鬼滅の薬   作:マイナーチョコ

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第11話:導き

夜の闇を切り裂くような轟音が、無限列車の脱線した荒野に響き渡っていた。

大地を焦がす炎の渦と、虚空を砕く拳の乱打。

炎柱・煉獄杏寿郎と、上弦の参・猗窩座の死闘は、すでに常人の目には不可視の次元へと突入していた。

 

「素晴らしい! 素晴らしい剣技だ、杏寿郎!」

猗窩座の歓喜に満ちた絶叫が轟く。彼の放つ『破壊殺』の連撃は、一撃一撃が岩盤を粉砕するほどの威力を持っている。

「その練り上げられた至高の闘気、失うにはあまりにも惜しい! 鬼になれ、杏寿郎! そうすれば百でも二百でも、永遠に戦い続けられる!」

 

「俺は鬼にはならない! 老いることも死ぬことも、人間の儚く美しいところだ!」

煉獄は額から鮮血を流し、息を荒げながらも、その瞳の炎をいささかも揺るがせなかった。

『炎の呼吸・伍ノ型・炎虎』が猛然と牙を剥き、猗窩座の拳と激突する。凄まじい衝撃波が周囲の空気を吹き飛ばした。

 

しかし、激しい打ち合いの中で、猗窩座は次第に微かな違和感を覚え始めていた。

(……おかしい。なんだ、この体捌きは……?)

猗窩座の拳が、煉獄の急所を的確に捉えているはずだった。今までの柱たちは、その凄まじい威力を前に、日輪刀を『盾』にして受け止めるか、相打ち覚悟で踏み込んでくるかの二択しかなかった。

だが、目の前の炎柱は違う。

猗窩座の拳が当たるその寸前、ほんの紙一重のタイミングで、煉獄は自らの体の軸を「半歩」ずらしているのだ。

 

(俺の拳の威力が……芯に届いていない!?)

猗窩座の拳が煉獄の体を掠めるたび、確かに肉は裂け、骨は軋んでいる。しかし、致命傷となるはずの決定的な威力が、体を捻るような不可解な軌道によって、すべて『外』へと逃がされているのだ。

 

『杏寿郎、木刀を盾にしていたぞ? 拳と刀で鍔迫り合いはできないだろ』

煉獄の脳裏に、蝶屋敷の裏庭で聞いたマヤの低い声が響いていた。

(マヤ殿の言う通りだ! 頼りの肉体を盾にすれば、いずれ限界が来る! 痛みを避け、威力を殺す!)

蜜璃の重い拳を避け続けた組手。そして、音を置き去りにしたマヤの神速の踏み込み。あれほどの死の恐怖と絶望的な速度を肌に刻み込まれた今の煉獄の体は、『死を避ける本能』を完全に獲得していた。

肋骨にヒビが入り、全身が悲鳴を上げようとも、致命傷だけは絶対に避ける。その究極の『いなし』が、極限の死地で煉獄の命を強靭に繋ぎ止めていた。

 

「ハァァァァッ!!」

煉獄の日輪刀が、猗窩座の腕を切り裂き、再生を上回る速度で炎の太刀筋を刻み込む。

 

「……素晴らしいが、夜が明ける!」

東の空が白み始めていることに気づき、猗窩座の顔に焦りが生じた。これ以上遊んでいる暇はない。一撃で確実にこの男の心臓を破壊しなければならない。

猗窩座は大きく後ろへ跳躍し、極限まで闘気を練り上げた。雪の結晶のような陣が、彼の足元で一際強く輝く。

 

「術式展開――破壊殺・滅式!!」

対する煉獄も、残された全精力を日輪刀に込め、燃え盛る闘気を全身から立ち昇らせた。

「炎の呼吸・奥義――玖ノ型・煉獄!!」

 

大地をえぐるような爆発音と共に、炎の化身と絶技の拳が真正面から激突した。

周囲の土が吹き飛び、視界が真っ白に染まる。

猗窩座の右腕が、煉獄の腹部――みぞおちの急所を正確に捉え、一直線に突き出された。

 

(もらった……!!)

猗窩座が勝利を確信した、その刹那。

煉獄の肉体は、思考よりも先に『極限のいなし』を体現していた。

(死んではならない……!! 俺は生き残って、未来を見るのだ!!)

腹部を貫通するはずだった猗窩座の拳に対し、煉獄は強靭な足腰をバネにして限界まで上体を左へと捻り切った。

 

ドゴォォォンッ!!

「ガ……ァッ……!!」

猗窩座の拳は、煉獄の腹を貫通することはなかった。だが、その凄まじい衝撃は左脇腹の肉を深く抉り取り、煉獄の口から大量の血が吐き出される。

重傷。しかし、即死ではない。

 

同時に、煉獄の渾身の刃が、無防備に伸びきっていた猗窩座の右腕を根元から完全に両断した。

「なっ……!?」

驚愕に見開かれた猗窩座の目。勢いを殺さなかった煉獄の刃は、そのまま深々と猗窩座の頸へと食い込んだ。

「おおおおおおっ!!」

煉獄が咆哮と共に刀に力を込める。頸の骨が軋み、刃が半分まで到達した。

 

「チィッ……!! 朝日が……!!」

木々の隙間から、太陽の眩い光が差し込み始めていた。

猗窩座は恐怖に顔を引き攣らせ、煉獄の刃を力任せに蹴り飛ばして後方へ逃れた。左腕で自身の切断された右腕を拾う余裕すらない。

「うおおおおおおっ!!」

日の光から逃れるため、上弦の参は無様な悲鳴を上げながら、深い森の暗闇の中へと姿を消していった。

 

「……ハァッ……ハァッ……」

荒野に残された煉獄は、日輪刀を杖にして辛うじて立っていたが、やがて力尽きたように片膝をついた。左脇腹からは絶え間なく血が流れ落ちている。

 

「煉獄さん!!」

悲痛な叫びと共に、炭治郎、善逸、伊之助の三人が駆け寄ってきた。

彼らは遠くから見ていることしかできなかった。柱と上弦の次元の違う戦い。そして、今まさに満身創痍で膝をつく炎柱の姿に、善逸はボロボロと涙をこぼし、伊之助は猪頭の下で唇を強く噛み締めていた。

 

「竈門少年……黄色い少年、猪頭の少年も……無事だったか」

煉獄は苦しげな呼吸を繰り返しながらも、三人の無事を確認して太陽のような笑みを浮かべた。

「煉獄さん、喋らないでください! 今、呼吸で血を止める方法を……!」

炭治郎が必死に叫ぶが、煉獄はゆっくりと首を横に振った。

 

「良いんだ。……竈門少年。君が、妹を大事にする思い……それは、大切に持つべきものだ」

煉獄の視線が、炭治郎の背負う木箱へと向けられた。

「かくいう私も……姉弟子や、共に高め合う師匠……お館様と。だんだんと、守るべき大事な者が増えていく。この胸に宿る炎は、誰かを守るためのものだ」

 

血を流しながらも、煉獄の表情は不思議なほどに澄み切っていた。

「竈門少年たちにも……いつか、そんな良い出会いがあるといいな。俺は君たちを信じる。胸を張って生きろ」

「煉獄さん……っ、うぅっ……」

善逸が堪えきれずに泣き崩れ、伊之助も「死ぬなよぉぉっ」と声を震わせる。

 

その涙に包まれながら、煉獄の視界は次第に白く霞んでいった。

薄れゆく意識の向こう側に、懐かしい姿が浮かび上がる。着物姿の母・瑠火であった。

(母上……)

煉獄は心の中で、ずっと問いかけたかった言葉を紡いだ。

(私は、うまくやれただろうか。やるべきこと、果たすべきことを全うできましたか?)

 

幻視の中の母は、ふわりと優しく微笑み、静かに頷いた。

『立派にできましたよ』

 

その言葉に、煉獄の心を満たしていた張り詰めた緊張の糸が、温かく解けていった。

「……そうか」

煉獄杏寿郎は、責務を全うした深い安堵と共に、静かに目を閉じて気絶した。

 

「煉獄さんっ!!」

炭治郎が絶叫する。しかし、すぐに煉獄の胸が微かに上下していることに気づき、「……生きてる。生きてるぞ!!」と涙ながらに叫んだ。

 

その時、炭治郎の脳裏に、出発前にマヤから下された『絶対の使命』が蘇った。

(……そうだ。俺には、やらなきゃいけないことがある……!)

炭治郎は涙を乱暴に拭うと、立ち上がり、地面に転がっている猗窩座の右腕へと駆け寄った。

それは、凄まじい再生力を持った上弦の血の塊だ。炭治郎は懐から特殊な採血用の小瓶を取り出すと、震える手でその腕からドロリとした濃い血を採取した。

(蝶屋敷の皆の希望。……マヤさんから託された、薬を完成させるための血……!)

 

無事に小瓶の蓋を閉めた、その直後だった。

「――よくやった、炭治郎」

背後から、音もなく低く落ち着いた声が降ってきた。

 

「マヤさん!?」

炭治郎が弾かれたように振り返ると、そこにはアゲハ蝶の陣羽織を纏ったマヤが、静かに立っていた。

「いつからそこに……!? どうして、助太刀してくれなかったんですか! マヤさんがいれば、煉獄さんはあんな怪我を……!」

驚きと、ほんの少しの責めるような戸惑いを込めて叫ぶ炭治郎から、マヤは血の小瓶を静かに受け取った。

遠くで気絶している煉獄は、マヤが来ていたことに気づいていない。

 

「……俺は手を出さない。お前は、あの男の背中をしっかり見守ってやれ」

マヤは、朝日に照らされながらも倒れることなく膝をついている煉獄へ、深い敬意を込めた視線を向けた。

「自らの力で死地を乗り越え、生存を果たしたあの姿こそが……お前たちの最大の糧になる。あいつの誇りを、俺が奪うわけにはいかねえからな」

 

その言葉の重みに、炭治郎はハッと息を呑んだ。

助けることは簡単だ。しかし、それでは彼らが本当の意味で強くなる機会を永遠に奪ってしまう。マヤは、ただの助っ人ではなく、未来を担う者たちを育てる『師』としての覚悟を持って、この戦いを最後まで見守っていたのだ。

 

「マヤさん……っ!」

そこへ、後方で乗客の護衛を終えた蜜璃が、泣きそうな顔で駆け寄ってきた。

「蜜璃」

マヤは振り返ると同時に、飛び込んできた蜜璃の体を太い腕で強く、きつく抱きしめた。

「無事でよかった。……本当は、お前をこんな死地に行かせたくなんてなかったんだ」

大黒柱としての、包み隠さぬ素直な本音。

 

「うぅっ……マヤさぁん……っ」

蜜璃はマヤの分厚い胸板に顔を埋めて泣きじゃくり、やがて顔を上げると、感極まったように背伸びをして、マヤの唇に深くキスをした。

「夢みたい……っ。マヤさんが、そんなこと言ってくれるなんて……」

「馬鹿野郎、お前は俺の大事な嫁だろうが」

 

戦場に突如として展開された、極めて甘く、成熟した大人の夫婦の空間。

「……す、すげぇ空間だ……」

善逸が引き攣った顔で呟く。死線を超えた直後の極度の緊張と緩和も相まって、後輩三人組はドン引きしつつも、「まー、あの人たち夫婦だしな……」と妙に納得してその光景を見守るしかなかった。

 

「……蜜璃、杏寿郎たちの応急処置と隠への連絡、後は頼んだぞ」

マヤは蜜璃の額にもう一度軽くキスを落とすと、静かに身を翻した。

「マヤさん、どこへ……?」

「ちょっと、逃げたネズミに説教してくる」

マヤはそう言い残し、猗窩座が逃げ込んだ深い森の方角へと、単独で歩みを進めていった。

 

***

 

太陽の光が一切届かない、森の奥深くの洞窟。

猗窩座は暗闇の中に身を潜め、失った右腕を忌々しげに見つめながら、怒りに全身を震わせていた。

(あの炎柱……! あと一歩で心臓を穿てたというのに、妙な体捌きで威力を逃しやがった……!)

 

「よう、お疲れ。杏寿郎は強かったろ?」

突然、洞窟の入り口から声が響いた。

猗窩座が弾かれたように顔を上げると、陽の当たる場所に、巨大な男が平然と立ってこちらを見下ろしていた。

 

「誰だ貴様は……!? お前には関係ない、殺すぞ!」

猗窩座が殺気を放つが、マヤは微塵も動じない。ただ、ひどく冷徹に、絶対的な事実を突きつけた。

「しかし、最後はなんで逃げたのかな? ……今、お前はそこから一歩も出られないだろ? 日差しというデカすぎる弱点のせいで」

 

「黙れッ!!」

「鬼になれば最強だと杏寿郎を説得してたが、今、その最強はコソコソと暗闇に逃げ込んだ。仮に杏寿郎が死んでいたとしても、お前が逃げた時点で『お前の負け』だ。違うか?」

マヤの言葉は、猗窩座の戦士としてのプライドを容赦なく抉った。

「安全な日向から言って狡いってのは無しな? お前が自分で選んだ弱点なんだからよ」

 

「貴様ァァァッ!!」

猗窩座が飛び出そうとするが、洞窟の境界線に引かれた陽光の線が、彼を物理的に縛り付けていた。

 

「お前がなんで鬼になったのかは知らんが……やり直すチャンスはあるぞ。俺が相談に乗ってやる。興味があれば、俺を探せ」

マヤが、淡々と告げる。

その『やり直す』という言葉に、猗窩座の脳裏で何かが弾けた。

 

「チャンスだと!? 舐めるな!! あいつは……あいつはもう戻ってこないんだぞ!!」

激昂のままに叫んだ猗窩座は、直後にハッとして動きを止めた。

(あいつ……? あいつって……誰のことなんだ……!?)

彼の記憶には、誰もいないはずだった。ただ強さを求め、戦い続けるだけの存在。それなのに、今の言葉はどこから出た? 誰を思って、胸の奥がこんなにも悲しく締め付けられている?

 

困惑し、頭を抱える猗窩座に対し、マヤは肩を竦めた。

「……鬼の血のせいだな。記憶が曖昧になるんだよ。何か大事なものを忘れてるんじゃないか?」

「お前は……いったい何者なんだ……っ」

「俺は鬼殺隊じゃない。人間も鬼も、救える奴は救う『日常柱』ってとこかね? まぁ今は、胡蝶家の大黒柱になったけどな。……気が向いたら、相談に来い」

 

マヤはそれだけを言い残し、眩い光の中へと背を向けて去っていった。

暗闇に取り残された猗窩座は、右腕の再生も忘れ、己の内に空いた底知れぬ空洞に怯えるように、ただ立ち尽くしていた。

(あいつとは……誰なんだ……)

 

***

 

それから数日後。

無限列車での激闘を生き抜いた全員が、蝶屋敷へと搬送された。

乗客の被害ゼロ。そして何より、炎柱・煉獄杏寿郎を含む全員生存という、鬼殺隊の歴史に残る奇跡の帰還であった。ここから彼らは、約四ヶ月に及ぶ合同の静養とリハビリ期間に入ることになる。

 

蝶屋敷の玄関先。

帰還したマヤを待ち構えていたのは、腕を組み、柳眉を逆立てた本妻・胡蝶しのぶであった。

「また勝手にどこかに行ったそうですね、旦那様! 蜜璃から聞きましたよ。私たちがどれだけ心配していたか……!」

「悪い悪い。ちょっと野暮用でな」

 

怒るしのぶの後ろで、カナエと珠世も心配そうに息を吐いている。

マヤは苦笑しながら、懐から一つの小瓶を取り出した。

 

「だが、こいつは手に入れてきたぜ」

 

朝日に透かされた小瓶の中で、赤黒く濃密な血が揺らめいた。

それを見た瞬間、しのぶと珠世の顔色が劇的に変わった。圧倒的な生命力と呪いの濃度を秘めた、上弦の参の血。

 

「これは……!」

珠世の声が震える。

「ああ。炭治郎がしっかり仕事をしてくれた」

マヤが小瓶をしのぶの手へと渡す。その手は、未来への確かな希望を託すように温かかった。

 

「これで……完成版の薬ができるな。しのぶ、珠世」

 

しのぶは小瓶を両手で包み込み、珠世と顔を見合わせて、静かに、しかし力強く頷いた。

大正の世を覆う深い夜の闇を打ち払い、愛する者たちとの日常を取り戻すための、最後の希望のピースが今、胡蝶家の手の中に揃ったのである。

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