産屋敷邸の広大な庭には、夜が更けてもなお、絶えることのない賑やかな笑い声と祝杯の音が響き渡っていた。
篝火が赤々と燃え、最高級の酒と食事が振る舞われる宴の席。奇跡の治癒を遂げた当主・耀哉の晴れやかな顔と、四人の美しい花嫁を娶ったマヤの門出を祝うため、柱たちはそれぞれの形で杯を干していた。
「派手だ! 実に派手でいい夜だぜ!」
宇髄天元が豪快に笑いながら酒を煽り、不死川実弥も「チッ、今日くらいは素直に飲んでやるよ」と悪態をつきながらも、その顔には隠しきれない安堵と喜びが浮かんでいた。
そんな和やかな喧騒の中、マヤは酒を片手に、庭の片隅で胡座をかいて豪快に魚の塩焼きを頬張る炎柱・煉獄杏寿郎の隣へと腰を下ろした。
「……杏寿郎」
マヤが声をかけると、煉獄はパッと顔を上げ、口の周りを拭いながら背筋を伸ばした。
「真っ先に賛同してくれて、ありがとうな」
その言葉に、煉獄は大きく目を見開き、そして照れたように、しかし誇らしげに破顔した。
「うむ! あの蝶屋敷での日々が、俺の頭を柔らかく変えてくれたのかもしれませぬ! 刀で斬るだけが戦いではない。マヤ殿には感謝しかない!」
「流石だな。それをすぐに認められる素直さ、それが一番大事ってやつだ。……杏寿郎、ありがとうよ」
マヤが穏やかに微笑みながら、労うように煉獄の肩に手を伸ばす。
煉獄もまた、師からの温かい言葉に目を細め、無防備にその手を受け入れようとした。
――ドゴッ。
重く鈍い音が、宴の席の片隅で響いた。
マヤの差し出された手は、肩に触れる直前で軌道を変え、煉獄の鳩尾へと正確にめり込んでいた。手加減されているとはいえ、常人ならば内臓が破裂し、一週間は目を覚まさないであろう強烈な打撃である。
「ぐ、はっ……!?」
煉獄の顔が引き攣り、くの字に体が折れ曲がる。
しかし、彼はかつてのように白目を剥いて気絶することはなかった。咄嗟に全身の筋肉を硬直させ、痛みを逃すように己の軸を半歩ずらし、見事にその威力を『体で受け流して』みせたのだ。
「……はぁっ、はぁっ……」
煉獄は口から一筋の胃液を漏らしそうになりながらも、ニヤリと不敵な笑みを浮かべてマヤを見上げた。
「マヤ殿! こういうめでたい席でも手厳しいな! だが、俺の腹筋もいなしも、確実に成長しているぞ!」
「へっ。酔っててもそれだけ反応できりゃ上出来だ」
師と弟子の、常軌を逸した挨拶。
それを見ていた不死川や宇髄が、「あの煉獄が打撃を食らって嬉しそうにしてやがる……!?」「ド派手に頭がおかしくなったのか……!?」と戦慄して顔を引き攣らせていた。
だが、少し離れた席で一人静かに鮭大根をつついていた水柱・冨岡義勇だけは、全く別の次元でその光景を真剣に見つめていた。
(……煉獄は、腹を殴られて嬉しそうにしている……)
義勇は、箸を止めて深く思案する。
(あれが、彼らの深い絆の証……新しい意思疎通の形なのか……。俺も不死川に腹を殴ってもらえば、彼と親友になれるのだろうか……。あとで頼んでみよう)
義勇の明後日の方向の決意に気づく者は、この夜、誰一人としていなかった。
***
宴から数日。
蝶屋敷の奥座敷には、日常の喧騒から切り離された、甘く静謐な時間が流れていた。
夜の帳が下り、月明かりが障子越しに差し込む部屋。
新しい家族となった彼女たちとの、夫婦としての契りの夜。
初日は、胡蝶しのぶであった。
紫の夜着に身を包んだ彼女は、マヤの分厚い胸に顔を埋め、その力強い鼓動を静かに聞いていた。
「……マヤさん。私、いつか必ず、貴方の強い子を産みます」
しのぶの細い指が、マヤの背中を愛おしそうになぞる。
「焦らなくていいさ。お前はお前のペースでいい」
「いいえ。私が子を授かれば、姉さんは現当主としての重圧から解放され、本当の意味で自由になれます。次期当主として、そして貴方の正妻として……私に、貴方のすべてをください」
気高く、そしてどこまでも深い愛情。真新しいシーツに赤い花を咲かせたしのぶの瞳は、未来への責任と幸福で潤んでいた。
次の夜は、胡蝶カナエであった。
薄紅色の長襦袢を纏う彼女の微笑みは、聖母のように柔らかく、そして果てしなく温かかった。
「マヤさん……。貴方はいつも、私たちを守るために泥を被ってくださる。だから、この腕の中だけは、貴方が何も背負わずに甘えられる場所でありたいのです」
カナエの細く白い腕が、マヤの太い首に絡みつく。
現当主として蝶屋敷を率いる彼女が、ただ一人の女としてマヤの熱に身を委ねる。激しくも慈愛に満ちたその夜は、互いの魂を溶かし合わせるような至福の時間だった。朝になり、白いシーツに赤い花を咲かせた
そして、珠世。
深い夜の闇色の着物を滑り落とした彼女の肌は、数百年ぶりの、人間としての温かい血潮に色づいていた。
そして、二人が深く愛を確かめ合った後。
珠世は、真新しい純白のシーツに、小さな赤い花が咲いているのを見つけ、信じられない思いで自らの体を抱きしめた。
「これは……」
「……ああ。完全に、綺麗な人間の体に戻ったんだな」
マヤが優しく彼女の肩を抱く。
それは、何百年も前に失われていたはずの純潔の証だった。鬼から人間へと細胞が書き換わり、劇的な修復と再構築が行われた反動で、彼女の肉体は傷一つない純真な人間の娘の体へと完全に『再生』されていたのだ。
それは無惨の作った鬼の構造から完全に脱却し、正真正銘、混じりけのない純粋な人間に戻ったという、何よりの医学的、そして肉体的な証明であった。
「ああっ……マヤ……っ! 私の体が……本当に、純粋な人間の……っ」
自分はもう、過去の罪に縛られた汚れきった化け物ではない。愛され、新しく生まれ変わった一人の女なのだと、珠世は声を上げて泣きながら、マヤの首にすがりついた。
最終日は、甘露寺蜜璃であった。
桜餅色の髪を散らし、彼女は順番や建前など一切気にすることなく、ただただ純粋な情熱のままにマヤの懐へと飛び込んだ。
「マヤさんっ! マヤさんっ……! 私、世界で一番幸せですっ!」
常人の八倍の筋密度を持つ彼女の抱擁は力強く、しかしその肌はどこまでも柔らかく甘い匂いがした。
「私、マヤさんのこと、いっぱいいっぱい愛してますからっ!」
純真無垢な歓喜と、底抜けの愛情。マヤもまた、その太陽のような温もりに深く応え、二人は夜が明けるまで愛の言葉を囁き合いながら強く抱き合った。朝になり、シーツには赤い花が咲いていた。
明けて、翌朝。
蝶屋敷の居間には、温かいお茶の湯気と共に、艶やかな空気を纏った四人の妻たちが車座になっていた。
「……マヤさん、本当に凄かったですね……」
蜜璃が、両手で真っ赤になった頬を押さえながら身悶えする。
「ええ……。底知れない優しさと、あの力強さ……。私、途中で気を失うかと思いましたわ」
カナエがふんわりと微笑みながら、熱いお茶を一口すする。
「もう、姉さんも蜜璃ちゃんも、はしたないですよ」
しのぶがたしなめながらも、その口元は緩みきっており、左手の薬指にはめられたプラチナの指輪を愛おしそうに撫でている。
「でも、本当に……女としての幸せのすべてをいただいたような、そんな夜でした」
珠世が、恥じらいに目を伏せながらも、深く満たされた吐息を漏らす。
「あ、あの……お茶のおかわり、お持ちしました……」
襖の隙間から、顔から火が出るほど真っ赤になったカナヲが、お盆を持って震えていた。
たまたまお茶を運んできたところで、姉たちの赤裸々な会話をすべて聞いてしまったのだ。
「あら、カナヲ。ありがとう」
カナエが微笑みかけると、カナヲは「ひゃっ、はいっ!」と裏返った声を上げ、お盆を畳に置くなり、脱兎のごとく廊下へと逃げ出していった。
その微笑ましい様子に、居間にいた四人の妻たちは顔を見合わせ、クスクスと楽しげな笑い声を上げた。
***
祝言からしばらくの時が流れた、ある春の昼下がり。
蝶屋敷の門前に、大きな荷物を抱えた一人の少女が立っていた。
神崎アオイである。
彼女は蝶屋敷の看護員として、長らく他の隠の施設への医療指導や、遠方の野戦病院での実習に出向していた。過酷な前線での空気に触れ、身も心も疲れ果てての帰還だった。
「アオイさん!」
「アオイさん、おかえりなさい!」
「お荷物持ちます!」
門をくぐったアオイの元へ、中原すみ、寺内きよ、高田なほの三人娘がパタパタと駆け寄ってくる。
「ただいま、みんな。……屋敷の様子は、どうだった?」
アオイが荷物を下ろしながら尋ねる。
「アオイ」
その声に顔を上げると、縁側からこちらに歩いてくる少女がいた。
「カナヲ……」
カナヲは、かつてのように銅貨を握りしめてはいなかった。
その顔には自然な微笑みが浮かび、アオイの元まで真っ直ぐに歩み寄ると、その細い腕でギュッとアオイを抱きしめた。
「おかえり、アオイ。ずっと待ってたよ」
「え……? カ、カナヲ……?」
自らの意思で言葉を紡ぎ、感情を表に出して抱きついてきたカナヲの変化に、アオイは目を丸くした。
「アオイちゃん、おかえりなさい。遠方での実習、ご苦労様でした」
縁側から、現当主であるカナエが優しく微笑みかける。その隣には、正妻としての落ち着きを纏ったしのぶが立っていた。
そして、その奥の庭には。
黒い日傘を差し、眩しそうに、しかし心底嬉しそうに太陽の光を浴びながら微笑む珠世の姿があった。
「あ……っ」
誰も欠けていない。
死の恐怖も、呪いの影もない。
自分が留守にしていた間に、この屋敷は、信じられないほどの温かさと光に満ちた場所へと生まれ変わっていたのだ。
「おかえり、アオイ。各地で色々頑張ってくれてたようだな。お疲れ様」
居間から出てきたマヤが、アオイの前に立ち、その頭を大きな手でぽんぽんと撫でた。
手紙のやり取りでしか近況を知らなかったアオイの目から、ブワッと涙が溢れ出した。
前線に出られない自分への負い目。遠方での孤独な実習。
それらすべてが、マヤのその大きく温かい掌によって溶かされていく。
マヤは懐から、一つの小さな箱を取り出し、アオイへ差し出した。
「え……?」
アオイが震える手で受け取り、箱を開ける。
そこには、カナヲの髪を飾っているものと対になるような、美しい『青い蝶の簪』が入っていた。
「お前も、俺たちの大事な家族だ」
マヤが、深く、優しい声で告げる。
「もう無理して遠くへ行く必要はない。これからはずっと、ここにいていいんだぞ」
「――――ッ!!」
アオイは、簪を両手で強く胸に抱きしめ、その場にへたり込んでわぁん!と声を上げて泣き崩れた。
「あ、ああぁぁっ……! ありがとうございます……っ! 私、わたし……っ!」
「アオイさぁん!」
三人娘もたまらず泣き出し、アオイと一緒にマヤの足元に抱きついた。
カナヲがそっとアオイの背中を擦り、しのぶやカナエ、蜜璃が優しく目を細めてその光景を見守っている。
「そういえば……マヤさんはしのぶ様と祝言を挙げられたということは、お名前はどうなるのですか?」
三人娘のきよが、不思議そうに首を傾げた。
この時代、戸籍の扱いはまだ曖昧な部分も多いが、蝶屋敷の主治医であり次期当主であるしのぶの元へ『婿入り』する形をとるのが、鬼殺隊の対面的にも最も自然であった。
「ああ。俺は胡蝶の家に婿に入ったからな。これからは『胡蝶マヤ』だ」
マヤが照れくさそうに頭を掻きながら笑うと、三人娘やアオイが「おおーっ!」と目を輝かせた。
「ふふっ。胡蝶マヤさん……私たちと、同じ苗字ですね」
しのぶが、悪戯っぽく、けれど深い愛情を込めてマヤの顔を覗き込む。
「ええ。正真正銘、胡蝶家の家長様ですわね」
カナエも嬉しそうに両手を合わせる。
「えへへぇ、私も早く『胡蝶蜜璃』って呼ばれたいですっ!」
蜜璃が身悶えする横で、珠世もまた、新しい家族の響きに幸せそうに目を細めていた。
吹き抜ける春の風が、庭の木々を揺らし、柔らかな葉音を立てていた。
日傘を差した珠世が、縁側に腰掛けて空を見上げる。
高く、どこまでも澄み切った大正の青空が広がっていた。
蝶屋敷の庭には、いつまでも、いつまでも、温かい家族の笑い声と嬉し涙が満ち溢れていた。