うららかな春の陽光が降り注ぐ、蝶屋敷の広い裏庭。
そこには、普段の静謐な医療施設の面影を吹き飛ばすような、凄まじい衝撃音と土煙が巻き起こっていた。
「しっ……! たぁっ!!」
「いい踏み込みだ。だが、まだ拳に力が入りすぎてる。もっと力を抜いて、当たる瞬間だけ固めろ」
特注の訓練着に身を包んだ甘露寺蜜璃が、桜餅色の三つ編みを躍動させながら、マヤに向かって怒涛の連撃を放っていた。
彼女の特異体質である常人の八倍の筋密度。そこから繰り出される拳や蹴りは、空気を叩き割り、受け止めるマヤの分厚い掌の奥で「ドゴォッ!」という重い破裂音を鳴らしている。
マヤは丸太のような腕でその猛攻を的確に捌きながら、彼女の重心移動や打撃のフォームを細かく修正し続けていた。
その規格外の肉弾戦の光景を、少し離れた縁側から食い入るように見つめる二人の男がいた。
炎柱・煉獄杏寿郎と、蛇柱・伊黒小芭内である。
「むうう……! 素晴らしい! 甘露寺殿の持ち味である柔軟な筋肉が、見事に打撃の威力へと昇華されている! 剣の型とは違う、純粋な身体操作の極致だ!」
煉獄が腕を組み、カッと目を見開いて感嘆の声を上げる。柱合会議での模擬戦でマヤに完敗した彼は、マヤの『相手を殺さず、制圧し守るための強さ(振動やいなし)』の神髄を少しでも学び取りたいという渇望を胸に、今日この蝶屋敷を訪ねてきたのだ。
一方の伊黒は、全く別の感情でその場に立ち尽くしていた。
「……甘露寺……」
彼の視線の先にあるのは、武の探求などではない。純粋に、自分が想いを寄せる蜜璃の姿だけだ。
やがて、「よし、今日はここまでにするか」というマヤの声で組手が終わると、蜜璃はパッと花が咲いたような笑顔になった。
「はいっ! ありがとうございました、マヤさん!」
蜜璃は小走りで縁側に用意されていたお茶のセットへ向かうと、手ぬぐいと湯呑みを持って、一直線にマヤの元へと戻っていった。
「マヤさん、お茶どうぞ! それに汗、拭きますねっ」
「おう、わりぃな。みつりもよく動けてたぞ」
「えへへ……マヤさんに褒められると、すっごく嬉しいです!」
蜜璃は、かつて伊黒や他の隊士に見せていたような「仲間への明るい笑顔」とは全く違う、頬を極限まで朱に染め、瞳をトロンと潤ませた『完全に恋に落ちた乙女の顔』でマヤに密着し、甲斐甲斐しくその太い首筋の汗を拭っている。
マヤもそれを当然のように受け入れ、大きな手で蜜璃の頭をぽんぽんと撫でた。
「――――ッ!!」
その光景を目の当たりにした伊黒の顔から、スッと血の気が引いた。
柱合会議の時点である程度察してはいたが、ここまで完全に結ばれている(しかも蜜璃からベタ惚れしている)という圧倒的な現実を突きつけられ、伊黒はギリッと奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばり、白目を剥いて絶望の淵に沈み込んでいた。
そんな伊黒の心の崩壊に気づく様子もなく、煉獄がズンズンとマヤの元へ歩み寄った。
「マヤ殿! 先日の模擬戦で貴方に見せられたあの極致、俺は片時も忘れたことがない! どうか、俺にもその『素手の打撃』と体捌きをご指導願えないだろうか!」
熱を帯びた瞳で、煉獄が深く頭を下げる。
だが、マヤが口を開くより早く、スッと静かな足音が二人の間に割って入った。
白衣姿の胡蝶しのぶである。
「お久しぶりですね、煉獄さん、伊黒さん」
しのぶは極上の、しかしどこか絶対的な圧力を伴う笑みを浮かべていた。
「……ですが、申し訳ありません。マヤさんは今、私たちの大切な研究を支えてくださる『蝶屋敷の重要な家族』です。怪我をされては困ります。どうしても他流試合をご希望というのなら……まずはお館様を通してください」
次期当主、そして何よりマヤの『正妻』としての誇りと覚悟。外部の柱にマヤの底知れなさをこれ以上探らせないための、完璧な牽制だった。
「むう……! 胡蝶の言うことはもっともだ。だが、俺はどうしてもマヤ殿の理合いを学びたいのだ! そこをなんとか頼む!」
炎柱という最高位の剣士でありながら、煉獄は己の誇りも面子も投げ捨て、しのぶとマヤに向かって再び深く、深く頭を下げた。
その真っ直ぐな武への渇望に、マヤはふっと息を吐き、しのぶの細い肩にポンと手を置いた。
「……しのぶ、ありがとうな。俺のことを気遣ってくれて」
マヤが優しく微笑みかけると、しのぶは「マヤさん……」と少しだけ困ったように眉を下げる。
マヤは再び煉獄へと向き直った。
「でも、炎柱ほどの男がここまで頭を下げてるんだ。……少しだけなら、相手になろう」
マヤの快諾に、煉獄がパッと顔を上げる。
マヤは傍らに置いてあった木刀を置き、素手で構えの姿勢をとった。
「では、みつりと同様に、煉獄。お前にも『素手の打撃』と体捌きを教える。いざという時、相手が素手で来る場合のいなし、あるいは、自分が刀以外に頼らざるを得ない時に使うんだ。……そして、この極意は、自身の肉を斬らせないことにある」
マヤの空気が、先程までの温厚な家長のものから、歴戦の武人のそれへと切り替わる。
「良いか。まずは、生き延びろ。それが前提だ。相手が強者だからといって、真っ向勝負を挑むのは剣士としては立派だろう。だが、相手は鬼だ。切られても再生するし、頸以外を斬らねば死なない」
マヤは、煉獄の目を真っ直ぐに見据えた。
「ゆえに、刀だけに頼るな。その攻撃を『いなし』、相手の攻撃をいかに殺すか。そして、致命の間合いに入らないよう計算しながら動いてみてくれ。……まずは俺相手ではなく、すでにある程度、素手で岩を砕けるほどになったみつりの相手をしてもらう」
「え? 甘露寺殿はすでに、その領域に!?」
煉獄が驚きの声を上げる。
「はいっ! 色々教えてもらいましたからねっ」
蜜璃が、ふんす!と誇らしげに胸を張って前に出た。
「そうだな。まず、その攻撃を『受ける』か『いなす』かを試してみろ。みつりは全力でいくぞ。岩をも砕く強打だ、当たり所が悪ければ死ぬかもな? それを肉体で防御するなら、何発もつか。……まさに、お前にやった『守る刀』の物理版だな」
マヤの静かな挑発に、煉獄はごくりと唾を飲み、刀を置いて素手で構えを取った。
「いきますよ、煉獄さん! たぁっ!!」
ドンッ!!
蜜璃が踏み込んだ瞬間、地面が爆ぜた。
瞬きする間に煉獄の懐に潜り込んだ蜜璃の拳が、容赦なく煉獄の胸元へと打ち込まれる。
「くっ……!」
煉獄は両腕を交差させてそれを防御したが、凄まじい衝撃に足裏を土に擦りながら後方へ数メートルも押し込まれた。
(なんという重さだ……! これが、甘露寺殿の本来の力……!)
煉獄は腕の痺れに顔を歪める。剣を握っていた頃の蜜璃とは、全く次元の違う物理的な破壊力。
「まだまだいきますよぉっ!」
蜜璃の連撃が嵐のように降り注ぐ。煉獄は持ち前の動体視力と反射神経で急所への直撃こそ避けるものの、その重い打撃をただただ腕や体で「防御」することしかできなかった。一発受けるごとに、骨が軋むような痛みが全身を走る。
(速い! そして重い! 甘露寺殿の練度がこれほどまでに上がっているとは……!)
数十分の攻防の末、煉獄は肩で激しく息をしながら膝をついた。
「……ふむ。全然ダメだな。全くいなせてないぞ」
マヤの容赦ない声が響く。
「刀がないせいで、身体で防御する癖が染み付いてしまっている。みつり相手でそれだ、鬼や俺相手だと即死するぞ」
煉獄は悔しそうに唇を噛み締めた。
刀という「盾」がない状態での戦い方に、自分の体が全く適応できていない事実を痛感させられたのだ。
「そうだな……。きょうじゅろう、しばし、みつりの相手をするか? みつりの組手の良い稽古相手にもなるしな」
「本当にいいのか!? それはありがたい!」
煉獄が目を輝かせる。
「柱をここに長期間集めてしまうのもアレだしな。理由がいるな……きょうじゅろう、何日くらい滞在できる?」
「うむ! 修行できるならいくらでもいたいが、柱の仕事があるゆえ、指令が来れば行かねばならぬ!」
「そうか、仕事が来たら行くか。そうだよな」
マヤは、ふっと薄く笑った。
「なら、行けなくしよう」
その静かな呟きを聞いた瞬間。
しのぶの背筋に、ゾワリと嫌な悪寒が走った。
「煉獄さん、避けて!! 絶対に!!」
「えっ?」
しのぶの突然の絶叫に、煉獄が目を瞬かせた刹那。
スッ、と。
マヤの巨体が、まるで空間を転移したかのように、無防備な煉獄の目の前へと現れていた。
「避けてぇぇっ!!」
蜜璃も悲鳴のような声を上げる。
ドッッッゴォォォォォンッ!!!!
鈍く、重い轟音が裏庭に響き渡った。
マヤの強烈な拳が、煉獄の鳩尾に深々とめり込んでいた。蜜璃の連撃とは比較にならない、内臓を直接揺らされるような桁違いの強打。
「ぐ、はっ…………っ!? おぇぇぇぇぇ…………ッ!!」
煉獄は両目を限界まで見開き、胃の内容物を吐き出しそうになりながら、そのままドサリと地面に崩れ落ちて悶絶した。
(なんだ、これは……見えなかった……っ! まったく反応できなかった……!)
激痛と酸欠で意識が遠のく中、煉獄の頭に恐怖すら入り混じった驚愕が渦巻いていた。
しのぶ、カナエ、カナヲ、蜜璃、そして離れて見ていた伊黒まで、全員が青ざめて石のように固まっている。
「ふむ。少しだけの力で殴っただけだ。だが、咄嗟に急所は避けるように体を捻ったようだな。さすがだよ、きょうじゅろう」
マヤはしゃがみ込み、白目を剥きかけている煉獄の背中をポンポンと叩いた。
「俺のこの一撃をもらって、意識があるだけすごいぞ」
「……マ、マヤさん……」
しのぶが引き攣った顔で近づき、煉獄の脈と腹の状態を確認する。
「……はぁ〜。アバラにヒビ、内臓にも衝撃がいっています。……全治一週間以上です」
「そうか。カナエ、カラスで親方様へ連絡を頼む。『炎柱はしばし療養中。相手はマヤにやられた』とな」
「え、ええ、そうね……。お館様も、それなら納得してくださるわね。……煉獄さん、よかったわね、修行できて……」
カナエが引き攣った笑いを浮かべながら、ピクピクと痙攣する煉獄を見下ろした。
「あ、あぁ……感謝、する……マヤ殿……」
煉獄は親指をグッと立てて見せると、そのままコトリと意識を手放した。
「…………」
その常軌を逸した光景――柱を一撃で病院送りにする理不尽さと、それを「修行の口実」として平然とやってのけるマヤの異常性に、伊黒小芭内の心は完全にへし折られていた。
「……俺は任務に戻る。甘露寺……またな……」
顔面を蒼白にさせた伊黒は、這うような足取りで背を向け、逃げるように蝶屋敷を後にした。