大正の夜は、都市部と山間部で全く異なる顔を持つ。
浅草の街がガス灯やネオンで不夜城のごとく輝く一方で、鬼殺隊の本拠地である産屋敷邸の周辺は、吸い込まれそうなほどの深い闇と静寂に包まれていた。
その静寂を破るように、バサバサと夜空を切り裂く羽音が響いた。
炭治郎の鎹鴉(かすがいがらす)が産屋敷邸に舞い降り、浅草で起きた事の顛末を詳細に記した報告書を届けたのである。
「……浅草で、炭治郎が無惨と遭遇したか」
深夜の奥座敷。灯火に照らされた耀哉の顔には、微かな驚きと、深い思案の色が浮かんでいた。
傍らで胡座をかいていたマヤが、耀哉の手から報告書を受け取り、その分厚い手で紙面を広げた。
「あの少年、もう無惨と出くわしたのか。運がいいのか悪いのか……いや、鬼殺隊にとってはデカい一歩だな」
マヤは静かな声で言いながら、報告書に記された文字を目で追う。だが、ある一文に差し掛かった時、彼の太い眉がピクリと動いた。
「……耀哉。この報告にある『無惨は容姿を変え、人間のふりをして暮らしている』『声や匂いが変われば、女や子供の姿にもなるはずだ』ってのは……確かなのか?」
マヤの問いに、耀哉は静かに頷いた。
「ああ。鬼殺隊は何百年も彼を追い続けてきたが、全く尻尾を掴めなかった。それは彼がそうやって姿を変え、人間の社会に溶け込んで隠れ潜んできたからだと言われている。性別すらも、自在にね」
「……女の姿、か」
マヤは腕を組み、灯火を見つめたまま深く目を細めた。
その脳裏に、四年前に見たある光景が鮮明にフラッシュバックしていた。
四年前。マヤがこの世界に落ちてきて、まだ間もない頃。
産屋敷邸からほど近い深い森の中で、彼は空間自体が軋むような奇妙な歪みを感知した。
その歪みから現れたのは、黒髪をまとめ上げ、豪奢な黒い着物を身に纏った『女』だった。氷のように冷たい、底なしの悪意。そして一瞬だけ目が合った、梅の花のように赤く、縦に割れた凄惨な瞳孔。
(……あの時の女……あれが、無惨だったのか)
マヤの中で、四年間くすぶっていた点と点が、完全に一本の線として繋がった。
「どうかしたかい? マヤ」
耀哉が不思議そうに尋ねる。マヤは小さく息を吐き、報告書を畳んだ。
「いや……浅草で剣士に遭遇したってことは、奴は今、ひどく神経質になってるはずだ。報復として、この周辺を嗅ぎ回る可能性もある。護衛の強化が必要だな」
「そうだね。柱たちには持ち回りで邸の周辺を警戒してもらおうと思っている」
「ああ、それがいい。……俺は少し、『あの森』を調べてくる」
マヤが立ち上がると、耀哉が心配そうに目を向けた。
「あの森というと……君が以前言っていた、空間の歪みがある場所かい?」
「ああ。もしあそこが奴の移動経路の一つなら、いつまでも放っておくわけにはいかねえ。お前や、うちの家族たちを守るために、向こうの理屈(空間の仕組み)を少し覗いておきたいんだ」
マヤの動機は、決して力を持て余した狩りや、血湧き肉躍る戦闘への飢えではない。
自分にとって何よりも大切な「家族」の安全を確保するための、大人としての冷静な防衛策であった。
「……危険なことはしないでくれよ。君はもう、一人じゃないんだから」
耀哉の優しい言葉に、マヤは振り返ってふっと微笑んだ。
「分かってるさ。俺も、あいつらを泣かせるような真似はしたくねえからな。すぐ戻るよ」
マヤは静かに襖を開け、夜の闇へと溶け込んでいった。
***
産屋敷邸から離れた、深く鬱蒼とした森の中。
木々の隙間から落ちる月明かりだけが頼りの暗闇に、マヤは自身の巨躯と気配を完全に同化させ、静かに息を潜めていた。
岩のように微動だにせず、周囲の空気の僅かな流れ、温度の変化、そして空間そのものの「軋み」を全神経で探る。
(……来るなら、そろそろのはずだ。浅草で騒ぎを起こしたなら、一度安全な拠点へ身を隠すのが常套手段だ)
マヤの予想通り、張り込みを始めてから数日後の深夜。
森の空気が、突如として粘り気を帯びた。
温度が急激に下がり、周囲の木々が不自然にざわめく。
――ベキッ。
ガラスにヒビが入るような微かな音と共に、マヤの前方の空間に黒い亀裂が走った。
空間が裂け、襖が開くように横にスライドする。
そこから現れたのは、洋装を着た青白い顔の男――無惨ではなかった。
マヤが四年前に見たのと同じ、豪奢な黒い着物を纏った女の姿だった。
(……間違いない。あの気配……やはりあれが、無惨の変装姿か)
マヤは木の枝の上から、冷ややかにその姿を見下ろした。
無惨は浅草から逃亡し、転移の経由地としてこの森の歪みを利用したのだろう。その顔には、隠しきれない苛立ちと、底知れない焦燥が浮かんでいた。
(……耳飾りの剣士……縁壱……! なぜだ、なぜ生きている……!)
無惨は己の爪を手のひらに食い込ませながら、ギリッと歯を鳴らした。
(いや、違う。あれは縁壱ではない。だが、あの耳飾りをつけているということは、日の呼吸の継承者……。忌々しい……!)
無惨が小さく手を上げると、空間の奥深くから、耳慣れない、しかしひどく澄んだ琵琶の音が響いた。
――ベンッ。
その音を合図に、無惨の目の前の空間が再び真四角に割れ、無限城の内部へと繋がる扉が開いた。
無惨は苛立ちを隠せない足取りで、その漆黒の扉の中へと足を踏み入れた。
(今だ……)
マヤは、極限まで気配を殺した。心臓の鼓動すらもコントロールし、森に吹く一陣の夜風と同化する。
無惨が空間の扉をくぐり抜け、扉が背後からパタンと閉じようとする、ほんのコンマ数秒の隙間。
マヤは巨躯に似合わぬ無音の跳躍で空間の裂け目へと滑り込み、無惨の背中にピタリと張り付くようにして、共に無限城の内部へと入り込んだ。
***
上下左右の概念が狂った、巨大な木造建築の異空間。
階段が天井に向かって伸び、障子や襖が重力に逆らって無数に配置されている。
圧倒的な規模の血鬼術によって構築された、鬼の始祖の絶対的な安全圏――『無限城』。
無惨は足を踏み入れると、「ふぅ……」と短く苛立ちの息を吐いた。
少し離れた畳の上には、琵琶を抱えた鳴女が正座して控えている。
浅草での出来事に腹を立てている無惨は、鳴女に労いの言葉をかけることもなく、ただ舌打ちをした。
(……とりあえず、あの耳飾りの剣士の首を直接取りに行くのは危険だ。まずは追手(刺客)を放ち、様子を見る……)
無惨が自らの思考に沈みかけた、その時だった。
「おや……不思議な場所に出たな」
静かで、ひどくフラットな男の声が、無惨のすぐ背後で響いた。
無惨の心臓が、ドクンッ!!と大きく跳ね上がった。
(……!? なんだ!? 誰だ!?)
無惨は信じられない速度で振り返り、同時に腕を鞭のようにしならせて攻撃の体勢をとった。
しかし、彼の目の前に立っていたのは、見たこともない巨漢の男だった。
黒い陣羽織を着流し、両手を懐に突っ込んだまま、全く警戒する様子もなく周囲のデタラメな空間を珍しそうに見回している。
「……貴様ッ!! 誰だ!! どこから入った!!」
無惨の顔が、驚愕と戦慄で引き攣った。
自分の絶対領域であるはずの無限城に、人間の男が平然と立っている。しかも、振り返るまでその気配に一切気づかなかったのだ。
だが、マヤは無惨の剣幕を完全に無視した。
彼は無惨の存在など眼中にないかのように視線を外し、真っ直ぐに畳の上に座る鳴女の方へと歩み寄った。
マヤはここで「四年ぶりだな」とも「お前が無惨かい?」とも言わなかった。
情報は力だ。相手の正体を自分が知っていると明かす必要はないし、何より、四年前の約束を守るためだった。自分が鳴女と知り合いだと無惨にバレれば、彼女は『外敵を城に引き入れた裏切り者』として即座に処刑されてしまうだろう。
だからマヤは、あくまで『今たまたま迷い込んだ人間』として、鳴女に初対面の芝居を打った。
「そこのお姉さん。綺麗な琵琶だな。名前は?」
マヤが、少し腰を屈めて優しく問いかける。
鳴女は、前髪の下の単眼を大きく見開いていた。
(マヤ……!? なぜ、あの方と一緒に……!?)
だが、彼女は何百年も生き抜いてきた鬼だ。マヤが自分に初対面を装って話しかけた意図――自分の命を守るために芝居をしてくれていること――を即座に察知した。
四年前の、「演奏者と観客」という奇妙な約束。それを違えることなく、この得体の知れない男は自分の立場を尊重してくれている。
鳴女の冷え切った胸の奥底で、マヤに対する絶対的な信頼が静かに根を下ろした。
「……鳴女(なきめ)、だ」
鳴女は、マヤの芝居に乗るように、無愛想に短く答えた。
「そうか、鳴女ちゃんか。いい名前だ。もしよかったら、一曲頼めるかい?」
マヤが、ニコリと人の良さそうな笑みを浮かべる。
「――私を無視するなァァァァッ!!」
無惨の怒号が、無限城に響き渡った。
自分の絶対領域で、見知らぬ男が自分の部下と勝手に和やかな会話を始めている。
それは無惨にとって、自分という存在が完全に軽視され、支配が及んでいないことを突きつけられる、屈辱と恐怖の極みであった。
「……ん?」
マヤはそこで初めて、無惨の存在に気づいたかのようにゆっくりと振り返った。
その瞳は、怒り狂う無惨を前にしても、一切の動揺を見せていなかった。ただ凪いだ湖面のように静かで、圧倒的な大人の余裕と、底知れないプレッシャーを放っていた。
「……わりぃな、お姉さん。無視したわけじゃないんだが……少し、迷子になっちまってね」
マヤのフラットな言葉が、無限城の静寂に落ちる。
無惨の全身の細胞が、かつてない『未知への警鐘』を激しく鳴らし始めていた。