季節は移ろい、蝶屋敷の庭を彩っていた紅葉はすっかり落ち尽くし、冷たい北風が吹きすさぶ厳しい冬が到来していた。
午後五時。夏場であればまだ明るい時間帯だが、冬の空はすでに墨を流したように暗く、冷え切った空気が肌を刺す。
蝶屋敷の玄関。
これから異例の長期任務へと向かうマヤを見送るために、女性陣が勢揃いしていた。
「……少し時間がかかるから、明日には帰る」
黒い隊服にアゲハ蝶の陣羽織を纏ったマヤが、振り返って短く告げた。
その言葉に、見送る乙女たちの胸に冷たい不安が走った。
これまで、下弦だろうが異形の鬼だろうが、マヤは夜の散歩に出かけるような気軽さで出立し、一瞬で片付けて帰ってきていた。その彼が、わざわざ「時間がかかる」「明日には帰る」と宣言したのだ。
それが何を意味するのか。上弦の鬼を相手に、殺さずに気絶させ、血だけを奪って偽装するというミッションが、どれほど異常な難易度と危険を伴うのか、柱である彼女たちには痛いほど分かっていた。
「マヤさん……」
甘露寺蜜璃が、たまらず一歩前に出た。その大きな瞳には、心配と切なさでいっぱいの涙が浮かんでいる。
「絶対に、無事で帰ってきてくださいね……っ」
蜜璃は、背伸びをしてマヤの分厚い胸板にそっと手を添えると、そのまま真っ赤になった顔を近づけ――マヤの唇に、そっと、自分の唇を重ねた。
チュッ。
「……っ」
マヤが驚きに目を丸くする。それは、勢いやアクシデントではない、蜜璃からの、はっきりとした愛情を込めた『初めてのキス』だった。
「いってらっしゃい、マヤさん……っ」
涙目になりながらも、とびきり可愛い笑顔を見せる蜜璃。
それに勇気づけられたように、しのぶがツカツカと歩み寄り、マヤの首元に手を回して背伸びをした。
チュッ。
「……正妻として、貴方の帰りを待っていますからね。気をつけてください」
頬を朱に染めながら、しのぶが真っ直ぐに見上げる。
「私も、待っていますよ」
カナエも優しく微笑みながら、マヤの唇に柔らかいキスを落とした。
そして最後に、珠世が艶やかな所作でマヤに近づき、その大きな頬にそっと口付けた。
「無茶だけはしないでくださいね、マヤ」
次々と愛する女たちから落とされるキスの雨。カナヲはそれを、縁側から目を瞬かせながら静かに見守っていた。
照れと戸惑いで一瞬固まっていたマヤだったが、やがてポリポリと頭を掻き、今日一番の、極上の笑顔を浮かべた。
「……みんなありがとうな。すげぇ元気貰った。行ってきます」
その力強い言葉と笑顔を残し、マヤの巨大な背中は冬の夜の闇へと溶けていった。
***
マヤを見送った後、女性陣は冷え込む屋敷の居間に集まり、火鉢を囲んで暖を取っていた。
カナヲが自室で眠りについた後、カナエ、しのぶ、蜜璃、そして地下から上がってきた珠世の四人は、静かに言葉を交わしていた。
話題は自然と、先日の「正妻宣言」の件へと移る。
「……ということで、親方様の前で、しのぶが正妻になるって宣言してきたんです」
蜜璃が、少し照れくさそうに珠世に報告する。
珠世が疎外感を感じていないかという気遣いもあったが、当の珠世は火鉢に手をかざしながら、大人の余裕たっぷりに微笑んだ。
「ふふふ。そうでしたか。しのぶさんが正妻なら、私も安心ですね。……私は元より鬼の身。日陰から、皆様とマヤをそっとお支えしますよ。それに、私にはマヤの血という、特別な繋がりがありますからね」
くすくすと笑う珠世の言葉に、しのぶが「もう、珠世さんったら……」と頬を赤らめる。
だが、和やかな談笑も長くは続かなかった。話題が今、現在進行形でマヤが遂行している任務へと移ると、居間の空気は重く沈んだ。
「……マヤさんが、明日までかかると言ったのは前代未聞です。それほど、今回の任務は神経を使っているのですね」
しのぶが、火鉢の炭を見つめながらポツリと呟いた。
珠世も、真剣な顔つきで頷く。
「ええ。マヤから聞いたその鬼の気配……薄く、微小に隠蔽されているという点から推測するに、相手は極めて姑息で、逃げ隠れすることに特化した厄介な鬼なのでしょう。真正面から戦うよりも、しっぽを掴むこと自体が至難の業のはずです」
その言葉に、蜜璃がギュッと膝を抱え込み、ポロリと涙を零した。
「みんなを守るために……あの町の数名を、犠牲にする……」
蜜璃の震える声が、静かな居間に響く。
「マヤさんがいなければ、誰も気付けなかったことだもんね……。お館様とマヤさんがいなければ、私たちは何も知らずに笑っていただけ……。でも……それを一人で決断して、顔も知らない人たちの命を見捨てる泥を背負うマヤさんは……すごく、すごく辛いはずだよ……っ」
鬼を憎み、人を守るために刃を振るってきた柱の彼女たち。
だからこそ、大を救うために小を切り捨てるという決断が、どれほど心をすり減らす行為か痛いほど分かっていた。
ただ守られるだけのヒロインではない。彼の強さの裏にある「心の痛み」や「闇」すらも共に背負い、丸ごと愛し抜く。四人の乙女たちは、無言で互いの手を握り締め合い、夜通しマヤの無事を祈り続けた。
***
その頃。
マヤは、冷たい北風が吹き荒れる目的の町へ到着していた。
蝶屋敷を出てから、すでに一時間以上が経過している。マヤの脚力であれば本来一瞬で到着する距離だが、相手は気配を読むことに長けた上弦の鬼。マヤは自身の圧倒的な闘気を極限まで抑え込み、景色に同化するほどの速度でゆっくりと移動してきたのだ。
(……見つけたぜ)
マヤの研ぎ澄まされた感覚が、ある長屋の天井裏に潜む上弦の肆を捉えた。
だが、マヤは動かない。
相手は気配に敏感な上に、少しでも危機を感じればすぐに逃亡する厄介な相手。確実に一撃で刈り取るためには、相手の意識が他のことに完全に集中し、最も無防備になる瞬間を狙うしかなかった。
つまり――『食事』の瞬間である。
暗闇の中、マヤは冷徹に目を細めた。
この任務において、一人の犠牲が確定するのは避けられない。自分の手が届く場所に人がいるのに、それが鬼に食われるのを待たなければならない。
マヤの分厚い拳が、ギリッと音を立てて握り込まれた。
(すまねえ。この罪は、俺が一生背負って生きていく)
やがて、長屋の住人の一人が無惨に引きずり込まれる嫌な音が響いた。
鬼の意識が、完全に捕食へと向いた。
――その瞬間。
マヤは、神速で跳躍した。
***
夜が明け、冬の冷たい朝の光が屋敷を照らし始めても、マヤは帰ってこなかった。
しのぶ、カナエ、蜜璃、そして珠世は、地下の研究所に集まっていた。
「……もう朝です。三人は、少しでも休んだ方がいいですよ」
珠世が気遣うように言う。
「そうね……。順番に少し仮眠を取りましょう。カナヲも起きてきますしね」
カナエが頷き、三人は重い足取りで地下を後にした。
しかし、誰もが目を閉じても眠りにつくことなどできず、布団の中で寝返りを打つばかりだった。
カナヲが起き出し、マヤの不在に首を傾げたが、姉たちの沈痛な面持ちを見て何も聞かずに黙々と掃除を始めた。
お昼になっても、マヤは帰宅しなかった。
時間だけが残酷に過ぎていき、とうとう、丸一日が経過しようとしていた。
夜。再び居間に集まった女性陣の顔には、隠しきれない疲労と焦燥が浮かんでいた。柱である彼女たちは数日寝なくても平気なはずだが、愛する者が上弦を相手に死地に赴いているという心労が、彼女たちの心を激しく削り取っていた。
夕餉の時間になり、温かい食事が用意されたが、普段なら誰よりもたくさん食べる蜜璃が、箸を持ったまま俯いていた。
「……喉を、通りません……」
ポツリとこぼす蜜璃の言葉に、しのぶもカナエも同調するように目を伏せた。
その時、地下から上がってきた珠世が、静かだが凛とした声で言った。
「皆様。そんな暗い顔をしていては、傷だらけで帰宅してきたマヤに顔向けできませんよ。彼が私たちのために泥を被ってくれているのですから、私たちは笑顔で彼を出迎える義務があります」
その言葉に、ハッとしたようにしのぶが顔を上げた。
「……そうですね。珠世さんの言う通りです。マヤさんが安心して帰ってこられるように、しっかり食べておかないと」
「ええ。食べましょう、蜜璃ちゃん」
珠世の激励に背中を押され、三人は無理にでも食事を口に運び始めた。
しかし、時間が経ち、深夜を回ってもマヤの帰還の足音は聞こえない。
外は雪がチラつき始め、極寒の夜更けとなっていた。
「遅い……遅すぎます……っ」
蜜璃が爪を噛み、カナエが祈るように両手を組む。焦りと絶望が、居間の空気をじわじわと侵食し始めた。
***
そして、冬の朝五時。
朝焼けすらまだ見えない、真の暗闇と極寒の時間帯。
ガララッ……。
玄関の扉が、ひどく重々しい音を立てて開いた。
「っ!!」
居間にいた全員が弾かれたように立ち上がり、玄関へと駆けつけた。
「……ただいま。みんな起きてたのか、遅くなった」
そこには、疲労困憊で立っているのがやっとという様子のマヤがいた。
だが、全員が絶句したのは彼の疲労具合ではなかった。マヤの黒い隊服と、真新しいアゲハ蝶の陣羽織が、赤黒い『血』でべっとりと染まり、血の匂いが玄関中に充満していたからだ。
「マ、マヤさんっ! その血……っ!?」
しのぶが悲鳴のような声を上げ、蜜璃が顔を真っ青にして駆け寄ろうとした。
「みんな、落ち着いて」
パニックになりかけた女性陣を制したのは、珠世だった。彼女は静かにマヤに近づき、その血の匂いをスッと嗅ぐと、深く安堵の息を吐き出した。
「みんな、安心してください。……その血は、マヤの血ではありませんわ」
マヤの血(極上の飴玉)の匂いを誰よりも知っている珠世だからこその、絶対の確信だった。
「本当ですか……!?」
カナエが腰から砕け落ちそうになるのを必死に堪える。
「おう。怪我はねえよ」
マヤは懐から、布に包まれたズッシリと重い束を取り出し、しのぶへと手渡した。
「説明は後でする。まず、血液を数十本抜いてきた。冷えないうちに地下へ持って行ってくれ」
受け取った布包みを開いたしのぶは、絶句した。
(私が渡した特注の保存用注射器、二十本……。これを、全部限界まで抜いたというの……!?)
「マヤさん……怪我がないなら、どうしてそんなに血まみれなんですか……?」
蜜璃が、震える声でマヤの陣羽織の裾を掴む。
マヤは壁に背中を預け、ずるずると座り込むと、重い息を吐きながら事の顛末を語り始めた。
「すまないな珠世、俺の怪我だと勘違いさせて気を遣わせた。……今回は、あいつが人を捕食した瞬間を狙った。最も気が緩む隙をな。……俺は、奴の意識を刈り取った。だが……」
マヤの言葉が、ひどく苦しげに震えた。
「気絶した鬼を、『犠牲になった住人の遺体の上』に転がしたまま寝かせておくわけには……いかなかったからな」
その言葉に、全員が息を呑んだ。
「遺体を鬼から引き離し、鬼が食ったんじゃなく別の事故で死んだように見せかけるため、そして遺体が少しでも綺麗に弔われるように……色々偽装工作してたら、このザマだ。俺は不器用だからな」
マヤは、自身の血塗れの腕を見つめた。
「それから、あいつが目覚めるまでずっと監視してた。起きた奴は、自分が食事中に寝落ちしたくらいに思ってた感じだったさ。単純な野郎で助かったよ。……だから、こんな時間になっちまった」
沈黙。
玄関には、ストーブの薪が爆ぜる音だけが響いていた。
鬼を気絶させて血を抜くだけなら、一瞬で終わったはずだった。マヤが丸一日以上も帰ってこず、血まみれになっていた理由は、犠牲となった名もなき町民の『人としての尊厳』を守るためだったのだ。
自分たちを守るために見捨てた命への、せめてもの贖罪。その途方もない優しさと深すぎる愛に、四人の乙女たちはただただ涙を流すことしかできなかった。
「……また、カナエとしのぶが作ってくれたこの蝶の羽織を、血で汚しちまったな。すまない」
マヤが力なく笑うと、カナエはボロボロと涙をこぼしながらマヤの横に座り込み、その血まみれの陣羽織ごと、彼を力強く抱きしめた。
「謝らないで……。また、みんなで新しいものを買いに行きましょう。……マヤさんのその重い決断を、これからは私たちが、みんなで背負います」
「私も背負いますよ。貴方の妻としてもね」
しのぶも涙を拭い、マヤのもう片方の腕に抱きついた。
「はいっ……! 私も背負います! マヤさん、無事に帰ってきてくれて……本当にありがとうっ!」
蜜璃がわぁん!と泣き声を上げながらマヤの首元に抱きつく。
「薬の完成の目処が立ったら、また浅草にでも気晴らしに出かけましょうね。マヤ」
珠世もまた、愛おしそうにマヤの血まみれの頬に触れ、優しい微笑みを向けた。
「おう。そうだな、気晴らしをしてーな。……あと、お館様にも無事に終わったと、直接挨拶に行かないとな」
マヤが乙女たちの温もりに包まれながら安堵の息を吐くと、カナエが泣き笑いの顔で頷いた。
「ええ……! 今すぐ、お館様へ鴉を飛ばしますわ!」
極寒の冬の夜明け。
血と泥に塗れたマヤの帰還は、残された乙女たちとの絆を、真の意味で「どんな業も共に背負う家族」へと昇華させた。朝日が差し込み始めた蝶屋敷の玄関で、彼らは互いの温もりを確かめ合うように、いつまでも抱きしめ合っていた。