産屋敷邸の奥深く、当主の私室。
普段であれば、最高位の剣士である柱たちでさえ滅多に足を踏み入れることのないその神聖な空間には、静寂と、微かな香の匂いが漂っていた。
上座の布団に半ば身を起こして座る産屋敷耀哉の前に、マヤ、カナエ、そしてしのぶの三人が正座をしている。
「……以上のデータが、先日の手合わせの際に採取させていただいた、お館様の血液サンプルと試作薬の反応結果です。細胞の異常な崩壊プロセスが完全に停止し、緩やかにですが、正常な状態へと修復する兆しを見せました」
しのぶの報告が終わると、部屋に重い沈黙が落ちた。
耀哉の顔の上半分を覆う、赤黒く爛れた呪いの病変。それが進行を止め、あわよくば治癒するかもしれないという、産屋敷一族の千年の歴史を覆す途方もない報告であった。
「……」
耀哉が、微かに震える手で自身の頬に触れ、静かに息を吐く。
その沈黙を破ったのは、マヤだった。
「単刀直入に言うぜ、親方様」
マヤは姿勢を崩さず、真っ直ぐに耀哉を見据えた。
「この薬の第一号の被験体……悪く言えば『検体(モルモット)』になってほしいんだ。定期的にあんたの血を抜いて、症状の進行度合いに合わせて薬を調整して打つ。上手くいけば治るし、最悪駄目でも……あんたの体に残った反応は、次の世代へデータとして必ず活かせる」
「マヤさん!? お館様に向かって、モルモットだなんてそんな言い方……っ!」
しのぶが青ざめ、慌ててマヤを窘めようとした、その瞬間だった。
ズサッ。
畳が擦れる深い音が響いた。
マヤが、深く、深く頭を下げたのだ。
その広い額を畳にピタリと擦りつけ、両手をつく、完全なる『土下座』。
「っ!?」
カナエとしのぶが、息を呑んで硬直する。
「こんな事してまで頼み込むのは、間違ってるかもしれねえ」
床に向けられたマヤの低く太い声が、部屋の空気を震わせた。
「だが、しのぶが血を吐くような思いで日夜研究して出した成果を、どうしても信じてやってほしいんだ。……それに、この研究には『鬼』が関与してる。無惨の呪いを自力で解くほどの医学知識を持った鬼だ。鬼殺隊のトップであるあんたからすりゃ、到底受け入れられねえ忌むべき存在かもしれない。だがな、医者の目線から見れば、人を救うのに鬼も人間も関係ねえだろ。どうか……しのぶと、あいつの成果に懸けてみてくれ」
静寂。
しのぶは、自分のすぐ横で地に頭をつける、その分厚く大きな背中を呆然と見つめていた。
(ああ……)
しのぶの心の中で、これまでの日々が走馬灯のように駆け巡った。
柱合会議で、あれほど不遜な態度を貫いた男。他の柱や権威に決して屈することなく、自分の信念だけで真っ直ぐに立ち続けていた、強くて誇り高い男。
その彼が今、自分のために。自分が積み重ねてきた努力を、ただ認めてもらうためだけに、一切の躊躇もなく、泥を被るように頭を下げている。
(……私、この人のことが、好きなんだ)
すとん、と。
胸の奥で燻っていた得体の知れない熱が、ひとつの明確な形となってパズルに嵌まった。
医者としての尊敬、頼れる門番への信頼。そんな理由をつけて誤魔化してきたが、とうの昔に自分の心は彼に奪われていたのだと、はっきりと自覚してしまった。
(蜜璃ちゃんが夢中になるのも当然ね……。こんなの、好きにならないわけがないじゃない……っ)
しのぶの視界が、不意に熱い涙で滲んだ。
「……頭を上げておくれ、マヤ」
耀哉の、ひどく穏やかで、慈愛に満ちた声が降ってきた。
「君たちからこれほどの希望(成果)を見せられて、駄目だと言うのは野暮というものだよ」
耀哉は微笑み、マヤがゆっくりと顔を上げるのを待って、言葉を続けた。
「それにしても、自力で無惨の呪いを解くとは、相当な執念と医学の知識の持ち主なんだね。僕の代で駄目でも、次が救えるなら素晴らしいことだ。よくやってくれたね、しのぶ」
「お、お館様……っ」
しのぶが感極まったように頭を下げる。
「その鬼の方にも、感謝しないとね。……まさか、鬼殺隊当主であるこの僕が、鬼に感謝する日が来るとは思わなかった。そのうち、薬を打つ段階になったら、ぜひ名を教えてほしいよ」
耀哉がしみじみとそう口にした、次の瞬間。
「『珠世(たまよ)』っていう鬼だ」
マヤが間髪入れずに即答した。
「……」
耀哉が、目を丸くして数秒間固まった。
それから、肩を震わせ、堪えきれないといった様子で吹き出した。
「ふふっ……はははっ! あはははっ!!」
「お、お館様……?」
カナエが驚きに目を瞬かせる。耀哉がこれほど声を上げて笑う姿など、見たことがなかったからだ。
「ははっ、いや、すまない。……君のそういう、裏表のない素直なところは凄くいいよ、マヤ。……ありがとう。生い先短いと思っていたが、未来があるなら……僕は、泥を啜ってでも足掻いていくよ」
耀哉の瞳には、死を待つだけの男ではない、確かな生命力の炎が宿っていた。
「よし、決まりだな。しのぶ、早速今日の分のサンプルを貰っておけ」
「は、はい!」
しのぶが素早く鞄から注射器を取り出し、耀哉の腕から手際よく数本の採血を行う。
その様子を見ながら、マヤが腕を組んでふざけた調子で言った。
「おいしのぶ、あまり抜きすぎるなよ? ただでさえ病人なんだ、やりすぎて貧血でぶっ倒れられちゃ困るからな」
ピキッ。
しのぶの額に青筋が浮かんだ。
「……っ! な、なんて酷い冗談を言うんですかマヤさんは!」
「マヤさん! いくらなんでも不謹慎すぎます! お館様に向かってなんてことを……!」
先程まで惚れ直していたはずのしのぶとカナエが、揃ってドン引きしながらマヤを咎める。
「ふふっ……はははっ」
だが、耀哉はまたしても楽しそうに笑っていた。
「いいんだよ、二人とも。……私を、腫れ物のような『病人』としてではなく、ただの対等な一人の人間として扱ってくれる。それが、ひどく心地良いんだ」
耀哉のその言葉に、マヤは「だろ?」とでも言いたげにニッと笑い、二人の姉妹は毒気を抜かれたように小さく息を吐き出した。
***
産屋敷邸を後にし、蝶屋敷へ帰還したマヤたちは、その足で真っ直ぐ地下施設へと向かった。
そこには、留守を預かっていた珠世、そして特訓の疲れを癒していた蜜璃とカナヲが待っていた。
「……ってなわけで、親方様も快く被験体になってくれるそうだ。必要なら定期的にサンプルも渡すと言ってくれたぜ」
「本当ですか……!」
マヤの報告に、珠世が両手で口元を覆う。
「ただ、わりぃ珠世。俺、許可なくお前の名前を親方様に教えちまった。あとになって知るより先に教えたほうが良いと思ってよ」
マヤがポリポリと頭を掻きながら謝罪する。だが、珠世は激しく首を横に振った。
「マヤ……謝らないでください。鬼殺隊の当主様が、私の……私としのぶさんの成果が無駄じゃないと、感謝してくださった……。私の名前を知り、受け入れていただけただけで、私は……っ」
珠世の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。数百年、たった一人で暗闇の中で足掻き続けてきた彼女にとって、それはどれほどの救いだっただろうか。
「今日はマヤさん、謝ってばかりですね」
しのぶが、まだ赤い目元を擦りながら、優しく微笑んだ。
「……珠世さん、聞いてください。マヤさん、私たちの研究を信じてもらうために……お館様に、『土下座』までしてくれたんですよ」
「え……っ」
珠世が息を呑む。
「マ、マヤさんが土下座……!?」
蜜璃の大きな瞳から、一瞬で滝のような涙が噴き出した。
「私たちのために……っ! あの強くて優しくて、かっこいいマヤさんが、頭を下げて……っ! うわぁぁぁん!! マヤさぁぁぁんっ!!」
「えっ、ちょ、みつり!?」
泣きじゃくる蜜璃がマヤに飛びつき、その胸に顔を埋めてボロボロと涙を流し始める。
それを見たカナエも、ついに堪えきれずに目から大粒の涙をこぼした。
「本当に……あなたは、どうしてそこまで……私たちのために……うっ、ぐすっ」
「……マヤ、すごい」
カナエが袖で涙を拭い、カナヲまでもがトコトコと歩み寄って、マヤの陣羽織の裾をギュッと握りしめて涙ぐんでいる。
気がつけば、珠世も声を殺して泣き始め、地下室は乙女たちの感動の涙で完全に水没しかけていた。
「お、おいおい! なんで全員で泣いてんだよ! 俺は別に大したことは……って、みつり、鼻水をって、まーいいか。ありがとよ」
巨大な好意と尊敬の念、そして四方八方から押し寄せる涙の波状攻撃に、歴戦の強者であるマヤも完全にタジタジになっていた。
「ふふっ……本当に、マヤさんには敵いませんね」
一人だけ冷静さを取り戻していたしのぶが、くすくすと笑いながらその光景を眺めていた。
ふと、しのぶの脳裏にひとつの疑問がよぎる。
「あ……そういえば珠世さん。浅草でお留守番している『珠世さんのお弟子さん』は、大丈夫なんですか……? もう随分と放ったらかしですが……」
ピタリと。
珠世の涙が止まり、明後日の方向へと視線が泳いだ。
「あ……。ええ、あの子は意外としっかりしていますから。きっと、私の事情も分かってくれているはずですわ……」
額に微かな冷や汗を浮かべる珠世。
(((絶対に分かってない顔だ、これ……)))
マヤ、カナエ、しのぶの三人の心が、この時ばかりは見事に一つになった。
お館様への希望の光、共有された秘密、そして乙女たちの深まる想い。
遠く浅草の地で、最愛の主を奪われた怒り狂う少年の存在を一旦棚上げにしたまま、蝶屋敷の賑やかな夜は更けていくのであった。