うららかな春の陽光が降り注ぐ蝶屋敷の裏庭。
そこには、先日のマヤの「腹パン」によって強制的に全治一週間の怪我を負わされた炎柱・煉獄杏寿郎の姿があった。
「むんっ!!」
しのぶの治療を受け、腹に何重にも包帯を巻かれた状態であるにもかかわらず、煉獄はすでに甘露寺蜜璃との過酷な組手を再開していた。
「いきますよ、煉獄さん! たぁっ!」
蜜璃の重い拳が、風を裂いて煉獄の胸元へと迫る。
「くっ……!」
普段の煉獄であれば、その屈強な肉体を盾にして真正面から受け止めていただろう。しかし今は、腹部の怪我が完全に治りきっていない。まともに衝撃を受ければ、激痛が走る状態だ。
そのため、煉獄の体は「痛みを避ける本能」に従い、無意識のうちに蜜璃の拳の軌道をそらし、体の軸を半歩ずらして威力を逃す動き――すなわち『いなし』の体捌きを勝手に行い始めていた。
「……なるほど。流石はマヤ殿、理にかなっている!」
幾度目かの蜜璃の強打を紙一重でいなした煉獄が、額に汗を浮かべながら快活に笑った。
「俺は、頭で考えるよりも先に体が動いてしまう性質だ! だからこそ、頼りの肉体(防御)を使えなくすることで、生き残るために別の動きを体に強制的に覚え込ませる! 痛みを伴うが、これほど身につく修行はない!」
縁側でその様子を見ていたしのぶとカナエは、揃って天を仰いだ。
(……いえ、それはただの脳筋思考なのでは……?)
(……マヤさんも煉獄さんも、根本的な思考回路が似ているのね……)
二人が呆れたようにため息をつく中、当の蜜璃は「えへへ、でも鬼殺隊の方ってみんなそんな感じじゃないですかぁ?」と、全く疑問を抱いていない様子で笑っていた。
蜜璃のパンチを避け、煉獄自身も当たらないように軸をずらして動くようになってきた頃。
パン、パンッ。
縁側に腰掛けていたマヤが、軽く手を叩いて立ち上がった。
「よし、そこまで。相手を交代しよう」
その言葉に、煉獄の瞳に歓喜の炎が灯る。しかし、しのぶとカナエは「嘘でしょ……?」と顔を引き攣らせた。ついに、規格外の主が動き出したのだ。
マヤは裏庭の中央へと歩み出ると、足元に転がっていた木刀を一本拾い上げ、煉獄へ放り投げた。
「杏寿郎よ、その木刀を持て。それを使いながら、俺の相手をしろ。好きに使っていい」
煉獄が木刀をキャッチし、構えを取る。
「……だがな。木刀を使いすぎれば、木刀は折れる。つまり、木刀はあくまで『牽制』であり、『盾』じゃない。この意味が分かるか?」
マヤは丸腰のまま、ゆったりとした自然体で煉獄と対峙した。
「今まで蜜璃相手に覚えた体捌きを、今度は木刀を軸にしてやってみろ」
「うむ! やってみよう!」
「しのぶ、悪いがそこに木刀を十本くらい用意しておいてくれ」
「……分かりました。煉獄さん、どうかご無事で……」
しのぶが祈るように言いながら、訓練用の木刀を縁側に並べる。蜜璃も(……そんなに使うことになるのね。煉獄さん、大丈夫かしら……)と両手で頬を押さえた。
「十本……! なるほど、面白い!」
「今ここに五本ある。では、始めようか」
マヤの纏う空気が、一瞬にして凪いだ。圧倒的な静寂。それが逆に、相対する者に底知れないプレッシャーを与える。
「参る!」
煉獄が踏み込んだ。
しかし、開始数秒。
バァンッ!!
「……っ!?」
煉獄が防御のために咄嗟に差し出した木刀が、マヤの軽い裏拳の一撃で、まるで枯れ枝のように真っ二つにへし折られていた。
「杏寿郎、木刀を盾にしていたぞ? 拳と刀で鍔迫り合いはできないだろ」
マヤが淡々と指摘する。
「う、うむ……! そうであったな!」
煉獄はすぐに二本目の木刀を手にするが――結果は同じだった。
バキィッ! ドガァッ!
次々と宙を舞う木片。なんと、開始からほんのわずかな時間で、用意された五本の木刀がすべて折られてしまったのだ。
「さて、残り五本だ」
マヤが落ちた木片を足で退けながら言う。
「まだ開始して十分しか経ってないぞ? 日輪刀は頑丈だが、今の使い方ではいずれ保たないだろう。今まで、いなしの何を教わったんだ?」
「……うむ。刀と木刀は違うということだな。折れない前提で立ち回れば、刀が破損した瞬間に死に直結する……!」
煉獄が額の汗を拭いながら、ハッと気付きを得たような顔をする。
しのぶたちも、そのマヤの指導の奥深さに息を呑んでいた。
「さて、行くぞ」
「うむ!」
マヤが、シュッ、と最小限の動きで間合いを詰める。
今度は煉獄も盾にはしない。マヤの太い腕に対して木刀を絡めるように滑らせ、自身の軸足を起点にして、コマのようにくるりと体を逸らした。
「いいぞ。木刀はあくまで支柱だ。相手の腕に絡め、そこから自分が動く」
マヤが口角を上げる。
「だが――スピードに変化をつけると、どうだ?」
フッ、とマヤの姿がブレた。
「なっ……!?」
煉獄が反応するよりも早く、死角から伸びてきたマヤの手刀が、木刀の腹を正確に捉える。
パキィンッ!!
「くっ……!」
そこからのマヤの動きは、翻弄という言葉すら生ぬるかった。
緩急自在、変幻自在。煉獄が対応しようとした瞬間に速度が変わり、残りの木刀も次々と無残にへし折られていく。
「はぁっ……はぁっ……!」
最後の木刀が折られた時、煉獄は肩で激しく息をしていた。わずかな時間にもかかわらず、極限の集中と体捌きを強いられたことで、体力の消耗が激しい。
「慣れない稽古だ、息が上がるのが早いだろう。だが、確実に糧になってるぞ」
マヤが満足げに頷く。
「良いか? これから俺はお前を気絶させた時のパンチの速度でいく。だが、まず……蜜璃、相手をしてあげなさい」
「はいっ!」
マヤと入れ替わるように、蜜璃が前に出た。
(マヤ殿の、あの見えなかった速度……!)
煉獄が身構える。
「いきますよぉ!」
蜜璃の拳が、再び煉獄を襲う。
しかし――。
「……!」
煉獄の目に映る蜜璃の拳の軌道が、先程よりも格段に遅く、そしてはっきりと見えていた。マヤの異常な緩急と速度を体感したことで、煉獄の動体視力と脳の処理速度が強制的に引き上げられていたのだ。
シュッ、と煉獄が体を沈め、蜜璃の重い連撃を紙一重で、流れるようにいなしていく。
「これは……!!」
自身の体の明らかな変化に、煉獄が歓喜の声を上げる。
「そこまで。いいぞ、杏寿郎」
マヤが静止の声をかけた。
「俺の速度に慣れた直後だったからな、蜜璃の攻撃がよく見えたはずだ。見事にいなせるようになっているじゃないか」
「うむ! 驚くほど体が軽く、相手の動きが手に取るように分かる!」
「だがな」
マヤが、ふっと目を細めた。
「蜜璃も本来は拳だけじゃないのを忘れるなよ? 蜜璃は本来、あの新体操のリボンのようにしなる、特注の日輪刀を持ってるんだぞ?」
「――――っ!」
煉獄の背筋に、ゾワリと冷たい汗が流れた。
(そうであった……! 甘露寺殿があまりにも拳が凄まじいので失念していたが、これにあの変幻自在の斬撃が加わるのか……。遠近、それに重い拳への対応。……とてもではないが、侮れん!)
自身の弟子の真のポテンシャルに底知れぬ恐怖を覚え、煉獄がゴクリと喉を鳴らす。
「えへへぇ……」
褒められた(?)蜜璃は、両手で頬を押さえて照れていた。
「さて。じゃあ、本番行こうか」
マヤが、パンと手を叩いた。
「杏寿郎、お前の日輪刀を持て」
その言葉が出た瞬間、裏庭の空気が一変した。
「マヤさん!! いけません!!」
しのぶが血相を変えて縁側から飛び出してきた。
「絶対に認めません! 煉獄さんが死んじゃいます!!」
「私もやめた方がいいと思うわ。万が一のことがあったら……」
カナエも青ざめた顔で立ち上がる。
(……少し、見てみたいな)とカナヲだけが瞳をキラキラさせていたが、姉二人の必死の制止は本気だった。
「え? ……そんなになのですか?」
煉獄が戸惑うように尋ねると、蜜璃が真顔でブンブンと首を縦に振った。
「そんなに、です! だって、私が岩を割れるようになったのも、マヤさんのおかげなんですよ!?」
だが、マヤは焦る様子もなく、穏やかに笑った。
「大丈夫だ。今の杏寿郎なら、一発は上手く躱せる。……当たっても、まぁ血反吐出るくらいで済ますさ。それが柱だろ? な?」
「う、うむ! 望むところだ!」
「というわけだ。男の意地ってやつさ」
「……分かりました。信じてますからね」
しのぶが、渋々といった様子で引き下がる。
「私も信じますよ? お館様に『また炎柱がやられました』って鴉を出させないでくださいね」
カナエもため息をつきながら縁側へと戻った。
「では、いくぞ。杏寿郎、合図はお前が出せ」
マヤが、だらりと両手を下げた自然体で立つ。
煉獄は日輪刀を抜き放ち、極限まで神経を研ぎ澄ませた。
(来る……! あの、見えなかった一撃が……!!)
「いつでも……!!」
煉獄が叫んだ。
――ヒュンッ。
音が、消えた。
マヤの巨体が、上弦の弐・童磨を吹き飛ばした時と同じ神速の踏み込みで、煉獄の懐へと消失・出現を果たす。マヤの中では三割程度の威力だが、人間相手には間違いなく致死の領域。
(速いっ……!! だが!!)
煉獄は、マヤの拳を『断つ』のではなく、『やり過ごす』ように己の軸を左へと大きくずらした。
痛みを避けるために体に染み込ませた、究極のいなし。
シュバッ!!
マヤの凄まじい右ストレートが、煉獄の胸元の空気を削り取るように通過していく。
(躱した……!!)
煉獄の心に、生存の歓喜が湧き上がった。
「良い動きだ」
耳元で、マヤの低い声がした。
「――だが、ボディーがお留守だ」
すれ違いざま。
マヤの左フックが、煉獄の腹部へと吸い込まれるように伸びた。
「っ!!」
躱しきれない。煉獄が死を覚悟した瞬間。
ポン。
マヤの左拳は、ただ優しく、煉獄の腹部に『軽く触れた(添えられた)』だけだった。
「…………へ?」
煉獄は、汗だくのまま固まった。
腹の痛みはない。骨も折れていない。ただ、大きな手がそっと置かれただけ。
「よく一撃目をいなせたな。今のは無心でやってたな。頭で考えるより体が動くってやつだ」
マヤが、スッと距離を取って元の位置に戻り、満足そうに笑った。
「はぁっ……はぁっ……!!」
遅れて、尋常ではない動悸と冷や汗が煉獄の全身から噴き出した。
「死を……死を感じた一撃だった……っ。よもや、よもやだ……! 一撃目を躱したところで、最後、左を腹に完全に添えられてしまった……!」
「二人とも、すごかったです!」
「ええ、見事な体捌きでしたよ、煉獄さん!」
しのぶとカナエが安堵の声を上げ、蜜璃もパチパチと拍手をする。
「マヤ殿、本当に……ありがとう」
煉獄が、膝をつきながらも心からの感謝を述べる。
「いいさ。今のは、上弦の弐も反応できなかった踏み込みだ。いい目をしてるし、良い体ができたな。杏寿郎、しっかり自分のもにしてるさ」
「えっ!? まさか……あの時、カナエ殿が上弦の弐から逃げおおせたという本当の理由は……!」
煉獄がハッとカナエを見る。
カナエは悪戯っぽく人差し指を唇に当てた。
「はい。実は、マヤさんに助けていただいたんですよ。ですから、お館様と私たちだけの秘密にしてくださいね?」
「あはははは! 凄いですな! まさか上弦の鬼を退けた方に直接稽古をつけていただけるとは!……本当に、感謝する!」
煉獄が、清々しい笑顔で大声で笑った。
その和やかな空気の中、マヤが不意に口を開いた。
「……それと、しのぶ」
「はい?」
「そろそろ、杏寿郎が倒れるから、医務室に運ぶ準備をしてくれ」
「え?」
煉獄が、きょとんとした顔でマヤを見た。
ドクンッ。
「……あ、れ……?」
煉獄の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
腹部に『そっと触れられた』だけのはずの場所から、内臓を直接握り潰されるような、深く、重く、逃げ場のない激痛が、時間差で全身へと広がっていく。
「さっきのフック、打撃の威力を直接内側に『浸透』させてあるから、ゆっくり効く感じのやつなんだよ。……よく耐えた腹だぞ。ゆっくり休め」
マヤの優しい声が聞こえたのを最後に。
「……よも、や…………」
バタッ。
煉獄杏寿郎は、白目を剥いて完全に意識を手放し、芝生の上に倒れ伏した。
「マヤさん……。ふむ、今回は上手く『意識だけを刈り取る』ように調整したんですね。よくできました」
しのぶが、倒れた煉獄の脈を測りながら、マヤに向かって花丸をあげるように微笑んだ。
「優しく撫でたように見えたのに……っ! マヤさんの技、本当に不思議です!」
蜜璃が目を丸くする。
「撫でる方が、意外と後からじわじわ効くんだよ。浸透勁ってやつさ」
マヤがポリポリと頬を掻きながら笑う。
「マヤはすごいね。……私も、あの拳を覚えたい」
ずっと黙って見ていたカナヲが、トテトテと歩み寄ってきてマヤの陣羽織の裾を引いた。
「おっ、カナヲもやるか? 今度な、蜜璃と一緒に教えてやろう。みんなにな」
「うん!」
気絶した炎柱を囲みながら、蝶屋敷の裏庭に、温かく平和な笑い声が響き渡る。
理不尽で、理にかなった脳筋修行は、こうして誰も死ぬことなく(?)、大正の春の空の下で無事に幕を閉じたのであった。