無限列車での死闘から数日後。
秋が深まり、木枯らしが吹き始めた蝶屋敷の庭に、今日も騒がしい声が響き渡っていた。
「うむ! 今日も飯がうまい! さすがは蝶屋敷の食事だ!」
「煉獄さんっ! まだ左脇腹の傷が完全に塞がっていないんですから、急に立ち上がって大声を出さないでください! 傷が開きますよ!」
病室から響く炎柱・煉獄杏寿郎の快活な声と、それを必死に制止する神崎アオイの怒声。
死の淵から生還した煉獄は、搬送されてからわずか数日で驚異的な回復力を見せ、すでにベッドの上であぐらをかいて牛鍋弁当を平らげていた。
「はははっ、すまないアオイ少女! だが、俺の体は戦いを求めてうずうずしている! 早くマヤ殿や甘露寺殿と手合わせがしたくてたまらんのだ!」
「絶対安静です! しのぶ様にお薬を増やしてもらいますからね!」
その賑やかなやり取りを、隣のベッドから炭治郎、善逸、伊之助の三人が、全身を包帯で巻かれた状態で見守っていた。
「……煉獄さん、本当に無事でよかったなぁ」
炭治郎が、安堵の涙を浮かべながら天井を見上げる。
上弦の参という、次元の違う絶望的な強者。あの極限の死地において、煉獄は己の肉体を盾にせず、マヤから教わった『いなし』の理合いを本能で体現し、見事に死の運命を回避したのだ。
「全くだぜ……。あんなバケモノ相手に生き残るなんて、柱ってのは本当にとんでもねえな……」
善逸も深く息を吐き出し、伊之助は「ギョロギョロ目玉、すげえぜ……俺も負けてられねえ……」と布団の中で拳を握りしめていた。
「お前らも、よく生きて帰ってきたな」
ふと、病室の襖が開き、アゲハ蝶の陣羽織を羽織ったマヤが顔を出した。その手には、薪割りのための巨大な斧が握られている。
「マヤさん!」
炭治郎たちが一斉に顔を輝かせた。
「杏寿郎。あまりアオイたちを困らせるなよ。お前のその傷、あと数ミリ深かったら内臓がいかれてたんだからな。……今はしっかり休むのが、お前の仕事だ」
マヤが落ち着いた大人の声でたしなめると、煉獄は「うむ! マヤ殿がそう言うのなら、大人しくしていよう!」と素直に頷き、布団を被った。
「さて、と。俺は裏庭の冬支度があるから行くぞ。お前らも、しっかり飯食って治せよ」
マヤが踵を返して廊下を歩き出すと、パタパタという軽い足音と共に、桜餅色の髪を揺らした蜜璃が背後から勢いよく抱きついた。
「マヤさぁん! お疲れ様ですぅ! 私も薪割り手伝いますっ!」
「お、蜜璃。いいのか? 非番なら休んでてもいいんだぞ」
マヤは斧を持ったまま、空いているもう片方の腕で極めて自然に蜜璃の腰を抱き寄せ、その柔らかい髪に軽く口付けを落とした。
「えへへぇ……マヤさんと一緒にいたいですから!」
そこへ、洗濯物の籠を抱えたカナエが通りかかり、ふわりと微笑んだ。
「ふふ、蜜璃ちゃんは本当にマヤくんのことが大好きね。マヤくん、力仕事が終わったら、縁側でお茶にしましょうね」
「ああ、頼むよカナエ」
マヤがカナエの頬を優しく撫でると、カナエは愛おしそうに目を細めてマヤの太い腕にすり寄った。
病室の中からその光景を覗き見ていた善逸が、シーツをギリギリと噛み締めながら血の涙を流していた。
「なんで……なんで死線を越えて帰ってきたのに、またあの空間を見せつけられなきゃならねえんだよォォォッ! 大正の甲斐性、恐るべしィィィッ!!」
「善逸、静かにしろって! 傷が開くぞ!」
***
それから、季節は厳しい冬を越え、雪解けの春を迎えるまでの四ヶ月間。
蝶屋敷では、傷の癒えた炭治郎たちと煉獄による、地獄のような特訓の日々が続いていた。
「そこだっ!!」
道場に、木刀が激しく打ち据えられる音が響く。
炭治郎、善逸、伊之助の三人がかりで打ち込む剣撃を、煉獄は木刀一本で、淀みなく受け流していく。
「まだまだ動きが硬いぞ、竈門少年! 攻撃の瞬間に息が止まっている! 常に全身に酸素を巡らせ、流れるように動くのだ!」
死線を超えた煉獄の動きは、以前とは比べ物にならないほど洗練されていた。マヤの指導と猗窩座戦の経験を経て、彼の『炎の呼吸』には、攻撃の激しさに加えて、風のように相手の力を逃がす『いなし』の理合いが完全に融合していた。
「くっ……すごい……! 煉獄さんの太刀筋が、前よりずっと柔らかくて……でも、重い!」
炭治郎は息を弾ませながらも、その圧倒的な背中から一つでも多くのことを吸収しようと、必死に食らいついていく。
道場の隅では、カナヲが静かに彼らの動きを見つめ、「……炭治郎、少し踏み込みが深すぎる」と的確なアドバイスを飛ばしていた。
「よし、今日はここまで!」
縁側で腕を組んで見ていたマヤが声をかけると、三人は床にへたり込み、煉獄は爽やかな汗を拭って「うむ! 良い汗をかいた!」と笑った。
「杏寿郎、体の具合はどうだ?」
マヤが手ぬぐいを投げ渡しながら問う。
「完璧だ! 左脇腹の違和感も全くない! しのぶ殿の治療と、貴方から教わった生存の理合いのおかげだ! 今なら、上弦ともさらに良い戦いができる自信がある!」
その迷いのない炎の瞳に、マヤは満足げに頷いた。
(……ああ。お前たちは、確実に強くなっている)
マヤは道場で大の字になって息を切らす炭治郎たちを見つめた。
地下の隔離施設では、悲鳴嶼の元で累と陽子が完全に人間の食事に慣れ、穏やかな心を取り戻しつつある。そして珠世としのぶは、猗窩座の血を使った『人間帰りの薬・完成版』の開発も最終段階に入っていた。
(俺の守るべき日常は、今、確実にここにある。だが……)
マヤは、東の空を見上げた。鬼の始祖、鬼舞辻無惨。奴が生きている限り、この平穏が永遠に続くことはない。
***
そして、桜の蕾が膨らみ始めたある日のこと。
蝶屋敷の静寂は、突如として破られた。
「おいおいおい! 地味に過ごしてんじゃねえぞ、お前ら! 派手に行くぜ!」
中庭に、宝石を散りばめた額当てと、筋骨隆々の巨体を揺らして、音柱・宇髄天元が現れたのだ。
「キャァァァッ! 何するんですか、離してください!」
宇髄は、アオイとなほを小脇に抱え込み、そのまま屋敷の外へ連れ出そうとしていた。
「俺の任務に、女の手が必要なんだよ! こいつらは俺が連れて行く!」
「アオイさんたちを離せェェェッ!!」
道場から飛び出してきた炭治郎が、猛然と宇髄に頭突きを見舞おうと飛びかかる。しかし、宇髄はヒラリとそれを躱した。
「痛っ……! なんだアンタ! 蝶屋敷の女の子たちを無理やり連れて行くなんて、許さないぞ!」
「あぁ? 俺は柱だぞ! 任務のための徴用だ!」
一触即発の空気が流れた、その時。
「……天元。俺の大事な家族(アオイたち)に、ずいぶんと派手な真似をしてくれるじゃねえか」
低い、地鳴りのような声と共に、洗濯物の籠を片手で持ったマヤが姿を現した。
その圧倒的な質量と、怒りを孕んだ静かなプレッシャーに、宇髄でさえ一瞬、ヒッと息を呑んで後ずさった。
「マ、マヤの旦那……! いや、こりゃあ俺の嫁たちが任務先で連絡が途絶えちまって、どうしても女の潜入要員が必要で……!」
宇髄はマヤの武力と、お館様からの信頼を知っている。決して逆らってはいけない相手だと本能で理解していた。
「なら、俺たちが行きます!」
炭治郎が、アオイを庇うように前に出た。善逸と伊之助も、その両脇に並び立つ。
「俺たちなら、戦えます! アオイさんたちの代わりに、俺たちを連れて行ってください!」
「はぁ!? お前ら男だろうが! 俺が行くのは『遊郭』だぞ!」
「女装くらい、気合いでなんとかします!」
炭治郎の真っ直ぐすぎる瞳に、宇髄は毒気を抜かれたようにため息をついた。
「……チッ、分かったよ。使えなかったら即刻置いていくからな!」
宇髄がアオイたちを解放すると、炭治郎たちはホッと胸を撫で下ろした。
マヤは洗濯籠を置き、炭治郎たちの元へ歩み寄った。
「……遊郭か。女が消えるなら、間違いなく鬼の仕業だ。しかも、天元の嫁たちの足取りが掴めねえとなると……ただの鬼じゃねえな」
マヤの言葉に、場に緊張感が走る。
「上弦が、いるかもしれないってことですか……?」
炭治郎がゴクリと喉を鳴らす。
「ああ。……だが、お前らならやれる」
マヤは大きな手で、炭治郎の頭をポンと叩いた。
「この四ヶ月、杏寿郎の背中を見て、死ぬ気で鍛え上げてきたんだ。自信を持て」
「マヤさん……!」
「俺も、裏から医療班として同行する。……だが、俺は戦いには手を出さねえ。天元、お前がこいつらをしっかり率いて、ド派手に勝ってこい」
「……へっ、言われなくてもそのつもりだぜ!」
宇髄が不敵に笑い、日輪刀の柄を鳴らした。
蝶屋敷で培った四ヶ月の絆と力を胸に秘め、炭治郎たちは、夜の闇に浮かぶ欲望の街『吉原遊郭』へと向けて、新たな一歩を踏み出した。