大正の冬。
空を覆う鈍色の雲から、静かに、そして絶え間なく粉雪が舞い落ちていた。
冷え切った空気が肺を刺すような寒さの中、竈門炭治郎は背負子にたっぷりと炭を積み込み、雪に埋もれる山道を一歩一歩踏みしめていた。
「炭治郎、顔が真っ黒じゃないの。こっちへおいで」
出発の前、母親の葵枝が煤で汚れた炭治郎の頬を白い手拭いで優しく拭ってくれた温もりを、炭治郎は雪道を歩きながら思い出していた。
「危ないから今日は行かなくてもいいのに」と心配する母に対し、炭治郎は「正月にはみんなに腹いっぱい食べさせてやりたいから」と笑って答えた。
父を亡くし、長男として家族を支える炭治郎にとって、弟や妹たちの笑顔は何よりの宝物だった。
「兄ちゃん! 今日は町に行くの? 私も行きたい!」
「俺も! 俺も行く!」
花子と茂がしがみついてきたのを、「今日は荷車を引いていけないからダメだ」と宥めた。
「炭治郎、気をつけてね」
妹の禰豆子が、幼い六太を背負いながら微笑んで見送ってくれた。
あの穏やかで、貧しくとも愛に溢れた家族の匂い。炭治郎の類まれなる嗅覚は、その幸福な匂いをいつでも胸の奥で感じ取ることができた。
山を下り、町に着いた炭治郎は、持ち前の人当たりの良さと働き者な性格で、あっという間に炭を売り捌いた。
「おや、炭治郎。こんな雪の日にご苦労なこった」
「炭治郎、ちょっとこの障子の張り替えを手伝ってくれないか? 匂いで猫の居場所も当ててくれたし、本当に助かるよ」
町の人々に慕われ、頼まれごとをこなしているうちに、日はすっかり落ちてしまった。
山の夜道は危険だ。炭治郎は帰り道を急ごうとしたが、山の麓に住む三郎爺さんに呼び止められた。
「炭治郎、今日はうちに泊まっていけ。鬼が出るぞ」
鬼。人喰い鬼。
昔からおとぎ話のように語り継がれてきたその存在を、炭治郎は半分信じ、半分疑っていた。しかし、独り身の三郎爺さんを心配させまいと、炭治郎はその夜、彼の家に泊まらせてもらうことにした。
それが、彼の運命を大きく分ける一夜になるとは知らずに。
***
同じ夜。
炭治郎が三郎爺さんの家で深い眠りについていた頃、竈門家の小さな家は、静寂に包まれていた。
囲炉裏の火がパチパチと音を立て、葵枝と五人の子供たちは身を寄せ合うようにして眠りについている。
――ズズッ。
雪を踏みしめる音が、家の外で立ち止まった。
獣の足音ではない。人間の歩みとも違う。どこか、底知れない冷たさと、重い『異物』のような気配を纏った足音だった。
戸が、音もなく開いた。
冷たい雪山の風が屋内に吹き込み、囲炉裏の火がフッと消える。
「……ん……?」
寒さに目を覚ました葵枝が、寝ぼけ眼を擦りながら身を起こした。
暗闇の中、入り口に立っていたのは、洋装に身を包んだ、異様に肌の白い男だった。
その瞳は、梅の花のように赤く、縦に割れた凄惨な瞳孔を持っていた。
絶対的な死の気配。葵枝の本能が、目の前の存在が『人ではない何か』であることを瞬時に悟り、全身の血が凍りついた。
「だ、誰……っ!」
葵枝の悲鳴に似た声で、禰豆子や竹雄たちも目を覚ました。
男――鬼舞辻無惨は、虫けらを見るような冷酷な目で竈門家の面々を見下ろした。
「……太陽を克服する鬼を創り出すための実験。山の民ならば、少しは耐えられるかと思ったが……どうやら、ただの脆弱な肉塊に過ぎないようだな」
無惨の腕が、鞭のようにしなり、空間を切り裂いた。
「逃げて!! 禰豆子、みんなを……っ!!」
葵枝が子供たちを庇うように両手を広げて前に出た刹那。
無惨の一撃が、葵枝の胴体を深く抉り、その体を背後の壁へと勢いよく吹き飛ばした。
「お母さんッ!!」
凄惨な光景に、竹雄が斧を握りしめて無惨へと向かっていく。だが、無惨が指先を軽く振るっただけで、竹雄の体は宙を舞い、鮮血を撒き散らして倒れ伏した。
「ああぁぁっ!! やめて、やめてっ!!」
禰豆子が、泣き叫ぶ花子と茂、そして六太の上に覆い被さり、必死に背中で無惨の殺意を受け止めようとした。
無惨の冷酷な爪が、禰豆子の背中を引き裂き、同時にその傷口から自身の『血』を大量に流し込んだ。
「ぐ、あぁぁぁぁぁぁッ!!」
致死量を超える鬼の血。細胞が劇的に書き換えられる激痛に、禰豆子は悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。他の弟妹たちも無惨の余波を受け、次々と血を流して気絶していく。
「……やはり、死ぬか。つまらないものだ」
無惨が興味を失い、踵を返そうとした、その時だった。
――ヒュォォォォォォォッ!!
雪山の冷たい風を切り裂くように、鋭く、極限まで研ぎ澄まされた水の刃が、暗闇の中から無惨の首元へと迫った。
「……!」
無惨は僅かに首を傾け、その斬撃を紙一重で躱した。
斬撃の主は、深い雪を蹴り上げながら無音で着地した。左右非対称の羽織を纏い、冷たい双眸で無惨を見据える青年。
鬼殺隊、水柱・冨岡義勇である。
「……柱か」
無惨の赤い瞳が、面倒そうに細められた。
義勇は、この一帯で鬼の不穏な気配を察知し、急行してきたのだ。しかし、眼前に立つ男の放つ気配は、これまで斬ってきたどの鬼とも次元が違った。圧倒的な重圧。義勇の背筋に、冷たい汗が伝う。
「貴様……何者だ」
義勇が日輪刀を構え直し、深い呼吸を繰り返す。
無惨は、足元に転がる血だらけの竈門家の面々と、構える義勇を交互に見やり、鼻で笑った。
「名乗るほどの者ではない。……くだらない実験の最中に、羽虫が湧いたか」
無惨にとって、ここで水柱一人を殺すことは造作もないことだった。しかし、彼は「未知」や「不確定要素」を極端に嫌う。柱が現れたということは、他にも鬼殺隊の援軍が近くにいる可能性がある。無駄な戦闘で自身の姿や情報を晒すことは、彼の信条に反していた。
「今日は、興が削がれた」
無惨の足元が、ぐにゃりと歪む。
無限城への転移空間が開き、無惨の体はそのまま漆黒の中へと沈み込んでいった。
「逃がすかッ! 水の呼吸、肆ノ型・打ち潮!」
義勇の刃が空間を切り裂いたが、無惨の体はすでに完全に消失した後だった。
雪山には、再び重苦しい静寂だけが残された。
「……逃げられたか……」
義勇は刀を収め、すぐさま倒れている竈門家の人々の元へと駆け寄った。
凄惨な血溜まり。しかし、義勇が脈を確認すると、致命傷を負いながらも、母親も子供たちも、微かにだが息があった。先程の無惨の攻撃が、義勇の放った殺気によってコンマ数秒ズレたため、急所を外れていたのだ。
「……生きている。だが、急がなければ持たない」
義勇は即座に懐から小型の発煙筒を取り出し、空に向けて放った。そして、自身の鎹鴉(かすがいがらす)に向かって鋭く指示を出した。
「麓に待機させている隠(かくし)の部隊を呼べ! 大至急だ。重傷者が六名いる!」
カラスが夜空へと飛び立っていくのを見届け、義勇は再び倒れている家族に目を向けた。
その中で、一番上に覆い被さるようにして倒れている少女――禰豆子の体が、異様な高熱を発してピクピクと痙攣していることに気づいた。
「……この娘、鬼の血を大量に浴びているな……。細胞が、抗っているのか」
義勇は眉をひそめた。このままでは、彼女は人喰い鬼へと変貌してしまう。
しかし、義勇の瞳に、かつてのような『鬼は即座に殺す』という絶対的な冷酷さはなかった。彼の脳裏には、蝶屋敷で日夜研究を続ける胡蝶しのぶや、あの常識外れの男の顔が浮かんでいた。
(……持ち堪えろ。お前たちが生き延びさえすれば、治す道はある)
義勇は、静かに雪の上に膝をつき、隠の部隊の到着を待った。
***
翌朝。
三郎爺さんの家を後にした炭治郎は、胸の奥をざわつかせる嫌な予感に急き立てられるように、雪の山道を駆け上がっていた。
(血の匂いがする……!)
類まれなる嗅覚が、風に乗って微かに漂う鉄の匂いを捉えていた。
「はぁっ、はぁっ……!」
息を切らして家の前に辿り着いた炭治郎は、目を疑った。
入り口の戸が壊れ、真っ白な雪の上に、どす黒い血の跡が点々と続いている。
「お母さん!! 禰豆子!!」
炭治郎は家の中へと飛び込んだ。
荒らされた室内。血の海。
「……あ……ああ……っ」
炭治郎の喉から、声にならない絶望の呻きが漏れた。
竹雄、花子、茂、六太、そして母親の葵枝。愛する家族が皆、血だらけになって倒れていた。
「お母さん! 竹雄! 花子! 茂! 六太!!」
炭治郎は半狂乱になって彼らに駆け寄り、その体を抱き起こそうとした。
その時。
(……匂い……? いや、音がする……!)
炭治郎の耳に、微弱だが確かな『心臓の音』と、弱々しい呼吸の音が聞こえた。
「生きてる……! みんな、生きてる!!」
炭治郎の瞳に、一筋の希望の光が宿った。
しかし、どうすればいい。町に医者を呼びに行く暇はない。自分が背負って山を降りるにも、全員を一度に運ぶことは不可能だ。
「どうしよう、どうすれば……っ!」
炭治郎がパニックになりかけたその時、血溜まりの中で倒れていた禰豆子の体が、ビクッと大きく跳ねた。
「禰豆子! 禰豆子、大丈夫か!?」
炭治郎が禰豆子の肩を掴み、抱き起こそうとした瞬間。
ガバッ!!と、禰豆子が凄まじい力で炭治郎を撥ね退けた。
「うわっ!」
雪の上に尻餅をついた炭治郎が見たものは、信じられない光景だった。
禰豆子の体が、異様な高熱を放ちながら、ミシミシと音を立てて巨大化していく。
口元からは鋭い牙が覗き、その瞳は血走って、理性を失った獣のように炭治郎を睨みつけていた。
「グルァァァァァァッ!!」
禰豆子が、凄まじい跳躍力で炭治郎に飛びかかってきた。
「禰豆子!!」
炭治郎は咄嗟に傍らにあった薪割りの斧の柄を両手で構え、禰豆子の牙を受け止めた。
ギチギチギチッ!!と、斧の柄が嫌な音を立てる。
(凄い力だ……! 禰豆子じゃないみたいだ……!)
炭治郎は雪の上に押し倒され、禰豆子の爪が肩に食い込む。痛みに顔を歪めながらも、炭治郎は必死に妹の顔を見つめた。
「禰豆子!! わかるか、俺だ! 兄ちゃんだ!!」
禰豆子は獣のように唸り声を上げ、斧の柄に牙を突き立てて炭治郎の首筋に喰らいつこうとする。
鬼と化した禰豆子の本能が、目の前の人間の血肉を求めていた。
「頑張れ!! 禰豆子、頑張れ!!」
炭治郎の目から、大粒の涙が溢れ出した。
「鬼になんてなるな!! しっかりしろ!! 頑張れぇぇっ!!」
炭治郎の魂を削るような叫びが、雪山に響き渡る。
家族を想うその悲痛な声が、禰豆子の心の奥底に眠る『人間としての理性』を激しく揺さぶった。
禰豆子の動きが、ピタリと止まった。
血走っていた瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ち、炭治郎の頬を濡らした。
「……禰豆子……っ」
鬼の衝動と、家族への愛。その狭間で激しく葛藤し、涙を流す妹の姿に、炭治郎もまた声を上げて泣いた。
「……動くな」
不意に、静かで、しかし絶対的な重圧を持った声が降ってきた。
炭治郎が驚いて視線を向けると、そこには、左右非対称の羽織を着た青年――冨岡義勇が、静かに刀を抜いて立っていた。
「お、お前は……誰だ……?」
炭治郎が、禰豆子を庇うようにして身を挺する。
義勇の瞳は、泣いている禰豆子と、それを命がけで守ろうとする炭治郎の姿を真っ直ぐに見据えていた。
原作の義勇であれば、ここで鬼となった禰豆子を即座に斬り捨てようとし、絶望に打ちひしがれる炭治郎に対して「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」と激しく叱咤していただろう。
しかし、今の義勇は違った。彼の心には、蝶屋敷がもたらす『希望』の存在が根付いていたのだ。
義勇は、ゆっくりと刀を鞘に収めた。
「……俺は、鬼殺隊の冨岡義勇だ」
義勇の静かな言葉に、炭治郎は戸惑いながらも、禰豆子を抱きしめる力を強めた。
「安心しろ。お前の家族は、命に別状はない」
「え……?」
「俺が既に、医療部隊を手配した。もうすぐここへ到着する。母親も弟妹たちも、俺の知る最高の医療施設へと運ばれ、必ず助かる」
義勇の確信に満ちた言葉に、炭治郎の目から再び大粒の涙が溢れ出した。
「ほ、本当か……? 本当に、みんな助かるのか……っ!?」
「ああ。俺が保証する。……だが」
義勇の視線が、炭治郎の腕の中で唸り声を上げる禰豆子へと向けられた。
「その妹は、無惨という鬼の始祖の血を大量に浴びてしまった。今は鬼化の衝動に抗っているが、いずれ完全に理性を失い、人を喰らうようになる」
「そんなことない!! 禰豆子は、俺の妹だ! 絶対に人は喰わない!!」
炭治郎が必死に叫ぶ。
義勇は、その言葉を否定しなかった。
「……そうだな。現にその娘は、極限の飢餓状態にありながら、お前を喰うのを耐えている。奇跡だ」
義勇は懐から、麻縄で結ばれた竹筒を取り出した。
「これを、妹の口に噛ませろ。人を噛まないための枷だ」
炭治郎が震える手で竹筒を受け取り、禰豆子の口に結びつける。禰豆子は抵抗することなく、大人しくそれを受け入れた。
「俺の知る場所に、鬼を人に戻す研究をしている者たちがいる」
義勇が、雪の降る空を見上げながら静かに言った。
「……本当か!? 禰豆子を、人に戻せるのか!?」
炭治郎が縋るように身を乗り出す。
「ああ。だが、それには条件がある」
義勇の瞳が、鋭く炭治郎を射抜いた。
「お前自身が力をつけ、鬼から妹を守り抜けるほどの強さを身につけねばならない。そして、妹の症状が完全に安定するまで、お前たちが生き延びることが必須だ」
「俺が……力を……」
「禰豆子を人に戻し、再び家族全員で暮らしたいなら。……狭霧山の、鱗滝左近次という老人を訪ねろ。俺から話は通しておく」
義勇は背を向け、雪山を下りる準備を始めた。
「太陽の光には絶対に当てるな。鬼は陽光を浴びれば灰になる」
それだけを言い残し、義勇の姿は雪景色の中へとふっと消え去った。
炭治郎は、雪の上に座り込んだまま、義勇が消えた方向をじっと見つめていた。
絶望の淵に突き落とされた夜明け。
しかし、彼の心にあるのは、どす黒い復讐の炎ではなかった。
「……よかった……生きてる。みんな、生きてるんだ」
炭治郎は、竹筒を咥えて静かになった禰豆子の頭を、愛おしそうに撫でた。
「禰豆子。母さんたちは、あの人が助けてくれる。だから、俺たちはお前を治す方法を見つけるために行こう」
禰豆子が、こくりと頷いた。
炭治郎は禰豆子を背負い、家の中にあった竹籠を頭から被せて日差しを遮った。
そして、血だらけになった故郷の家を一度だけ振り返り、深く頭を下げた。
「行ってきます。……必ず、禰豆子を人間に戻して、みんなでまた一緒に暮らすために帰ってくるから」
冷たい雪山に、力強い決意の声が響く。
喪失からの復讐ではなく、愛する家族を再び一つにするための『希望』。
竈門炭治郎の果てしなく過酷な、しかし決して絶望ではない旅路が、今、静かに幕を開けた。