秋の夜風が、大正の街並みにほんのりと冷気を運んでくる。
ガス灯の柔らかい光が石畳を照らし、行き交う人々の影を長く伸ばしていた。
「おいおい……お前ら、急にどうしたんだ?」
街の喧騒の中で、ひときわ目を引く大男――マヤが、深く困惑した声を上げた。
仕立て屋へ新しい陣羽織を受け取りに向かう道中、マヤの周囲には、誰もが振り返るほどの麗しい女性たちが、まるで見えない縄で縛り付けられているかのように密着していたのだ。
「えへへっ、マヤさんっ」
右腕には、桜餅色の髪を揺らす甘露寺蜜璃が、その豊かな胸の感触を全く隠そうともせずに堂々と抱きつき、指を絡ませている。
「もう、蜜璃ちゃんはずるいわね。じゃあ、私は左腕をいただきます」
左腕には、胡蝶カナエが上品に微笑みながらもしっかりと腕をホールドし、マヤの体温に身を委ねていた。
さらに、背中には胡蝶しのぶがぴったりとくっつき、マヤの陣羽織の裾をカナヲが両手でギュッと掴んで離さない。
「こんなにひっついたら歩けねえぞ。それに、街の連中がすげぇ目で見てるじゃねえか」
マヤがタジタジになりながら周囲を見回す。すれ違う町民たちは、筋骨隆々とした巨漢の男に美女たちが嬉しそうに群がっているという規格外の光景に、目を丸くして道を譲っていた。
「え〜? いいじゃないですか!」
蜜璃がマヤの腕に頬を擦り寄せながら、あっけらかんと言い放つ。
「だって、音柱の宇髄さんのところだって、お嫁さんが三人いて、みーんなでくっついて歩いてますよ!」
「そうね。宇髄さんも、奥様たちをどなたも等しく、ご自身の命よりも大切に愛していらっしゃるもの。とても素敵なご家族だわ」
カナエがふんわりと笑いながら同意する。
「ええ。それに……マヤさんのような強いお方なら、これくらい当然の『甲斐性』ですから」
背中に密着したしのぶが、マヤの耳元で艶やかに囁いた。
大正時代。富裕層や実力者の間で、本妻の他に妾を囲い、同じ屋根の下で暮らす「妻妾同居(さいしょうどうきょ)」は、男の経済力と度量を示す『甲斐性』として、まだ一定の社会的容認が残る時代であった。
宇髄天元という一夫多妻の姿を身近で見ている彼女たちにとって、共に家族として一人の男性を支え、愛を分かち合うことは、極めて自然な事であった。
「お前らなぁ……」
マヤはポリポリと頭を掻きながらも、決して彼女たちを振り払おうとはしない。その底抜けの優しさと包容力に、乙女たちの恋心はさらに熱を帯びていく。
そんな彼女たちの微笑ましい争奪戦を、数歩後ろから静かに見守っている女性がいた。珠世である。
先日の夜、マヤから「極上の飴玉」を与えられた珠世は、心身ともに深い充足感で満たされていた。今はあのようにガツガツと距離を詰める必要はない。ただ、マヤが作り出すこの騒がしくも温かい日常の空気を吸っているだけで、数百年凍りついていた魂が穏やかに解けていくのを感じていた。
***
なぜ彼女たちが今日、示し合わせたようにここまで「ぐいぐい」と攻め込んでいるのか。
その理由は、出発前の蝶屋敷で開かれた、乙女たちの密談に遡る。
マヤがカナヲの稽古を見ていた日の午後。カナエ、しのぶ、蜜璃の三人は、奥の和室で膝を突き合わせていた。
「蜜璃ちゃん、マヤと、やはり……そういう関係にと?」
カナエが探るように尋ねると、蜜璃は顔を真っ赤にして両手で頬を押さえた。
「理想の旦那様って感じがします! でも、私だけじゃなくて……みんなで一緒に居られたらいいなとも思います。宇髄さんのお家のように……」
蜜璃の純粋で素直な言葉に、カナエは深く頷いた。
「それなら、一つ提案があるの。蝶屋敷の現当主はまだ私だけど、いずれ、しのぶが継ぐ時が来るでしょう。そうなったら、しのぶ。……貴方が『正妻』になりなさい」
「姉さん!? 急に何を!」
突然の指名に、しのぶが目を丸くして立ち上がりかけた。
「私は、当主なんて……姉さんがいるのに……!」
「しのぶ、自分に自信を持ちなさい」
カナエは妹の手を優しく握り、真っ直ぐにその目を見つめた。
「貴方の持っている医療知識が、これからお館様や珠世さんの研究にもたらす影響は計り知れないわ。その時、しのぶの隣にはマヤがいて……周りを、私と蜜璃ちゃんで支えるの。遠くない未来のお話よ? しのぶが、マヤの事が嫌だというなら話は別だけれど……」
「嫌な事なんて、あるわけないじゃないですか……」
しのぶは視線を落とし、顔を赤らめた。
「宇髄さんの家のような例もありますし……マヤさんは、お館様とあんな風に真っ向から話をして、蝶屋敷に地下施設まで作れるように便宜を図って、定期的に資金も出してもらえるようにしてくださった方ですし」
「えっ!?」
しのぶの言葉に、蜜璃が素っ頓狂な声を上げた。
「マヤさんって、そんなこともしてたんですか!? お館様と交渉して、経済支援の約束まで!?」
「そうよ。あの実験施設の費用、その使い道、すべてマヤが考えて動いてくれたの。それに……私達のことを、誰よりも大事にしてくださっているもの」
カナエが誇らしげに微笑む。その『甲斐性』の凄まじさに、蜜璃はただ呆然と口を開けていた。柱ですらおいそれと口出しできない当主から、そこまでの信頼と支援を勝ち取るなど、並の男にできることではない。
「姉さんを差し置いて……でも、本当にいいんですか?」
しのぶがまだ迷うように尋ねると、カナエは優しく微笑んだ。
「私は、しのぶだからいいと思っているわよ? 珠世さんもたぶん……ね」
「ひぇ〜……凄いです。柱合会議での堂々としたお姿も凄かったのに、裏でそんなことまで……」
蜜璃が目を輝かせ、深い溜息を吐いた。
「私も、いつ死ぬか分からない身ですし、今はマヤさんの傍にいたいです。だから、未来はしのぶちゃんが正妻で……私は、傍に置いてくれて、一緒に居られたらいいですね。みんなで夫婦でも、すっごく素敵だと思います!」
「蜜璃ちゃんは、さすが恋柱ね。もう一直線って感じが凄いわ……」
カナエがクスクスと笑うと、蜜璃はガッツポーズを作った。
「なので! 今度のお買い物は、みんなでぐいぐいいって、マヤさんを困らせてしまいませんか!?」
「ふふっ。蜜璃ちゃんも、マヤの初心さに気づいたのね。ええ、それでいきましょう」
カナエが楽しそうに同意する。
「いきなりすぎませんか!? って……もう……はぁ〜。でも、待っているより、それが一番早い気がします」
しのぶも観念したようにため息をつきつつ、その瞳には明確な闘志と恋心が宿っていた。
「珠世さんは、こんな結果になることをすでに見越していたのかもね……。あの時、上手くやられたと今になって思うわ」
カナエが、先日の「キスの嵐」の夜を思い出して苦笑いする。
「本当にそうですね……。でも、いい方向に行ってますし」
「がんばりましょう!!」
そうして、女性陣の固い結束(と、マヤ包囲網)が完成したのである。
***
時計の針は現在に戻る。
仕立て屋で無事にアゲハ蝶の意匠が施された新しい陣羽織を受け取ったマヤたちは、その足で、珠世の隠れ家がある浅草の奥へと向かっていた。
薄暗い路地裏。周囲を幻術の血鬼術で覆い隠されたその古い洋館で、珠世の帰りを誰よりも待ち焦がれていた少年がいた。
愈史郎である。
「珠世様……」
愈史郎は、窓辺から外を見つめ、ギリッと爪を噛んでいた。
蝶屋敷へ赴いた珠世の安否を案じ、気が狂いそうになりながらも、彼女から任された「家を守る」という言いつけを頑なに守り続けていたのだ。
ふと、結界の外に気配を感じ、愈史郎は弾かれたように外へと飛び出した。
「珠世様!!」
玄関の扉を開け放った愈史郎の視界に飛び込んできたのは、無事に帰還した愛しき主の姿。
――そして、その前を歩く大男(マヤ)に、美女たちがべったりとひっついているという、ひどく場違いで騒がしい光景だった。
「……チッ」
愈史郎の顔が、一瞬で不機嫌に歪む。
「お前ら、神聖な珠世様の前でなんだその破廉恥な姿は……!」
だが、珠世が「愈史郎」と優しく名前を呼んだ瞬間、彼の怒りは風船が割れたように消え去った。急いで居住まいを正し、一行を洋館の奥へと招き入れる。
応接間に通された後、珠世は愈史郎に対し、蝶屋敷の地下施設で行われた実験結果――無惨の呪いの進行停止と、鬼化解除への手がかりが掴めたことを、かいつまんで説明した。
「本当ですか……! 珠世様、ついに……!」
愈史郎の目が驚愕に見開かれる。彼にとっても、それは何百年にも及ぶ悲願の第一歩だった。
「ええ。だから愈史郎。私はしばらく、向こうで更なる実験を続ける必要があります。ですから……貴方には、ここの家の管理と、この周辺の守護を任せたいのです」
「……っ」
珠世の口から告げられた「別行動」の命令。
愈史郎にとって、珠世と離れることは身を引き裂かれるほどに寂しい。だが、それが彼女の研究と未来のためであり、何より彼女自身の命令であるならば、逆らうという選択肢はなかった。
「……はい、承知いたしました」
愈史郎は頭を下げた。だが、彼が本当に衝撃を受けたのは、別離の寂しさではなかった。
頭を上げた愈史郎の目に映った珠世の顔。
そこには、彼が共に過ごした長い年月の中で、一度として見たことのないほど……深く、穏やかで、満ち足りた『人間らしい』笑顔があったのだ。
そして、鋭い鬼の嗅覚を持つ愈史郎は、珠世から微かに漂う、極上の血の匂い(気配)を感じ取っていた。
(そうか……)
愈史郎は、奥歯を強く噛み締めた。
自分がどれだけ慕っても、どれだけ尽くしても、決して溶かすことのできなかった珠世の冷たい絶望。それを、あの無神経そうな大男が、魂の底から救済してみせたのだと、悟ってしまった。
愈史郎は、マヤに向き直った。
「マヤ。……お前は気に入らんが、珠世様のために色々やってくれたようで、そこは認める。今後も……珠世様を不憫なくしてくれよ!」
それは、愈史郎なりの最大限の敬意であり、愛する者を託す決意だった。
マヤは、愈史郎のその真っ直ぐな瞳を受け止め、低く力強い声で返した。
「愈史郎、ありがとうな。珠世は、俺たちの所で安全に面倒を見る。……男の約束だ。ここの家の管理は任せたぞ」
「珠世様のためだ。当たり前だ……!」
愈史郎が声を震わせる。
「愈史郎、しばらく頼みますね」
珠世が慈しむような視線を向けると、愈史郎の目からついに堪えきれない大粒の涙が零れ落ちた。
「はいっ……! 珠世様……っ!」
男泣きする愈史郎の姿は、ひどく純粋で、美しかった。
その光景を部屋の隅で見守っていた女性陣が、コソコソと肩を寄せ合う。
「なんか、いいですね……! じーんとしちゃいます!」
蜜璃が、感動のあまり両手で頬を押さえて涙ぐむ。
「……蜜璃ちゃんは、相変わらずですね」
しのぶが、この感動的なシーンで空気が読めているのか読めていないのか分からない蜜璃に呆れつつも、その口元には和やかな微笑みが浮かんでいた。
大正の夜の街に、新たな家族の絆と、男同士の約束が刻まれる。
この日、愈史郎が浅草の守護者として残ることを決意した。