ノ陸討伐、大儀デアル!! トノコト!!」
「お館様から? 随分と返事が早いわね」
カナエが不思議そうに首を傾げる。昨夜、蜜璃が二泊三日で滞在することと、下弦討伐の報告を鴉に託したばかりだったのだ。
「カァァッ!! 続イテ、オ館様ヨリ!! 数週間後ニ、柱合会議ヲ開催スル!! ソノ際、胡蝶しのぶノ蟲柱襲名式モ執リ行ウ!!」
「えっ、私の……!?」
しのぶが驚きに目を見張る。
「……更ニ!! 蝶屋敷ノ『門番ノ男』ヲ、必ズ同席サセルヨウニトノコト!! カァァッ!!」
ピタリと、縁側の空気が止まった。
「……ええっ!?」
カナエが素っ頓狂な声を上げる。
「は、早すぎません!? 私、お館様にはまだ何も……マヤさんをお呼びするのは、もっと先だと思っていたのに……!」
「親方様ってのは、随分と気が早い人なんだな」
マヤが呑気にお茶をすする。
「おい、鳥。ご苦労だったな。だが俺はただの門番だ、あまり騒ぎ立てるなよ。ほら、虫でも食ってろ」
マヤはオス鴉に対しては全く甘さを見せず、庭にいた芋虫を指で弾いて鴉の前に放った。鴉は「チッ、態度ノデカイ男ダ」とボヤきながらも、芋虫をついばんで飛び去っていった。
「わぁっ! じゃあマヤさん、お館様にお会いするんですね!」
蜜璃がパァッと顔を輝かせる。
「そうなるみたいだな。カナエの上司なら、挨拶くらいはしとかねえとな」
「それじゃあ決まりね! 私、次の柱合会議の日まで、ずーっと蝶屋敷に御厄介になるわっ!」
「……はいっ?」
カナエとしのぶの声がハモった。
「だって、マヤさんが会議に行くなら、一緒に行けるもの! それまでマヤさんのご飯やデザートもいっぱい食べられるし……えへへっ」
蜜璃は完全に、マヤの胃袋掌握術の虜になっていた。
「そりゃあいい。みつりちゃんがいると屋敷が明るくなっていいぜ」
「本当ですかぁ!? 嬉しいっ!」
マヤの二つ返事に、カナエは額に手を当てた。
(あぁ……お館様のせい(おかげ?)で、蜜璃ちゃんの長期滞在が決定してしまったわ。このままじゃ、マヤさんが蜜璃ちゃんに……っ!)
カナエとしのぶは、互いに無言で視線を交わし、静かなるライバル心を燃え上がらせた。
***
――その頃。
蝶屋敷から遠く離れた、とある山中の任務先。
「……何だと?」
蛇柱・伊黒小芭内は、自身の鎹鴉からもたらされた情報に、オッドアイの瞳をどす黒く濁らせていた。
「甘露寺ガ、数週間後ノ柱合会議マデ、蝶屋敷ニ滞在スルソウダ!! カァァッ!!」
ギリリッ、と。
伊黒が掴んでいた太い木の枝が、凄まじい握力によってミシミシと悲鳴を上げた。
「甘露寺が……あの男のいる屋敷に……数週間も、だと……?」
バキィィィンッ!!
伊黒の手の中で、木の枝が完全にへし折れ、木っ端微塵に砕け散る。
首に巻きついた白蛇の鏑丸が、主の放つ異常な殺気に怯えてシャーッと鳴いた。
「許さん……。許さんぞ、蝶屋敷の男。甘露寺の純真な心につけ込み、同じ屋根の下で寝食を共にするなど……! 絶対に生かしてはおかん……次の柱合会議で、必ず俺が八つ裂きにしてやる……ッ!!」
伊黒の凄まじい嫉妬の炎は、周囲の木々の葉を枯らしそうなほどの熱量を帯びていた。
***
季節は、確実に移ろいでいた。
ジリジリと肌を焼くような真夏の太陽は少しずつその鋭さを和らげ、夕暮れ時にはひぐらしの鳴き声が森に響き渡る。夜になれば、涼やかな秋の虫たちの音色が、蝶屋敷の庭を心地よく包み込むようになっていた。
甘露寺蜜璃の長期滞在が始まってから、蝶屋敷の日常はより一層賑やかになった。
日中、マヤは蜜璃がいる手前、あからさまに怪しい単独行動を取るわけにはいかなかった。蜜璃は柱であり、鬼の匂いや気配には敏感だ。もし昼間に生け簀の鬼の血を運んだりすれば、鋭い勘で気づかれる可能性が高い。
そのため、マヤの生活リズムは密かに夜型へとシフトしていた。
「……スゥ……スゥ……」
客間から蜜璃の健やかな寝息が聞こえてくる深夜。
マヤは音もなく布団を抜け出し、陣羽織を羽織る。
「さてと、少し行ってくるか」
夜の闇に紛れ、マヤは定期的に森へ出向き、生け簀として生かしている弱い鬼たちからの採血を続けていた。
みつりちゃんの手前、派手な戦闘は避けているが、日々の積み重ねが地下での研究を支えていると分かっているからこそ、マヤは手を抜くことはなかった。
そして、秋の気配が本格的に深まってきたある夜のこと。
いつものように採血を終え、地下施設へと足を踏み入れたマヤを待っていたのは、異様な熱気に包まれた二人の姿だった。
「……マヤさん!!」
階段を降りたマヤの顔を見るなり、しのぶが弾かれたように駆け寄ってきた。その手には、何枚にも重なった分厚いデータ用紙が握りしめられている。
「おいおい、どうした? そんなに興奮して」
「クリアしたんです……っ!」
しのぶの大きな瞳に、大粒の涙が浮かんでいた。
その後ろで、珠世もまた、手で口元を覆いながら静かに泣いている。
「第一段階……鬼の細胞を破壊し、その反発力を利用して『人間の細胞としての修復』を強制的に促すメカニズム……。その理論実証が、今、完全にクリアされました!」
「……! 本当か、しのぶ!」
「はいっ! マヤさんが命懸けで採取してくれた下弦の濃い血、そして定期的な基礎データ……それがなければ、十年かかっても到達できなかった領域です! これで……『鬼を人に戻す薬』の土台が、完全に完成しました!」
しのぶは感極まり、データ用紙を握りしめたまま、マヤの広い胸にポスッと頭を押し付けた。
「ありがとうございます……。本当に、マヤさんのおかげです……」
「……」
マヤは驚きに目を丸くしたが、すぐにふっと優しい笑みを浮かべ、しのぶの背中をポンポンと軽く叩いた。
「頑張ったな、お前ら。俺は血を運んだだけだ。お前らの諦めない心が、ここまで辿り着いたんだよ。本当に、よくやった」
その温かい言葉と手のひらの感触に、しのぶは堪えきれずに嗚咽を漏らした。
珠世もまた、何百年もの間見えなかった『人間へ戻る道』が明確に照らされたことに、深い祈りを捧げるように両手を組んでいた。
「よし」
しのぶの頭を撫でながら、マヤは真っ直ぐにランプの火を見つめた。
「第一段階突破だ。これで、俺も心置きなく……久々に『親方様』に会いに行けるな」
数日後に迫った、柱合会議。
鬼殺隊の最高戦力が集うその場所へ向かうにあたり、マヤの中には何の気負いもなかった。
あるのはただ、カナエたちの大切な居場所を守り抜くという、門番としての確固たる矜持だけだった。
秋の夜風が、納屋の隙間から吹き込み、希望のランプの火を静かに揺らしていた。