柱合会議から数日後。
秋の涼やかな風が吹き抜ける蝶屋敷の門を、岩柱・悲鳴嶼行冥が静かに潜った。
「いらっしゃいませ、悲鳴嶼様」
玄関先で出迎えたのは、屋敷の主である花柱・胡蝶カナエと、その背後に控える巨大な影――胡蝶マヤであった。
「悲鳴嶼の旦那。わざわざ出向いてもらってすまねえな」
マヤは、胡蝶家の家長としての威風を漂わせながらも、決して前に出過ぎず、あくまで屋敷の主君であるカナエを立てるように一歩下がった位置から声をかけた。
「……いや。お館様より許可をいただき、私の我儘で押しかけた身。こちらこそ、世話になる」
悲鳴嶼が深く頭を下げる。彼の目は見えないが、この屋敷全体を包み込む穏やかで温かい空気と、目の前に立つ男女から発せられる揺るぎない信頼の気配を、肌で感じ取っていた。
「さあ、地下の特別隔離室へご案内します。珠世やしのぶも待っていますよ」
カナエの先導で、三人は屋敷の地下深くへと続く階段を下りていった。
地下の医療施設は、太陽の光を完全に遮断しつつも、最新のガス灯と清潔な白壁によって明るく保たれていた。
隔離室の前の長机には、白衣姿の胡蝶しのぶと、着物の上に割烹着を羽織った珠世が、分厚いカルテを広げて話し合っていた。恋柱である甘露寺蜜璃も、包帯などの備品を整理しながら彼女たちの手伝いをしている。
「悲鳴嶼さん、お待ちしておりました」
しのぶが立ち上がり、一礼する。珠世も静かに頭を下げた。
「……うむ。早速で申し訳ないが、竈門の妹と、那田蜘蛛山で保護した二人の鬼の状況を聞かせてほしい」
悲鳴嶼の問いに、珠世がカルテを手に取り、静かで理知的な声で説明を始めた。
「まず、竈門禰豆子さんについてですが……彼女には現在、お館様や私に使用した『人間帰りの薬・β版』の投与を見送っています」
「ほう。それは何故だ? あの薬を使えば、すぐにでも人に戻せるのではないのか?」
悲鳴嶼が不思議そうに尋ねると、しのぶが引き継ぐように答えた。
「医学的な判断です。彼女は無惨の非常に濃い血を受けたばかりの、若い鬼です。細胞の定着が極めて不安定な現在の彼女に、細胞の劇的な修復を強制するβ版のような『劇薬』を投与すれば、激しい拒絶反応を起こし、最悪の場合ショック死する危険性が高いのです」
しのぶは、炭治郎の顔を思い浮かべるようにふっと目を伏せた。
「ですから、彼女にはごく微量のα版成分と、睡眠による自己修復を促す処置をとっています。ゆっくりと、しかし確実に彼女の細胞を人に慣らしていく。……それが、命を繋ぐための最善の道です」
悲鳴嶼は、深く頷いた。
ただ鬼を消し去る魔法ではない。命の重さと向き合い、確かな理(ことわり)のもとに段階を踏んでいく蝶屋敷の『医療』の深さに、改めて感服していた。
「……では、那田蜘蛛山の二人はどうなのだ」
悲鳴嶼の声が、僅かに緊張を帯びる。
その問いに、しのぶと珠世の表情が同時に曇った。
「そちらを見ていただいた方が早いでしょう。……悲鳴嶼さん、どうか、お心を強く持ってください」
しのぶに案内され、頑丈な鉄格子が嵌められた特別室の前に立つ。
部屋の中は、分厚いガラスでさらに仕切られており、二つの粗末なベッドが置かれていた。
「うぅ……あぁぁぁ……っ!!」
部屋の中から聞こえてきたのは、獣のような威嚇の声ではなかった。
頭を抱え、ベッドの上でのたうち回りながら、喉が裂けるほどの悲鳴を上げる『人間の少年』の慟哭だった。
「お父さん……っ! お母さんっ!! ごめんなさい……っ! ごめんなさいぃぃっ!!」
下弦の伍であった累の顔から、すでに鬼特有の赤い紋様は消えかけていた。
初期鎮静の血清によって無惨の呪縛が解け、完全に『人間の心』を取り戻した彼は、自らの手で愛する両親を惨殺してしまったという鮮明な記憶と罪の重さに押し潰され、発狂寸前の状態で泣き叫び続けていた。
その隣のベッドでは、幼女の姿に戻った陽子が、累の悲鳴に怯えるように毛布を被り、小さく震えながら「こわいよぉ……」と涙を流している。
「……なんと、痛ましい……」
悲鳴嶼の目から、とめどなく涙が溢れ出した。
「鬼の細胞が抑制され、人間の意識が戻るということは……自分が鬼として人を喰らい、家族を殺めた事実を、人間の真っ当な倫理観で直視しなければならないということです」
珠世が、自身の過去の業を思い出すように、苦しげに言葉を絞り出した。
「特に陽子ちゃんは、一般の鬼であるため、下弦の血を持つ累くんよりも早く人間に戻る可能性が高いでしょう。……しかし、それは決してハッピーエンドではありません。彼らは一生、その残酷な記憶を背負って生きていかねばならないのです」
鉄格子の向こうで、累がベッドから転げ落ち、冷たい床に爪を立てて嗚咽を漏らしている。
「殺して……! 僕を殺してよぉっ……! 痛い……心が、痛いっ!!」
その悲痛な叫びを聞いた瞬間、悲鳴嶼は鉄格子を開け、ゆっくりと隔離室の中へと足を踏み入れた。
「悲鳴嶼さん……!」
カナエが止めようとするが、マヤが黙って手で制した。
悲鳴嶼は、床に這いつくばって泣き叫ぶ累の前に、ドスンと膝をついた。
かつて、自分が育てていた孤児たちに裏切られ、子供という存在に深い絶望と疑心を持っていた男。しかし今、彼の心にあるのは、暗闇で迷子になり、自らの罪に震える幼き魂への純粋な慈悲だけだった。
「……南無阿弥陀仏……」
悲鳴嶼は、両腕を大きく広げ、泥まみれになって泣き叫ぶ累の小さな体を、自らの厚い胸板に強く抱きしめた。
「ひっ……!? はなせっ……僕は、僕は人殺しだっ!!」
累が暴れ、悲鳴嶼の腕から逃れようと小さな拳で胸を叩く。だが、悲鳴嶼の腕は岩のように微動だにせず、ただ底知れない温もりで少年を包み込んだ。
「ええ……。お前は罪を犯した。決して許されることのない、重い罪だ」
悲鳴嶼の声は、どこまでも優しく、そして厳かだった。
「だが、もう一人で震えなくていい。私が共にお前の罪を背負い、祈ろう。お前が自らの足で立ち上がり、真っ当な心で生き直す日まで……私が、何度でもお前を抱きしめよう」
「あ……あああぁぁぁっ!!」
悲鳴嶼の途方もない慈愛と温もりに触れ、累はついに抵抗をやめ、大きな胸に顔を埋めて子供のように大声で泣きじゃくった。
隣のベッドで震えていた陽子も、ふらふらと歩み寄り、悲鳴嶼の大きな背中にすがりついて声を上げて泣き始めた。
その光景をガラス越しに見守っていた蜜璃が、両手で口を覆い、ボロボロと涙をこぼした。しのぶとカナエも、静かに目頭を押さえている。
やがて、泣き疲れた二人の子供が悲鳴嶼の腕の中で眠りについた後。
静かに部屋を出てきた悲鳴嶼の表情には、これまでにないほど強固で、そして激しい怒りが宿っていた。
「……無惨。鬼舞辻無惨……!」
悲鳴嶼の太い指が、数珠をギリリと強く握りしめる。
「無垢な命を弄び、これほどの悲劇を強要する悪鬼……! 私は決して奴を許さない。必ずやこの手で、奴の肉を削ぎ、骨を打ち砕いてくれる……!」
その体から発せられる怒りの闘気は、地下室の空気を震わせるほどに凄まじかった。
だが。
「……悲鳴嶼」
壁に背を預けていたマヤが、ふっと静かな声を落とした。
その声には威圧感はない。ただ、四年間共に歩んできた身内を案じる、落ち着いた大人の響きがあった。
「怒るのは当然だ。あいつのやり方は、俺も気に食わねえ。……だけどな」
マヤは腕を組み、悲鳴嶼の見えない目を真っ直ぐに見据えた。
「憎しみにとらわれて、無茶な真似だけはするなよ」
悲鳴嶼が、ハッとしてマヤの方へ顔を向ける。
「俺たちは、死ぬために戦うんじゃない。憎い鬼を殺して終わり、じゃねえんだよ」
マヤは、傍らで寄り添うように立つ四人の妻たち――しのぶ、カナエ、蜜璃、珠世に視線を移し、優しく微笑んだ。妻たちもまた、深い愛情と信頼の眼差しで夫を見つめ返している。
「あいつらを倒したその先で……明日も笑って、みんなで美味い飯を食うために戦うんだ。俺たち全員で、生きて明日を迎えるためにな。違うか?」
マヤの言葉が、悲鳴嶼の心に渦巻いていた暗く重い怒りの炎を、静かに凪ぎ払っていった。
予言でも、運命を知っているわけでもない。ただ、今日という日を生き抜き、明日も愛する者たちと平穏な日常を過ごしたいという、地に足の着いた純粋な願い。それが、鬼殺隊の向かうべき本当の戦いの意味だった。
「……ああ。貴方の言う通りだ、マヤ殿」
悲鳴嶼は、深く息を吐き、握りしめていた数珠の力を緩めた。
「私は一瞬、怒りに心を食われかけていたようだ。……私たちは、生きて明日へ繋ぐために戦う。この誓い、決して忘れまい」
カナエがふわりと微笑み、しのぶと珠世も静かに頷く。蜜璃が「マヤさん、かっこいいですぅ……」と小さな声で呟き、マヤの太い腕にそっと抱きついた。
鬼殺隊の最強の剣士と、この世界で愛する家族と共に生きる覚悟を決めた男、そして過酷な運命を医療で塗り替えていく美しき女医たち。
深い罪と悲しみを抱える地下室の中で、彼らの絆はかつてないほど強固に結びつき、明日への確かな一歩を踏み出し始めていた。