厳しい冬の寒さがようやく和らぎ、大正の街を撫でる風に、ほんのりと柔らかな春の匂いが混じり始めた頃。
夜の帳が下りた浅草の街は、ガス灯の温かい光と、行き交う人々の活気で賑わっていた。
「……やっぱり、この陣羽織が一番しっくりくるな。ありがとな、カナエ、しのぶ」
街の喧騒の中、ひときわ目を引く大柄な男――マヤが、真新しいアゲハ蝶の意匠が施された陣羽織の袖を通しながら、静かに微笑んだ。
半年前の冬、上弦の肆から血を奪う際、名もなき町民の尊厳を守るために血と泥で汚してしまった陣羽織。その代わりとして、胡蝶姉妹が再び仕立て屋に頼み、同じデザインで一から作り直してくれたものだ。
「ええ。マヤさんには、やはりその蝶の羽織が一番似合いますわ」
カナエが、マヤの右隣を歩きながらふんわりと微笑む。
「前の羽織の分まで、ずっと大切に着てくださいね。私たちの旦那様なのですから」
左隣を歩くしのぶが、少し大人びた正妻の余裕を漂わせながら、マヤの腕にそっと手を添えた。
「ちょっとぉ! しのぶちゃんもカナエちゃんも、私にもマヤさんの腕を貸してくださぁいっ!」
後ろから小走りで追いかけてきた蜜璃が、マヤの大きな背中にぽーんと抱きつく。春物の軽やかな隊服から伝わる彼女の温もりに、マヤは苦笑しながらも歩みを緩めた。
「こらこら、みつり。あんまり引っ付くと歩きにくいだろ」
「えへへ〜、だって今日はみんなでお出かけですし、嬉しいんですもの!」
蜜璃が桜餅色の髪を揺らして満面の笑みを向ける。
「カナヲ、お前もはぐれないように前においで」
マヤが振り返って声をかけると、少し後ろを歩いていたカナヲが、こくりと頷いてマヤの斜め前に出た。
「……うん。マヤの羽織、すごく綺麗。新しい匂いがする」
カナヲは、以前のような感情の読めない人形のような顔ではなく、年相応の柔らかな微笑みを浮かべている。自らの意思で言葉を紡ぎ、周りの景色を楽しそうに眺めるその姿は、この半年間での彼女の心身の成長を如実に物語っていた。
「そうか。カナヲがそう言ってくれるなら、こいつは特等品だな」
マヤが大きな手でカナヲの頭を撫でると、カナヲは嬉しそうに目を細めた。
そして、そんな騒がしくも温かいマヤの「家族」の姿を、数歩後ろから静かに見守る女性がいた。
珠世である。
春の夜風に揺れる上品な着物姿の彼女は、かつてのようなどこか陰のある冷たい美しさではなく、内側から滲み出るような、人間らしい温かな血色をその頬に宿していた。
(……不思議ですね。何百年も歩いてきたはずの夜の街が、こんなにも鮮やかに、美しく見えるなんて)
珠世は、自らの胸に手を当てた。
静かに、しかし確かに脈打つ生命の鼓動。そして、人間の食べ物を美味しいと感じられるようになった味覚。鬼としての呪いが解け、完全な人間に戻る日が、手の届くところまで来ている。
「珠世さん、どうかされましたか?」
マヤが立ち止まり、気遣うように振り返る。
「……いえ。ただ、夜風が心地よいと、そう思っていただけです。さあ、愈史郎が待っています。行きましょう」
珠世が優しく微笑み返すと、マヤも頷き、一行は浅草の奥に位置する隠れ家へと向かって歩き出した。
***
幻術の血鬼術で巧妙に隠された、古びた洋館。
そこは、半年前に珠世が愈史郎に「管理と守護」を任せた、彼らにとっての原点とも言える場所だった。
「珠世様……っ!」
玄関の扉を開けるなり、待ちわびていた愈史郎が飛び出してきた。
この半年間、彼はたった一人でこの家と浅草の街を守り抜き、珠世からの手紙だけを心の支えにして生きてきたのだ。
「待たせましたね、愈史郎。変わりはありませんか?」
珠世が優しく声をかけると、愈史郎はハッと息を呑み、そのまま言葉を失って立ち尽くした。
鋭い鬼の嗅覚と視覚を持つ愈史郎には、一瞬で分かったのだ。
珠世の頬に差す、人間らしい赤み。瞳の奥底にあった、鬼特有の飢餓感と絶望の完全な消失。そして何より、彼女から漂う気配が、人間そのものに限りなく近づいているという事実が。
「珠世様……っ。その、お顔の色……それに、気配が……」
愈史郎の声が、ガタガタと震える。
「ええ、愈史郎。私は今、しのぶさんとマヤが作ってくれた薬のおかげで、人間の食事を美味しいと感じられるところまで戻ってきました。……もうすぐ、私は完全に人間に戻れます」
珠世のその静かな告白は、愈史郎にとって、数百年間待ち望んだ奇跡の証明だった。
「っ……ああ……あぁぁぁ……っ!!」
愈史郎は、両手で顔を覆い、玄関の床に崩れ落ちた。
己の無力さを呪いながら、それでもただ一人、珠世の絶望に寄り添い続けてきた長い長い年月。それが、たった半年で報われたのだ。
喉の奥から絞り出すような、嗚咽と号泣が洋館に響き渡る。
カナエもしのぶも、蜜璃もカナヲも、その光景を前に静かに目を伏せ、胸を熱くしていた。彼がどれほど珠世を想い、どれほど苦しんできたのか、痛いほど伝わってきたからだ。
ひとしきり泣き崩れた後、愈史郎はフラフラと立ち上がり、乱れた着物の袖で乱暴に涙を拭った。
そして、彼はマヤの前へと歩み寄り――。
ドサッ。
ためらうことなく両膝をつき、額が床にめり込むほどに、深く、深く頭を下げた。
「マヤ……。あの時の『男の約束』……。俺の想像すら超える形で、珠世様を救ってくれた」
愈史郎の震える声が、床に響く。
「……ありがとう。お前は……お前は本当に、すげぇ男だ……!」
どんなに嫉妬しても、どんなに憎まれ口を叩いても、珠世の魂を救い、人間の未来を与えてみせたこの男の器の大きさには、ひれ伏すしかなかった。見返りを求めない、心からの土下座だった。
「……頭を上げろ、愈史郎」
マヤの、低く落ち着いた声が降ってくる。
マヤはゆっくりとしゃがみ込み、愈史郎の細い肩にその大きな手を置いた。
「俺がすごいんじゃねえ。お前がここをしっかり守ってくれてたから、珠世も安心して研究に没頭できたんだ。お前も立派に、珠世を救ったんだ。胸を張れ」
淡々と、しかし心からの敬意を込めたマヤの言葉に、愈史郎は再びポロポロと涙を零した。
「マヤさん……本当に、優しい方ですね」
蜜璃がハンカチで目頭を押さえながら呟く。しのぶもカナエも、誇らしげに自身の夫を見つめていた。
***
応接間に通された後、しのぶが鞄から小さな木箱を取り出し、愈史郎の前へと置いた。
「愈史郎君。今日ここへ来たのは、貴方にこれを渡すためでもあります」
木箱の中には、瑠璃色に輝く小瓶が一つ収められていた。
「貴方の分の『α3版』……人間帰りの薬です。珠世さんとお館様の体内で完全に安全性が確認されました。少し時間はかかりますが、これを定期的に打てば、貴方も人間に戻る準備ができますよ」
しのぶの言葉に、その場の空気がパッと明るくなった。
珠世と同じ人間に戻り、太陽の下を共に歩く。それは、愈史郎にとって何よりも望んでいた夢のはずだった。
だが。
愈史郎は、その瑠璃色の小瓶を静かに見つめた後、ゆっくりと首を横に振った。
「いや。……俺は、打たない」
「え……?」
しのぶが目を瞬かせ、蜜璃が驚きの声を上げる。
「愈史郎……? 何を言っているのですか?」
珠世もまた、信じられないといった顔で愈史郎を見た。
愈史郎は、真っ直ぐに珠世の瞳を見つめ返した。その目には、かつての幼さや依存心は消え、一人の男としての強固な覚悟が宿っていた。
「珠世様。貴女が人間に戻り、再び太陽の下を歩けるようになることは、俺のすべてを懸けた悲願です。……ですが、無惨が生きている限り、この平穏はいつ壊されるか分からない。貴女が人間としてか弱くなるのなら……俺は、貴女を守るための『力』でありたいんです」
「愈史郎君……っ」
カナエが、その痛切な自己犠牲の精神に息を呑んだ。
「無惨を滅ぼし、この世から鬼が完全に消え去るその日まで。……俺は、この戦うための『鬼の体』のままでいます。それが、俺の戦いです」
自分だけが鬼のまま取り残される孤独。太陽を見られない苦痛。それらすべてを背負い、愛する者の盾となることを選んだのだ。
マヤの背負う愛とはまた違う、愈史郎なりの、狂おしいほどに純粋な愛と男気だった。
「……っ」
珠世は、言葉を失い、両手で口元を覆った。
自分のために、永遠に近い時間を共に歩んでくれたこの青年が、ここまで自分を想い、立派な覚悟を持っていたことに、胸が締め付けられる思いだった。
珠世の目から、温かい涙がツーッと頬を伝う。
「……立派になりましたね、愈史郎。貴方のその思い……誇りに思います」
珠世が、母親のように、あるいは姉のように、優しく微笑んで愈史郎の頭を撫でた。
「……はいっ」
愈史郎は、涙を堪えながら力強く頷いた。
そのやり取りを静かに見守っていたマヤが、ふっと息を吐き、口を開いた。
「……そうかい。お前がそう決めたなら、俺は尚更、珠世をしっかり守らないといけないな。男の約束だぞ?」
マヤの淡々とした、しかし決して揺るがない絶対の信頼を込めた言葉。
鬼として盾になる決意をした愈史郎への、最大の敬意の表れだった。
愈史郎は、立ち上がり、マヤを真っ直ぐに見据えた。
嫉妬も、執着も、そこにはもう無い。澄み切った、武人のような瞳だった。
「ああ、頼んだぞ! マヤ。……珠世様は、もう鬼ではなくなるのだからな。お前のような男の傍で……どうか頼むぞ」
愈史郎が、深々と一礼する。
マヤもまた、無言で一つ頷きを返した。
春の夜風が、開け放たれた窓から洋館の中へと吹き込み、新しい陣羽織の裾を優しく揺らす。
大正の夜の闇の中で交わされた、男たちの静かな誓い。