大正の秋。高く澄み渡った空に、鱗雲が静かに流れていた。
産屋敷邸の広大な庭には、白砂が波打つように美しく敷き詰められている。
その玉砂利の上に、後ろ手に縛られた竈門炭治郎が押し付けられていた。傍らには、妹の禰豆子が入った木箱が置かれている。
(……殺されるかもしれない。いや、俺はどうなってもいい。だけど、禰豆子だけは……!)
炭治郎の心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、全身から冷たい汗が吹き出していた。
鬼を連れて歩くことは、鬼殺隊において絶対の隊律違反である。最悪の場合、妹もろともここで頸を落とされる。その極度の緊張と覚悟が、炭治郎の体を石のように強張らせていた。
彼の眼前には、鬼殺隊の最高位に君臨する九人の剣士たち――『柱』が並び立っていた。
炎柱・煉獄杏寿郎、音柱・宇髄天元、蛇柱・伊黒小芭内、風柱・不死川実弥、水柱・冨岡義勇、岩柱・悲鳴嶼行冥。
そして、蝶屋敷から合流した蟲柱・胡蝶しのぶ、花柱・胡蝶カナエ、恋柱・胡蝶蜜璃。
それぞれが放つ闘気は、今まで出会ってきたどの隊士とも次元が違う。圧倒的な強者たちの放つプレッシャーが、庭の空気をビリビリと震わせていた。
「お館様のお成りです」
襖が静かに開き、白髪の童子たちに手を引かれて、一人の青年が縁側へと姿を現した。
鬼殺隊第97代当主、産屋敷耀哉である。
柱たちが一斉に片膝をつき、深く頭を下げる。隠に頭を押さえつけられながら、炭治郎もその姿を視界の端に捉えた。
澄んだ、ひどく穏やかな声。そして、その顔には病の影など微塵もなかった。
列の端で頭を下げていた霞柱・時透無一郎は、視線を少しだけ上げて、耀哉の顔をぼんやりと見つめた。
(……お館様、今日も顔色がいいな。声もよく響いてる)
無一郎が柱に昇格したのは、つい二ヶ月前のことだ。そのため彼は、耀哉の顔の上部を痛々しく覆っていた『呪いの痣』の存在を、知識としては知っていても、直接見たことはなかった。彼にとっての産屋敷耀哉は、最初からこの健康で穏やかな青年なのである。
(……それにしても)
無一郎の視線が、耀哉のすぐ斜め後ろ、縁側の最も奥まった特等席に胡座をかいている『一人の男』へと移る。
(お館様の隣に座ってるあの大きな男の人は、誰だろう?)
隊服は着ていない。漆黒の生地に、艶やかなアゲハ蝶の模様が金糸で大胆に刺繍された、ひどく立派な陣羽織を羽織っている。
見上げるほどの巨躯。その全身から立ち昇る気配は、柱である無一郎から見ても底が知れない。
しかし何より奇妙なのは、その男が部外者であるにもかかわらず、柱の誰一人として彼を咎めないことだ。それどころか、男はお館様を「耀哉」と名前で呼んでいるのに、全員がそれを当然のように受け入れ、彼に対して深い敬意すら払っているように見えた。
無一郎が小首を傾げていると、隣で片膝をついていた甘露寺蜜璃が、そっと身を乗り出して小声で囁いた。
「無一郎くん、私の旦那様とは初顔合わせだよね!」
「……旦那様?」
無一郎が瞬きをすると、蜜璃は頬を林檎のように真っ赤に染め、両手でもじもじと頬を押さえながら熱っぽく語り始めた。
「胡蝶マヤさん。私たち胡蝶家に婿入りしてくれた、世界で一番強くて、優しくて、カッコいい旦那様なの! キャーッ、今日もアゲハの陣羽織姿が素敵っ!」
蜜璃の左手薬指には、陽光を反射してきらりと輝くプラチナの指輪がはめられていた。さらに彼女の桜色の髪には、見事な細工が施された蝶の櫛が挿してある。
それは、しのぶやカナエの髪に挿された簪や、遠く浅草の地下で研究に没頭している珠世の指輪と同じ、マヤから贈られた『愛の証』だった。
大正の世において、表向きは妻妾同居という形をとっているが、胡蝶家においては「側室」や「正妻」という明確な上下関係の垣根はない。マヤは四人の妻すべてに絶対的な覚悟と平等な愛情を注ぎ、宇髄天元のように「全員が愛する嫁」というスタイルを確立していたのである。
「(ギリリリリリッ……!)」
蜜璃の嬉しそうな惚気を聞き、庭の木の上に陣取っていた蛇柱・伊黒小芭内が、血の涙を流さんばかりの憎悪の目をマヤに向け、ギリギリと歯ぎしりをした。
想い人であった蜜璃が、巨漢の妻となってしまった。その絶望と嫉妬は計り知れない。だが、マヤは親友である耀哉の『呪い』を胡蝶夫妻で薬品を完成させ、死の運命から救い出した絶対の恩人でもある。伊黒は己の愛憎を腸の底に押し殺し、ただひたすらに任務に没頭するしかなかった。
「おいおい甘露寺、相変わらずド派手に惚気るじゃねえか」
音柱の宇髄天元が、ニヤリと笑って声を潜めた。
「まあ、あの旦那の『四人の妻を娶るスタイル』は、俺も大賛同だからな! 強い男が多くの嫁をもらい、派手に未来へ血を残す。完璧な生き様だぜ!」
「……へぇ。あの人が、みんなの言っていた『胡蝶家の旦那様』なんだ。不思議な匂いのする人だね」
無一郎は、一人で納得したように空を見上げた。
「――皆、集まってくれてありがとう」
耀哉の心地よい声が響き、柱たちの私語がピタリと止んだ。
「本日の柱合会議を始める前に、まずはこの場にいる竈門炭治郎の功績を称えたいと思う」
炭治郎がビクッと肩を震わせる。
「彼は、先日の浅草での任務において、長年我々が探し求めていた鬼舞辻無惨と直接遭遇した。さらに、那田蜘蛛山において、十二鬼月である下弦の伍を見事撃破し、これの『生け捕り』に貢献してくれた」
柱たちの間に、微かなざわめきが走った。下弦の鬼との遭遇、しかも生け捕りという前代未聞の事態に、彼らの目の色が変わる。
「しかし」
耀哉の言葉が、少しだけ厳しさを帯びた。
「彼が鬼である妹・禰豆子を連れていることについて、隊律違反ではないかという声があるのも事実だ。これについて、炭治郎、君自身の口から説明してくれるかい?」
炭治郎は息を呑み、血の滲むような思いで顔を上げた。
(ここで納得させなければ……俺も禰豆子も殺される!)
「お、お館様! 妹は……禰豆子は、鬼になっても決して人を喰いません! 二年間、ずっと俺と一緒に……!」
必死の思いで叫ぼうとした炭治郎の言葉を、冷たく、しかしひどく理知的な声が遮った。
「喚くなァ、小僧」
風柱・不死川実弥であった。
彼は全身に生々しい傷跡を残し、本来であれば誰よりも鬼を憎悪している男だ。
彼は、全く違う眼差しで炭治郎を見下ろしていた。
「お前の妹が二年もの間、極限の飢餓に耐え抜いたって報告は、とっくに鱗滝から回ってきてるんだよォ。……それに」
不死川の視線が、縁側の奥に座るマヤへとチラリと向けられた。
その目には、マヤの底知れない力と理不尽なまでの盤外戦術に対する、深い戦慄と畏怖が宿っていた。
「あの『旦那』の身内が、すでに人間に戻りかけてるって実例がある以上……わざわざ古臭い方法で疑う必要もねェ」
「その通りだ」
伊黒が木の上から、ネチネチとした、しかし極めて合理的な声で同調した。
「我が恩人たる胡蝶夫妻が持ち込んだ『医療』の成果は、すでに耀哉様の御身が証明している。ネチネチと釈明しなくてもいい。お前の妹は、すでに蝶屋敷の管轄下にある『患者』だ。我々が患者を斬る道理はない」
炭治郎は、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
「え……?」
患者。治療対象。
誰も、禰豆子を「殺すべき悪鬼」として見ていない。鬼殺隊の最高戦力である柱たちが、鬼を連れている自分を『合理的に』肯定してくれているのだ。
「うむ! まったくもってその通りだ!」
炎柱・煉獄杏寿郎が、太陽のような笑みを浮かべて大音声で言い放った。
「生き残るための戦い、そして医療による救済! 竈門少年、よくぞ絶望に負けず、妹を守り抜いたな! 君のその精神力、俺は柱として誇りに思うぞ!」
「あ……あぁ……っ」
張り詰めていた緊張の糸が、プツリと切れた。
炭治郎の大きな瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
地獄のような裁判と拒絶を覚悟し、必死に妹を庇おうと全身を強張らせていた炭治郎の肩から、二年分の重荷が完全に下りた瞬間だった。
「よかった……! 本当に、よかったな……禰豆子……っ!!」
砂利の上に額を擦り付け、子供のように声を上げて泣き崩れる炭治郎。木箱の中からも、兄の涙に応えるように「ムー」という安堵の微かな声が響いた。
縁側の奥で、マヤが静かに目を細める。
彼がこの世界に持ち込んだ「救済」の歯車が、武力一辺倒だった鬼殺隊の在り方を根底から変え、こうして一つの確かな『希望』として結実していた。
「……さて。炭治郎と禰豆子の処遇については、これで決定とする。彼女は今後、蝶屋敷の保護下で治療を受けながら、特例として鬼殺隊の任務に同行することを許可する」
耀哉の言葉に、柱全員が「御意」と頭を下げた。
「では、次の議題へ移ろう。……しのぶ、那田蜘蛛山で捕獲した二体の鬼の状況を報告してくれ」
「はい、お館様」
蟲柱・胡蝶しのぶが進み出た。その表情は、いつもの柔らかな微笑みとは違い、医師としての真摯で、少しだけ儚げなものに変わっていた。
「旦那様と冨岡さんの働きにより、部隊の被害は最小限に抑えられ、下弦の伍・累と、母蜘蛛であった陽子の生け捕りに成功しました。……現在、二人は蝶屋敷の地下特別室に隔離されています」
しのぶの透き通る声が、静まり返った庭に響く。
「私と珠世さんが調合した初期鎮静の血清を投与した結果、無惨の血の支配が薄らぎ、彼らは明確に『人間の心』を取り戻しつつあります。身体的にも、陽子は幼い子供の姿に戻り、累も鬼特有の紋様が消えかけています」
「それは素晴らしい成果だ。ついに、十二鬼月すらも医療で人に戻せる道が開けたのだな」
宇髄が感嘆の声を漏らすが、しのぶの顔は晴れなかった。
「……しかし、手放しで喜べる状況ではありません。人間の心を取り戻したということは……彼らが鬼として人を喰ってきた記憶や、自らの両親を殺めてしまったという『罪の重さ』を、人間の真っ当な倫理観で直視しなければならないということです」
しのぶは、言葉を区切るように小さく息を吐いた。
「今、二人は……絶えず自分の犯した罪に押し潰され、身を引き裂かれるような悲鳴を上げて、ただ泣き叫び続けています。体の治療よりも、あの精神の崩壊をどう食い止めるかが、現在の最大の懸念事項です」
その報告を聞き、柱たちの間に重苦しい沈黙が落ちた。
鬼を人間に戻せば、それで終わりというわけではない。人間に戻った彼らは、一生消えることのない「人殺し」の罪と記憶を抱え、それに耐えながら生きていかなければならないのだ。
そのあまりに残酷なジレンマに、歴戦の柱たちも言葉を失った。
(……マヤの働き。やはりあの男は凄まじいな)
皆が沈痛な面持ちになる中、水柱・冨岡義勇だけは、微塵も表情を変えずに別のことを考えていた。
(敵を殺さず、あえて生け捕りにして治療の道を開く。……俺には到底真似できない懐の深さだ。やはりあの祝言の夜、マヤが煉獄の腹を思い切り殴り飛ばしたのは、言葉を使わずに『生き抜け』と魂で語り合う、男同士の深い友情の儀式だったに違いない……。いつか俺も、不死川に思い切り腹を殴ってもらい、親友になりたいものだ)
義勇は、一人だけ壮絶にズレた決意を胸に秘め、静かに頷いていた。
「……南無、阿弥陀仏……」
沈黙を破ったのは、岩柱・悲鳴嶼行冥の低く、地鳴りのような読経だった。
数珠を擦り合わせながら進み出た悲鳴嶼の両目からは、とめどなく大粒の涙が流れ落ちていた。
「己の罪に震え、泣き叫ぶ哀れな子供たちよ……」
悲鳴嶼は、かつて自分が育てていた孤児たちに裏切られ(すれ違い)、死刑囚にまで落とされたという悲惨な過去を持っている。誰よりも鬼を憎み、そして誰よりも「子供」という存在に対して複雑な感情とトラウマを抱いていた彼が、今、自らの意思で歩み出ていた。
「お館様。……彼らが自らの罪を正しく認識し、人間の心を取り戻して泣いているのであれば……それは、彼らの魂がまだ完全に腐り落ちてはいない証拠です」
悲鳴嶼は、砂利の上に両膝をつき、深く頭を下げた。
「どうか、彼らがその重すぎる罪を償い、真っ当な心で生き直すことができるまで……私が、彼らの面倒を見たい」
「……!!」
柱たちの間に、今度こそ本物の驚愕が走った。
「マジかよ……。あの悲鳴嶼さんが?」
宇髄が信じられないというように目を見開く。子供を信じられなくなっていたはずの悲鳴嶼が、かつて自分たちを殺そうとした鬼の子供を、自らの手で導きたいと申し出たのだ。
悲鳴嶼は、溢れる涙を拭おうともせず、真っ直ぐに耀哉を見上げた。
「彼らを傍で正しく導くため、当面の間、私の任務の拠点を蝶屋敷とさせていただきたい。……愚かな過ちを犯した子供が、暗闇の中で道を見失わぬよう、大人が手を引いてやらねばなりません。それが、命を繋ぐということです」
悲鳴嶼の言葉には、医療と異能がもたらした奇跡を前に、自らの魂の傷(トラウマ)をも乗り越えようとする、揺るぎない覚悟が宿っていた。
耀哉は、その悲鳴嶼の姿を愛おしそうに見つめ、静かに、そして深く頷いた。
「……分かった。行冥。彼らの魂の救済を、君に任せよう。よろしく頼むよ」
「御意……! ありがたき幸せ……っ」
悲鳴嶼が、砂利に額を擦り付けてむせび泣く。
その光景を静かに見守っていたマヤが、ふっと口を開いた。
「……悲鳴嶼の旦那」
マヤの低く落ち着いた声に、悲鳴嶼が顔を上げる。
「子供らの面倒を見てくれるのはありがてぇが、無惨への復讐心や憎しみにとらわれて、無茶だけはするなよ? 俺たちは鬼を殺すために戦うんじゃねえ。……未来を生きるために戦うんだ」
マヤの放った『生きるための戦い』という言葉。
それは、かつて命を捨てて鬼を道連れにすることだけを是としていた鬼殺隊の理念を、根底から覆す絶対的な真理だった。
悲鳴嶼は涙に濡れた顔で、しかし力強く首肯した。
「……承知している。胡蝶夫妻が切り拓いたこの希望の連鎖……私が必ず、未来へと繋いでみせよう」
煉獄が深く頷き、不死川も無言で前を見据える。無一郎は、そのやり取りをどこか眩しそうに見つめていた。
武力と医療。そして、罪を抱えて生き直すための魂の救済。
胡蝶夫妻がもたらした光は、鬼殺隊という組織を、かつてないほど強固で温かい『ひとつの巨大な家族』へと進化させていた。
柱合会議は終わりを告げ、彼らの眼差しは、蝶屋敷で泣き叫ぶ二つの小さな命へと向けられていた。
過酷な運命をねじ伏せた先にある、本当の戦いが始まろうとしていた。