冷てつく冬の森に、不自然なほどの静寂が降りていた。
先ほどまで空間を埋め尽くしていた、上弦の鬼が放つ肺を凍らせるほどの死の冷気は、もうどこにもない。代わりに漂っているのは、土が爆ぜた匂いと、目の前に立つ男から発せられる陽炎のような熱だった。
「立てるか?」
無造作に差し出された大きな手。
カナエは、自分をいたぶっていた鬼が残した恐怖の残滓と、目の前の男が放つ温かくも異質すぎる気配の狭間で、ただ無言でその手を見つめ返した。
赤髪に赤い瞳。極寒の夜の森で上半身を晒しながら、寒がる素振りすら見せない。その肌からは、先ほどの圧倒的な一撃を放った余韻なのか、チリチリと空気を焦がすような異常な『闘気』が立ち昇っている。
カナエは小さく息を呑み、震える手を伸ばして、その手を取った。
「……っ」
立ち上がろうと力を作れた瞬間、全身の浅い傷と、凍りかけていた肺が悲鳴を上げた。膝から力が抜け、そのまま雪の上に崩れ落ちそうになる。
だが、その身体が冷たい地面に打ち付けられることはなかった。
「っと、無理すんな。結構血が出てるな」
男が、倒れかけたカナエの肩を支え、ゆっくりと近くの太い木の根元へと座らせる。
そして、彼は無造作に自身の掌を、カナエの背中へと当てた。
「少し、じっとしてろ」
次の瞬間だった。
カナエの身体が、びくりと跳ねた。
男の掌から、信じられないほどの熱が流れ込んできたのだ。それは火の熱さではなく、まるで真昼の太陽を直接身体の奥底に注ぎ込まれているような、圧倒的な生命力の奔流だった。
「これは……?」
「いいから、息を整えな。凍ったところを溶かして、塞ぐから」
男の言葉と共に、体内を満たしていた絶望的な悪寒が、嘘のように引いていく。
それだけではない。童磨の氷の刃によって切り裂かれ、血を流していた全身の裂傷が、熱を帯びた闘気に包まれると同時に、かさぶたにすらならず塞がっていくのが分かった。
――温かい。
先ほどまで、死の淵に立たされていた。もう二度と、大切な妹の顔を見ることはできないのだと、心のどこかで覚悟を決めていた。
それが今、自分は生きている。痛みも消え、ただ柔らかな熱に包まれている。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
カナエの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。恐怖からではない。純粋な安堵と、生への実感からくる涙だった。
薄紅色の羽織は血に濡れ、激しい戦闘のせいでひどく乱れている。それでも、彼女の身体からは確実に死の影が払拭されていた。
その時だった。
「姉さん……っ!!!」
森の静寂を切り裂くように、悲痛な叫び声が響き渡った。
木々の間を猛烈な速度で駆け抜けてきたのは、小柄な少女――胡蝶しのぶだった。
鎹鴉からの急報。上弦の鬼との遭遇。姉が死ぬかもしれないという絶望と焦燥に駆られ、心臓が破けそうなほどに息を切らして走ってきた。
彼女の頭の中は、最悪の想像で埋め尽くされていた。血の海に沈む姉。冷たくなったその身体。
だからこそ、森が開けた場所に飛び込んだしのぶは、眼前に広がる光景に完全に思考を停止させた。
凄まじい戦闘の痕跡。無数にへし折られた大木と、放射状に抉れた大地。
その中心の木の根元に、姉のカナエが座り込んでいた。
服は血まみれで激しく乱れ、その目からは涙がこぼれている。
そして――姉のすぐ傍らには、異常な闘気を放つ、見知らぬ『半裸の男』が立っていた。
「…………姉さん?」
しのぶは、日輪刀の柄に手を掛けたまま、呆然と声を漏らした。
生きていた。その事実に対する安堵が胸を満たすよりも早く、状況の異常さが彼女の理性を激しく揺さぶった。
カナエが涙を拭いながら、顔を上げる。
「しのぶ……」
姉の無事な声を聞いた瞬間、しのぶの鋭い視線が、即座に隣の男へと突き刺さった。
「あなた……姉さんに何を?」
地を這うような、底冷えのする声だった。
上弦の鬼がどうなったのかなど、この際どうでもいい。しのぶの目には今、血だらけで泣いている姉と、その隣に立つ異様にガタイのいい半裸の不審者という構図しか映っていなかった。
突然睨まれた男――マヤは、きょとんとした顔で振り返る。
「え?」
「しのぶ、違うの」
カナエが慌てて立ち上がろうとする。
「……違う?」
しのぶの目が細められる。柄を握る手にギリッと力が入った。
「俺は助けただけだよ?」
マヤが心底不思議そうに首を傾げる。
「…………上半身裸で?」
しのぶの声が震えていた。怒りか、困惑か、自分でももはや分からない。
「気づいたら服がなかったんだ」
マヤは真顔で答えた。転移の際に上着が消し飛んだという事実を、彼なりにそのまま伝えただけだった。
「…………」
しのぶの思考が、完全に停止した。
(助けた? 上弦の鬼から? この半裸が? 気づいたら服がない? どういうことですか、それは)
脳内で暴れ回るツッコミの嵐を、なんとか理性で押さえ込む。
「気づいたら、変なやつと女が戦ってたからよ。間に割って入った。それがまずかったのなら、悪かった」
マヤが頭を掻きながら謝罪の言葉を口にする。
だが、しのぶの混乱は収まらない。
「そういうことではないんですが……!」
相手が本当に姉を助けてくれた恩人であるなら、刃を向けるわけにはいかない。しかし、どう見ても冬の夜更けに半裸でうろついている男を、手放しで信用することなどできるはずがなかった。
「私はどうなっていたかわからなかったです。ありがとうございます」
ピリピリとした空気を和ませるように、カナエがふんわりと、心からの笑顔をマヤに向けた。
死の恐怖を乗り越え、安堵に満ちたその笑顔は、冬の寒さを忘れさせるほどに温かいものだった。
マヤはそれを見ると、少しだけ目を見張り、やがて相好を崩した。
「おう。なんか、いい笑顔だぞ。よかったよ。ダメなのかと思ったからよ」
先ほどまでの童磨の、他者をいたぶるための気味の悪い笑顔ではない。
目の前の女が、心底安心して笑ってくれている。その事実に、マヤは腹の底から安堵していた。女性が泣いているのも、苦しんでいるのも、彼にとっては最も忌むべきことだからだ。
カナエは、真っ直ぐに向けられたその言葉に、少しだけ頬を染めて微笑んだ。
だが、その和やかな空気を、しのぶの鋭い声が引き裂いた。
「姉さん? でも、よかったです。傷もないようですし……って、え!?」
しのぶの医者としての鋭い観察眼が、異常事態を捉えた。
姉の羽織や隊服は、刃で切り裂かれたようにボロボロになり、大量の血を吸っている。当然、その下には重傷があるはずだ。
だが、破れた衣服の隙間から覗く姉の肌には、傷痕はおろか、かさぶた一つ見当たらなかった。
「貴方! 姉さんになにをしたの!?」
「しのぶ、違うのよ。何か勘違いしてるわ!」
ついに日輪刀を半分引き抜いたしのぶに、カナエが慌てて制止に入る。
もはや現場は、上弦の鬼が消え去った後とは思えないほど、カオスな空気に包まれていた。
「お姉さん、じゃあ、あれだな」
そんな緊迫した姉妹のやり取りを、マヤの声が真っ二つにぶった切った。
「俺はマヤだ。名前、教えてもらっていいかな?」
「…………は?」
しのぶの口から、素の呆れ声が漏れた。
「あ……そうね。私は、胡蝶カナエよ。ありがとう、マヤさん」
カナエが素直に名乗る。
「もし、もーし! 話変えないでくれませんか!? 今名乗り合ってる状況ですか!?」
しのぶが吠えた。
「名前も知らない相手とは、うまく話せないだろ? 俺はマヤだよ」
マヤが事も無げに言う。
「……胡蝶しのぶです。で! なんでこんなことに!?」
しのぶの半ば悲鳴のような問いかけに、カナエは困ったように微笑みながら、これまでに起きた出来事を説明し始めた。
上弦の弐という、強大な力と狂気を持った鬼と遭遇したこと。
夜明けまで必死に耐え凌いでいたが、限界を迎えていたこと。
そこへ、このマヤという男性が現れ、あの化け物をたった一撃で、遥か彼方まで吹き飛ばしてしまったこと。
そして――見たこともない不思議な力で、致命傷になりかけていた自分の身体を一瞬で治療してくれたこと。
「……というわけなんです」
「…………」
すべてを聞き終えたしのぶは、無言で目の前の男を見た。
上半身裸。
先ほどまであの恐るべき鬼と戦っていたとは思えないほど、涼しい顔をしている。刀すら持っていない。どう見ても鬼殺隊の隊士ではない。
それなのに――あの氷の化け物を一撃で吹き飛ばした。
「じゃあ、俺はそろそろ行こうかな」
呆然とするしのぶをよそに、マヤはふらっと背を向け、森の奥へと歩き出そうとした。
「お待ちください!」
凛とした声が、冬の空気を震わせた。
振り返ったマヤの視線が、カナエを捉える。
一瞬。
本当にほんの一瞬だけ、その場の空気がわずかに重くなった。
しのぶは思わず息を呑んだ。姉から放たれたのは、先ほどまでの優しい姉としての気配ではない。剣士としての――『柱』としての気迫だった。
「……申し訳ありません」
カナエは笑みを崩さなかった。
しかし、鬼殺隊の柱としての判断は、彼女の中で既に下っていた。
――得体が知れない。
鬼殺隊の者ではない。それなのに、あの上弦の鬼を一撃で退け、傷を一瞬で塞ぐ奇跡のような力を持っている。
そのような男を、このまま野に放ち、一人で行かせるわけにはいかない。彼が人間に与する者であればこれほど心強いことはないが、そうでなければ、これほど危険な存在もない。
「どうした?」
マヤが不思議そうに足を止める。
「いえ。服でしたら、こちらで用意いたします」
「服?」
「はい。一度、我が家へ来ていただけませんか?」
カナエの言葉に、しのぶの肩がビクッと跳ねた。
「いいの?」
「本来なら、鬼殺隊の関係者でなければ入ることのできない場所なのですが……」
カナエは少しだけ姿勢を正し、言葉に確かな重みを持たせる。
「今回は、柱としての権限と、当主である私の判断で。お礼をさせていただきたいのです」
その提案に、ついにしのぶの理性が限界を迎えた。
「ねえさん!!!」
「はい?」
「何を言ってるんですか!?」
しのぶは姉と、呑気な顔をしているマヤを交互に見る。
「このような……その……得体の知れない人を、蝶屋敷などへ招いては……」
言葉が途切れる。
言いたいことは山ほどあった。素性が分からない。危険かもしれない。なにより半裸だ。
しかし、自分はまだ柱ではない。隊律においても、家長としても絶対の権限を持つ姉の判断を、これ以上否定する言葉を持っていなかった。
「…………っ、んー……」
奥歯を噛み締め、葛藤するしのぶ。
そこへ、当の本人であるマヤが間の抜けた声を入れる。
「え? どっちなんだろ」
「え?」
「俺としては服がもらえるならありがたい提案なんだけど。その、なんとか隊ってのもよく分からないんだよね」
「…………」
(この人は、今の姉さんの言葉の重みや組織のルールを、全く分かっていない……!)
しのぶの頭痛がさらに加速する。
「大丈夫ですよ、しのぶ」
カナエは妹へ向けて、優しく、けれど有無を言わせない微笑みを向けた。
「私の判断です。当主である私の言うことを、ここは聞いて頂戴」
「…………はい」
渋々引き下がるしのぶを見て、カナエは再びマヤへと視線を戻す。
「それと――」
カナエが、しのぶを示すように手を向ける。
「しのぶは、私の妹ですので。どうぞ、よしなに」
「妹? ああ、そうなんだ」
マヤは特に驚く様子もなく、しのぶを見て軽く手を挙げた。
「じゃあ、よろしく」
「…………」
(……よろしく、じゃない。よろしくじゃないんですが!)
凄まじい戦闘力を持つ謎の男を監視下に置こうとする、姉の高度な計算。
絶対の権限を持つ家長の決定。
そして、ただ服がもらえるからと呑気についてくる半裸の男。
すべての情報と感情が許容量を超え、しのぶの頭の中は完全にパニック状態のまま、真っ白にフリーズした。
夜明けの柔らかな光が森に差し込む。
呆然と立ち尽くすしのぶと、ふんわりと微笑むカナエ、そして寒さを気にする様子もない半裸のマヤ。
噛み合わない三人の奇妙な関係性が、ここから始まろうとしていた。