鬼滅の薬   作:マイナーチョコ

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第6話:那田蜘蛛山の救済

那田蜘蛛山。

鬱蒼と生い茂る木々は月の光を遮り、山全体が底知れない闇と、這い寄るような死の気配に覆われていた。

風に乗って漂ってくるのは、強烈な蜘蛛の匂いと、微かな血の悪臭。

「……嫌な匂いがする」

竈門炭治郎は、背中の木箱の重みを感じながら、隣を歩く嘴平伊之助と共に薄暗い獣道を慎重に進んでいた。少し離れた場所では、我妻善逸が「俺は行かないからなあああ!」と泣き叫んでいたが、今は彼にかまっている余裕はなかった。

 

本来であれば、この山へ先行して送り込まれた数十名の隊士たちは、蜘蛛の糸に操られ、同士討ちの果てに全滅に近い凄惨な被害を出すはずだった。

しかし、この日の那田蜘蛛山は、炭治郎たちの与り知らぬところで、既に全く別の『盤面』へと塗り替えられていた。

 

鬼殺隊第97代当主・産屋敷耀哉と、胡蝶マヤ。

二人が事前に下した「鬼が群れている可能性」という予測に基づき、先遣隊の投入とほぼ同時に、最強の部隊が隠密裏に山へと足を踏み入れていたのである。

 

「アァァァッ! 助けてくれ! 体が、勝手に……ッ!」

森の奥で、数名の隊士たちが奇妙な動きで刀を振り上げ、味方同士で斬り合いそうになっていた。彼らの手足には、月光に僅かに反射する細い蜘蛛の糸が絡みついている。

「やめろ! 来るな!」

村田と呼ばれた隊士が絶望の声を上げた、その瞬間だった。

 

――ヒュンッ!!

 

夜の森に、水面を滑るような澄んだ剣戟の音が響いた。

村田たちの目の前を青い水の軌跡が通り抜けたかと思うと、隊士たちの手足に絡みついていた強靭な蜘蛛の糸が、一瞬にして全て切断された。

「え……?」

糸を断たれ、その場にへたり込む隊士たちの前に、左右非対称の羽織を纏った青年が静かに着地した。

 

「水柱……冨岡様!」

冨岡義勇は、刀を青眼に構えたまま、森の奥に潜む気配を冷徹な眼差しで睨みつけた。

「お前たちは下がれ。怪我人は後方にまとまろ」

義勇が『拾壱ノ型・凪』と素早い剣技を駆使し、森中に張り巡らされた糸を次々と切断していく。彼の迅速な介入により、隊士たちの同士討ちという最悪の惨劇は、未然に防がれていた。

 

その義勇から少し離れた木の枝の上。

黒い裏方のような装束に身を包み、目深に編み笠を被った巨漢の男――マヤが、眼下の様子を静かに見下ろしていた。

「……よし。冨岡の動きがいい。これなら、下の隊士たちの被害は最小限で済むな」

マヤは自身が表立って暴れれば、無惨が警戒して逃亡するか、あるいは部下への監視を強めて『呪い』を強制発動させる危険性があると考えていた。そのため、今日はあくまで「胡蝶しのぶの護衛」として、顔を隠して黒衣の裏方に徹しているのだ。

「旦那様。あちらの気配、下弦ではありませんが、多くの隊士を操っている元凶のようです」

マヤの隣に音もなく降り立ったしのぶが、森の北側を指差した。

「ああ。だが、あそこにはあの少年(炭治郎)たちが向かってる。……急ぐぞ」

 

***

 

森の北側。

炭治郎と伊之助は、隊士たちを操っていた元凶である『母蜘蛛』の元へと辿り着いていた。

 

「ヒィィッ……!!」

大人の女性の姿をした母蜘蛛は、炭治郎たちの姿を見るなり、恐怖に顔を引き攣らせた。

彼女は「家族」として役割を与えられていたが、その実態は累や父蜘蛛からの暴力と恐怖による絶対的な支配であった。功を焦り、癇癪を起こして隊士たちを操っていたが、それもすべては「累に逆らえば殺される」という極限の恐怖からくるものだった。

 

伊之助が宙を舞い、炭治郎が水の呼吸を構える。

(……負けた。首を斬られる……!)

母蜘蛛は、抗うことを諦め、そっと目を閉じた。

(累に刻まれるよりはいい……。これで解放される……)

 

炭治郎は、母蜘蛛から漂う『死を望むような深い絶望の匂い』を嗅ぎ取った。

(この鬼は、死を救いとしている……!)

炭治郎の構えが、壱ノ型から瞬時に切り替わる。

「全集中・水の呼吸……伍ノ型・干天の慈雨」

それは、斬られた者にほとんど苦痛を与えない、最も優しい慈悲の剣撃。

美しい水の軌跡が、母蜘蛛の首元へと吸い込まれるように迫る。母蜘蛛は、優しい雨に打たれるような穏やかな死の訪れを待ち受けた。

 

だが。

炭治郎の刃が母蜘蛛の白い首に触れる、ほんの数ミリ手前。

スッ、と横から伸びてきた分厚い指二本が、日輪刀の刃をいとも容易く摘み止めた。

 

「なっ……!?」

炭治郎が驚愕に見開いた視線の先。

そこには、編み笠を深く被った黒衣の巨漢が、炭治郎の刃を指だけで完全に静止させて立っていた。

(なんだこの人!? 全く匂いがしなかった……!! それに、俺の全力の剣を、指二本で!?)

「ご苦労だったな、少年。優しい剣だが……今日は、それすら不要だ」

 

笠の下から響く低い声と同時に、巨漢の背後の空から、一頭の美しい蝶が舞い降りた。

「蟲の呼吸・蝶ノ舞『戯れ』」

 

胡蝶しのぶの細い刃が、炭治郎の刃を止められて硬直している母蜘蛛の首筋に、浅く、しかし確実に突き立てられた。

「あ……っ」

母蜘蛛が小さく呻き、その場に崩れ落ちる。

「鬼を殺した……!? いや、首は斬れてないぞ!?」

伊之助が刀を構えて警戒する中、倒れた母蜘蛛の体に劇的な変化が訪れた。

 

「う……あぁ……っ」

苦悶の声を漏らしながら、大人の女性の姿をしていた母蜘蛛の体が、スルスルと音を立てて縮んでいく。

長く伸びていた手足が小さくなり、顔つきも幼くなり……数秒後、そこには気を失って倒れる『小さな幼女』の姿があった。

 

「……やはり。累という下弦の鬼に、血を分け与えられて無理やり大人の姿にさせられていたのですね」

しのぶが、毒……いや、特製の『鬼を眠らせる麻酔(人間返りの初期鎮静薬)』の注射器をしまいながら、倒れた幼女を静かに見下ろした。

「恐怖で震えきっていた、ただの小さな子供です」

 

「……ああ。十二鬼月でもねえ、ただの一般の鬼だ」

マヤが炭治郎の刀から手を放し、編み笠を少し上げて倒れた幼女を見つめた。

「時間はかかるが……治療できるな? しのぶ」

「はい。私の薬と、珠世さんの知識があれば。必ず人に戻せます」

 

そのやり取りを聞いた炭治郎は、雷に打たれたように立ち尽くした。

(鬼を……治療する? 人に戻す……!?)

浅草で愈史郎から聞いた「実例」が、今まさに目の前で行われていた。

彼らは鬼を殺して解放するのではなく、生きたまま『医療』によって救い出そうとしているのだ。

「あ、あの……!」

炭治郎が声をかけようとした時、森の奥から地響きのような轟音と、強烈な鬼の気配が爆発した。

 

「父蜘蛛か。……それに、下弦の本体も動いたようだな」

マヤが森の奥を睨む。

「少年。こっちは俺たちが保護する。お前たちは奥へ行け。……生き残れば、必ずお前の妹も人に戻してやる。死ぬなよ」

その力強い言葉に、炭治郎の瞳から迷いと悲壮感が完全に消え去った。

「はいっ!! 行くぞ、伊之助!!」

絶対的な『希望』を胸に、炭治郎は森の最奥へと駆け出していった。

 

***

 

「ヒノカミ神楽……円舞!!」

「血鬼術・爆血!!」

 

森の最奥。

下弦の伍・累と対峙した炭治郎は、禰豆子との完璧な連携により、限界を超えた一撃を放っていた。

偽りの家族の絆を強要する累に対し、炭治郎と禰豆子が紡ぐ「本物の絆」が、燃え盛る炎となって累の鋼糸を焼き切り、その刃が累の頸を深く捉えた。

 

ズバァァァッ!!

燃える日輪刀が、累の頸を完全に切断する。

「やったか!?」

しかし、炭治郎が体勢を崩して雪崩れ込んだ直後、転がったはずの累の頭部が、胴体から伸びた糸によって再び首の上へと引き寄せられた。

 

「……僕が、お前程度の刃で死ぬと思ったか?」

累の目が、どす黒い怒りと殺意に染まっていた。

日輪刀で斬られる直前、累は自らの糸で自分の頸を切り離し、致命傷を避けていたのだ。

「お前たち兄妹は、絶対に許さない。八つ裂きにしてやる……!」

累の周囲に、これまでとは比にならないほどの濃密で鋭利な糸が展開され、炭治郎と禰豆子に襲いかかろうとした。

 

万事休す。

炭治郎は力を使い果たし、動くことすらできない。

だが、彼らの運命の糸が断たれることはなかった。

 

「……拾壱ノ型・凪」

 

静寂。

荒れ狂っていた累の鋼糸が、炭治郎たちの手前で、まるで目に見えない壁にぶつかったかのように音もなくパラパラと細切れになって散っていく。

「なっ……!?」

驚愕する累の視界に、左右非対称の羽織が翻った。

 

冨岡義勇である。

「……俺が来るまでよく堪えた。後は任せろ」

義勇は炭治郎に短く告げると、次の瞬間には累の懐へと滑り込んでいた。

速い。累が防御の糸を張る暇すら与えない神速の踏み込み。

「斬る……!!」

累が焦燥に駆られた刹那。

義勇の刃は、累の頸を狙わず、その両腕と両足を正確に切り飛ばしていた。

 

「ガァァァァッ!?」

四肢を失い、地面に叩きつけられる累。義勇はそのまま累の背中を無慈悲に踏みつけ、刀の峰を首筋に押し当てて完全に拘束した。

「な……なぜ、頸を斬らない……!?」

累が血を吐きながら呻く。

炭治郎もまた、義勇の不可解な行動に目を丸くしていた。

 

「……ふむ」

義勇は、踏みつけた累を見下ろしながら、極めて平坦な声で言った。

「言い忘れていたが、お館様より『今回の敵は捕縛せよ』と厳命が出ている」

 

「ええええええっ!?」

炭治郎の素っ頓狂な叫びが、夜の森に響き渡った。

「そ、そういうことは先に言ってくださいよ冨岡さん!! 俺、思いっきり頸を斬りにいっちゃいましたよ!? もし斬れてたらどうするつもりだったんですか!?」

「……お前では、下弦の頸は斬れないと思っていた。結果的に斬れていないのだから、問題ない」

「そういう問題じゃないです!!」

 

緊迫した死闘の空気が、義勇の天然すぎる一言によって見事に粉砕された。

そこへ、森の奥から二つの影が歩み寄ってきた。

 

「まったく、冨岡さんは! 本当に報連相ができていませんね!」

倒れた幼女(陽子)を抱きかかえたしのぶが、呆れたようにため息をつきながら現れた。その後ろには、編み笠を被ったマヤが悠然と歩いている。

「そのような言葉足らずだから、みんなに嫌われるんですよ!」

「……俺は、嫌われていない」

「はぁ……。そんな口下手で不器用なところ、少しは私の旦那様を見習ってください!」

 

しのぶは、義勇を指差したまま、ビシッと効果音がつきそうなほどのドヤ顔を決めた。

「私の旦那様は、包容力があって、事前説明も完璧で、どんな時でも私たちのことを第一に考えてくれる、世界で一番素敵なお方なんですから!」

圧倒的な正妻力を見せつけるしのぶ。

そのあまりに堂々とした惚気っぷりに、炭治郎は完全に思考が停止した。

 

「だ、旦那様!? しのぶさん、結婚してたんですか!?」

炭治郎が編み笠の巨漢を指差して叫ぶと、マヤは笠の下で「おいおい、しのぶ。こんな山奥で惚気るなよ」と苦笑いしながら肩を竦めた。

 

「……ぐ、あ……あぁぁぁ……っ」

和やかな(?)空気が流れる中、義勇の足元に押さえつけられた累が、恐怖と絶望に染まった声を上げた。

「あの方……無惨様が……! 敗北し、無様に生け捕りにされた僕を、あの方が許すはずがない……っ! 体が、内側から壊れ――」

累の脳裏に、無惨の赤い瞳がフラッシュバックする。

敗北した鬼は、無惨の呪いによって遠隔で細胞を破壊され、跡形もなく消滅する。それが、鬼の始祖の絶対的な支配のルールであった。

 

累は死を覚悟し、目を強く瞑った。

しかし。

五秒経ち、十秒が経過しても。累の体は一向に崩壊する気配を見せなかった。

細胞の破壊はおろか、無惨からの怒りの声すら頭の中に響いてこない。

 

「……え……?」

累が呆然と目を開ける。

「……あいつ、俺との約束(をちゃんと守って、呪いを止めてるようだな」

マヤが、編み笠の下で笑った。

(あいつは今、自分が俺にすべて見透かされてるって疑心暗鬼のどん底にいる。迂闊に呪いを発動させて、俺に居場所を特定されたり、逆に呪いの繋がりを利用されるのを恐れてるんだろうな)

 

マヤは編み笠の下で、無惨の心理状態を静かに分析していた。

無限城で仕掛けた盤外戦術が完璧に機能し、鬼の始祖が遠隔での処刑を躊躇っているのは明らかだった。情報を相手から引き出し、力ではなく恐怖で支配の構造を縛る。マヤの冷静な判断が、那田蜘蛛山での『生け捕り』を可能にしていた。

 

隠(かくし)の部隊が到着し、夜明けが近づく森の一角。

拘束された累と、幼女の姿に戻った陽子(母蜘蛛)が並んで座らされていた。

累の切断された四肢は、鬼の治癒力によってすでに繋がりかけていたが、目の前に立つ水柱・冨岡義勇の冷徹な眼差しと、背後に控えるマヤの圧倒的な威圧感の前に、微かな反抗すら許されない状況だった。

 

そこへ、医療器具の入った鞄を持ったしのぶが歩み寄ってきた。

「さて。蝶屋敷へ移送する前に、少し処置をしておきましょう」

しのぶはガラス製の注射器を取り出し、仄かに青く光る薬液を吸い上げた。それは、珠世との共同研究で生み出した『人間返りの血清(初期鎮静版)』であった。

 

「これより、貴方たちを人間に戻す薬を与えます」

 

しのぶの宣言に、累は信じられないものを見るように目を見開いた。

「人間に……戻す……? 僕たちを、殺さないのか……?」

「ええ。私たちは鬼殺隊ですが、蝶屋敷は医療機関でもありますから」

 

しのぶはまず、縛られたまま横たわる幼女――陽子へと注射器を向けた。

陽子は一瞬、ビクッと身をすくませて怯えた。しかし、先ほど自分を斬ろうとした炭治郎の、あの慈雨のような優しい眼差しを思い出したのか、すっと力を抜いて、静かに自ら首筋を差し出した。

チクリ、と針が入り、薬液が注がれる。

 

「なぜ……」

累が、掠れた声で呟いた。

「なぜ、受け入れる……。人間に戻れば、弱くなる。あの方に……無惨様に、見限られて殺される……!」

鬼としての『力』と『恐怖による絆』に執着していた累には、陽子の行動が全く理解できなかった。

 

注射を打ち終えられた陽子は、幼い声でぽつりと言った。

「……痛くないから。それに……この人たちからは、あったかい匂いがするから」

彼女の瞳には、死を待つ絶望ではなく、微かな安堵が宿っていた。

 

しのぶは優しく微笑み、次に累へと向き直った。

累は本能的な恐怖と混乱から、ギリッと牙を剥いて身を捩り、抵抗しようとした。

「やめろ……ッ! 僕は……!」

 

その時、マヤの分厚く巨大な手が、累の肩を上からガシッと押さえ込んだ。

暴力的な痛みは無い。しかし、岩山そのものに押さえつけられたかのような、絶対的に逃れられない力だった。

「暴れんな。お前らの狂った『家族ごっこ』は、今日で終わりだ」

マヤは静かで、深く響く大人の声で告げた。敵を嘲笑うことも、煽ることもない。ただ事実だけを諭すように。

 

「そのまま鬼として絶望の中で死ぬより、長く人間として生きてみましょう」

しのぶが、有無を言わせぬ凛とした口調で告げた。

「貴方が本当に欲しかったものは、鬼の力や、恐怖で縛る絆ではないはずですよ」

 

マヤが累の体をしっかりと固定した状態で、しのぶが問答無用で累の首筋に針を突き立てた。

冷たい薬液が、累の血管へと一気に流れ込んでいく。

 

「あ……ぁ……」

直後、隣にいた陽子の体に明確な変化が表れた。真っ白だった肌に微かな血の気が差し、鬼特有の赤い模様がすうっと薄れていく。彼女はひどく安心したように目を閉じ、スゥスゥと人間の子供らしい、穏やかな寝息を立て始めた。

 

そして、累の体にも劇的な変化が訪れた。

薬が全身の細胞に回り、無惨の血の支配が強制的に薄められていく。それと同時に、彼が長い間分厚い氷の下に閉じ込め、目を背け続けてきた『人間としての記憶と感情』が、堰を切ったように脳裏へと溢れ出した。

 

体が病弱で、外を歩くことすらできなかった日々。

鬼となった自分を殺そうとし、そして共に死のうとしてくれていた両親の涙。

『丈夫な体に産んであげられなくてごめんね』と泣いて謝った母の顔。

『一緒に死んでやるから』と、自分を強く抱きしめてくれた父の温もり。

 

「あ……ああ……っ」

累の瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。

それは、死への恐怖や敗北の悔しさからくるものではない。自分が取り返しのつかない罪を犯し、本当に愛してくれていた両親を自らの手で殺してしまったという、人間としての純粋な後悔と悲哀の涙だった。

 

「……ごめんなさい……ごめんなさい……っ! お父さん、お母さん……っ!」

 

大声を上げて泣きじゃくる少年の姿に、十二鬼月としての恐ろしい面影はもう微塵も無かった。

マヤは拘束していた手を少しだけ緩め、泣き崩れる累の小さな背中を、大きな手でポンと優しく叩いた。

 

「……今は、泣いとけ。その涙と後悔が、お前が人間に戻り始めた何よりの証拠だ」

 

マヤの静かな言葉が、朝霧に包まれ始めた森に溶けていく。

義勇もしのぶも、そして少し離れた場所で見ていた炭治郎も、その光景を静かに見守っていた。

鬼を滅ぼす刃ではなく、罪を抱えたまま生かし、人間としてやり直させるための医療。その希望の道標が、今確かに那田蜘蛛山の地に打ち立てられていた。

 

***

 

夜明け前。

那田蜘蛛山の事態は、鬼殺隊の完全な制圧によって幕を閉じた。

隠(かくし)の部隊が山へ入り、負傷した隊士たちを次々と回収していく。

 

「あだだだだだだだ!! 痛い! 触るな! 俺の美しい顔が腫れてるだろうが!!」

蜘蛛の毒にやられ、手足が短くなりかけていた我妻善逸が、隠の隊員に担架に乗せられながらギャーギャーとわめき散らしている。

「……俺は……弱い……俺はダメな生き物だ……」

父蜘蛛との戦いで全身を打撲し、自尊心をズタズタにされた伊之助が、別の担架で死んだように落ち込んでいた。

 

「炭治郎くん、あなたも重傷です。すぐに蝶屋敷へ運んで手当てをします」

しのぶが、禰豆子が入った木箱を背負い直す炭治郎に優しく声をかけた。

「善逸くんも伊之助くんも、蜘蛛の毒や骨折がひどいので……そうですね、最低でも一ヶ月から一ヶ月半は、蝶屋敷でみっちりと静養とリハビリを受けてもらいますからね。覚悟しておいてください」

 

「はいっ! ありがとうございます、しのぶさん、義勇さん、そして……旦那様!」

炭治郎が深く頭を下げる。

マヤはすでに編み笠を脱ぎ、その豪快な笑顔を炭治郎に向けていた。

「おう。お前ら兄妹がうちに来るのを、ずっと待ってたんだ。まずはゆっくり休んで、腹いっぱい飯を食え」

 

炭治郎の胸に、これまでにない温かい感情が広がっていく。

復讐と絶望の旅ではない。生き残るため、そして家族を取り戻すための、希望の連鎖。

拘束され、特殊な薬で眠らされた累と陽子を乗せた隠の荷車と共に、炭治郎たちは夜明けの光が差し込む山道を下っていく。

 

大正の空に、新しい朝が訪れようとしていた。

彼らが向かう先は、あらゆる傷と運命を癒す、蝶屋敷という名の絶対的な『帰る場所』であった。

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