春の陽気が満ちる蝶屋敷の玄関先に、清々しい風が吹き抜けていた。
マヤの強烈な「腹への浸透打撃」によって強制的な療養を余儀なくされていた炎柱・煉獄杏寿郎が、ついに怪我を完治させ、新たな任務へと赴く朝である。
「マヤ殿! 胡蝶殿! 滞在中は世話になった!」
煉獄は特注の隊服に身を包み、燃えるような眼差しでマヤたちに向かって深く頭を下げた。
「俺は今回の療養で、剣士として、いや、生きる者として新たな次元の戦いを学ばせてもらった! 刀に頼らず肉を斬らせない『いなし』の理合い……この体で決して忘れん!」
「ああ。しっかり自分のものにしてくれよ、杏寿郎」
マヤは腕を組みながら穏やかな笑みを浮かべた。
「うむ! まさか俺が、甘露寺殿の『弟弟子』になってしまうとはな! よもやよもやだ!」
豪快に笑う煉獄の横で、蜜璃が「えへへ、いつでも稽古つけますからね、煉獄さん!」と得意げに胸を張る。柱である自分が継子であった蜜璃に教えを乞うという逆転現象すら、煉獄にとっては純粋な喜びとなっていた。
「……じゃあな、杏寿郎」
マヤが歩み寄り、別れの握手を交わそうと右手を差し出した。煉獄も笑顔でその手を取ろうとする。
――その刹那。
マヤの差し出した右手がふっと消え、見えない速度で煉獄の腹部へと直進した。あの日の気絶させられた『腹パン』と同じ軌道である。
だが、煉獄は慌てることなく、己の軸足を半歩ずらし、体を滑らかに捻った。マヤの拳が、煉獄の隊服の布だけを掠って空を切る。
見事な『いなし』だった。
「……ははっ。良い動きだ」
マヤが拳を下ろし、満足そうに頷く。
「うむ! この腹が、あの時の痛みを覚えているゆえな!」
煉獄もまた、悪戯を見破った少年のように快活な笑声を上げた。
「杏寿郎」
マヤの声が、ふっと静かな、しかし確かな重みを持つものに変わった。
「俺の教えた『いなし』は、生き残るためのものだ。強敵を前にして、自分一人が死の淵に立って戦い抜くのが柱の誇りかもしれない。だが……困った事があったら、一人で抱え込まずにみんなに頼れ。な?」
それは、理不尽なまでの強さを持つ男が発した、命への深い慈しみだった。
「……!」
煉獄は一瞬目を丸くし、そして、これまでで一番の真っ直ぐな笑顔を見せた。
「承知した! 貴方から教わった生きる戦い、しかとこの胸に刻んでゆく!」
炎柱の力強い背中が、朝日の中へと遠ざかっていく。
その光景を縁側で見送っていた栗花落カナヲは、マヤの分厚い背中をじっと見つめていた。
(マヤ……かっこいい……)
彼女の胸の奥で、確かな熱を帯びて静かに脈打っていた。
煉獄が去ったその日から、マヤはカナヲの本格的な特訓にも付き合い始めた。
現在、十五歳。次世代の剣士として類まれなる視覚を持つカナヲに対し、蝶屋敷は家族の総力を挙げて英才教育を施すことになった。
マヤは彼女に、刀を持たない状態での絶対的な生存能力と防御の『いなし』を。
カナエは、花の呼吸の剣術と、優しき剣士としての心の在り方を。
蜜璃は、その常人離れした柔軟性を活かすアクロバティックな身体操作を。
しのぶは、鬼の弱点や人体の構造、そして毒の知識を。
四人の偉大な師から溢れんばかりの愛情と技術を注がれ、カナヲはただの優秀な剣士ではなく、感情豊かで強靭な、比類なき剣士へと急速に成長していった。
「マヤ、もう一回……!」
泥だらけになりながらも、カナヲは自らの意思で言葉を紡ぎ、木刀を握り直してマヤへ向かっていく。その瞳には、家族を守りたいという強い意志と、マヤへの深い信頼が宿っていた。
***
カナヲの特訓が始まってから、さらに季節は巡り、木枯らしが吹く冬の始まり。
時系列としては、竈門炭治郎が鬼殺隊に入隊するおよそ半年前のことである。
蝶屋敷の居間には、火鉢を囲むようにしのぶ、カナエ、蜜璃、そして珠世が集まり、和やかな女子会が開かれていた。
「……ええ。お館様と私の体内で定着した『α3版』の血清。これと上弦の血が、ようやく反発することなく完全に中和されようとしています」
珠世が、湯呑みを両手で包み込みながら、希望に満ちた声で語った。
「あと半年……。あと半年もすれば、細胞の劇的な修復と活性化を促す『人間帰りの薬 β版』が完成します。そうすれば、お館様の呪いの進行を完全に逆転させることができるはずです」
「本当ですか、珠世さん……!」
カナエが両手で口元を覆い、安堵の涙を浮かべる。
「ええ! 私と珠世さんの見立てでは、β版の完成はもう確実な領域に入っています。これでやっと、お館様を苦しみから救えます」
十八歳になり、次期当主として、そして一流の医者として成長したしのぶが、誇らしげに頷いた。
「すごいすごいっ! お館様が元気になって、珠世さんも太陽の下を歩けるようになるんですね!」
十九歳となった蜜璃が、パァッと顔を輝かせて拍手をする。
そんな温かい空気の中、居間の襖が開き、黒い隊服にアゲハ蝶の陣羽織を羽織ったマヤが顔を出した。
「お、皆揃ってんな。薬の目処も立ったみたいで何よりだ」
「マヤさん。お出かけですか?」
しのぶが小首を傾げる。
「ああ、ちょっと野暮用でな。少し出かけてくる。夕飯までには戻るよ」
マヤはふらっと、いつものように屋敷を出て行こうとした。
「気をつけてくださいねー!」
女性陣は「またいつもの街の探索ね」と笑顔で見送る。
だが、玄関の扉を閉める直前、マヤの横顔はいつになく真剣だった。
その瞳には、これから先の未来に対する、ある確かな『覚悟』が宿っていた。
(……あと半年。親方様が立ち上がり、珠世が日の下を歩けるようになる、その時……)
マヤは一人、北風の吹く大正の街へと歩みを進めた。向かう先は鬼の潜む路地裏ではなく、職人が腕を振るう、歴史ある装飾品の工房だった。
***
そして、さらに半年が経過した。春の息吹が大地を包み込む頃。
産屋敷邸の奥座敷は、かつてないほどの静寂と、張り詰めたような期待感に包まれていた。
座敷の中央には、当主・産屋敷耀哉と、その妻あまね。
そして彼らと対面するように、マヤ、しのぶ、カナエ、蜜璃、そして珠世が正座していた。
鬼殺隊の長と、数百年を生きる逃亡者の鬼。
本来ならば決して交わるはずのない二人が、今、同じ畳の上で穏やかに視線を交わしている。
「……初めましてだね、珠世。いや、こうして対面するのは初めてだが、私の体には君の血清が、君の体には私の血清が流れている。私たちはすでに、命を分け合った仲だ」
耀哉が、病で爛れた顔に優しい笑みを浮かべて深く頭を下げた。
「君の長年の研究と知識がなければ、私はとうに命を落としていただろう。……産屋敷一族を代表して、心からの感謝を」
「お頭を上げてください、お館様」
珠世もまた、深く畳に額を擦り付けた。
「私こそ、貴方様の尊いお血を頂戴し、こうして人間に戻る希望を与えていただきました。鬼である私を拒絶せず、信じてくださったこと……どれほど感謝しても足りません」
あまねも静かに三指をつき、「珠世様、胡蝶殿、マヤ殿……夫の命を繋いでくださり、本当にありがとうございます」と、声を出さずに涙を流した。
「さあ、挨拶はその辺にして、本番を始めようぜ」
マヤの言葉に、しのぶが静かに頷き、手元の木箱を開けた。
そこには、一年という途方もない時間をかけて、上弦の血とお館様・珠世の血清を完全に馴染ませた奇跡の特効薬――『人間帰りの薬 β版』の入った注射器が二本、瑠璃色の光を放って収められていた。
しのぶと珠世が互いに目配せをし、それぞれ耀哉と珠世自身の腕に注射針を当てる。
「……いきます」
瑠璃色の液体が、二人の体内へとゆっくりと注ぎ込まれていく。
マヤは広域探知の感覚を極限まで引き上げ、二人の体内で起こる細胞の反応をミリ単位で監視した。
α版の時のように、呪いが激しく反発して高熱が出るようなことはなかった。
一年の時間をかけて中和された薬は、極めて静かに、しかし劇的な速度で二人の細胞を書き換えていく。
「……あ……」
あまねが、両手で口元を覆って息を呑んだ。
耀哉の顔の半分を覆っていた、赤黒く爛れた呪いの痣。
それが、まるで薄氷が春の陽光に溶けるように、スーッと色を失い、小さくなっていく。完全に消滅とまではいかないものの、痛々しい爛れは消え、人間の皮膚の面積が明らかに増えていた。
そして。
「……あまね。手を、貸してくれるかい」
耀哉が、あまねの手を借りずに、自らの腰に力を入れ、ゆっくりと、しかし力強く……自らの両足で畳の上に立ち上がったのだ。
「あなた……! あなたぁ……っ!!」
あまねが堪えきれずに嗚咽を漏らし、耀哉の胸に顔を埋めた。
寝たきりだった鬼殺隊当主が、健康な肉体を取り戻し、自らの足で立った歴史的瞬間であった。
一方の珠世もまた、自身の体の変化に震えていた。
「……血の匂いが……まったく、しません。私の体から、鬼の冷たさが……」
珠世は、自分の両手を見つめ、大粒の涙をポロポロと零した。
これで彼女は、人間の食事を完全に取り、日傘さえあれば昼間の外を歩くことができる。人間に戻るための、九割九分を達成したのだ。
「やりました……! やりましたね、珠世さんっ!」
しのぶが珠世の手を握りしめて泣き笑いし、カナエと蜜璃も抱き合って歓喜の涙を流した。
奥座敷は、長年の呪縛からの解放と、奇跡の成就による温かい涙に包まれた。
その歓喜の空気が少し落ち着いた直後だった。
マヤが、おもむろに立ち上がり、耀哉の正面へと向き直った。
「親方様。……いや」
マヤは、深い敬意と、そして対等な一人の男としての眼差しで、当主を見据えた。
「『耀哉』。鬼殺隊当主としてではなく、俺の友として頼みたい。……これからのこと、見届人になってほしい」
その言葉に、しのぶ、カナエ、蜜璃が「えっ!?」と一斉に目を白黒させた。
雲の上の存在であるお館様を、突如として名前で呼び捨てにしたのだ。不敬どころの騒ぎではない。
だが。
「……ああ」
耀哉は全く怒る様子もなく、むしろかつてないほど晴れやかで、年相応の青年のように無邪気な笑顔を見せた。
「いいとも、私の親友よ」
(お、お館様が受け入れた!? しかも親友って……!?)
女性陣が戸惑う中、マヤは懐から、四つの美しい木箱を取り出した。
そして、それをしのぶ、カナエ、蜜璃、珠世の四人の前へとそれぞれ手渡した。
「マヤさん……これは?」
二十一歳となったカナエが、不思議そうに手元の木箱を見つめる。
「開けてみてくれ」
四人がそっと木箱の蓋を開ける。
そこには、しのぶの紫、カナエの薄紅、蜜璃の桜餅色、珠世の深い夜の闇色……それぞれの髪や瞳の色彩に完璧に合わせた、極上の細工が施された『簪(かんざし)』と『櫛(くし)』のセットが、絹の布に包まれて静かに輝いていた。
「綺麗……」
蜜璃が感嘆の溜息を漏らす。
だが、しのぶはその品を見た瞬間、ハッとして息を呑んだ。
(……いつの間に、こんな美しいものを特注で……。あ……あの時だ!)
半年前、薬の完成が見えてきたあの冬の始まりの日。マヤが一人で真剣な顔をして出かけていった、あの日に、彼は自分たちとの未来のためにこれを準備してくれていたのだ。
大正時代において、男性が女性に装飾品を贈ることは、特別な意味を持っていた。
『簪(かんざし)』は、元々魔除けの呪力があるお守りとされていたことから、「一生あなたを守ります」という男性からの揺るぎない誓いの象徴である。
そして、『櫛(くし)』。その発音が「苦」や「死」を連想させるため、本来は贈り物には向かないとされる品だ。しかし、あえてそれらをセットで贈るという行為には、一つの情熱的で退路を断った決意が込められていた。
――『苦労を共にし、死ぬまで一緒にいよう』。
マヤは、畳の上に真っ直ぐに背筋を伸ばして座り、四人の女性たちの顔を順番に見つめた。
その瞳は、どんな鬼を前にした時よりも真剣で、嘘偽りのない誠実さに満ちていた。
「お前たちを愛してる。……一生、俺の傍にいてほしい」
低く、響くようなその永遠の誓いに。
四人の女性たちの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「……まったく、貴方という人は」
十八歳のしのぶが、袖で必死に涙を拭いながら、それでも美しく微笑んでマヤを見つめた。
「ありがとう、マヤさん。私は……ずっと前から、貴方のことを私の旦那様だと思っていましたよ? 愛しています」
「私も……気持ちはずっと、貴方の傍にありました」
二十一歳となり、大人の女性としての深い慈愛を纏うカナエが、木箱を胸に抱きしめる。
「私の命も心も、すべて貴方のものです。……ありがとう。愛しています、マヤさん」
「う、う、うれじいいぃ〜〜っ!!」
十九歳の蜜璃は、もう言葉を取り繕うこともできず、顔をくしゃくしゃにして大号泣しながら、マヤの分厚い胸板に勢いよく飛び込んだ。
「ありがとうございますっ! マヤさんっ、愛してますぅぅっ!」
マヤは大きな手で、泣きじゃくる蜜璃の背中を優しく受け止める。
だが、一人。
珠世だけが、美しい顔を苦痛に歪め、木箱に手を伸ばすのを躊躇っていた。
「マヤ……。私は、鬼です。何百年も罪を重ね、多くの人の命を奪ってきた私が……こんな、純粋な愛と未来を受け取って、本当に良いのでしょうか……」
自分だけが幸せになっていいはずがないという、深い業と絶望。
マヤは、躊躇う珠世の細い手を取った。
そして、その震える掌に、木箱を優しく、だがしっかりと握らせた。
「過去なんて関係ねえ。今、お前は人間の飯を食って、俺たちの前で泣いてる。一人の綺麗な女だ」
マヤの真っ直ぐな言葉が、珠世の心の奥底にあった氷を完全に打ち砕いた。
「俺が、お前を誰よりも幸せにしてやる。だから、俺の傍にいろ」
「……っ!」
珠世は、木箱を握りしめたまま深く畳に額を擦り付け、子供のように声を上げて泣いた。
「……ずっと、お慕いしておりました……。ありがとうございます……っ。死が、二人を分かつまで……貴方と共に……」
四人の女性の愛と涙が、奥座敷を温かく包み込む。
その光景を前に、耀哉は慈しむように目を細め、静かに頷いた。
「……私にも、共に笑い合える対等な『友』ができたか。嬉しい限りだ」
耀哉が、友へ向ける柔らかな声で語りかける。
「して、マヤ。祝言は近いうちに考えようね。私の大切な娘たちと、命の恩人である親友の、晴れ舞台だ」
「耀哉……」
「鬼殺隊の状況もあるゆえ、あまり派手にはできないのは許してほしい。だが、こちらの産屋敷邸で、心を込めて手筈を整えさせてもらおう。……父親からの気持ちと、友への最大の感謝だ」
その粋な計らいに、マヤと四人の女性たちが、深く、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、お館様……!」
あまねもまた、夫が呪いから解放され、真の友を得て心から幸せそうに笑っている姿を見て、静かに感謝の涙を流し続けていた。
過酷な鬼との戦いの歴史の中で、誰もが諦めかけていた希望と愛の結実。
大正の春の光の中、永遠の誓いを交わした彼らの時間は、かつてないほど穏やかで、幸福に満ちていた。