蝶屋敷の離れ、厳重な偽装が施された納屋の地下空間。
地上でけたたましく鳴いている蝉時雨すら届かないその静寂の部屋で、大正最新鋭の顕微鏡を覗き込んでいた胡蝶しのぶの細い肩が、小刻みに震えていた。
「信じられません……!」
しのぶが顔を上げ、傍らでデータ用紙を握りしめている珠世へと、ひどく熱を帯びた視線を向けた。
「マヤさんが採ってきてくれたお館様の血液サンプルと、私たちが下弦の血から作った修復薬の試作品を掛け合わせた結果……!」
「ええ。私も今、確認しました」
珠世の声もまた、歓喜に微かに震えていた。
「産屋敷一族を蝕む、細胞の異常な崩壊プロセス。それがピタリと止まりました。それどころか……非常に緩やかではありますが、正常な状態へと修復を始めています……っ!」
「マジか」
腕を組んで壁に寄りかかっていたマヤが、目を見開いて低く笑った。
「よし、大成功だな。ってことは、これで親方様の呪いとやらも、いずれどうにかなるってことだ」
「はいっ! これなら、お館様を救える日も遠くありません!」
しのぶは白衣の胸をギュッと握りしめ、パァッと顔を輝かせた。不治の病とされた主君の呪いを、医学の力でねじ伏せることができる。医者として、これ以上の喜びはない。
その様子を静かに見守っていたカナエは、ふうっと熱い溜息を吐き、マヤの分厚い胸板を見つめた。
「……あの柱合会議の大揉めの裏で、こんなことまで計算して動いていたなんて。マヤさん、あなたは本当に、底が知れない人ですね……」
柱たちの嫉妬と怒りを一身に引き受け、それを『お館様へ接近するための隠れ蓑』として利用する。そんな離れ業をやってのけた男は、悪びれる様子もなく肩をすくめた。
「おう? まぁ、あのままじゃしのぶのせっかくの襲名式も台無しだったからな。ついでだよ、ついで」
「ですが……」
マヤは顎に手を当て、真剣な顔つきで言葉を継いだ。
「これを定期的にお館様に打って完全に呪いを抑え込むには、もう一段階精度を上げた特効薬がほしいな。そのためには、またサンプルをもらってもいいかもな」
「……気が早いかもしれませんが、それが一番の近道かもしれませんね」
しのぶが真面目な顔で頷く。
「細胞の変異や回復度合いに合わせて、薬も微調整していく必要がありますから。姉さん、またマヤさんをお館様のところへ連れていけませんかね?」
「そういうことなら、後で鎹鴉を通して『マヤさんがお話があるそうです』とお館様にお伝えすれば、たぶん、すぐにお返事が来て行けると思うわ。さっそく、手紙を書いてカラスを飛ばしてみるわね」
カナエが微笑みながら請け負うと、地下室は確かな希望と熱気に包まれた。
***
カナエが鎹鴉を放ってから、わずか数時間後のこと。
「こんにちはーっ!!」
蝶屋敷の重厚な門を元気いっぱいに叩く音が響いた。
大風呂敷に包まれた大量の荷物を抱え、桜餅色の髪を弾ませながら立っていたのは、恋柱・甘露寺蜜璃だった。
「カナエちゃーん! マヤさーん! お館様から許可をもらって、訓練のために来ちゃいましたっ! しばらくよろしくお願いします!」
「いらっしゃい、蜜璃ちゃん。歓迎するわ」
出迎えたカナエが、柔らかく微笑む。
「おう、大歓迎だぜ!」
マヤも陣羽織を翻して玄関に姿を現した。だが、その顔つきはいつもの呑気なものではなく、どこか真剣な色が混じっていた。
「……だがその前に。今日からうちの身内になって寝食を共にするなら、みつりちゃんには大事な『秘密』を共有しておかねえとな」
「え? ひ、秘密……ですか?」
蜜璃が目をぱちくりと瞬かせる。
「驚かずに聞いてくださいね。今から、地下へ案内します」
しのぶが静かに先導し、蜜璃を離れの納屋へと連れていく。
隠し扉を抜け、ひんやりとした冷気が漂う地下の実験室へ足を踏み入れた蜜璃は、そこに佇む美しい女性の姿を見て、一瞬で柱としての鋭い警戒心を露わにした。
「ええええっ!? お、鬼!? どうして蝶屋敷に!」
蜜璃が腰の日輪刀に手をかけようとする。
「落ち着いて、蜜璃ちゃん」
カナエが素早く蜜璃の肩に手を置いた。
「彼女は珠世さん。私たちと一緒に、お館様の呪いを解く薬……そして、鬼を人間に戻す薬を研究してくれている、大切な協力者なの」
「俺が森の奥に生け簀として鬼を生かしておいてるんだ、その研究のための血が必要だったからだ」
マヤが静かに言葉を引き継ぐ。
「親方様も、このことは極秘で了承してくれてる。……みつりちゃん、俺たちを信じて、一緒にこの秘密を守ってくれないか?」
鬼殺隊の柱として、鬼を憎み滅ぼすことを是としてきた蜜璃。
だが、彼女の瞳には戸惑いよりも先に、温かい涙が溢れ出していた。
「っ……! もちろんです!」
蜜璃はぽろぽろと大粒の涙を流しながら、力強く頷いた。
「大好きなカナエちゃんやマヤさんが、お館様のために、そして人を救うためにやってることなんだもの……! 私、絶対に誰にも言いません! 私も全力で協力するわ!」
一切の打算もなく、真っ直ぐに仲間を信じ抜く蜜璃の純粋さに、珠世も思わず胸を打たれ、深く頭を下げた。
「ありがとう、みつり。……それと、お前に少し騙してたことがある」
「え? なんでしょうか?」
涙を拭う蜜璃に、マヤは真っ直ぐに向き直った。
「上弦の弐を、カナエが退けたって話、知ってるよな?」
「はい! 上手く逃げ切れたと聞きました。どんな技を使うかも共有されていて、今、柱だけでなく全体を通して対策の練習に励んでいます!」
マヤは隣のカナエにチラリと視線を向けた。
「カナエ、少し話してもいいかな?」
「ええ、いいわ。その方が、今後蜜璃ちゃんにも色々と分かりやすくなると思うもの」
カナエが優しく微笑んで許可を出す。
「……実はな、あの上弦の弐を一撃でブッ飛ばして退けたのは、カナエじゃなくて俺なんだ」
「えっ……!?」
蜜璃の目が、これ以上ないほど見開かれた。
「この前の下弦の時も、俺が木刀を使ってたのは、力を抑えるためなんだよ。一撃で殴り殺せるくらいには力が強ェから。あの時は、お館様の治療薬のために、下弦の血液サンプルを殺さずに採りたかったんだ。だからあんな三文芝居を打った。騙すような真似をしてすまなかったな」
「そ、それは……凄すぎます!!」
蜜璃の顔が、驚愕と興奮で一気に紅潮していく。
「ええっ!? 上弦を退けて、下弦を殴り殺せる!? 凄ぁい……!」
「もしかしたら、みつりも『殴り(体術)』を覚えれば、戦闘の幅が広がると思うぜ。間合いを広げたり、牽制にもなるしな」
「確かに! 私の武器は遠近両方を捉えられるので、接近戦での殴りもあると、もっと幅が広がります!」
「そこで、みつりの『筋力が常人の八倍』って特異体質が最高に役立つんだよ。それだけ筋肉の密度があれば、剣だけじゃなく色んなことができるぞ? よし、今日から俺が直々に稽古をつけてやる」
「えっ……! い、いいんですか!?」
柱でもない彼にそこまでしてもらうのは、と遠慮しかけた蜜璃に対し、マヤは親指で自分を指差してニッと笑った。
「おう。俺、『極秘の柱』なんだわ」
「えええええええっ!? か、かっこよすぎる……!!」
「『日常柱』っていうのを、お館様と秘密で共有してる。鬼殺隊に属さない代わりに、この蝶屋敷の日常と番人をやってる柱だからな。身内になったお前の稽古もバッチリつけれるぞ」
強くて、優しくて、底知れない実力を持ちながら、名誉を捨てて密かにみんなを守り続けている男。
蜜璃の頭の中で、マヤの存在が完全な『白馬の王子様』へと昇華された瞬間だった。
「マヤさぁぁぁぁぁんっっ!!」
ドンッ!!
感極まった蜜璃が、凄まじい勢いでマヤの広い胸板へ飛びつき、両手でギュウッと抱きついた。桜餅色の柔らかい髪がマヤの鼻先をくすぐり、豊かな胸の感触が陣羽織越しに押し付けられる。
「おっ、おわっ!?」
不意打ちの抱擁に、さすがのマヤも数歩たたらを踏んだ。
(((ああああああ!!! この無自覚タラシが……!!)))
背後で見ていたカナエとしのぶが、ギリッと歯を食いしばる。
(((みつりちゃん、やったな!? さすが恋柱!! 隙がないわ!!)))
冷静沈着なはずの珠世までもが、大正の乙女たちの凄まじい恋の攻防戦を前に、内心で激しいツッコミを入れてしまっていた。
***
「よっしゃ、秘密の共有もできたし、早速稽古をつけるぞ」
荷物を解くのも早々に、マヤと蜜璃は蝶屋敷の裏庭へと移動していた。
真夏の容赦ない日差しが照りつける中、マヤは腕まくりをし、蜜璃は動きやすいように隊服の羽織を脱いでいる。
「みつりちゃんの『八倍の筋肉』、剣だけじゃなく体術でももっと上手く使えるはずだ。まずは基本的な立ち方と、体重の乗せ方からだ」
「は、はいっ! マヤさん、よろしくお願いします!」
蜜璃が気合を入れて、素手での構えを取る。
「いい返事だ。……ほら、そこはもっと肩の力を抜いて。こうだ。この腰と腕に、体重の移動を乗せる感覚で……」
マヤは全く悪気のない、純粋な指導者としての真剣な顔で、蜜璃の背後へとピッタリと回った。
そして、その分厚く大きな両手で、蜜璃の細く引き締まった腰をガシッと掴み、もう片方の手で彼女の腕を包み込むようにして姿勢を矯正し始めた。
「ひゃあっ……!?」
蜜璃の肩が、ビクゥッと跳ねた。
(ま、マヤさんの体が、息が、近い……っ!!)
すぐ背中から、マヤの分厚い胸板の熱が直に伝わってくる。耳元には彼の低い声が響き、腰を掴む大きな手のひらの感触が、蜜璃の思考を完全にショートさせていく。
(ドッキィィン!! ドッキィィン!!)
心臓の音が、自分でも分かるほどに激しく打ち鳴らされる。
「ん? どうした? 顔が赤いぞ。大正の夏は暑いからな、無理すんなよ?」
マヤが心配そうに蜜璃の顔を覗き込む。
「い、いえっ! 大丈夫ですぅ……っ!」
蜜璃は頭からプシューッと湯気を上げ、完全に茹でダコのようにポワポワになりながらも、マヤの密着指導に身を委ねていた。
一方、その光景を縁側の物陰から見守っていた三姉妹の周囲には、真夏だというのに氷点下のような冷気が漂っていた。
「……あの人、絶対分かっててやってますよね? 距離が近すぎます」
しのぶが、ギリリッと奥歯を噛み鳴らしながら呟く。
「マヤさんに下心はないんでしょうけど……蜜璃ちゃん、茹でダコみたいになってるわね……」
カナエもまた、笑顔のままでピキピキと青筋を立てている。
「……マヤ、近い」
カナヲまでが、ジト目で庭の二人をじーっと見据えていた。
殺気すら混じった乙女たちの視線が、マヤの背中に突き刺さる。
バサバサバサッ!!
その時、空から一羽の鎹鴉が舞い降りてきて、縁側の手すりに止まった。
カナエが先程、お館様へ手紙を持たせて飛ばしたばかりの鴉だ。産屋敷邸と蝶屋敷は距離が近いため、伝令の行き来も異常に早い。
「カァァァッ!! オ館様ヨリ!! イツデモオイデ、トノコト!! イツデモオイデ!!」
「おっ」
マヤが蜜璃からスッと離れ(蜜璃は少し名残惜しそうにしていたが)、鴉の方へ歩み寄る。
「親方様からもう返事が来たか。相変わらず仕事が早いねぇ」
「早すぎますね……。お館様も、ご自身の治療の希望が見えたことで、少し急いでおられるのかもしれません」
しのぶが冷静な医者の顔に戻り、スッと立ち上がった。
「では、今日の体術の稽古は一旦ここまでにして、日が暮れたらまたお館様の元へ採取に向かいましょうか。マヤさん」
「おう。親方様の呪いを完全にぶっ壊す特効薬、早く完成させねえとな」
蜜璃という新たな身内(そして強力な恋のライバル)を迎え入れた蝶屋敷。
お館様を救うという鬼殺隊最大の悲願に向けた歯車は、彼らの騒がしくも温かい日常の中で、確実に、そして劇的な速度で回り始めていた。