秋の深まりを越え、本格的な冬の寒さが大正の街を覆い始めた頃。
蝶屋敷の離れに位置する地下研究所は、地上とは切り離されたような異様な熱気に包まれていた。
「……信じられません。これほどまでの生命力と、異常なほどの修復速度だなんて」
大正最新鋭の顕微鏡から目を離した胡蝶しのぶが、額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら息を吐き出した。
その視線の先にある試験管には、先日マヤが持ち帰ってきた『上弦の肆』の血が収められている。それを、すでに完成していた『鬼の修復薬β(下弦と雑魚鬼の血+お館様の血液)』と掛け合わせる実験が、昼夜を問わず行われていた。
「ええ。下弦の鬼の血とは、文字通り桁が違います」
隣で試験管の反応を見つめる珠世もまた、その大きな瞳に驚愕の色を浮かべていた。
「ただ混ぜ合わせただけでは、上弦の圧倒的な細胞活力がβ薬の成分を全て喰い尽くし、破壊してしまいます。ですが……藤の花の毒から抽出した抑制成分を絶妙な配合で挟み込むことで、その凶暴な修復力だけを抽出できる……」
「はい。鬼の細胞の増殖を強制的に抑制しつつ、破壊された細胞を再構築する『修復機能』のみを定着させる。……珠世さん、これならいけます。いえ、いきます!」
しのぶの瞳に、執念の炎が宿る。
姉を救い、自分たちを絶望から救い出してくれたマヤが、名もなき犠牲者の尊厳を守るために血塗れになってまで持ち帰ってくれた泥まみれの希望。それを無駄にすることなど、絶対に許されなかった。
二人の天才は寝食を忘れ、顕微鏡と試験管の森の中で数日間の死闘を繰り広げた。
失敗すれば爆発的な細胞増殖を引き起こしかねない劇薬。それをミリグラム単位で調整し、ついに一つの澄んだ瑠璃色の液体が完成した。
「……できました。上弦の肆の血を用いた、『人間帰りの薬 α1版』です」
珠世が、震える手でその小瓶を掲げた。
呪いの細胞抑制と細胞修復の機能を完全に内包した、奇跡の雫だった。
***
その日の夜、蝶屋敷の居間では、ささやかながらも盛大な完成祝いと、マヤへの労いの宴が開かれていた。
湯気を立てる豪勢な鍋料理を中心に、カナエ、蜜璃、カナヲが笑顔で杯を合わせる(中身は温かいお茶だが)。
「マヤさん、本当にありがとうございます……っ! マヤさんがこの血を採ってきてくださらなかったら、こんなに早く薬が完成することは絶対にありませんでした!」
しのぶが、感極まったようにマヤの湯呑みにお茶を注ぐ。
「ああ。だが、それをお前と珠世が形にしたんだ。胸張っていいぜ」
マヤがニッと笑って湯呑みを干す。
「……マヤ。私、この『α1版』を、すぐにでも私の血に投与して反応を見たいです」
珠世が、熱を帯びた瞳でマヤを見つめた。
「私の鬼としての細胞が、この薬でどれほど抑制され、人に近づくことができるのか。……一日でも早く、確かめたいのです」
彼女の焦りは痛いほど分かった。数百年もの間、闇の中で人を喰らう業を背負い続けた彼女にとって、人に戻る一歩は喉から手が出るほど欲しいものだ。
「……待て。それは駄目だ」
だが、マヤの声は低く、そして絶対的な響きを持っていた。
「え……?」
「気持ちは痛いほど分かる。だがな珠世。これは上弦の血が混ざった劇薬だぞ? いくらお前が無惨の呪いを外しているとはいえ、急激な細胞の変化に耐えきれずに、体が崩壊するリスクがあるはずだ」
マヤは胡座をかいたまま、真っ直ぐに珠世の瞳を覗き込んだ。
「まずは、親方様の『今の血液』をもらってこい。そこでα1と混ぜ合わせ、親方様の抗体で馴染ませた『α2』を作る。……それを親方様に打ち、定着して安全が完全に確認できた『α3』の血清ができてから、お前の番だ」
「で、ですが……お館様を第一の実験体にするのは……それに、私なら、もし体が崩壊したとしても自己再生が……」
「駄目だと言っている」
マヤの強い言葉に、居間の空気がピンと張り詰める。
「お前がどうなってもいい実験体なら、俺は最初からこんな事はしてないさ」
マヤはポンと、珠世の肩にその温かく大きな手を置いた。
「俺はな、お前にもしものことがあったら……耐えられねえんだ。俺の愛する家族を、守る為にも順番があるってことだ。」
「っ……」
珠世の大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙が零れた。
数百年の間、自身の体を切り刻み、何度も死の淵を彷徨うような実験を己の体で行ってきた。誰も彼女を止めなかったし、彼女自身もそれが贖罪だと信じていた。
だが、目の前の男は、彼女の命を「愛する家族」として何よりも尊んでくれている。
「……はい。分かりました……マヤの言う通りにいたします」
珠世が泣き笑いの顔で頷くと、張り詰めていた空気がふわりと緩んだ。
「もう、珠世さんったら。マヤさんを心配させちゃ駄目ですよ」
カナエが優しく微笑み、蜜璃も「そうですよ! みんなで安全に、幸せになりましょう!」と明るく笑った。
***
数日後。産屋敷邸の最も奥まった寝所。
カナエと珠世を蝶屋敷に残し、マヤ、しのぶ、そして蜜璃の三人は、特例としてお館様の寝所に通され、そのまま「泊まり込み」での経過観察を行うことになっていた。
「あわわ……お館様のお家に泊まるなんて、心臓が口から飛び出そうですぅ……っ」
蜜璃が、部屋の隅で体育座りをしながらガタガタと震えている。柱といえども、当主の寝所で夜を明かすなど前代未聞の出来事である。
「大丈夫だよ、みつり。何かあっても俺がいるからな」
マヤがぽんぽんと蜜璃の頭を撫でると、蜜璃は「はいぃ……っ」と真っ赤になってマヤの陣羽織の袖をギュッと握った。
布団に横たわる産屋敷耀哉の傍らには、彼の妻であるあまねが、静かに正座して付き添っていた。
その白く美しい顔には、隠しきれない疲労と、そして祈るような切実な思いが浮かんでいる。
「……あまね様。これより、お館様の最新の血液で馴染ませた『人間帰りの薬 α2版』を投与いたします」
しのぶが、白衣姿で瑠璃色の液体の入った注射器を構える。
「……よろしくお願いいたします。胡蝶殿、マヤ殿、甘露寺殿……夫の命を、産屋敷の悲願を、どうか……」
あまねが、床に額を擦りつけるほどに深く頭を下げた。常に冷静で感情を表に出さない彼女のその姿が、この薬にかかっている重圧と希望のすべてを物語っていた。
「親方様。チクッとしますぜ」
マヤが耀哉の腕を軽く押さえる。
「ああ……構わないよ。しのぶ、頼む」
しのぶの細い指が動き、耀哉の静脈へとゆっくりと瑠璃色の液体が注ぎ込まれた。
投与直後。
「う……っ、ぐ……っ!!」
耀哉の体が、ビクンと大きく跳ねた。顔の半分を覆う赤黒い呪いの痣が、まるで意志を持っているかのようにグツグツと脈打ち、激しい高熱が彼の体を襲う。
「お館様!?」
蜜璃が悲鳴を上げかける。
「抑えろ!! 呪いの細胞が、上弦の修復力と戦って反発してるんだ! ここを乗り切れば定着する!」
マヤが耀哉の体を上から力強く押さえ込む。
「氷嚢を! 身体を冷やし続けてください!」
しのぶが素早くあまねに指示を出し、徹夜での過酷な看病が始まった。
数時間おきに脈を測り、熱を下げ、呼吸を整える。
マヤは一睡もせず、耀哉の生命力と薬の反応をその広域探知能力でミリ単位で監視し続けた。蜜璃も冷水を取り替えに走り回り、しのぶは医者として最善を尽くし続けた。
そして、長い長い夜が明け、障子越しに真っ白な冬の朝日が差し込んできた頃。
「……あ……」
あまねの、掠れたような声が寝所に響いた。
マヤがゆっくりと耀哉の腕から手を離す。
「……熱が、下がりました。それに……」
しのぶの瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
耀哉の顔を覆っていた、醜く烂れた呪いの痣。その進行が完全に停止していたのだ。そればかりか、赤黒く膿んでいた皮膚の一部が、ほんの僅かではあるが、正常な人間の肌の色を取り戻しつつあった。
「……あまね……? しのぶ……マヤ……?」
耀哉が、ゆっくりと目を開けた。その声には、昨日までの掠れた病人のものではない、確かな張りと生気が宿っていた。
「あなた……! あなたぁ……っ!!」
あまねが、耀哉の胸に縋り付き、声を上げて泣き崩れた。
いつか必ずこの人を看取らなければならないという絶望の運命。それが今、この瞬間に打ち砕かれたのだ。彼女の冷たく美しい仮面が剥がれ落ち、一人の妻としての悲痛で歓喜に満ちた涙が溢れ続ける。
「……マヤ。しのぶ、蜜璃……」
耀哉の目にも、光るものが浮かんでいた。
「ありがとう……。君たちは、私を……産屋敷の一族を、救ってくれた……っ。本当に、本当にありがとう……っ」
鬼殺隊当主の、威厳も何もない、ただ生きたいと願う一人の人間としての感謝の涙。
「……へっ。だらしねえ顔すんなよ、親方様。まだ完全じゃないんだからよ」
マヤは照れくさそうに顔を逸らしながらも、その口元には確かな安堵の笑みが浮かんでいた。
「やりましたねっ……! マヤさん、しのぶちゃんっ!」
蜜璃がしのぶに抱きつき、二人でわぁわぁと声を上げて泣き笑い合った。
***
それから数週間後。季節は冬の中頃へと差し掛かっていた。
マヤが半天狗から血を奪ってから、約二ヶ月が経過している。
蝶屋敷の地下研究所。
お館様の体内で完全に定着し、呪いを抑え込んだ『α2版』。その血清を抽出し、さらなる安全性を確保した『人間帰りの薬 α3版』がついに完成していた。
「……珠世さん。これがお館様の抗体で馴染んだ、完全なα3版です。これを打てば、上弦の細胞の暴走は起きません。貴方の体でも、確実に定着するはずです」
しのぶが、小瓶を珠世に差し出す。
珠世は震える手でそれを受け取ると、静かに自身の腕に注射針を突き立てた。
ゆっくりと、液が体内へと入っていく。
数分間の沈黙の後。珠世の頬に、ほんのりと赤みが差した。
「……どうだ、珠世。痛いところはないか?」
マヤが心配そうに覗き込む。
珠世は、自身の胸に手を当て、信じられないといった様子で目を丸くした。
「……マヤ。私……血への渇望が、ほとんど感じられません。それに、胃の辺りが……ひどく、温かいです」
「よし……。カナエ、あれを」
マヤが合図をすると、カナエが小さなお盆を持って現れた。
そこに乗っていたのは、真っ白な湯気を立てる、昆布出汁で丁寧に炊かれた「お粥」だった。
「食べてみな。お前が数百年間、口にしてこなかった『人間の飯』だ」
マヤが匙を珠世に手渡す。
珠世は震える手で匙を受け取り、一口だけすくって、ゆっくりと口に運んだ。
鬼の体であれば、人間の食べ物は泥のような味がして吐き出してしまうはずだ。だが……。
「……あ……」
珠世の大きな瞳から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ出した。
「美味しい……。お出汁の味が、お米の甘さが……分かります。私……人間のご飯を、美味しいと……っ」
珠世は、両手で顔を覆い、しゃくり上げながら泣いた。
人を喰らうことしかできなかったバケモノの体が、今、確実に「人間」へと戻り始めている。その確かな実感と、失われたはずの味覚の復活が、彼女の心を激しく揺さぶった。
「よかったわね……珠世さん……っ」
カナエがもらい泣きをし、蜜璃もしのぶもボロボロと涙を流している。
マヤは、ただ優しく、泣きじゃくる珠世の背中を撫で続けていた。
***
落ち着きを取り戻した珠世が、空になったお粥の器を大事そうに撫でながら、しのぶと共に今後の見解を語り始めた。
「α3版の定着は、お館様も私も完璧です。ですが……次なる段階、つまり呪いを完全に破壊し、太陽を克服する細胞の劇的な修復と活性化を促す『β版』を作るためには、この血清を焦って混ぜ合わせるわけにはいきません」
珠世の冷静な分析に、しのぶも頷く。
「はい。上弦の血と、お館様のα3血清、そして珠世さんのα3血清。これらを完全に中和し、人体に耐えうる『β版』として馴染ませるには……最低でも、あと一年はかかると思います。焦って劇薬にすれば、今度こそ細胞が耐えきれません」
一年。鬼殺隊にとっては、途方もなく長い時間だ。いつ無惨が動き出すかも分からない状況で、それはあまりにも遠い未来に思えた。
だが。
「未来が見えたな!」
マヤが、腕を組んで笑った。
「一年だろうが数年だろうが、たっぷりと時間をかけて完璧な薬を完成させろ。……その間の蝶屋敷の守りは任せておけ。この、日常柱にな!」
その圧倒的な自信と力強さに、不安は一瞬で吹き飛んだ。
「はいっ! マヤさんがいれば、絶対に大丈夫ですっ!」
蜜璃が満面の笑みで抱きつき、しのぶとカナエも幸せそうに微笑む。
「……ええ。頼りにしていますよ、私たちの旦那様」
珠世が、悪戯っぽく微笑んでマヤを見上げる。
明日への未来は、もう絶望の闇に閉ざされてはいない。
鬼の呪いを打ち破る希望の血清は、愛する男の庇護の下、大正の時代をゆっくりと、だが確実に育ち始めていた。