鬼滅の薬   作:マイナーチョコ

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第9話:蝶屋敷の日常と、常中の理

那田蜘蛛山での死闘から数日が経過した、蝶屋敷の朝。

木漏れ日が差し込む清潔な大部屋の病室で、竈門炭治郎はゆっくりと目を覚ました。

 

「いってぇぇぇぇ……っ! 全身の骨が砕けてる気がするぅぅっ!」

隣のベッドでは、蜘蛛の毒で手足が縮みかけていた我妻善逸が、包帯ぐるぐる巻きの状態で涙を流してわめいている。その向こうでは、嘴平伊之助が「俺は弱い……ただの毛玉だ……」と、珍しくどん底まで落ち込んで天井を見つめていた。

 

「三人とも、起きましたね。今日から地獄……いえ、みっちりと治療とリハビリが始まりますから、覚悟してくださいね」

神崎アオイが、洗面器と薬湯が乗った盆を両手に持ち、きびきびとした足取りで病室に入ってきた。その後ろには、中原すみ、寺内きよ、高田なほの三人娘が「おはようございます!」と元気よく挨拶をして続く。

 

「アオイさん、すみちゃん、きよちゃん、なほちゃん。手当てをしてくれて、本当にありがとうございます」

炭治郎が起き上がろうとして顔をしかめると、窓の外から賑やかな声が聞こえてきた。

ふと視線を向けると、中庭で大量の薪割りと水汲みを一人でこなしている巨大な男の姿があった。胡蝶家の絶対的な大黒柱、マヤである。

 

「マヤさぁん! お疲れ様ですぅ!」

そこへ、桜餅色の髪を揺らした甘露寺蜜璃が、背後から嬉しそうにマヤの太い首へ抱きついた。マヤは薪を割る斧を片手で軽々と置き、もう片方の腕を極めて自然に背後へ回し、蜜璃の細い腰を抱き寄せて受け止める。

「お、蜜璃。今日は非番か?」

「はいっ! マヤさんの顔が見たくて、飛んできちゃいましたっ!」

 

「ふふ、蜜璃ちゃんはずるいですね。マヤくん、汗をかいてますよ」

正面からは、花柱である胡蝶カナエがふわりと微笑みながら近づき、手ぬぐいでマヤの額の汗を優しく拭う。マヤは照れることもなく、大人の男としての余裕と慈愛に満ちた眼差しで、カナエの柔らかい髪をそっと撫でた。

 

「旦那様。午後は隠の部隊への資材運搬があります。それと、お館様から来月の予算についての書状が届いておりますよ」

凛とした声と共に、本妻の風格を漂わせた胡蝶しのぶが縁側から歩み寄る。彼女はマヤの陣羽織の襟元を整えながら、日常の報告を淀みなく口にした。

「おう、分かった。午後には片付けておく。いつも屋敷の管理、助かってるぞ、しのぶ」

マヤがしのぶの頬に軽く触れて労うと、しのぶはふわりと花が綻ぶような笑みを浮かべ、極めて自然な動作で背伸びをし――マヤの唇に、チュッと軽い口付けを落とした。

 

「……えへへ。午後もよろしくお願いしますね、旦那様」

「ああ、任せとけ」

 

無自覚なほどに自然で、日常に溶け込んだ夫婦の甘い口付け。

圧倒的な強さと経済力を持ち、三人の美しき柱クラスの女性たちから絶対的な愛情を注がれる男。嫉妬や諍いなど微塵もなく、そこにあるのは大正という時代において見事に完成された、新しくも強固な『家』の姿であった。

 

「……な……な……っ」

窓からその光景を見ていた善逸が、ワナワナと全身を震わせ、包帯の隙間から血の涙を流していた。

「なんなんだあの空間はァァァァッ!! なんであんな馬鹿でかい男が、あんな絶世の美女三人に囲まれてチュッチュしてんだよォォォ! 大正の男の甲斐性ここに極まれりかよォォ!! 羨ましすぎるゥゥゥッ!!」

「善逸! 傷が開くから暴れるな!」

炭治郎が必死に押さえつけるが、善逸の悲痛な叫びはしばらく病室に響き渡り続けた。

 

***

 

それから半月が過ぎ、炭治郎たちの体の傷が癒え始めた頃。

本格的な『機能回復訓練』が始まった。

 

「初めまして。本日から皆さんの訓練のお手伝いをさせていただきます、栗花落カナヲです」

道場に現れたのは、炭治郎たちと同年代の可憐な少女だった。彼女の目には、かつてのような虚無の影はない。柔らかく、しかし剣士としての確かな意志を宿した瞳で、丁寧に一礼をする。

 

「カナヲちゃん! よろしく頼むよ!」

炭治郎が元気よく応じるが、訓練が始まった直後、彼らは絶望を味わうことになった。

 

「うわぁぁっ!? 全然捕まんねぇ!!」

「反射速度がおかしいだろォォ!」

薬湯の入った湯呑みの奪い合いでも、道場での全身を使った鬼ごっこでも、炭治郎、善逸、伊之助の三人がかりで挑んでも、カナヲの体に指一本触れることすらできなかった。

 

カナヲの動きは、ただ速いだけではない。

カナエ直伝の『流麗で柔らかな足運び』。蜜璃から学んだ『常人離れした柔軟な身体操作』。しのぶ仕込みの『的確な急所の把握』。

そして何より、マヤから徹底的に叩き込まれた『一切の無駄を省いた防御といなしの理合い』。

 

四人の天才たちから溢れんばかりの愛情と英才教育を受けたカナヲは、すでに同年代の剣士とは全く違う次元の強さを完成させつつあった。

 

「……もう少し、肩の力を抜いてみてください」

カナヲが、涼しい顔で微かに笑みを浮かべながらアドバイスを送る。

「皆さんは、攻撃の瞬間に息が浅くなっています。だから動きが硬くなるんです」

その無駄のない美しき動きと、的確な指導に、炭治郎はただただ圧倒され、床にへたり込むしかなかった。

 

***

 

その日の夜。

炭治郎は眠れぬまま、静まり返った蝶屋敷の廊下を歩き、地下の医療施設へと向かった。

昼間の訓練で自身の未熟さを痛感し、少しでも気を紛らわせようと、薬の整理を手伝おうと思ったのだ。

 

地下室の扉を開けると、ほのかなガス灯の明かりの下で、着物の上に割烹着を着た珠世が、静かにお茶を飲んでいた。

 

「あら、炭治郎さん。眠れませんか?」

「珠世さん。……夜分遅くにすみません」

 

珠世は、かつての鬼としての血の渇望から完全に解放され、大人の女性としての深く落ち着いた色香を漂わせていた。彼女の指には、マヤから贈られた銀の指輪が光っている。

正妻の座など、彼女にとっては些末な問題だ。マヤの血という「唯一無二の繋がり」を体内に宿し、永遠の伴侶としての日陰の特等席を、彼女は心から愛し、満喫していた。

 

「累くんと、陽子ちゃんの様子が気になったのですね?」

珠世が視線を向けた先、分厚いガラスの向こうの隔離室では、悲鳴嶼行冥が静かに読経を続ける横で、累と陽子が小さな布団に並んで眠っていた。

 

「……はい。二人は、大丈夫でしょうか」

「今日、彼らは初めて……悲鳴嶼さんが作った、人間のお粥を口にしました」

珠世は、愛おしそうに目を細めた。

「泣きながら、吐き戻しながら……それでも、人間の食事を美味しいと言って飲み込みました。……マヤ様が繋いでくださった命です。決して焦る必要はありません。彼らが自らの罪と向き合い、彼ら自身の歩幅で進めばよいのです」

 

鬼殺隊の最強の剣士が、鬼の子供たちに食事を与え、寄り添っている。

炭治郎は、この屋敷で起きている奇跡と、命の重さを改めて噛み締め、深く一礼して地下室を後にした。

 

***

 

翌朝。

縁側で一人、息を整える訓練をしていた炭治郎のもとへ、マヤが巨大な瓢箪を三つ抱えてやってきた。

 

「……カナヲに全く歯が立たねえみたいだな、少年」

「マヤさん……。はい、カナヲちゃんは凄いです。一日中、全集中の呼吸を続けてる……『常中』ができているから、俺たちとは基礎体力が全然違うんです」

 

炭治郎が悔しそうに拳を握ると、マヤはドカリと縁側に腰を下ろし、瓢箪の一つを炭治郎の前に転がした。

「あのなぁ。お前ら、常中を『気合い』や『精神論』だと思ってねえか?」

 

「え……? 違うんですか?」

「違う。これは極めて物理的で、論理的な話だ」

マヤは腕を組み、真剣な眼差しで語り始めた。

 

「いいか。全集中の呼吸ってのは、血中の酸素濃度を極限まで引き上げて、身体能力を爆発させる技術だ。それを24時間、寝てる間も続けるってことは……常に肺と心臓を限界まで酷使し続けるってことだ。ただの『身体改造』なんだよ」

マヤは自身の手のひらを強く握り込んだ。

「筋肉を鍛える時、一度筋繊維をブチブチに引き裂いて、それが修復する時に太くなるだろ? 肺も同じだ。最初は細胞が悲鳴を上げて死ぬほど苦しい。だが、それが定着すれば、お前らの体は根本から作り変えられ、基礎体力が常人の何十倍にも跳ね上がる」

 

炭治郎の目が、ハッと見開かれた。

精神力で耐えるのではなく、体を物理的に作り変えるための期間。そう考えれば、今の苦しさも明確な『成長へのプロセス』として受け入れることができる。

 

「俺の家族(カナヲ)に追いつきてえなら、まずはその瓢箪を息だけで破裂させてみろ。……死ぬ気で肺を広げろ」

「……はいっ!!」

マヤの的確で論理的な指導により、炭治郎、そして善逸と伊之助の目にも明確な目標の火が灯った。

 

それからの約一ヶ月半は、まさに地獄の身体改造期間だった。

マヤの厳しい指導のもと、肺が破裂しそうな苦痛に耐えながら呼吸を続ける三人。しのぶやカナエが疲労回復の薬湯を調合し、蜜璃が山盛りの食事を作り、カナヲが実戦形式で彼らの動きを叩き直す。

 

そして、季節が秋から冬へと移り変わろうとする頃。

パーンッ!! という破裂音と共に、炭治郎、善逸、伊之助の三人が、ついに巨大な瓢箪を息だけで粉々に吹き飛ばした。

 

「やった……! やったぞぉぉっ!」

「常中、できたぁぁっ!!」

ボロボロになりながらも、三人の体には、一ヶ月半前とは比べ物にならないほどの分厚い筋肉と、研ぎ澄まされた闘気が定着していた。

 

その日の夕刻。

完全に仕上がった炭治郎たちの元へ、産屋敷邸からの鎹鴉が舞い降りた。

『カァァッ! 竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助! 次ナル指令ヲ伝エル!』

鴉の声が、蝶屋敷の中庭に響き渡る。

『無限列車ニ乗車セヨ! 炎柱・煉獄杏寿郎ト合流シ、被害ヲ拡大サセル鬼ヲ討テ!!』

 

ついに下された、新たな戦いへの切符。

真新しい隊服に身を包み、日輪刀を腰に差した三人が、蝶屋敷の門前に並び立った。

 

「……マヤさん、しのぶさん、カナエさん、蜜璃さん。そしてカナヲちゃん、アオイさんたちも。本当にお世話になりました!」

炭治郎が、深く深く頭を下げる。

禰豆子の入った木箱は、しっかりと炭治郎の背中に背負われていた。

 

「気をつけてね、炭治郎くん。無理はしちゃダメですよ」

カナエが優しく微笑み、しのぶも「何かあれば、すぐに鴉を飛ばしなさい」と頷いた。

 

マヤは腕を組み、見違えるように逞しくなった三人の少年の顔を見渡した。

「……杏寿郎のサポート、頼んだぞ。あの男の背中を、一番近くでしっかり見てこい」

「はいっ!!」

 

マヤが太い手で、三人の背中を力強く叩く。

無限列車という次なる死地へ向けて、三人の剣士は迷いのない足取りで、夕暮れの空の下へと駆け出していった。

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