木々の葉が赤や黄色に色づき始め、吹き抜ける風に微かな冷たさが混じるようになった秋の初め。
産屋敷邸の広大な庭には、色鮮やかな落ち葉が舞い、高く澄み渡った秋晴れの空が広がっていた。
玉砂利が敷き詰められた庭に、鬼殺隊の最高峰たる『柱』たちがズラリと片膝をつき、頭を垂れている。
その列の端には、花柱である胡蝶カナエ、そして今日この日、新たに柱として推挙される胡蝶しのぶの姿があった。さらにその横には、甘露寺蜜璃が胸をドキドキさせながら控えている。
だが、その厳粛で張り詰めた空気の中において、たった一人だけ、完全に異質な存在感を放っている男がいた。
「秋晴れでいい天気だな。庭の手入れも行き届いてて、見事なもんだぜ」
蝶屋敷の『日常柱』にして門番を名乗る男、マヤである。
彼は他の柱たちのように片膝をついて畏まることもなく、どっかりと胡座(あぐら)をかき、リラックスした様子で庭の木々を眺めていた。陣羽織の裾を乱し、姿勢を崩すその態度は、鬼殺隊の規律から見れば言語道断の極みである。
(マ、マヤさん……! もう少しだけ、姿勢を……!)
隣にいるカナエが冷や汗を流しながら小声で注意するが、マヤは「ん?」と小首を傾げるだけだ。
「お館様のお成りです」
襖が静かに開き、白髪の童子たちに手を引かれて、鬼殺隊当主・産屋敷耀哉が縁側へと姿を現した。
「おはよう、私の愛しい子供たち。今日も空が青く、皆が変わらず顔を合わせてくれたことを嬉しく思うよ」
「お館様におかれましても御健勝で何よりです! 本日も益々のご多幸をお祈り申し上げます!」
炎柱・煉獄杏寿郎が、ハキハキとした大声で挨拶の口火を切った。
「ありがとう、杏寿郎。さて、まずは……胡蝶しのぶ。君が独自に編み出した毒の剣技と医療の才覚、見事というほかない。今日より君を『蟲柱』として認め、ここに迎えることを嬉しく思うよ」
「……はいっ。ありがとうございます、お館様」
しのぶが深く頭を下げ、その声には確かな決意と、姉やマヤと共に歩んできた誇りが滲んでいた。
「そして……」
耀哉の視線が、胡座をかいたままのマヤへと向けられる。
「よう。久々だな、親方様」
マヤは姿勢を崩したまま、軽く片手を挙げて挨拶した。
「ご健勝で何よりだ。あんたの(資金援助や機材手配の)おかげで色々、蝶屋敷は上手くいってるぜ。感謝してる」
ピタリと。
柱たちの間に、凄まじい衝撃と冷気が走った。
「久々……だと……!?」
風柱・不死川実弥が、目を見開いてマヤを睨みつける。
他の柱たちも一斉に驚愕の色を浮かべた。隠の噂で聞いていた『蝶屋敷の得体の知れない男』が、まさかお館様と面識があるだけでなく、こんな馴れ馴れしい口を利くとは。
「き、貴様ァ! お館様に向かってその口の利き方と態度はなんだァ!」
「南無阿弥陀仏……なんと不敬な……頭を垂れることも知らぬ哀れな男……」
実弥が青筋を立て、岩柱の悲鳴嶼行冥が涙を流して数珠を強く握りしめる。
「まっ、待ってください皆様!」
殺気立つ柱たちを前に、カナエが慌てて割って入った。
「マヤさんは鬼殺隊の隊士ではありません! 以前、彼が蝶屋敷の門番に就任する際、お館様と直にお会いしてお話しなすったのです! 決して怪しい者ではありませんから!」
「隊士でないにせよ、お館様へのその態度は万死に値するネチネチネチ……」
蛇柱・伊黒小芭内が、首の白蛇を威嚇させながら、蛇のような粘着質な声でマヤを睨みつける。そのオッドアイには、不敬に対する怒り以上に、甘露寺蜜璃を誑かした(と思い込んでいる)憎悪がドロドロと渦巻いていた。
「今回は何のご用件ですかね、親方様」
マヤは周囲の殺気を全く気にする様子もなく、ケロッとした顔で耀哉に問いかけた。
「下弦の鬼なら、みつりちゃんが見事に頸を撥ねてくれましたよ。カナエとの連携は凄まじかったです! さすがは柱ってやつですね」
「……えっ?」
甘露寺が素っ頓狂な声を上げた。
(れ、連携……!? 私はただ、マヤさんが一撃で気絶させた鬼の頸をポーンって斬っただけなのに!?)
カナエも片手で顔を覆い、(ああ……始まったわ……マヤさんの責任逃れと功績のなすりつけ……!)と内心で盛大にツッコミを入れていた。
「下弦の陸の討伐、大儀だったね。蜜璃、カナエ、そしてマヤ。怪我がなくて何よりだよ」
耀哉はすべてを察した上で、優しく微笑んだ。
だが、柱たちの怒りは収まらない。
「おのれ、貴様ァ! さっきから聞いていれば、お館様に向かって『親方様』だの、胡座をかいただの……! 不敬にも程があるぞ!」
実弥が立ち上がらんばかりの勢いで吠え、煉獄も腕を組みながら鋭い視線を向ける。
「うむ! 隊士でないとはいえ、当主に対する礼節を欠くのは見過ごせん! 君、お館様への態度がひどく不敬だぞ!」
柱たちの怒気に、甘露寺がオロオロと視線を彷徨わせ、しのぶが「だから言ったじゃないですかマヤさん……」と頭を痛める中。
マヤはため息を一つ吐き、ポリポリと頭を掻きながら、柱たちを真っ直ぐに見据えた。
「不敬ってなんだ?」
その低く、しかし芯のある声が、庭の空気を一瞬で制圧した。
「俺は鬼殺隊じゃない。お前らのルールはお前らの中で適用しろ。俺の直属のトップはカナエだ。カナエが立てと言えば立つし、斬れと言えば斬る。だがな……」
マヤの視線が、実弥や煉獄、そして伊黒の顔を順番に射抜く。
「肝心の親方様は、俺の接し方に『不敬だ』とは一言も言ってないぞ?」
「なっ……」
実弥が言葉を詰まらせる。
「親方様が怒ってもいないのに、部下の勝手な物差しで『親方様は怒っているはずだ、無礼だ』と気持ちを決めつけて代弁する。……それって、親方様の器を小さく見積もってるってことじゃねえのか? そっちの方が、親方様に対してよっぽど失礼であり、不敬なんじゃねえのか?」
――シンッ。
反論の余地もない、ド正論のカウンター。
圧倒的な武力と権力を持つ『柱』たちに対し、たった一人の門番が、堂々と理の真っ向勝負を挑み、完全に黙らせてしまったのだ。
「す、すごぉい……! ド正論だわ……!」
甘露寺が、両手を握りしめて目をキラキラと輝かせる。大正時代の絶対的な上下関係に囚われない、自由で強靭な精神。その姿がたまらなくかっこよく見えた。
「ふふふ……はははっ」
静寂の中、耀哉の楽しげな笑い声が響いた。
「さすがだね、マヤ。君はすぐにそういう本質が読める。私の子供たちがすまないね。彼らはただ、私を深く想ってくれているだけなんだ」
お館様がマヤの言葉を肯定し、同時に柱たちの忠義も優しく包み込む。これには実弥たちも「御意……!」と深く頭を下げるしかなかった。
だが、一人だけ、その状況に腸が煮えくり返るほどの怒りを溜め込んでいる男がいた。伊黒小芭内である。
マヤの堂々たる振る舞い。そして何より、それを熱っぽい瞳で見つめる甘露寺蜜璃の姿。伊黒の嫉妬は、もはや制御不能の領域に達していた。
「……俺と戦え!! マヤ!!」
突如として、伊黒が立ち上がり、日輪刀の柄に手をかけて絶叫した。
「貴様の実力がどれほどのものか、俺が直々に叩き伏せて証明してやる! 立て!!」
唐突な決闘の申し込みに、周囲の柱たちも驚きを隠せない。
「え? 嫌ですけど……」
マヤは心底嫌そうに眉をひそめた。
「だって俺、門番だよ? わざわざ柱様と斬り合う理由がねえ。無理無理」
「逃げるか卑怯者!!」
「小芭内」
伊黒の怒声を、耀哉の静かな声が遮った。
「だそうだよ。……小芭内、君がそこまでして彼と戦おうとする、その『動機』はなんだい?」
「え……?」
お館様の鋭い問いかけに、伊黒はハッとして動きを止めた。
全員の視線が伊黒に集中する。
「そ、それは……彼奴が不敬であり、その、強さを測るために……」
だが、その言葉はひどく空々しかった。甘露寺への恋慕と嫉妬から八つ当たりで決闘を申し込んだなど、お館様の前で口にできるはずがない。伊黒はギリッと唇を噛み、沈黙するしかなかった。
しばしの沈黙。
マヤは、黙り込んだ伊黒と、オロオロしている甘露寺の顔を交互に見比べた。
数秒の思考。そして、マヤの中で『ポンッ』と一つの答えが弾けた。
「……ふむ。なるほどな」
マヤはゆっくりと立ち上がった。胡座をかいていた時とは打って変わり、その巨体が立ち上がっただけで、庭の空気が一気に重くなるほどの凄まじいプレッシャーが放たれる。
「わかった。みつり、か。……いいぞ。相手になってやる」
マヤの言葉に、伊黒がビクッと肩を震わせた。図星を突かれたのだ。
「だがな、蛇の兄ちゃん」
マヤは伊黒を真っ向から見据え、その声を一段と低く、冷たくした。
「てめえがみつりちゃんをどう思ってようが勝手だがな。こういう風に、女の気持ちを勝手に懸けて、嫉妬で怒り狂って噛みついてくる男ってのは、俺はすげえダセェと思うぜ」
「な……貴様……ッ!」
「女はよ……!!」
マヤの声が、雷鳴のように庭に響き渡った。
「女は、男の強さを示すためのトロフィーでも、勝者に与えられる『景品』でもねーんだぞ!!! くそ野郎が!!!」
その一喝に、柱全員が息を呑んだ。
男尊女卑の気風が色濃く残る大正時代において、これほどまでに『一人の女性としての尊厳』を絶対的なものとして叫ぶ男など、どこにもいなかった。
「俺はな……そういう風に、女の意思を置き去りにして勝手に所有物扱いするような奴が、すこぶる苛立つんだよ!!」
怒気を含んだマヤの闘気が、物理的な風となって庭の落ち葉を吹き飛ばす。
その圧倒的な男の誇りと、自分という存在をこれ以上ないほど大切に扱ってくれたマヤの言葉。
甘露寺蜜璃の心臓が、早鐘を打つどころか、キュンッ!と鳴って爆発しそうになっていた。
(私を、トロフィーなんかじゃない、一人の女性として尊重して怒ってくれてる……! かっこいい、かっこよすぎるわマヤさん……っ!!)
顔を真っ赤にして、両手で胸を押さえる甘露寺。
「……マヤさん」
しのぶとカナエもまた、その不器用で真っ直ぐな男気に、再び深く惚れ直すのを感じていた。
「みつりちゃん、すまんな。なんかこんな感じになっちゃってよ」
マヤは振り返り、甘露寺に向かって軽く頭を下げた。
「カナエ、お前にも謝っておく。勝手に揉め事を起こしちまった。……親方様も、人が悪いね〜。動機なんて聞くから、俺もカチンときちまったじゃねえか」
「ふふふ、すまないね」
耀哉が本当に楽しそうにくすくすと笑う。
「で、蛇柱くん。俺の言い分は聞いたな? それでもやるかい? 無言は肯定と取るぞ」
マヤが再び伊黒に向き直る。
伊黒は顔を青ざめさせながらも、引っ込みがつかず、無言のまま日輪刀の柄を強く握りしめ、構えの体勢に入った。
「……はぁ〜、おいおいマジかよ。どんだけだよ」
マヤが大げさに天を仰ぐ。
「これ本当にやらないと駄目? 俺、嫉妬が理由で男と殴り合うの、凄く嫌なんだけど……」
甘露寺は、両頬を熱くしながらマヤを見つめていた。
(私のために……そこまで私を想ってくれてるのね、マヤさん……!)
※完全に都合の良い恋愛脳の勘違いをしているが、もはや止まらない。
「どうしましょう……マヤさんが本当に柱と戦うことになったら……」
カナエがハラハラと見守る中、ついにしのぶが立ち上がった。
「あの〜! マヤさん、その戦いやめませんか!? 今日の私の『蟲柱の襲名式』が完全に台無しなんですけど!?」
しのぶの悲痛な叫びに、マヤは「おっ」と手をポンと打った。
「おう、そうだな! しのぶの晴れ舞台をぶち壊すわけにはいかねえ。それでいこう! 蛇くん、そういうことだ。今は矛を収めろ。……そうだな」
マヤは自身の分厚い胸板をドンと叩いた。
「一発、俺を思い切り殴っていいぞ。それで終わりにしようや。な?」
「えっ!? なんでマヤさんが殴られなきゃいけないの!?」
甘露寺が悲鳴を上げて飛び出そうとするが、カナエがガシッと羽織を掴んで引き止めた。
「蜜璃ちゃんは黙っていましょうね……これ以上口を挟むと、どんどんこじれるから……!」
しのぶは深くため息をついた。
(無自覚な恋愛脳の蜜璃ちゃんと、女性の扱いに無自覚なタラシ男……相性がいいのやら、悪いのやら……。あぁ、私はなんでこんな男に……はぁ〜)
だが、事態はマヤの思惑とは全く違う方向へ転がり始めていた。
マヤが一瞬放った『闘気』。それは、伊黒だけでなく、その場にいた他の戦闘狂たちの本能に完全に火をつけてしまっていたのだ。
「オイオイ、一発殴っていいだとォ?」
不死川実弥が、獰猛な笑みを浮かべて立ち上がる。
「そりゃあ俺にも殴らせてくれる(手合わせしてくれる)って意味で受け取っていいんだよなァ!?」
「うむ! 素晴らしい闘気だった! 俺も是非、君と一太刀交えたいぞ!!」
煉獄杏寿郎も目を輝かせて日輪刀に手をかける。
「派手に面白ェ男じゃねェか! 俺も混ぜろ!」
宇髄天元まで立ち上がってしまった。
「えっ? いや、お前らは関係ねえだろ! ちょ、おまっ、待て!!」
マヤの慌てる声も虚しく、庭は柱たちの凄まじい闘志でカオスな状態へと突入していく。お館様はそれを止めるでもなく、ただニコニコと楽しそうに見守っている。
そんな大騒ぎの庭の端で。
甘露寺蜜璃は、全身に熱を帯びたように真っ赤になりながら、ぽわぽわとしたうわ言のように口を動かしていた。
「あぁ……マヤさん……素敵ですぅ……」
無意識のうちに声に出た、甘い吐息のような告白。
本人は熱でも出たかのようにぽわぽわとしているが、その声は、騒ぎの中でもカナエとしのぶの耳にはっきりと届いていた。
「「……!!?」」
二人がギョッとして蜜璃を振り返る。
(完全にオチてるじゃないですか!!)
柱たちに囲まれてもみくちゃになりかけているマヤと、完全に熱を出して恋に落ちた恋柱。
秋の空に響き渡る喧騒の中、蝶屋敷の乙女たちの前途多難な(恋の)戦いは、さらに激しさを増していく予感に満ちていた。