上下左右の概念が完全に狂った、巨大な木造建築の異空間。
天井に向かって伸びる階段や、重力に逆らって壁に配置された障子が、どこまでも果てしなく続いている。
圧倒的な規模の血鬼術によって構築された鬼の始祖の絶対領域――『無限城』。
その静寂は今、かつてない異質な緊張感によって支配されていた。
「――私を無視するなァァァァッ!!」
空間を揺るがす無惨の怒号が響き渡った。
絶対的な支配者であるはずの自分の領域で、見知らぬ巨漢の男が、自身の直属の部下である鳴女と勝手に和やかな会話を始めている。その光景は、無惨の自己愛とプライドをこれ以上ないほどに踏みにじるものだった。
マヤは、怒り狂う無惨の声を背中で受けてから、ゆっくりと振り返った。
その顔には、驚きも、恐怖も、あるいは敵を前にした殺意すらも全く浮かんでいない。ただ、凪いだ湖面のように静かで、圧倒的な余裕を湛えていた。
「……別に無視をしていたわけじゃないさ」
マヤは懐に両手を突っ込んだまま、フラットな声で言葉を返す。
「ただ迷子で、琵琶を弾いてるお姉さんに名前を尋ねただけだろ?」
「私が誰か知らないのか!!」
無惨の赤い瞳が、怒りでどす黒く濁り、ギリッと牙が鳴った。
その凄まじい威圧感を受けてなお、マヤは平然と首を傾げた。
「……知らないな? 名前教えてくれるのかい? 先に俺から名乗るかい? 聞いたのはそっちだけどな?」
「(この男、私を前にして微塵も恐怖していないだと……!?)」
無惨の心臓の奥底で、ドクリ、と嫌な音が鳴った。
何百年もの間、彼を前にして平然と口答えをする人間など一人もいなかった。ましてやここは、無惨の術の中である。
「……鬼舞辻無惨だ!!」
怒りと共にその名を吐き出した無惨に対し、マヤは「へぇ〜」と心底どうでもよさそうに相槌を打った。
「変わった名前だね。よろしくな。無惨ちゃんって呼べばいいのかな?」
「貴様……! 舐めているのか!?」
無惨の顔の血管がブチブチと音を立てて浮き上がる。
「それより、どうやってここへ入った!?」
「どうやってって、転移に巻き込まれただけだけど……。へぇ〜、無惨か。もしや、耀哉(かがや)の知り合いかい?」
――ピキッ。
無限城の空気が、完全に凍りついた。
『耀哉』。その名を聞いた瞬間、無惨の中で「迷い込んだ愚かな人間」という認識が、「自分を害す可能性のある明確な敵」へと書き換わった。
「『耀哉』だと!? 産屋敷を名前で呼ぶ貴様は、何者だ! 鬼殺隊ではないのか!!」
次の瞬間、無惨の腕がムチのようにしなり、マヤの首筋に向かって神速で伸びた。
ただの打撃ではない。その鋭い爪の先には、致死量を超える無惨の血が滲んでいる。首筋に打ち込み、一瞬でその細胞を破壊して醜い肉塊へと変える、絶対的な処刑の宣告。
しかし。
無惨の鋭い爪がマヤの首を捉える、ほんのコンマ数ミリ手前。
フッ、とマヤの巨体が『その場からブレた』ように消失した。
「……!?」
無惨の目が、限界まで見開かれた。
(消えた!? いや、私の目でも、今の動きが全く見えなかっただと……!?)
「……ダメだろ、すぐ血を入れて鬼にしようとするのはよ」
無惨のすぐ真後ろ、耳元すれすれの距離から、低い声が降ってきた。
無惨の背筋に、氷のような悪寒が走る。
振り返る暇すらなかった。もしこの男が日輪刀を持っていれば、今の瞬間に自分の頸は間違いなく床に転がっていただろう。
だが、この男からは一切の『殺意』すら感じられない。まるで散歩の途中で子供のイタズラを躱したかのような、圧倒的な次元の違い。
未知の強者への恐怖が、無惨の足を畳に縫い留めた。
「少しお話をしようか」
マヤは無惨の背後に立ったまま、静かに語りかける。
「まさか無惨に会えるとは思わなかったな。俺も一応、鬼に縁があってよ? 目の前で死んだ鬼もいたんだよ。もしかしてお前さ……」
マヤの声が、僅かに低く、重いプレッシャーを帯びた。
「無惨。お前、部下の鬼に『呪い』かけてるだろ? 名前を言ったら死ぬとかいうやつ。あれ、発動させるのやめろ。部下が可哀想だと思わないのか? ……それとも、呪いがなきゃ部下に慕われないのかい?」
「そんなことはない!! 私の支配は絶対だ!!」
無惨が、虚勢を張るように吠える。だが、振り向くことはできない。
「なら、それを証明してみせろ。今後一切、呪いを発動させんなよ? わかったな?」
圧倒的な実力差。そして、自分の血鬼術の仕組みや支配の構造まで、すべてを見透かされているという事実。
無惨の脳が、かつてない警鐘をガンガンと鳴らしていた。
(この男は危険だ。底が知れない。下手に攻撃すれば、私の方が危うい……!)
マヤは無惨から一歩離れ、再び懐に手を入れた。
「ここの事は秘密にしてやるからよ。お互いの立場を大事にして、フェアにやっていこうや。……あと、もしお前が『人間に戻りたい』っていう動機を語ってくれる気になったら、いつでも相談に乗るからよ? 太陽を克服するのに、鬼である必要なんてねえだろ?」
「……貴様は、何を言っている……?」
無惨は、理解不能な提案にただただ冷や汗を流すことしかできない。
人を喰らう鬼の始祖に向かって、人間が「相談に乗る」と言っているのだ。狂人の戯言か、それとも自分を遥かに超える超越者の余裕か。
「興味があるなら、たまに会いに来てやるよ。ただし、お前と彼女がいる時だけだ。……な?」
マヤは、畳の上で硬直している鳴女へと視線を向けた。
「そうか。なきめちゃん、一曲頼むわ。鬼と人間の、初めての記念ってやつだ」
無限城に、重苦しい静寂が降りた。
無惨は無言のまま、冷や汗を流して立ち尽くしている。ここで鳴女を止めれば、この得体の知れない男がどのような行動に出るか分からない。【未知への恐怖】が、彼から一切の反抗の意志を奪っていた。
無惨が無言であることを、鳴女は『許可』と受け取った。
――ベンッ。
澄んだ琵琶の音が響き、マヤの足元の空間が開く。
「じゃあな。またな」
マヤの姿が、空間の奥へと吸い込まれ、完全に消失した。
無限城には、ただ一人冷や汗を流して立ち尽くす無惨と、静かに撥を下ろした鳴女だけが残された。
数百年ぶりの、圧倒的な敗北感と恐怖の植え付け。盤上の心理戦は、マヤの完全な勝利で幕を閉じた。
***
夜の森に放り出されたマヤは、着地と同時に周囲の気配を極限まで探った。
空間の歪みは完全に閉じている。無惨からの追手も、監視の視線もない。
(……よし。あいつは疑心暗鬼になって、当分は身動きが取れねえはずだ)
マヤは小さく息を吐き、足早に産屋敷邸への帰路についた。
産屋敷邸の奥座敷には、報告を待つ耀哉と共に、知らせを聞いて駆けつけた胡蝶しのぶ、カナエ、甘露寺蜜璃、そして珠世の姿があった。
襖が開き、マヤが無傷で姿を現すと、部屋の空気が一気に弛緩した。
「マヤ……!」
耀哉が安堵の声を漏らす中、マヤはドカッと胡座をかき、事の顛末をあっけらかんと報告した。
無限城へ入り込み、無惨と接触したこと。そして、『呪いを発動するな』と直接交渉……という名のハッタリをかましてきたこと。
「……君という人は。本当に規格外だね」
耀哉が、呆れと感嘆の入り混じった溜息をつく。
「あいつ、完全に疑心暗鬼になってたよ。自分が全てを見透かされてるって思い込ませてやったからな。これで奴は、迂闊に部下の呪いを発動できなくなる。……鬼を『生け捕り』にして、人間へ戻すための猶予が作れるはずだ」
「ああ。君のその無茶な盤外戦術のおかげで、鬼殺隊の手札は劇的に増えたよ。よくやってくれた」
耀哉が深く頭を下げる横で、妻たちの顔色は蒼白だった。
「……報告は、それだけですか?」
しのぶの声が、微かに震えていた。
「おう。あとは帰って寝るだけだ――」
「旦那様!!」
バンッ!と、しのぶが両手で畳を叩き、マヤの胸倉に飛びつくようにしてしがみついた。
「無茶をしないでと、あれほど言ったじゃないですか!! もし、無惨が貴方のハッタリに乗らずに、空間を閉じて閉じ込められていたらどうするつもりだったんですか!!」
しのぶの大きな瞳からは、ボロボロと大粒の涙が溢れ落ちていた。
「もし貴方に何かあったら……私たちは、私たちはっ……!」
「マヤさん……っ!」
カナエも堪えきれずに歩み寄り、マヤの広い背中に腕を回してその顔を胸に埋めた。彼女の体もまた、恐怖で小刻みに震えていた。
「私……貴方が帰ってこないんじゃないかって……っ」
「うわぁぁぁん! マヤさぁん、無事でよかったぁぁっ!」
蜜璃が大声を上げて泣きながらマヤの首に抱きつき、珠世もまた、顔を両手で覆ってその場にへたり込み、安堵の涙を流していた。
「……悪かった。心配かけたな」
マヤは、泣きじゃくる妻たちを順番に優しく抱き寄せ、その頭を大きな手で撫でた。
「俺は絶対にお前たちを置いて死なねえよ。約束しただろ」
「当たり前です……っ、もう、馬鹿……っ」
しのぶが涙声でマヤの胸に顔を擦り付け、蜜璃がマヤの頬に何度もキスを落とす。
その甘く、どこまでも深い愛情に満ちた光景を、耀哉は静かに微笑んで見守っていた。
夜も深く更けた頃、蝶屋敷の居間では、疲れ果ててマヤに寄りかかって眠る妻たちの姿があった。
その様子を、襖の隙間からそっと覗き込んでいる少女たちがいた。
神崎アオイと、中原すみ、寺内きよ、高田なほの三人娘である。
「うふふ……マヤ様、お姉様たちにたっぷりお説教されてましたね」
きよが口元を押さえて笑うと、アオイも呆れたように、しかしひどく温かい目を向けて頷いた。
「当然よ。あの人、強すぎるからって無茶ばっかりするんだから。……でも、無事に帰ってきてくれて、本当によかった」
眠るしのぶの肩にそっと毛布をかけながら、マヤは襖の隙間から覗くアオイたちに気づき、静かに片目をつぶって見せた。
アオイたちは顔を真っ赤にしてパタパタと廊下を駆けていく。
大正の夜は、果てしない死闘の予感を孕みながらも、蝶屋敷には確かな温もりと、穏やかな希望の時間が流れていた。