秋の深まりを告げる冷たい風が、色づいた木々の葉を揺らして蝶屋敷の庭を吹き抜けていく。
日が落ちるのが随分と早くなり、夕暮れの茜色が足早に夜の藍色へと塗り替えられていく季節。蝶屋敷の裏庭では、吐く息を白く染めながら、三人の乙女たちが熱心に汗を流していた。
「シッ……! タァッ!」
栗花落カナヲの放つ鋭い木刀の軌道を、甘露寺蜜璃がしなやかな体捌きでふわりと躱す。
「いいわよカナヲちゃん! 前よりずっと踏み込みが深くなってる!」
「はいっ……!」
その様子を縁側から見守る胡蝶カナエは、温かいお茶の入った湯呑みを両手で包み込みながら、嬉しそうに目を細めていた。
一方、その直下の地下施設では、胡蝶しのぶと珠世が、大正最新鋭の顕微鏡や試験管と向き合い、静かな熱気を帯びた研究を続けていた。
「……素晴らしいです。先日のお館様の血液と、あの薬の定着率が、予測を上回る数値を叩き出しています」
「ええ。ですが、呪いの進行を完全に『逆転』させるためには、もう一段階、強烈な起爆剤……つまり、より高純度な鬼の血が必要不可欠ですね」
二人の天才の会話には、焦りよりも確かな希望が満ちている。この地下室こそが、今や鬼殺隊、そして産屋敷一族の未来を紡ぐ心臓部となっていた。
やがて、夕餉の支度が整い、出汁と根菜の煮物の食欲をそそる匂いが屋敷中に漂い始めた。
庭の組手も地下の研究も一段落し、居間に続々と女性陣が集まってくる中、ふすまを開けてひょっこりと顔を出したのは、これから出掛ける身支度を完全に整えたマヤだった。
「おっ、いい匂いだな。今日の飯も美味そうだ」
マヤは黒い隊服の上に、仕立て直されたばかりのアゲハ蝶の陣羽織を羽織り、腰には日輪刀ではない無骨な木刀を提げている。
「マヤさん、ご飯の準備できましたよ。……あれ? お出かけですか?」
割烹着姿のしのぶが小首を傾げる。
「おう。少しばかり、街の探索に行ってくるわ。俺の分はいいから、先に飯は食べててくれ」
マヤは台所の笊に盛られていた塩むすびを一つ手に取ると、ニッと笑って見せた。
「また探索ですか? 最近、夜に出られることが多いですね」
カナエが心配そうに眉を下げる。
「ああ。少しでも怪しい気配があれば、早めに潰しておくか、利用するか決めねえとな。心配すんな、ただの散歩みたいなもんだ」
「気をつけてくださいね、マヤさん!」
蜜璃が大きく手を振る。カナヲもちょこんと頭を下げ、珠世も静かに微笑んで見送った。
温かい夕餉の匂いと、愛する家族たちの笑顔。マヤは「おう、行ってくる」と短く返し、屋敷の門をくぐった。
その背中が見えなくなった瞬間。
彼の纏っていた『人の良い大黒柱』の気配は完全に消え去り、極限まで研ぎ澄まされた冷徹な狩人のそれへと変貌していた。
***
マヤが足を向けたのは、華やかなネオンが輝く遊郭や繁華街ではなく、灯りもまばらな、うらぶれた古い民家が密集する生活圏だった。
(遊郭の辺りも怪しいっちゃあ怪しいんだが……今の俺があんな場所に顔を出してみろ。しのぶやカナエ、みつりまでどんな顔をするか分かったもんじゃねえ。家庭の平和を守るためにも、あっち方面の探索は後回しだ)
などと、一歩間違えれば修羅場になりかねない自身の立場を自覚しつつ、マヤは夜の闇に同化するように気配を絶ち、古い長屋の屋根を音もなく跳躍していく。
マヤの広域探知能力は、今や鬼殺隊の誰よりも鋭敏に、微小な鬼の気配を拾い上げることができた。
その彼の感覚に、数日前からチリチリと引っかかっている『異物』があったのだ。
(……いた)
とある古びた民家の屋根の上。マヤは足を止め、視線を足元の瓦に向けた。
気配は極めて薄い。下弦の鬼はおろか、その辺の雑魚鬼よりもひ弱に感じるほど、巧妙に隠蔽されている。だが、その薄皮一枚を隔てた奥底に渦巻いている血の濃度は、間違いなく上弦の弐である童磨に匹敵、あるいは肉薄するほどの異常な密度を持っていた。
(人間の生活圏、その天井裏や床下の死角にコソコソと隠れ住み、夜な夜な気付かれないように少数の人間を喰らう……。なんて姑息で、面倒くせえ奴だ)
上弦の肆・半天狗。
山奥に潜むでもなく、堂々と遊郭を支配するでもない。徹底して人間に紛れ、気配を消し、自分の手を汚さずに生き長らえようとする最も卑屈な鬼。
マヤは木刀の柄に手をかけた。今ここで天井をぶち破り、その醜い頸を叩き潰すことは造作もない。
だが、マヤは動かなかった。暗闇の中で、彼の瞳だけが冷たい理性の光を放っている。
(ここでこいつを殺せば、間違いなく無惨の奴は異変に気付く。上弦が立て続けにやられれば、奴は警戒レベルを最大に引き上げ、総力を挙げて俺たちを……蝶屋敷を潰しに来るだろう)
今の鬼殺隊は、柱の底上げと、お館様の治療薬、そして珠世の鬼化解除薬の完成を急いでいる最中だ。ここで無惨の目を引くことは、最も避けるべき最悪の悪手だった。
(……俺は、ヒーローじゃねえ)
マヤは、瓦からそっと足を離した。
このまま半天狗を放置すれば、一週間に数人、この町のどこかで罪のない人間が喰われることになる。鬼を滅ぼすための組織に身を置きながら、目の前の鬼を見逃すということは、その犠牲を許容するという明確な『罪』だ。
だが、マヤの天秤は揺るがなかった。
顔も知らない町の住人の命と、蝶屋敷で笑い合う愛する女たち、そして鬼殺隊の未来。
どちらを守るために泥を被るべきかなど、最初から決まっている。
(もう少しだけ、好きにさせて泳がせてやる。その代わり……近いうちに、お前のその上弦の血、根こそぎ抜かせてもらうぜ)
マヤは夜の闇に溶けるように、半天狗の潜む民家から音もなく立ち去った。その背中には、彼一人だけが背負うことを決めた、重く冷たい泥の感触が張り付いていた。
***
数日後の昼下がり。
産屋敷邸の静謐な奥座敷に、マヤ、そして彼に同行を命じられたカナエ、しのぶ、蜜璃の三人が正座をしていた。
「……というわけで、上弦の居場所が分かった。気配を薄くしか感じさせない、随分と姑息な奴だが、間違いなく上弦の肆だ」
マヤの報告に、上座の布団に身を横たえていた産屋敷耀哉が、ゆっくりと目を見開いた。
「それは……素晴らしい功績だね、マヤ。113年もの間、誰も見つけられなかった上弦の尻尾を掴むとは。それで、討伐の手はずは」
「そいつの血液を、まず奪う。これは確定だ。珠世としのぶの薬を劇的に進ませるためにな」
マヤは姿勢を崩さず、真っ直ぐに耀哉を見据えた。
「……だが、今日ここへ来た本題はそこからだ。親方様、今回の討伐の『許可』を取りに来た」
「許可? ……マヤ、君はまさか」
耀哉の顔つきが、僅かに変わる。
「上弦の肆は殺さない。俺なら一瞬で気絶させて殺せるが……今、上弦を殺せば、俺たちというイレギュラーの存在が、一気に無惨にバレる恐れがある。何より、親方様の呪いを解く薬を作っていること自体がバレるわけにはいかねえんだ」
その言葉に、背後で控えていた三人の柱が弾かれたように顔を上げた。
「殺さない……!? 上弦を目の前にして、生かして放置するというのですか!?」
しのぶが思わず身を乗り出す。
マヤは振り返らず、淡々と言葉を紡いだ。
「今、無惨の目がこちらに向き、蝶屋敷……ひいてはこの産屋敷邸が襲撃される展開が一番最悪だ。だから、奴が警戒する暇も与えずに一瞬で意識を刈り取り、血液だけを何十本か採取して放置する。それが俺の出した答えであり……みんなを守る最善だ」
「し、しかしマヤさん! それでは……その鬼が潜んでいる町の住人たちは……っ!」
蜜璃が悲痛な声を上げる。鬼から人を守る柱として、それは絶対に受け入れられない提案だった。
「ああ。分かってる」
マヤの低く重い声が、座敷の空気を圧した。
「すまない。俺が見つけた以上、俺のほうで処理を考えたが……上弦を生かしておけば、その町の住民には多少の犠牲になってもらうことになる。こそこそと天井裏に隠れて、一週間に一人食うか食わないかという姑息な奴だった。だが、確実に人は死ぬ」
マヤは床に視線を落とし、大きな拳をギュッと握りしめた。
「鬼殺隊の犠牲と、町の住民の犠牲。ひいては……俺が愛する者を守るために、今回は、俺も感情を抑える事にした」
その告白に、三人の乙女たちは息を呑み、完全に言葉を失った。
圧倒的な力を持つ彼が、どれほどの葛藤を抱え、どれほどの痛みを押し殺してその決断を下したのか。
顔も知らない数人の命を見捨てるという『大罪』。それを、自分たちを……蝶屋敷の女たちや、鬼殺隊の未来を守るためだけに、彼一人で背負い込もうとしているのだ。
「……マヤ」
耀哉の、ひどく穏やかで、しかし痛みを孕んだ声が響いた。
「君の言う通り、今、無惨を刺激するのは得策ではない。だが、この事実を知れば、他の柱たちなら無理にでも動こうとするだろう。彼らは、目の前の命を見捨てるようにはできていないからね」
耀哉は、マヤの分厚い背中を慈しむように見つめた。
「君は……本当に、優しい子だよ。顔も知らない者たちの死というすべての泥を、自分一人で被るつもりだね」
「今後の強い隊士たちを残すための、俺からの試練だとでも思ってくれ」
マヤは自嘲気味に鼻を鳴らした。
「あくまで、自分が泥を被るか。君らしいね」
耀哉はゆっくりと身を起こし、真っ直ぐにマヤ、そして三人の柱たちを見据えた。
「……でも、今回は僕も共に被るよ。鬼殺隊当主として、その犠牲を許容しよう。この極秘任務における少しばかりの研究費を、上乗せさせてもらう。マヤ、君に辛い判断をさせてすまないね」
「親方様……」
「というわけだ。カナエ、しのぶ、蜜璃」
耀哉の静かな、しかし絶対的な命令が下る。
「柱として、この上弦の肆に対する討伐への任務は、私から『禁止』とする。絶対に手を出してはならない。いいね?」
三人の瞳から、堰を切ったように大粒の涙が零れ落ちた。
自分たちの手を汚させないために、当主とマヤが、すべての罪を背負ってくれた。その途方もない愛と覚悟の重さに、彼女たちはただ涙を流しながら平伏するしかなかった。
「「「……御意……っ!!」」」
「すまないな、お前たちに相談もせずに。……今日は柱として、そして俺の大切な女たちとして、俺の覚悟を聞いてほしかったんだ」
マヤが振り返り、優しく微笑みかける。その不器用で真っ直ぐな愛情に、三人はさらに声を上げて泣き崩れた。
重く、悲痛な罪の共有。
座敷にはしばらくの間、乙女たちのすすり泣く声だけが響いていた。
やがて、耀哉がふうっと息を吐き、場の空気を変えるように穏やかな笑みを浮かべた。
「……さて。重い話はここまでだ。して、マヤ」
「ん? なんですか、親方様」
「祝言はいつあげるんだい? 誰が一番なのかな?」
「………………は?」
マヤの顔から、一瞬で表情が抜け落ちた。
「え? しゅ、祝言……? え? いや、まだ俺、そういう話は一言も……」
パニックになるマヤの背後で、先程まで大泣きしていたはずのしのぶが、涙をハンカチで拭いながらスッと背筋を伸ばした。
「正妻は、私に決まりました」
「え!?」
マヤが首が折れるほどの勢いで振り向く。
「姉と蜜璃ちゃんは、私と一緒にマヤさんを支えてくれるほうに回ってくれることになっています」
しのぶが、どこか誇らしげに、そして有無を言わさぬ迫力で宣言する。
「いや、いつの間にそんな会議が!? 俺、全く聞いてねえんだけど!?」
「祝言は、もう少し先ですかね? つい最近、みんなで話し合って決めたばかりの内容なんですっ」
蜜璃が、まだ赤い目をしながらも、えへへと幸せそうに笑う。
「私的には、しのぶはもう十六歳になりますから、いつでも良いかと思っていますわ。マヤさん、私たち、ずっとお傍におりますからね」
カナエも両手で頬を押さえ、とろけるような笑顔で爆弾を投下する。
「え? え? ちょ、!?」
完全に置いてけぼりを食らったマヤが狼狽えまくる。
「ふふっ、だそうだよ。マヤ」
耀哉が、心底楽しそうにクスクスと笑い声を上げた。
「私の可愛い娘たちだ。どうか、よろしく頼んだよ」
圧倒的な当主からの『結納の承認』。
退路を完全に断たれたマヤは、目の前で本気の恋心を隠そうともしない三人の乙女たちと、耀哉の温かい笑顔を交互に見比べた。
やがて、マヤは観念したように大きなため息を一つ吐き、頭をガシガシと掻いた。
「……えっと。あー、はい。分かりました。俺が責任を持って、おたくの綺麗な娘さんたちを、生涯支えさせていただきます」
その不器用だが、決して逃げない真っ直ぐな言葉に。
カナエ、しのぶ、蜜璃の三人は、今度こそ嬉し涙をボロボロと流し、堪えきれずにマヤの大きな背中に三方向から抱きついた。
「もう……! マヤさん、大好きですっ!」
「責任、絶対にとっていただきますからね……っ」
「ふふっ。覚悟してくださいね、マヤさん」
数人の命を犠牲にするという泥を被った男の背中を、愛する者たちがその全身で温め、肯定する。
大正の秋の深まりと共に、蝶屋敷の家族の絆は、誰にも引き裂けないほどに強固なものへと結実していくのであった。