鬼滅の薬   作:マイナーチョコ

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第2話:受け継がれる水と、微笑む幻影

 

狭霧山の夜は、骨の髄まで凍りつくように冷たい。

竈門炭治郎と禰豆子が、冨岡義勇の導きによってこの山奥に住む鱗滝左近次のもとに辿り着いてから、数日が経過していた。

狭い庵の中では、囲炉裏の火がパチパチと音を立てて燃えている。その傍らで、禰豆子は深い眠りに落ちていた。鬼の血を浴び、飢餓状態に陥りながらも兄を喰らうことを耐え抜いた彼女の体は、今、自分自身の内側で激しい変化と戦っているようだった。

 

その夜、庵の戸が静かに叩かれた。

「……誰だ」

囲炉裏の前で腕を組んでいた鱗滝は、即座に刀の柄に手をかけた。天狗の面の下にある鋭い両眼が、戸の向こうの気配を探る。

鬼ではない。しかし、並の人間が発する気配でもなかった。極めて洗練された、足音すら立てない者の気配が二つ。

 

戸がゆっくりと開き、月明かりを背にして二つの影が中へと入ってきた。

一人は、蝶の髪飾りをつけ、白い羽織を纏った小柄な女性。もう一人は、頭が鴨居につきそうなほどの巨躯を持つ、威圧的な黒い陣羽織の男だった。

 

「……これは蟲柱様。わざわざ急に、このような辺境まで」

鱗滝は刀から手を離さなかった。鬼殺隊の柱が直接赴いてきたということは、ついに鬼となった禰豆子を処刑しに来たのだと身構えたのである。

「……そちらの巨漢は、噂に聞く『胡蝶家の旦那様』ですかな?」

 

張り詰めた空気の中、女性――胡蝶しのぶは、柔らかな微笑みを浮かべて深く頭を下げた。

「こんばんは、鱗滝さん。夜分遅くに申し訳ありません。警戒なさらないでください。お館様から、水柱の報告の件……鬼になった少女の診察をするよう伺ってまいりました」

 

その言葉に、鱗滝は僅かに目を見張った。

処刑ではなく、診察。

「……どうも。マヤです」

しのぶの背後に立つ巨漢の男は、深く低い声で短く挨拶をした。鬼殺隊の中で数々の規格外な伝説を持つ男だが、今はあくまで正妻であり医師であるしのぶを完全に立て、一歩引いて控えている。その立ち振る舞いだけで、鱗滝はこの男がただ強いだけの粗暴な輩ではないことを悟った。

 

「失礼しますね」

しのぶは刀を抜くこともなく、静かに禰豆子の枕元へと座った。彼女は禰豆子の顔色を確認し、脈を取り、まぶたを優しく開いて瞳孔の様子を観察した。

鱗滝と、奥の部屋で疲労から眠りこけている炭治郎の静かな寝息だけが、庵の中に響く。

 

「……本来なら採血などもして、もっと詳しく調べたいところですが。鬼の細胞に何が刺激になるかわからないので、今はやめておきましょう」

しのぶは静かに立ち上がり、鱗滝に向き直った。

「……見立て通りです。まだ、無惨の血が彼女の細胞と激しく抗い、定着していません。今無理に治療や薬を施せば、精神が完全に崩壊するか、そのまま死に至るでしょう。……容態が安定するまで、ここで様子を見ましょう」

 

「……様子を、見る?」

鱗滝の声が、微かに震えた。

「はい。彼女が自らの力で安定期に入るのを待つしかありません。それまでは、ずっと眠り続けるはずです」

しのぶの言葉は、医学的な事実を淡々と告げるものだったが、そこには鬼を即座に滅ぼそうとする殺意は微塵もなかった。

 

「少年の旅路には、復讐じゃねえ『希望』がある」

後ろに控えていたマヤが、静かに口を開いた。

「だから俺たちも、全力で応えたい。……めげずに、頼みますよ、鱗滝殿」

 

鱗滝は、天を仰いだ。

今の鬼殺隊には、鬼となった哀れな命を救おうとする慈悲がある。その事実が、長年鬼を狩り続け、多くの弟子を失ってきた老剣士の胸を激しく打った。

天狗の面の下で、鱗滝はボロボロと感涙を流し、深く頭を下げた。

「……承知、した。この鱗滝左近次、命に代えてもこの兄妹を守り抜いてみせよう」

 

この猶予期間を得たことで、鱗滝は禰豆子が目覚めるまでの二年間、付きっきりで彼女の耳元に囁き続けることになる。

『人間は家族だ。人間を守れ。鬼は敵だ』という、強力な暗示を深く刻み込むために。

 

***

 

炭治郎の過酷な修行が始まった。

罠が張り巡らされた山を下る訓練、刀の素振り、滝行、呼吸法の習得。どれもが命を削るような厳しいものだったが、炭治郎が弱音を吐くことは一度もなかった。

炭治郎の心には、「必ず妹を治し、家族が待つ場所へ帰る」という絶対的な希望の炎が燃え続けていたからだ。

 

修行が始まって半年が過ぎた頃から、狭霧山に時折、珍しい客が訪れるようになった。

「冨岡さん!」

任務の合間を縫って現れた冨岡義勇は、炭治郎の挨拶に短く頷くだけで、無言で木刀を構えた。

義勇は鱗滝の弟子であり、炭治郎の兄弟子にあたる。彼は口こそ少ないが、その剣撃には炭治郎を鍛え上げようとする確かな意志が込められていた。

打ちのめされ、泥だらけになりながらも、炭治郎は水柱の太太刀筋を必死に目で追い、体に叩き込んでいった。

 

一年、また一年と月日が流れ、炭治郎の身長は伸び、顔つきも逞しく精悍なものへと変わっていった。

そして、鱗滝から言い渡された最終課題。

巨大な岩を斬ること。

 

来る日も来る日も岩に向かって刀を振り下ろすが、岩は傷一つつかない。焦りと疲労で炭治郎の心が折れかけた時、二人の不思議な少年少女が現れた。

狐の面をつけた少年、錆兎。

同じく狐の面をつけた可憐な少女、真菰。

 

彼らは炭治郎に、呼吸の真髄と、実戦での動きを徹底的に叩き込んだ。

「進め! 男なら、男に生まれたなら、進む以外の道などない!」

錆兎の木刀が炭治郎を打ち据え、真菰が優しくその欠点を修正する。

彼らが鱗滝の死んだ弟子たちであること、そして手鬼に殺された魂であることを炭治郎が知るのは、もう少し先のことだ。

 

最終選別への出発が迫ったある日。

炭治郎は、ついに錆兎の面を、そして巨大な岩を真っ二つに両断した。

 

「勝った……」

割れた岩の前に立ち尽くす炭治郎。

その姿を、少し離れた木陰から静かに見届けている男がいた。冨岡義勇である。

義勇の瞳は、割れた岩と、立派に成長した炭治郎の背中を静かに見つめていた。

 

ふと、義勇の視界の端に、割れた岩の上に並んで立つ二つの影が映った。

「……!」

義勇が息を呑む。

そこには、面を外し、素顔を見せた錆兎と真菰が立っていた。

かつて共に修行し、最終選別で自分を庇って死んでいった無二の親友と、妹弟子。

彼らは、立派な柱へと成長した義勇と、自分たちの遺志を継いで岩を斬った炭治郎を交互に見つめ、優しく、そして誇らしげに微笑みかけていた。

 

「……そこに、いたのか」

義勇の唇から、震える声が漏れた。

「……お前たちの繋いだ命は、こうして次へと受け継がれていく」

義勇の瞳から、長年の重い呪縛が解けたように、一筋の涙がこぼれ落ちた。

錆兎と真菰は満足げに頷き、風と共に霧の中へと溶けて消えていった。

義勇は、幻影が消えた空間に向かって深く一礼し、踵を返して山を下りていった。彼の背中は、今までよりもずっと軽く、前を向いていた。

 

***

 

一年中、狂い咲く藤の花が山を覆う藤襲山。

鬼殺隊の最終選別は、七日間、この山で鬼から生き延びるという過酷なものだった。

 

炭治郎は、鱗滝から授かった厄除の面を被り、水の呼吸を駆使して鬼たちを斬り伏せていった。

そして、かつて錆兎や真菰、数多くの鱗滝の弟子たちを喰らってきた異形の大型鬼――手鬼と対峙する。

 

「お前も鱗滝の弟子かァ!」

手鬼の無数の腕が、炭治郎を襲う。しかし、炭治郎は錆兎たちの想いと、妹を救うという絶対の希望を胸に、淀みない動きで攻撃を掻い潜った。

「全集中・水の呼吸……壱ノ型、水面斬り!」

 

炭治郎の刃が、手鬼の太い頸を捉え、斬り落とした。

崩れ落ちる手鬼から漂う、深い悲しみと孤独の匂い。炭治郎は、消えゆく手鬼の背中にそっと手を添えた。

「神様、どうか……この人が今度生まれてくる時は、鬼になんてなりませんように」

炭治郎の慈悲の祈りに包まれ、手鬼は涙を流しながら塵となって消えていった。

 

七日間の死闘を終え、藤の花が咲き誇る集合場所へと辿り着いた時、炭治郎の体は泥と血で汚れ、立っているのもやっとの状態だった。

生き残った者はごくわずか。皆、疲労困憊で座り込んでいる。

 

しかし、その中で一人だけ、異彩を放つ少女がいた。

一切の汚れがなく、息一つ乱していない。まるで春の木漏れ日のような清涼感を纏うその少女は、栗花落カナヲであった。彼女は、蝶屋敷での四人の常識外れな師匠たちによる英才教育を受け、異次元の体捌きで鬼たちを単独で蹂躙してきたのだ。

 

カナヲは、満身創痍の炭治郎を見つけると、トテトテと軽い足取りで歩み寄ってきた。

炭治郎が驚いて顔を上げると、カナヲは小首を傾げ、感情豊かな温かい笑顔を向けた。

 

「……怪我は、ない? お疲れ様」

 

その透き通るような声と、一切の淀みがない強さに、炭治郎は目を奪われた。

「あ、ありがとう……。君は、全然汚れてないんだな。凄い……」

炭治郎が眩しそうに呟くと、カナヲはふわりと微笑み、黙って一礼して去っていった。

(なんて綺麗な人だ……。それに、あの圧倒的な強さ……俺も、もっと強くならなきゃ!)

炭治郎の胸に、新たな目標となる眩しい像が焼き付いた。

 

***

 

夕暮れ時。

西の空が茜色に染まる頃、蝶屋敷の立派な門を、一人の少女がくぐった。

 

「ただいま戻りました」

カナヲが静かに声をかけると、屋敷の奥からバタバタと複数の足音が駆け寄ってきた。

 

「カナヲ!!」

真っ先に飛び出してきたのは、現当主である胡蝶カナエだった。彼女はカナヲを強く抱きしめ、その無事を確かめるように頬擦りをした。

「おかえりなさい、カナヲ! 本当に無事でよかったわ!」

「カナエお姉ちゃん……」

 

「怪我はありませんね? ええ、綺麗なものです。よく頑張りました」

しのぶがカナヲの頭を優しく撫で、その奥から蜜璃が「カナヲちゃーん! すごいすごいっ!」と飛びついてきた。

珠世も日傘を差し、アオイや三人娘たちと共に、温かい眼差しでカナヲを見守っている。

 

「おう、おかえりカナヲ」

大きな影が、カナヲの前に落ちた。マヤである。

マヤは、カナヲの頭に大きな手をポンと乗せ、豪快に笑った。

「今日の夕飯は、お前の好きなものばかりだぞ。腕によりをかけて作ってある。腹いっぱい食え」

 

「……うんっ!」

冷酷で死と隣り合わせだった選抜試験の山から一転。

圧倒的な愛と温もりに満ちた、帰るべき場所。カナヲは、マヤの大きな手を見上げ、この世界で一番幸せな笑顔を咲かせた。

 

「ただいま、マヤ。お姉ちゃんたち!」

 

茜空の下、完全な『家族』の笑い声が蝶屋敷に響き渡る。

それぞれが背負う運命の糸が、少しずつ、しかし確実に交わり始めていた。

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