大正の秋風が、産屋敷邸の静寂な奥座敷を吹き抜けていた。
当主・産屋敷耀哉の前に、胡蝶マヤが静かに座している。
「……無限列車の被害、ただの下弦の仕業にしては規模が大きすぎる」
健康な肉体を取り戻したことで、耀哉の冴え渡る頭脳と産屋敷一族特有の『直感』は、かつてないほどに研ぎ澄まされていた。
「鬼舞辻が無意味に被害を拡大させるとは思えない。これは柱を誘い出すための陽動であり……混乱に乗じて『上弦』を送り込んでくる可能性が、ゼロではないと思う」
「なるほどな。耀哉の勘は当たるからな」
マヤは腕を組み、深く頷いた。
「なら、杏寿郎たちには俺から厳命を出しておく。『もし上弦が出た場合、討伐よりも生存を優先しろ。そして可能なら……薬を完成させるための上弦の血を採取しろ』と」
現在、蝶屋敷の地下で研究が続いている『人間帰りの薬・完成版』、そして柱たちの身体負荷を打ち消すための新薬。その開発には、どうしても上弦の鬼の濃い血が必要不可欠であった。
「戦力補強として、俺の嫁(蜜璃)を杏寿郎の同行につけよう。あいつなら、乗客の護衛にはうってつけだ」
「ありがとう、マヤ。……君も、行くのかい?」
「ああ。だが、俺は表立って手は出さねえよ。あくまで別行動で列車の経路を追い、万が一の時だけ動く。……あいつらの糧になる戦いを、俺が奪うわけにはいかねえからな」
大黒柱としての深い信頼と覚悟。耀哉は穏やかに微笑み、その頼もしい背中を見送った。
***
夜の闇を切り裂くように、無限列車が漆黒の煙を吐き出しながら疾走していた。
「うまい! うまい! うまい!」
車内では、炎柱・煉獄杏寿郎と恋柱・甘露寺蜜璃が、尋常ではない速度で大量の牛鍋弁当を平らげていた。
「本当ですね煉獄さん! すっごく美味しいですぅ!」
合流した炭治郎、善逸、伊之助もその凄まじい食欲に圧倒されていたが、和やかな空気は長くは続かなかった。
――下弦の壱・魘夢の血鬼術。
切符を切られた瞬間、車内の全員が深い眠りへと引きずり込まれていた。
炭治郎が目を開けると、そこは雪に覆われた懐かしい竈門家の前だった。
「兄ちゃん! 炭売ってきたの?」
幼い弟や妹たちが駆け寄ってくる。炭治郎の瞳が大きく見開かれた。
魘夢が仕掛けたのは、炭治郎の精神の核を破壊するための『幸せな夢からの凄惨な悪夢への転落』である。本来ならば、ここで炭治郎は家族を失った過去のトラウマに縛られ、深く絶望するはずだった。
しかし、炭治郎は微塵も絶望しなかった。
「……あれ?」
炭治郎は首を傾げた。
「なんでみんな、雪山にいるんだ? 昨日、藤の花の家から『六太たちがつまみ食いして困る』って元気そうな手紙をもらったばかりなのに。……それに禰豆子、お前そんな普通に昼間から外に……」
炭治郎の脳裏に、蝶屋敷の地下で静かに治療を受けている禰豆子の姿がよぎる。竈門家の被害が最小限に抑えられ、家族が絶対的な安全圏にいるこの世界線の炭治郎にとって、この悪夢は何のトラウマ刺激にもならなかった。
「あ、これ夢だ!」
炭治郎は一切の躊躇なく日輪刀を抜き、自らの頸を一閃した。
(精神世界での自刃による強制覚醒)。
あまりにもあっさりとした夢の崩壊に、列車の屋根の上にいた魘夢は「えっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
(なんで絶望も歓喜もしないの!? あの耳飾りのガキ、トラウマどうなってるの!?)
同時刻。
別の車両で眠りについていた蜜璃もまた、魘夢の術による悪夢を見ていた。
それは過去のトラウマ。お見合い相手から「君と結婚できるのは熊か猪くらいだ」と酷い言葉を投げつけられ、自身の桜餅色の髪と大食いを否定される夢。
「うぅ……悲しい……」
夢の中で蜜璃は涙を浮かべた。しかし、次の瞬間。
「……でも、今の私にはマヤさんがいるもんね!」
蜜璃の顔が、パァッと明るく輝いた。
「私の強さも大食いも、髪の色も、ぜーんぶ可愛いって愛してくれる素敵な旦那様がいるんだから! 昔の男の嫌な夢なんて、もう全然怖くないわ! っていうか、こんな嫌な夢見せるなんてひどーい!」
蜜璃の凄まじい怒りと幸せな惚気パワーが、精神世界の壁を物理的に(?)打ち砕いた。
「キャーッ! 起きなさいよ悪い鬼ーっ!!」
バリィィィッ!! と車内の窓ガラスが吹き飛び、自力で覚醒した蜜璃が日輪刀を抜いて立ち上がる。
「はぁぁぁっ!?」
魘夢は完全にパニックに陥った。彼が絶対の自信を持っていた精神破壊の血鬼術は、マヤが作り上げた『絶対的な安心と救済の土台』の前に、何の意味も成さなかったのである。
***
「目覚めたか、竈門少年! 甘露寺殿も、流石の速さだ!」
一番最後に自力で覚醒した煉獄が、車内にうごめく無数の触手(魘夢の肉片)を睨みつけた。
「乗客が危ない! 煉獄さん、どうしますか!?」
「うむ! 俺と甘露寺殿で後方五両を守る! 君たちは前方三両と、鬼の頸を探せ!」
「はいっ!」
乗客を喰らおうと迫る気味の悪い肉塊の触手。
しかし、煉獄は日輪刀をほとんど鞘から抜かなかった。
「シュッ!」
煉獄は体を低く沈め、触手の連撃を紙一重でかわすと、日輪刀の『鞘』を使った強烈な打撃で肉の壁を次々と粉砕していく。
(マヤ殿の教え通り! このような雑魚の肉肉しい攻撃をいちいち刃で受け止めれば、刀が傷むリスクがある!)
かつて蝶屋敷の裏庭で、マヤの木刀を砕く体捌きから学んだ『刀を盾にしない戦い方』。
(日輪刀は、来るべき強敵の頸を断つためだけに温存する!)
煉獄は最小限の動きで触手を受け流し――いなし――圧倒的なスピードで車内の安全を確保していく。
「いきますよぉ!」
さらに、蜜璃が新体操のリボンのような特注の刃を振るい、アクロバティックな動きで乗客を覆う肉片を一網打尽に切り裂いていく。
木箱から飛び出した禰豆子も『爆血』の炎を放ち、魘夢の術そのものを燃やし尽くして炭治郎たちを援護した。
「うむ! 姉弟子(蜜璃)がいると実に心強いな!」
柱二人の圧倒的な制圧力。乗客の被害は完全にゼロのまま、前方へ向かった炭治郎と伊之助の連携により、列車の先頭車両と同化していた魘夢の頸は、見事な太刀筋で斬り落とされた。
脱線し、横転した無限列車。
凄まじい土煙が晴れた後、乗客全員が無事であることを確認し、炭治郎たちは安堵の息を吐いた。
「やった……乗客の人たち、全員無事だ!」
「うむ! 竈門少年たちも、よく頑張ったな!」
煉獄が太陽のように笑い、蜜璃も「みんな凄かったわ!」と駆け寄ってくる。
だが。
ドォォォォンッ!!
突然、夜空から凄まじい衝撃音が響き、大地が爆発したかのように揺れた。
もうもうと舞い上がる砂塵。その中心から、これまでのどの鬼とも次元が違う、圧倒的で濃密な『死』の気配が立ち昇る。
「……何だ、この気配は……!」
炭治郎が息を呑み、本能的に後ずさった。
砂塵が晴れた先に立っていたのは、全身に刺青を刻んだ闘気あふれる鬼――上弦の参・猗窩座であった。
「……上弦の、参……」
煉獄が日輪刀を構え、その瞳に静かな、しかし確かな炎を宿した。
(お館様とマヤ殿の危惧通り……本当に来るとはな)
一方。
横転した無限列車から少し離れた深い森の暗闇。
マヤは、完全に気配を殺したまま、巨体を木々の間に隠してその様子を静かに見下ろしていた。
(……マジで来やがった。耀哉の直感、恐るべしだな)
マヤの目は、猗窩座の桁違いの闘気を正確に捉えていた。今すぐ飛び出していってぶん殴れば、戦況は一瞬で終わるかもしれない。しかし、マヤはその場から一歩も動かなかった。
(俺が手を出せば、それまでだ。だが……それでは杏寿郎がこれまで培ってきた覚悟と誇りを汚すことになる。あいつらが本当の意味で『強く生き残る』ための糧を、俺が奪うわけにはいかねえ)
マヤは、教え子である煉獄の背中を、信頼と祈りを込めて見つめた。
(杏寿郎。お前の『生き残る刃』を見せてみろ。……そして炭治郎。死地の中で見極めろ。薬を完成させるための血を抜く、その一瞬を)
闘技場と化した荒野。
猗窩座が、至高の闘気を持つ煉獄を見て、狂喜の笑みを浮かべる。
「いい刃だ。お前、柱だな? 俺は猗窩座。……どうだ、お前も鬼にならないか?」
「俺は炎柱・煉獄杏寿郎。……俺と君とでは、物事の価値基準が違う。俺は如何なる理由があろうとも、鬼にはならない」
煉獄の揺るぎない拒絶に、猗窩座は「そうか」と短く吐き捨て、構えを取った。
「術式展開――破壊殺・羅針」
雪の結晶のような陣が展開され、猗窩座の殺気が極限まで高まる。
「蜜璃殿!!」
煉獄が背後へ向かって叫んだ。
「君は乗客と、後輩たちを全力で守ってくれ!! こいつは、俺が引き受ける!!」
「……っ! はい、煉獄さん!!」
蜜璃が日輪刀を構え直し、炭治郎たちの前に立って防御の陣形を敷く。彼女もまた、マヤから「もし上弦が出た場合は、絶対に無理をせず生存を最優先しろ」と強く言い含められていたのだ。
これにより、乗客と後輩の安全は完全に担保され、煉獄は猗窩座との1対1の死闘に全ての集中を注ぐことができる完璧な構図が成立した。
(俺の役目は、あの鬼の血を抜き取ること……!!)
炭治郎は、マヤから預かった特殊な採血用の小瓶を懐の中で強く握りしめ、二人の強者の激突を瞬きすら忘れて見つめていた。
「鬼にならないなら、殺す」
猗窩座が、地を蹴った。
その初速は、下弦の鬼などとは比べ物にならない。視認することすら困難な、文字通りの神速の踏み込み。
だが、煉獄の瞳は、一切の驚愕を見せなかった。
(……速い。しかし……!)
煉獄の脳裏に、かつて蝶屋敷の裏庭で体験した、マヤの『上弦の弐すら凌駕する踏み込み』の記憶がフラッシュバックする。
あの死を確信した一撃に比べれば。あの、音を置き去りにしたマヤの速度を一度でも肌で感じた今の煉獄にとって、猗窩座の初撃は『対応可能な速度』だった。
「炎の呼吸・壱ノ型――」
煉獄は刀を盾にせず、己の軸をずらして痛みを避ける『いなし』の体捌きで猗窩座の拳の軌道を紙一重で外すと同時に、温存していた日輪刀を真っ向から振り抜いた。
「不知火!!」
激突する炎と拳。
生存と誇りを懸けた、炎柱の真価が問われる死闘の火蓋が、今切って落とされた。