凄惨な死闘と血の匂いに満ちたあの夜から、数日の時が流れていた。
蝶屋敷の庭には、うららかな冬の陽だまりが落ちている。
霜柱が溶け、土の匂いが微かに漂う庭の片隅で、ひとりの小さな少女がしゃがみ込んでいた。虚空をじっと見つめるその瞳には、光がない。飛んできた蝶が肩に止まっても、払うことも、見つめ返すこともしない。ただ、そこにあるだけの空洞のような少女。
縁側に腰を下ろし、あたたかな日差しを浴びながら、胡蝶カナエはその小さな背中を静かに見つめていた。
「……あの子は、カナヲと言います」
カナエの隣には、あぐらをかいて縁側に座るマヤの姿があった。
あの日、極寒の森に半裸で現れた彼には、蝶屋敷にあった男性用の簡素な着物が当てがわれている。鍛え上げられた分厚い胸板や広い肩幅のせいで少し窮屈そうではあったが、マヤ本人はさして気にする様子もなく、縁側で湯気を立てる茶をすすっていた。
「あの子を引き取ってから、もう一年ほど経つでしょうか。親に、売られそうになっていたところを、私としのぶで連れ帰ったんです」
カナエの静かな声が、庭の空気に溶ける。
その言葉を聞いた瞬間、マヤの纏う空気がほんの一瞬だけ、微かに鋭くなった。
親が、我が子を売る。
その事実に対する、マヤの奥底にある本能的な嫌悪。縁側の空気がわずかに軋んだように感じられ、カナエは肩を揺らしたが、マヤの気配はすぐに元の穏やかな凪へと戻った。
「……そうか。買い取って、ここに連れてきたのか」
マヤは湯呑みを置き、庭の隅でじっとしているカナヲへ視線を向ける。
「はい。しのぶが少し、強引に奪い取ってしまったような形でしたけれど」
カナエは膝の上で両手をきつく握り合わせた。
「でもあの子、一年経っても自分からは何も話せないし、決めることもできないんです。お腹が空いても、痛いことがあっても、何も言わない」
カナエの横顔に、深い憂いと迷いが影を落とす。
「私……あの子を無理に連れてきてよかったのか……時々、不安になるんです。私たちの身勝手な同情で、あの子を縛り付けてしまったのではないかと」
それは、誰にも言えなかったカナエの弱音だった。
鬼殺隊の柱としての責任。当主としての重圧。
自分は正しくあれているだろうか。ただの少女を、いつ血が流れてもおかしくないこの屋敷に置いてよかったのだろうか。
沈黙が落ちる。
マヤは何も言わず、ただじっとカナヲを見つめ、やがてカナエへと視線を移した。
「カナエ」
低く、落ち着いた声。
「それは、カナエがいい判断をしたな。よくやったと思う」
「え……」
カナエは思わず顔を上げた。マヤの赤い瞳が、真っ直ぐに彼女を見据えている。そこに、同情や気休めの色は一切ない。ただの、揺るぎない事実としての肯定があった。
「子供は笑ってるのが一番だろ。親に売られるなんてふざけた話、見過ごさなくて正解だ。お前は間違ってない」
マヤはもう一度、庭の少女を見る。
「あの子が笑顔を出せるように、俺にも協力させてくれ」
その真っ直ぐで、裏表の一切ない言葉が、カナエの胸の奥にすとんと落ちた。
張り詰めていた糸が、ふわりと解けるような感覚。
(ああ……)
カナエは、膝の上で握りしめていた手の力を緩めた。
(私はこの人を、底知れない力を持っているからと、監視するために屋敷へ招いた。少し……疑いすぎていたのかもしれない)
この男は、不気味なほど強い。だが、その強さの根底にあるのは、ひどく単純で、あたたかいものだ。
カナエの胸の内にあった柱としての警戒心が完全に溶け去り、純粋な安堵が広がっていく。
「……はい。ありがとうございます、マヤさん」
カナエがふわりと笑う。
その純粋な笑顔を見たマヤは、少しだけ思案するように黙り込み、やがて何かを決めたように頭を掻いた。
「カナエ。その手伝いの先駆け……ってわけでもないんだが」
「はい?」
「俺を、ここの『門番』って形で、今後も置いてくれないかな」
「門番、ですか?」
きょとんとするカナエに対し、マヤは真っ直ぐに彼女の目を見る。
「カナヲのこともそうだけどよ。……カナエと、しのぶの笑顔も、俺に守らせてくれないか」
気取った様子は一切ない。ただ、心の底からそう思ったから口にしただけの、不器用で真っ直ぐな言葉。
思いがけない提案に、カナエは思わず小さく息を呑む。しかし、すぐに花が咲くような、柔らかく心からの笑みをこぼした。
「ふふっ……命を助けていただいた上に、そのようなことまで言ってくださるなんて」
「……いや、迷惑ならいいんだが」
「いいえ。そのご提案、喜んでお受けします。柱の任務で私が不在の間、この屋敷と妹たちを任せられる方がいるのは、とても心強いですから」
「お、おう……」
カナエのあまりにも眩しい純粋な笑顔と感謝を真正面から浴びて、マヤは思わず視線を逸らし、気恥ずかしそうに鼻の頭を掻いた。血みどろの戦いには慣れていても、こういう一点の曇りもない真っ直ぐな好意を向けられることには、ひどく弱いのだ。
「……おう。まかせておいてくれ」
照れ隠しのように短く答え、マヤは再び湯呑みの茶をすする。
二人の間には、強固な信頼と温かい空気が流れていた。
翌日の午後のこと。
蝶屋敷の縁側には、すっかりこの家の主のような顔で日向ぼっこをしているマヤと、その隣で微笑むカナエの姿があった。
そこへ、お盆を手にした胡蝶しのぶが、氷点下の微笑みを浮かべて歩いてきた。
(姉さんから『マヤさんがご自身から進んで屋敷の門番を引き受けてくださったのよ』と聞いた時は、少しは見直しかけたというのに……!)
しのぶの額には、見えない青筋が浮かんでいる。
あの上弦を退けた恩人であることは理解しようと努めている。しかし、彼女が極寒の森で見た「半裸の不審者」という第一印象は未だに拭いきれていない。その上、自ら門番を名乗り出たはずの男が、どう見てもただの居候としてくつろいでいるのだ。
「……マヤさん」
「おう、しのぶ。お茶飲むか?」
「飲みません。というかマヤさん、姉さんから聞きましたよ! あなた、ご自分で蝶屋敷の『門番』を名乗り出たそうですね!?」
しのぶの鋭いツッコミに、マヤは平然と頷く。
「そうだよ。だからしっかり守ってるぞ」
「今、門には誰もいませんでしたが?」
「ああ、大丈夫だ。ここからでも分かるから」
「……お茶をすすりながらですか?」
しのぶの目がジト目になる。しかしマヤは、至極真面目な顔で答えた。
「おう。この家くらいの広さなら、誰か門から入ってくれば気配でなんとなく分かるからさ。あんなとこにずっと突っ立ってるより、全体を見渡せる縁側の方が効率いいんだよ」
「それはただサボるための言い訳ですよね!?」
しのぶが声を荒げる。
そこへ、ふんわりと笑いながらカナエがしのぶの持っていたお盆を受け取った。
「ふふっ。マヤさん、今日も警備お疲れ様です」
「姉さん! 甘やかさないでください! この人不審者なんですよ!?」
ワーワーと言い合うしのぶと、けらけらと笑うマヤ。
カナエはお盆を縁側に置くと、庭の隅にいるカナヲに向かって優しく手招きをした。
「カナヲ、こっちへおいで。お茶菓子を一緒に食べましょう」
呼ばれたカナヲは、ゆっくりと立ち上がり、音もなく縁側へと歩いてきた。
しのぶが、マヤの袖を少し引っ張る。
「ほら、マヤさん少し詰めてください。カナヲの場所がありません」
「おう」
マヤが胡座のまま横にずれると、カナヲは無言のまま、縁側の空いたスペースにちょこんと座った。
お盆の上には、温かいお茶と、お饅頭、そしてお煎餅が乗っている。
「カナヲ、お饅頭とお煎餅、どっちがいい?」
カナエが優しく問いかける。
しかし、カナヲは動かない。
膝の上に両手を置いたまま、じっとお盆の上のお菓子を見つめている。彼女の心の中には、「自分がどちらを食べたいか」という欲求そのものが存在しないのだ。
沈黙が長引く。
しのぶが、心配そうに眉を寄せた。
「マヤさん、カナヲはまだ、自分からお話しするのが少し……」
「あー、別に無理して喋んなくていいぞ」
マヤはしのぶの言葉を遮ると、お盆の上に手を伸ばした。
そして、躊躇なくお饅頭とお煎餅を掴むと、両方とも『真っ二つ』に割った。
「はい、半分ずつ。どっちも食えばいい」
マヤは、割ったお饅頭の半分と、お煎餅の半分を、カナヲの小さな両手にそれぞれ握らせた。
「ちょっとマヤさん、勝手に決めないでください」
しのぶが抗議するが、マヤは気にした様子もない。
「いいだろ? 腹減ってんだから。な?」
カナヲは、自分の両手に握らされた半分ずつのお菓子を見つめた。
決断を強要されることはなかった。ただ、「これを食べろ」という事実だけが、マヤの大きくて温かい手から無造作に渡された。
カナヲはゆっくりと口を開き、お饅頭をかじった。もぐもぐと、小さな口が動く。
マヤの「雑だが、一切の重圧を与えない温かさ」が、カナヲの抱える目に見えない殻を、あっさりとすり抜けてしまったのだ。
「……そういえばマヤさん」
お茶を飲みながら、しのぶが以前から抱いていた疑問を口にした。
「あなたはなぜ、刀を使わないんですか? あの夜も、素手だったと姉さんから聞きましたけれど。鬼殺隊で用意することもできますよ?」
相手は上弦の鬼だ。いくら異常な闘気を持っていようと、素手で戦うなど常軌を逸している。
しかしマヤは、煎餅をかじりながら首を振った。
「ん? 刀はちょっと苦手なんだよね。どっちかっていうと、ナイフとか短い刃物の方が得意だし」
「(本当にこの人が上弦を……?)素手で戦うなんて、無謀すぎませんか?」
しのぶが怪訝な顔をする。
「いや、拳だとちょっと強すぎちゃうんだよな」
「……はい?」
「加減が難しくて、周りごと壊しちまうからさ。あんまり使いたくないんだよね」
あまりにも真顔で告げられたその理由に、しのぶは言葉を失った。
「…………」
しのぶは、ジト目でマヤを見る。
(拳だと強すぎる? 周りごと壊す? 冗談なのか本気なのか全く分かりません。やっぱりただの変な人なのでは……)
「ふふっ、頼もしいですね」
カナエが袖で口元を隠して笑う。
「姉さん、この人の言うこと半分くらい冗談に聞こえますよ!?」
ワーワーと言い合うしのぶと、けらけらと笑うマヤ、そして微笑むカナエ。
カナヲは、両手のお菓子をもぐもぐと食べながら、その騒がしい三人のやり取りを、大きな瞳でじっと交互に見つめていた。
(……変な人)
けれど、嫌な感じはしなかった。
口の中の甘さと、縁側に差し込む冬の陽だまり。そして、目の前で交わされる賑やかな声。
カナヲは、手の中のお煎餅を小さくかじりながら――自分でも気づかないうちに、その唇の端を、ほんのわずかに綻ばせていた。
血の匂いとは無縁の、騒がしくも温かい日常。
カナエと、しのぶと、カナヲ。そして胡散臭い門番。四人の新しい日々が、確かに動き出していた。