蝶屋敷の一角にある医務室には、特有の匂いが常に立ち込めている。
すり潰された薬草の青臭さ、消毒用のアルコールの揮発する匂い、そして、微かに鼻腔を突く藤の花の甘く危険な香り。
冬の柔らかい陽射しが障子越しに差し込む静かな部屋で、胡蝶しのぶは白衣姿のまま、手元の作業に没頭していた。
机の上に置かれているのは、彼女の『日輪刀』である。だが、それは通常の剣士が振るう刀とは全く異なる異質な形状をしていた。刃の部分が根元と先端しかなく、まるで鋭い毒虫の針のように細く削り出されている。
しのぶはピンセットと小さな薬瓶を使い、刀の鞘の内部に仕込まれた調合機構の微調整を行っていた。
わずかな分量のミスが、実戦において己の命を左右する。14歳という少女の華奢な肩には、鬼を殺すための毒をたった一人で研究し、実用化するという途方もない重圧が乗っていた。
「……お前、変わった刀使ってんな」
不意に背後から声がかかり、しのぶはピタリと手を止めた。
振り返ると、医務室の入り口の柱に寄りかかり、興味深そうにこちらを見ているマヤの姿があった。蝶屋敷にすっかり馴染んだ彼は、支給された簡素な着物の上に陣羽織を羽織り、相変わらず足音ひとつ立てずに現れる。
「切るんじゃなくて、突く専用か?」
マヤの赤い瞳が、机の上の細い刀身を的確に観察していた。その視線に込められているのは、無骨な武器に対する純粋な好奇心だ。
しのぶは一つ息を吐くと、日輪刀の柄に手を添え、少しだけ誇らしげに、かつ自嘲するような微かな笑みを浮かべた。
「ええ。私には、鬼の頸を斬り落とすだけの筋力がありませんから。その代わり……藤の花から抽出した毒をこの刀に纏わせて、鬼を殺すんです」
鬼殺隊において、頸を斬れないということは致命的な欠陥だ。しかし、彼女は自身の弱さを呪うのではなく、薬学という全く別の刃を研ぎ澄ますことで、鬼を滅する手段を確立した。
その執念と才覚を、マヤはただ静かに受け止めた。憐れむでもなく、大袈裟に驚くでもなく、ひどく感心したように深く頷く。
「なるほどな、毒か。自分の戦い方をよく分かってる」
マヤの真っ直ぐな肯定に、しのぶはほんの少しだけ目元を緩めた。
「……なあ。鬼ってのはそもそも、体の構造がどうなってんだ? どうしてその、藤の毒ってのが効くんだ?」
「どうって……鬼は鬼です。太陽の光を浴びれば灰になりますし、人間の血肉を喰らって生きる化け物ですよ」
「ふふっ、しのぶ。少し説明が乱暴ですよ」
廊下から、お盆を持ったカナエが柔らかな声とともに現れた。その後ろには、カナエの着物の裾を掴むようにして、無表情なカナヲがちょこんと続いている。
カナエは机の端にお茶を置くと、マヤへ向き直って静かに説明を始めた。
「マヤさん。鬼は、元々は私たちと同じ人間なんですよ。鬼舞辻無惨という始祖の血を体内に注ぎ込まれることで、細胞が変異して、人を喰らう鬼になってしまうんです」
カナエの言葉には、鬼という存在そのものに対する深い哀しみが滲んでいた。
どれほど凶悪な鬼であっても、元は誰かの家族であり、普通の人間だった。その悲しい事実を聞いたマヤは、眉をひそめて腕を組んだ。
「……元は人間で、他人の血で細胞が変異しただけ?」
マヤの低い声が医務室に響く。
彼は天井を見上げ、何かを組み立てるように少しの間思考し、やがて視線をしのぶへと落とした。
「だったら、毒で殺すんじゃなくて、元の細胞に戻す……『治療』はできないのか?」
その言葉が落ちた瞬間、医務室の空気がピタリと止まった。
しのぶは、目を丸くしてマヤを見つめていた。呼吸すら一瞬忘れていた。
鬼殺隊の目的は『鬼の殲滅』である。鬼になればもう戻れない。だから、これ以上犠牲を出さないために、彼らを斬る。毒で殺す。それがしのぶにとっての、そしてこの世界の絶対的な常識だった。
細胞の変異なのだから、治療すればいい。
あまりにもあっけなく、常識の壁を飛び越えて放たれたマヤの発想は、しのぶという若き医学者の脳裏に、強烈な雷のような衝撃を与えていた。
「ち、治療って……!」
しのぶがガタッと椅子から立ち上がる。
「そんな簡単な話じゃありません! 理論上は細胞の異常だとしても、そもそも鬼の細胞を研究しようにも、生きた鬼の血液なんてどうやって採取するんですか! 相手は人を喰う化け物なんですよ、危険すぎます!」
「なんだ、血があればいいのか?」
しのぶのまくし立てるような抗議を、マヤはあっさりと受け流した。
「じゃあ俺が、夜に散歩がてら何本か持ってくるよ」
「は……?」
ポカンとするしのぶの目の前で、マヤは机の上の薬品棚に置かれていた、大正時代の真新しいガラス製の『注射器』を数本手に取った。
「血を入れる容器あるか? ああ、この注射器ってやつ、ちょうどいいな。何本か借りるぞ」
「もしもーし! あのー!!」
しのぶの堪忍袋の緒が切れた。
「勝手に持ち出さないでくれませんか!? 割れますよ!? というかそういうことじゃないんですけど!?」
しのぶは慌ててマヤから注射器を取り上げようとするが、マヤはひらりと手を躱し、注射器を自身の懐へと丁寧にしまった。
「割ったりしないように大事に持つからよ。大丈夫だ」
「だから! そういうことじゃないと言っているんです! 本当に鬼から血を採取するつもりですか!?」
しのぶは頭を抱えた。
姉は「この人は上弦の弐を一撃で退けた」と言う。しかし、しのぶが現場で見たのは、極寒の森で半裸で立っていた異様な男の姿だけだ。縁側で毎日お茶をすすり、カナヲにお菓子を半分こして与えている、この気の良いサボり魔のお兄さんが、鬼の懐に潜り込んで無傷で血を抜いてくるなど、到底信じられなかった。
「貴方の本当の強さは見ていないのでなんとも言えませんけれど……本当に大丈夫なんですか?」
疑いの目を向けるしのぶに対し、横で見ていたカナエが、ふわりと袖で口元を隠して笑った。
「たぶん、大丈夫じゃないかしら?」
「姉さん……?」
「だって、あの夜……私を守ってくださった、頼もしい殿方ですもの。ふふっ」
言いながら、カナエはあの日、マヤの手から注ぎ込まれた圧倒的な温もりを思い出し、少しだけ顔を赤くした。自分で言っておきながら、いささか直接的すぎたかと気恥ずかしくなり、視線を泳がせる。
「姉さんまで……はぁ〜」
しのぶは大きくため息をついた。姉がここまで全幅の信頼を置いている以上、これ以上止めることはできない。
「分かりました。ですが、最初は弱めの鬼からでもいいので、絶対に無理をしないでくださいね。怪我でもされたら、それこそ姉さんが悲しみますから。まったく……」
「おう、まかせておけ。カナエの期待にも、応えないとな!」
マヤがニッと快活に笑う。そして、再び机の上の機材や、しのぶが書き留めていた分厚い医学書の山に視線を向けた。
「しかし、しのぶは凄いな。この毒を抽出したのも、その刀のギミックを考えたのも、全部独学なんだろ?」
「……まあ、はい」
「まだ14歳くらいだろ? お前、凄すぎだろ。他にもなんか難しそうな研究してるみたいだしよ。天才だな」
衒いのない、心底からの称賛。
しのぶは驚いたように瞬きをした後、少しだけ頬を染め、ふんす、と誇らしげに胸を張った。
「ふふふ。そうですよ! 私、結構凄いんですよ?」
「たくさん努力していますしね。しのぶは、とっても偉いんですよ」
カナエも妹の頭を優しく撫でる。姉からの賛辞に、しのぶの顔がさらに嬉しそうに綻んだ。
「そりゃあ頼もしいね。しのぶなら、鬼の細胞の解析とか、人間への治療薬とか、すぐ作っちまいそうだな」
「そりゃあ……。採取できればの話ですけどね。でも、もし本当に手に入るなら、研究者魂に火がついちゃいそうです」
しのぶの瞳の奥に、復讐の炎ではなく、純粋な医学的探究心と『救済』への希望の光が宿る。
「おやおや? 先程とはもう顔つきが変わってきてるな。いい笑顔だぞ、しのぶ」
マヤはそう言うと、大きな手を伸ばし、しのぶの頭をぽんぽんと撫でた。
「……っ! なんで急に撫でてるんですか! もう……」
しのぶは抗議の声を上げつつも、その不器用で温かい手つきを振り払おうとはしなかった。「悪い気はしませんけど……」と小さく呟き、照れ隠しに視線を逸らす。
「ん」
その時、しのぶの後ろに立っていたカナヲが、微かに着物の裾を引いた。
マヤが視線を向けると、空っぽになったお茶のお盆を両手で抱えたカナヲが、じっとこちらを見上げている。
「おー、いたのか。カナヲも偉いぞ。お茶運び手伝ってくれたんだな。ありがとうな」
マヤはしゃがみ込み、カナヲの頭も優しく撫でた。
カナヲは撫でられるがまま、大きな瞳をパチパチと瞬かせている。
「!」
すると今度は、カナヲの横にいたカナエが、無言ですっ、とマヤの前に進み出た。
そして、少しだけ身を屈め、マヤの目の前に『自分の頭』を差し出す。
「……え?」
マヤが面食らったように固まる。カナエは顔を真っ赤にしながらも、目を閉じてじっと待機している。明らかに「私も撫でてください」という無言の要求だった。
しのぶが「ちょっと姉さん!?」とギョッとする中、マヤは思わず吹き出し、その美しい黒髪を少しだけ照れくさそうに撫でた。
「おう……。カナエも、お茶ありがとうな」
「……はい」
「お礼がまだだったな、良い事聞いたし。みんなの笑顔が出て、俺は嬉しいよ」
医務室に、血の匂いとは無縁の、ただ温かくて優しい家族のような空気が満ちる。
マヤはその空気を噛み締めるように息を吐くと、少しだけ声のトーンを落とした。
「しかし、すべての元凶が、その『無惨』ってやつなのか。カナエとかは、会ったことはあるのか? こないだの氷野郎の親玉ってことだろ」
マヤの問いに、カナエはゆっくりと首を横に振った。
「誰も、会ったことがないんですよ。数百年の間、鬼殺隊の誰もその姿を捉えられていないんです。仮に会えたとしても、今の私たちでは勝てないと思いますので……圧倒的に情報が不足していますね」
「普通の鬼ですら、なかなか遭遇できませんからね。その親玉ならなおさらですよ」
しのぶが、先ほどの和やかな表情から一転し、真剣な眼差しでマヤを見た。
「だから……姉さんが、あの上弦の弐と戦って生き残ってくれて、本当によかったですよ」
しのぶの言葉に、カナヲも力強く、コクコクと首を縦に振った。
「本当に、マヤさんに会えてよかったですよ。あの日、もしマヤさんが来てくれなかったらと思うと……時々、恐ろしくなるんです」
カナエの瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
命を救われたことへの、底知れない感謝。3人の少女たちから向けられる重すぎるほどの好意と信頼の視線に、マヤはいたたまれなくなったように頭を掻いた。
「あー……なんだ。無事でよかったよ。少し蒸し返してしまったな。色々、俺も門番として守りたいからな」
ごまかすように言うマヤの不器用さに、カナエは嬉しそうに涙を拭った。
「ええ。本当に、少しずつ私たちのことも知っていってください。ここの当主として、最大限の感謝を」
「私からも、改めて姉さんを救ってくれて感謝を」
「……(こくり)」
真っ直ぐに向けられる3人の感謝の念。
純粋な好意に滅法弱いマヤは、照れ隠しにふっと息をつくと、何かを思いついたように足を開いた。
「そうだな。じゃあ、少し見せておくか。俺の索敵の、本来の仕方をよ。たまに縁側でやってるんだけどな。ネタバラシってやつだ」
「索敵の仕方……ですか?」
「おう。いくぞ? 少しわかりやすいように見せるな」
マヤはそう言うと、軽く右足を上げ、床板を『トンッ』と踏み鳴らした。
――その瞬間。
「……っ!?」
ぞわり、と。
カナエ、しのぶ、カナヲの三人の肌を、目に見えない強烈な『うねり』が撫で回した。
それは突風でもなければ、鬼が放つような冷たい殺気でもない。圧倒的な質量を持った熱い空気の塊が、波紋のように部屋中を満たし、彼女たちの体を通り抜けて屋敷全体へと広がっていく感覚。
息が詰まるほどの重厚な圧力。しかしそこに敵意は一切なく、ただ『そこにあるものを正確に把握する』ための、純粋にして巨大な力の奔流だった。
「な、なんですか……いまの……」
しのぶが目を見開き、自分の腕を抱く。産毛が総立ちになっていた。
「これは、俺の『闘気』っていうか、力を、少しわかりやすくお前たちに当てた感じだ。この屋敷周辺までは、今の波紋で『何かいるな?』ってのが正確に分かる。索敵した感じだ」
「えええ!? えと、つまり、その……足でトンってやっただけで、この蝶屋敷の周辺すべてを把握したと!?」
「……すごっ。いつも縁側にいるだけじゃなかったんですね!?」
しのぶが、あまりの規格外な探知能力に絶句する。
「本来はそんなわかりやすく相手に当てないから、誰にもバレないんだよ。これで、あの氷野郎みたいな異常な気配があればすぐわかる。そこから鬼特有の気配ってのもだいたい割り出せるから、夜の散歩がてらの採取も楽勝だ」
「なんですかそれ!? 鬼の血鬼術かなんかなんですか!?」
「俺は鬼ではないから、その血鬼術ってのは分からないんだけどな」
マヤは不思議そうに頭をぽりぽりとかく。
彼にとっては息をするように当たり前の技術でも.この世界においては完全に理外の代物だ。
その時だった。
闘気のビリビリとした余韻が残る中、カナヲが大きな瞳を見開いたまま、ポツリとこぼした。
(……本当は、すごくすごい人なのかな?)
心の中に生じた、純粋な驚愕。
マヤが放った温かくも途方もない力の波動が、カナヲの中にあった分厚い感情の壁を、物理的に揺さぶったのだ。
「……いまの、びっくりしました」
小さな、けれどはっきりとした声が、医務室に落ちた。
「「「えっ?」」」
カナエと、しのぶと、マヤ。
三人の声が、見事に重なる。
自分からは決して口を開かず、意志を示さなかったはずの少女が。
硬貨を投げることもなく、今、自分の感情を、自分自身の意思で言葉にしたのだ。
「カナヲ……いま、喋った?」
「……はい」
しのぶの問いかけに、カナヲがこくりと頷く。
静寂に包まれた医務室に、やがて、春の雪解けのような歓喜が広がっていく。
マヤが持ち込んだ非常識な力と、雑で真っ直ぐな温かさが、鬼の細胞の治療よりも一足先に、ひとりの少女の凍りついた心を確実に溶かし始めていた。