大正の空に、初夏の爽やかな風が吹き抜けていた。
産屋敷邸の奥庭は、眩しいほどに青々とした新緑に包まれ、池を泳ぐ色鮮やかな錦鯉が時折跳ねては水面に銀色の波紋を広げている。
その縁側には、穏やかな陽光を浴びながら、静かに巻紙の書状を読み上げる鬼殺隊第97代当主・産屋敷耀哉の姿があった。
彼の顔には、一族を蝕む忌まわしい呪いの痣はすでに薄く、健康的な青年の肌が戻りつつある。長きにわたる苦痛から解放され、自らの足で座し、自らの声で語ることができる。その奇跡の立役者である親友が、今も彼のすぐ傍で胡座をかいていた。
「……『ご報告申し上げます。鬼へと変貌した妹の禰豆子は、二年という長き眠りから、ついに覚醒いたしました』」
耀哉の透き通るような声が、庭の静寂に溶け込んでいく。
胡座をかきながら腕を組む巨漢の男――胡蝶マヤは、ふんと鼻を鳴らして書状の続きを促した。
「『特筆すべきは、彼女が極限の飢餓状態にあっても決して人を喰らわず、理性を保っていることです。そればかりか、鬼の異能を用い、兄である炭治郎と共に鬼殺隊として戦う強き意志を見せております』……とのことだよ」
耀哉は書状を巻き終え、満足げに微笑んだ。
「へぇ……二年か。よく持ち堪えたもんだ」
マヤが、傍らに置かれた茶を啜りながら静かに言った。
「あの初期段階の、細胞が激しく抗い合う危険な時期を自力で乗り越えて、しかも理性を保ったまま安定したってんなら……うちの医療で、確実に治せるな」
「ええ。間違いありません」
マヤの横に端座していた胡蝶しのぶが、凛とした声で深く頷いた。
美しい蝶の髪飾りを揺らし、医師としての揺るぎない誇りをその瞳に宿している。
「私が直接あの山へ赴き、診察をして、定着の猶予を指示した子ですから。無惨の血の暴走を抑え込み、己の精神で理性を確立した。これならば、珠世さんと開発している『人間帰りの薬・β版』も、拒絶反応なしで彼女の細胞に馴染むはずです」
「見事なものだね」
耀哉が、春の陽だまりのような優しい目を向けた。
「絶望の淵に立たされながらも、妹を人に戻すという希望を決して捨てなかった兄。そして、鬼の業を自らの精神力でねじ伏せた妹。……あの兄妹の存在は、これからの鬼殺隊にとって、大きな希望の光となるだろう。楽しみだね、マヤ」
「ああ。俺たちが用意した最高の舞台(病院)に、あいつらがどう成長して辿り着くか。見守らせてもらおうぜ」
マヤの分厚い唇に、ニヤリと力強い笑みが浮かぶ。
しのぶもまた、「はい、旦那様」と寄り添い、二人の頼もしい背中を耀哉が嬉しそうに見つめていた。
鬼を憎み、滅することだけが目的だった鬼殺隊の歴史に、『救済』という新たな歯車が確かに回り始めていた。
***
その頃、竈門炭治郎は、初めての任務である「沼鬼」の討伐を見事に完遂し、鎹鴉の案内に従って次の目的地へと足を踏み入れていた。
「次ハ、浅草! 東京府、浅草! カァァァッ!」
「あ、浅草? わかった、わかったからつつかないでくれ!」
炭治郎は、目の前に広がる光景に圧倒され、口をあんぐりと開けて立ち尽くした。
山奥で生まれ育った炭治郎にとって、夜の浅草はまるで異世界のようだった。
煉瓦造りの巨大な西洋建築が立ち並び、夜だというのにガス灯の光が街全体を真昼のように明るく照らし出している。通りには行き交う人々が溢れ、着物姿の者だけでなく、洋装に身を包んだ紳士淑女、さらには見たこともない乗り物(路面電車)が鐘を鳴らしながら走っていた。
「……夜なのに、こんなに明るいのか……? 人がいっぱいだ……」
炭治郎は背中の木箱――禰豆子が入った箱――をギュッと握りしめ、人酔いしそうな喧騒の中をフラフラと歩いた。
やがて、人通りの少ない路地裏を見つけ、うどん屋の屋台で足を止めた。
「す、すみません。山掛けうどんを一つ……」
フラフラになりながら注文し、ベンチに腰を下ろして冷たい水を一気に飲み干す。
「はいよ、お待ち!」
湯気の立つうどんが出され、炭治郎が箸を割ろうとした、その刹那だった。
――ズンッ!!
炭治郎の並外れた嗅覚が、風に乗って流れてきた『ある匂い』を捉えた。
それは、大都会の排気ガスや人々の香水の匂いなどをすべて掻き消すほどに強烈で、そして、決して忘れることのできない匂いだった。
凍りつくような悪意。重く、底知れない、圧倒的な死の気配。
あの日、雪の降る竈門家の戸を破り、愛する家族を惨殺し、禰豆子を鬼に変えたあの男の匂い。
「……ッ!!」
ガシャン!と音を立ててどんぶりが地面に落ち、割れる。
「おい、どうした小僧!?」
屋台の親父の声も耳に入らない。炭治郎は木箱を背負ったまま、無我夢中で夜の街へと飛び出した。
「(この匂い……! なぜこんな所にいる! なぜだ!!)」
炭治郎の息が荒くなる。肺が破れそうなほど空気を吸い込み、人混みを掻き分けながら匂いの発生源を必死に追う。
「すみません! 通してください!」
煌びやかなネオンの光が流れる大通り。
人々の間を縫うように走り抜け、炭治郎はついに『その男』の背中を捉えた。
黒の洋装、白い帽子。洗練された身なりのその男から、間違いなくあの惨劇の匂いが立ち昇っている。
「……お前か……!!」
炭治郎の右手が、男の肩をガシッと力強く掴んだ。
「お前が……!!」
男が、ゆっくりと振り返る。
切れ長の目に、梅の花のように赤く、縦に割れた凄惨な瞳孔。
鬼舞辻無惨であった。
「……何か、私にご用かな?」
無惨は、全く動じる様子もなく、冷徹な声で尋ねた。
だが、炭治郎が日輪刀の柄に手をかけようとしたその時、無惨の腕の中に小さな女の子が抱かれているのに気づいた。
「お父さん、誰? このお兄ちゃん」
「さあ、人違いじゃないかな。ねえ、お母さん」
無惨の隣には、上品な着物を着た人間の女性が、不思議そうに炭治郎を見つめていた。
(人間……? 人間のふりをして、家族と一緒に暮らしているのか!? こいつは……鬼だぞ!! 人を喰う化け物だぞ!!)
炭治郎が混乱と怒りに打ち震えた、次の瞬間。
無惨の赤い瞳が、炭治郎の両耳で揺れる『花札の耳飾り』を捉えた。
――ドクンッ!!
無惨の脳裏に、数百年もの間、細胞の底に焼き付いて離れない絶対的な恐怖の記憶がフラッシュバックした。
赤い炎を纏い、神仏のごとき歩みで自分を追い詰め、その頸を軽々と斬り落とした男。
始まりの呼吸の剣士、継国縁壱。
その男がつけていたものと全く同じ、花札の耳飾り。
(……縁壱……!? いや、違う! あの化け物はとうに死んだはずだ!! なぜ、ただの小童がその耳飾りをつけている!?)
無惨の冷徹な仮面の下で、底知れない恐怖と焦燥が渦巻いた。
ここで殺すのは造作もない。だが、この耳飾りの剣士が、あの縁壱と同じ『日の呼吸』を受け継ぐ者だとしたら? もし、予想外の力を秘めており、周囲の人間を巻き込んで騒ぎになれば、自分の存在が白日の下に晒される。
無惨は極端に『未知』と『変化』を恐れる生き物だった。
(面倒だ……目眩しを使う)
無惨の瞳が細められ、彼の右手が人間として連れていた妻の視線を遮るように、すっと通行人の男性の首筋に触れた。
鋭い爪が、男性の首に一筋の傷をつけ、無惨の血を注ぎ込む。
「う……あ……アァァァァァァッ!!」
男性は突如として白目を剥き、激しい痙攣と共に鬼へと変貌した。そして、隣を歩いていた人間の妻の肩口に、無残に牙を突き立てた。
「キャアァァァァッ!!」
「やめろォォッ!!」
炭治郎が叫び、鬼と化した男性を取り押さえるべく飛びついた。
その混乱の隙を突き、無惨は静かに踵を返した。
彼は、マヤや珠世といった存在がこの浅草にいるかもしれないという可能性にはまだ気づいていない。ただ純粋に、「耳飾りの剣士」へのトラウマに駆り立てられ、逃げるように路地裏の闇へと身を隠した。
やがて空間がぐにゃりと歪み、無惨は自身の絶対的な安全圏である『無限城』へと即座に逃げ帰っていった。
「逃げるな!! どこへ行こうと、地獄の果てまで追いかけて、お前の首に刃を振るう!!」
炭治郎の血を吐くような叫びが、浅草の夜空に虚しく響き渡った。
***
「離しなさい! 警察だ!」
鬼となった男性を必死に押さえつけ、怪我人に手当ての布を当てている炭治郎の周りに、警笛を鳴らしながら警官たちが集まってきた。
「違うんです! この人は病気で……手当てを!!」
「いいから離れろ! 抵抗するなら捕縛するぞ!」
警官の警棒が炭治郎に向けられ、絶体絶命の危機に陥った、その時だった。
「……惑血(わくち)・視覚夢幻の香」
ふわりと、どこからか甘く不可思議な香りが漂ってきた。
不思議な花柄の紋様が宙に浮かび上がり、炭治郎と、押さえつけられている鬼、そして警官たちの視界を覆い尽くした。
「な、なんだこれは!?」
「前が見えんぞ! 小僧はどこだ!」
警官たちが混乱する中、炭治郎の腕を強い力がぐいっと引いた。
「こっちだ。馬鹿な奴め、人間ごときに捕まってどうする」
炭治郎が振り向くと、そこには大正の書生風の身なりをした、鋭い目つきの青年が立っていた。
「あ、あなたは……鬼?」
炭治郎の嗅覚が、青年の正体を捉える。しかし、その血の匂いは、今まで出会ってきた鬼たちのようにどす黒く淀んだものではなく、ひどく澄み切っていた。
「俺は愈史郎(ゆしろう)。お前が鱗滝の言っていた、妹を連れた剣士か」
愈史郎は、鬼化した男性を一瞬で気絶させ、炭治郎に目配せをした。
「ついてこい。お前を助けてやる」
炭治郎は戸惑いながらも、その青年の声に一切の悪意や嘘がないことを感じ取り、背中の木箱を揺らしながら彼の後を追った。
***
複雑な路地裏を抜け、視覚の血鬼術で隠された古びた洋館の地下室。
そこは、医療器具や薬品の匂いが微かに漂う、愈史郎の隠れ家だった。
炭治郎が鬼化した男性を寝台に寝かせると、愈史郎が手際よく拘束衣を着せ、鎮静薬を注射した。
「すごい……鬼を、薬で眠らせた……」
炭治郎が感嘆の声を漏らすと、愈史郎はフンと鼻を鳴らした。
「当然だ。俺はあの方……珠世様によって鬼となり、無惨の呪いを外れた存在だ。そして今は、あの『マヤ』という男の庇護の下で、この浅草の街を預かっているのだからな」
「マヤ……? 珠世様……?」
炭治郎が聞き慣れない名前に首を傾げると、愈史郎は少しだけ目を伏せ、どこか遠くを見るような、誇らしげで、それでいて少し寂しげな表情を浮かべた。
「珠世様は……俺を救ってくださった、何よりも美しく尊いお方だ。ずっと、この街で一緒に暮らしていた」
愈史郎の言葉には、珠世への深すぎる愛情が滲み出ていた。
「だが、珠世様は今、鬼殺隊の『蝶屋敷』にいる。あのマヤという規格外の男の医療技術によって……珠世様はすでに、『人間に戻りかけている』のだ」
「えっ……!?」
炭治郎の心臓が、大きく跳ねた。
「人間に、戻りかけている……? 鬼が、人に戻る薬があるんですか!?」
「そうだ。珠世様は太陽の下を歩く日を夢見て、日夜蝶屋敷で共同研究をされている。俺は、珠世様が完全に人に戻り、幸せになるためならば、離れ離れになってもこの街で裏方の任務を全うする覚悟だ」
愈史郎は、自らの愛する者の幸せのために泥を被る男気を見せ、炭治郎を真っ直ぐに見据えた。
「お前の妹も、初期の飢餓を乗り越えたと鱗滝から報告がいっている。……生きてそこへ辿り着けば、必ず人間に戻れる」
「――――ッ!!」
炭治郎の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
今まで、禰豆子を人に戻す手がかりは全く見つからず、深い霧の中を手探りで歩くような旅だった。無惨を倒せば戻るのか、それすら定かではなかった。
だが今、目の前に「実例」を伴った、絶対的な希望の光が差し込んだのだ。
「本当ですか……! 禰豆子は、禰豆子は……人に戻れる……っ!」
炭治郎は、木箱を下ろしてその蓋を抱きしめ、子供のように声を上げて泣いた。
「よかった……! 本当によかったな、禰豆子……っ!」
木箱の中から、禰豆子が「ムー……」と優しく兄に応えるような声が響いた。
愈史郎は、泣き崩れる炭治郎を見て、ふっと口元を緩めた。
「だから、死ぬなよ竈門炭治郎。お前の戦いは、ただの復讐じゃない。希望を掴むための戦いだ」
炭治郎の心の中で、無惨への怒りと並び、それを遥かに凌駕するほどの強大な『希望』が燃え上がった。
必ず生き抜いて、禰豆子を蝶屋敷へ連れて行く。
竈門炭治郎の刃が、明確な未来へ向かって研ぎ澄まされた夜だった。