吉原遊郭。欲望と嘘が渦巻く極彩色の夜の街に、三人の「不細工な遊女」が潜入していた。
顔に白粉を厚塗りし、不格好な着物姿で各見世に潜り込んだ炭子(炭治郎)、善子(善逸)、猪子(伊之助)。音柱・宇髄天元の嫁たちを捜索するため、彼らは慣れない女装で裏仕事をこなしていたが、その地道な捜索はついに実を結ぶ。
「……見つけたぞ。お前が、この街に巣食う鬼だな」
京極屋の奥座敷。炭治郎は女装を解き、日輪刀を抜いて上弦の陸・堕姫と対峙した。
「不細工な小童が。アタシの邪魔をする奴は、みんな喰ってあげるわ」
堕姫の背中から、意志を持つ生き物のように無数の『帯』がうねり、四方八方から炭治郎へと襲いかかる。
「水の呼吸……!」
かつての炭治郎であれば、その凄まじい速度と鋭さを持つ帯の連撃を前に、刀を盾にして防ごうとし、数秒で刀を折られて殺されていただろう。
だが、今の彼は違う。蝶屋敷での四ヶ月間、煉獄の背中を追い、マヤから死ぬ気で叩き込まれた『いなし』の理合いが体に染み込んでいる。
シュンッ!!
炭治郎は刀で帯を「受ける」のではなく、帯の側面に刃を滑らせ、自らの体の軸を半歩ずらして威力を完全に外へ逃がした。
「俺の刀は、盾じゃない……!!」
いなした勢いをそのまま踏み込みの推進力に変え、堕姫の懐へと肉薄する。そこへ、壁をぶち破って猪頭を被った伊之助と、眠ったまま居合いの構えをとる善逸が合流した。
「猪突猛進!! 斬り裂いてやるぜミミズ女!」
「雷の呼吸・壱ノ型――霹靂一閃」
三人の息の合った連携攻撃。常中を会得し、格段に底上げされた彼らの身体能力と技術が、上弦の鬼を確実に削っていく。
「ふざけるなァァッ!! どいつもこいつもアタシを舐めて!!」
堕姫が激昂し、帯の速度がさらに一段階上がったその時。
天井がド派手に吹き飛び、大量の瓦礫と共に音柱・宇髄天元が舞い降りた。
「音の呼吸・壱ノ型――轟」
爆音と閃光。宇髄の巨大な双剣が、堕姫の頸をいとも容易く斬り飛ばした。
「よォ、派手にやってるじゃねえか。お前ら、よくやったぜ」
宇髄が双剣を肩に担ぎ、ニヤリと笑う。あまりにもあっけない上弦の最期に、炭治郎たちは一瞬唖然とした。
だが、頸を落とされた堕姫の肉体は崩壊しなかった。
「アァァァァッ! 首がァッ! 首が落ちたァァッ!!」
生首のまま、堕姫が子供のようにギャンギャンと泣き喚き始める。
「お兄ちゃああんっ!! アタシの首が斬られたあぁぁぁっ!!」
その泣き声に呼応するように、堕姫の背中から、ドロリとおぞましい肉の塊が這い出してきた。
「……泣いてるじゃねえか。俺の可愛い妹がよォ」
現れたのは、骨と皮ばかりの異形の鬼――真の上弦の陸、妓夫太郎。
その圧倒的で禍々しい闘気に、宇髄の背筋に悪寒が走る。
「死ねやァ!!」
妓夫太郎が両手に持った血鎌を振るう。視認すら困難な斬撃。宇髄は咄嗟に炭治郎たちを庇いながら双剣で受け止めるが、刃の隙間をすり抜けた鎌の先端が、宇髄の額を浅く切り裂いた。
「チッ……!」
宇髄は距離を取るが、すぐに己の体の異変に気づいた。視界が歪み、心臓が異常な早鐘を打つ。
(毒か……! しかも、掠っただけでこれほどの猛毒……俺の忍としての耐性すら超えてやがる!)
少しでも戦闘が長引けば、毒が全身に回り確実に死ぬ。自分の命が尽きる前に、この底知れない力を持つ二体の鬼の頸を同時に落とさなければならない。
(俺がやらなきゃならねえ……! このド派手なバケモノどもを、俺が今すぐ……!)
宇髄の額に冷や汗が浮かび、双剣を握る手に焦りの力がこもる。毒への恐怖と、柱としての責任感が、彼の冷静な思考を奪い、無謀な特攻へと駆り立てようとした。
「――焦るな、天元。焦れば事を損じる。あんた、忍だろ?」
喧騒の中、遊郭の暗闇に溶け込むような低い声が、宇髄の耳に直接届いた。
ハッとして視線を向けると、離れた屋根の陰に、アタッシュケースを持ったマヤが静かに立っていた。気配を完全に殺し、医療班として後方から戦況を見極めていたのだ。
「お館様からは、すでに後方支援が手配されている。しのぶも、蜜璃も、杏寿郎も周辺で控えてるんだ。お前は少し、先走りすぎてるんだよ」
マヤのその落ち着き払った声に、宇髄の心を満たしていた死への焦燥がスッと引いていく。
(……チッ。ド派手に過保護な組織になったもんだぜ。分かったよ、冷静にいく)
宇髄が呼吸を整え直した、その瞬間だった。
背負っていた木箱の扉が弾け飛び、禰豆子が戦場へと躍り出た。
彼女の身体に、赤と緑の葉の紋様が浮かび上がる。妓夫太郎が放った無数の血の斬撃に対し、禰豆子は自らの血を空中に撒き散らした。
「爆血!!」
眩いピンク色の炎が、夜空を焦がすように燃え盛る。
その炎は、不思議なことに炭治郎たちや建物を一切傷つけることなく、妓夫太郎の血鬼術による血の斬撃だけを綺麗に燃やし尽くした。
さらに、炎の熱波が宇髄の体を包み込んだ瞬間、彼の体内に回っていた猛毒が嘘のように蒸発し、完全に浄化されたのだ。
「なんだこの女の炎は……! 俺の毒を、血鬼術を燃やしやがった!」
妓夫太郎が驚愕に見開いた目を向ける。禰豆子の炎が堕姫へと迫るのを見た妓夫太郎は、自らの体が焼かれることも厭わず、凄まじい執念で妹の前に飛び出し、その身を呈して炎を弾き飛ばした。
「梅に……俺の妹に触んじゃねえェェッ!!」
皮膚を焦がしながらも、妹を守るために必死に血鎌を構える妓夫太郎。
その痛々しいほどの悲壮感と、妹への深い愛情。彼らは人を喰う鬼でありながら、互いを守り抜くというその一点においてのみ、極限の人間らしさを保っていた。
毒を克服した宇髄、そして常中を維持する炭治郎たちの連携により、戦場は完全に膠着状態へと突入する。
「女の方(堕姫)は、俺と金髪と猪で引き受ける! 竈門、お前らはそっちを頼む!」
宇髄が戦場を分断し、堕姫を遠くの屋根へと引き離していく。
取り残された屋根の上。
マヤ、炭治郎、そして木箱から出た禰豆子の三人が、血鎌を持つ妓夫太郎と対峙した。
少し離れた屋根の陰から、密かに事態を見守っていたしのぶは、思わず両手を握り合わせて祈った。
(マヤさん、戦わないで……。貴方は、最前線で血を流して戦ってはいけない人だ。縁側で、のほほんとお茶を飲んで笑っていてほしいのに……)
そんな妻の祈りを知ってか知らずか。
マヤは巨大な斧も木刀も構えることなく、だらりと両手を下げた自然体のまま、妓夫太郎へと気さくに話しかけた。
「おい、あんたが親玉かい?」
「親玉とかじゃねえ……。俺はあいつの兄だ。あいつを泣かすやつは、絶対に許さねえ……」
妓夫太郎が、ギリリと歯を鳴らして血鎌を構える。
「そうかい。妹の笑顔を失いたくないってことだな」
マヤは、ふっと穏やかに笑った。
「俺もよ。女の涙は嫌いなんだ。お前とは馬が合いそうだな」
「……何笑ってやがるんだ? お前、この状況でよ」
妓夫太郎の瞳に、困惑と怒りが混じる。
「楽しい時に笑う。人として当たり前だろ? お前たちだって、笑うだろうが」
「何が楽しいんだよ! 俺たちを嘲笑ってんのかよ!」
「卑屈になるなよ、お兄ちゃん。……妹、助けたくないか?」
その言葉に、妓夫太郎の動きがピタリと止まった。
炭治郎がハッとしてマヤを見る。
「少年。あの兄妹、助けたくないか? 俺はよ……お前たち兄妹とあいつらが、ダブって見えて仕方ないんだわ」
マヤはそう言いながら、傍らに立つ禰豆子の頭をポンと優しく撫でた。
「ならよ。最期まで足掻こうや。……まだ、手札はある」
禰豆子が、不思議そうにマヤを見上げる。
「なぁ禰豆子。お前もそう思うよな? 一歩間違えれば、お前の兄ちゃんもあーなってたんだよ」
禰豆子は目を大きく見開き、「ムームー」と短く唸って深く頷いた。
「そうだよな。禰豆子、わかるぞ」
「マヤさん……禰豆子の言ってること、わかるんですか?」
「女が何言ってるかなんてのはよ、目を見れば一発よ。目は口ほどに物を言うもんさ」
マヤは視線を、固まっている妓夫太郎へと戻した。
「なぁ、お兄ちゃんよ。お前も、妹の目を見ればだいたいわかるだろ? 嬉しいのか、悲しいのか。……それと一緒だ」
妓夫太郎は、ハッとした。
(なんだ……? なんで俺は、斬りかからずにこいつの話を聞いて、しかも納得してんだ……?)
毒を放ち、肉を削ぎ落とすべき敵。しかし目の前の巨漢からは、殺気も、蔑みも、そして同情すらも一切感じられない。ただ、同じ『兄』としての対等な目線だけがあった。
「……だからって、俺たちは……」
妓夫太郎の口から、無意識のうちに過去がこぼれ落ちていた。
江戸の遊郭の最底辺、羅生門河岸のあばら家で生まれたこと。器量良しだった梅(堕姫)が、侍の目玉を突いて生きたまま焼かれたこと。そして、妹を抱いて雪の中を彷徨い、復讐として人間を殺し、鬼になったこと……。
溜まりに溜まった泥のような恨み言を、痰を吐き出すように語り終えた妓夫太郎。
「そうかい」
マヤは深く頷き、夜空を見上げた。
「ならよ。妹を救って、お天道様に挨拶してやらねーとな。『よくもこんな人生にしやがって! でもな、またお前を拝んでやったぜ』ってな」
妓夫太郎の目が、限界まで見開かれた。
炭治郎も、マヤの圧倒的な肯定の言葉に、胸が熱くなり言葉を失う。
「……だが、今更遅い! 俺たちはもう、何人も人を喰っちまってるんだよ!」
「それは、仕方ないだろ?」
マヤはあっさりと返した。
「食いたくて食べたわけじゃない。あの狂った時代で『生きる為』に、ただそれが必要だっただけだ。飢餓の回避の仕方も知らない奴ばかりだった。それに……お前達は、まだ子供だったんだろうがよ」
「……っ、そんなものは、ただの方便だろうがよ!!」
妓夫太郎が叫ぶ。
「なら、兄ちゃん。……なんで今、戦わない?」
マヤの声が、夜風の中で静かに響いた。
「すぐ斬りに来てもよかったんだぞ。だが、お前はそうはしなかった。俺の話を聞いた。迷った。……もう一度やり直せる、明日を模索した。悪い方向に妹を行かせたくないと、お前の本能が抗ったんだ。……お前はまだ、悪い方向には行ってねえんだよ、兄ちゃん」
妓夫太郎は、完全に沈黙した。
血鎌を持つ手が、微かに震えている。
(戦わないで済むのか……?)炭治郎が固唾を呑む。(でも、本当にそんなことが……)
「……そうなったら良いな? 本当によ。だが、そんなこと出来るわけねえだろうが!」
妓夫太郎が苦しげに絞り出す。
炭治郎が不安げに禰豆子を見た、その時だった。
マヤが、やれやれと肩をすくめた。
「出来るさ。そうだな……その妹、俺が嫁にしても良いぞ?」
「…………は?」
妓夫太郎の動きが止まった。
「お、お前……何を言ってやがるんだよ!! 結局、妹を物扱いかァァッ!?」
炭治郎もパニックになった。
(マ、マヤさん、何を言ってるんですか!? もしかして、禰豆子も……いや、それはそれで、って僕は一体何を!?)
隣では、禰豆子が「ムームーッ!!」と少し怒ったようにマヤの陣羽織を引っ張っている。
「すまんすまん、俺の悪い癖だな。言葉足らずだと、すぐに嫁さんに怒られる」
マヤが笑った瞬間。
「……貴方、こんな緊迫した状況で何を言ってるんですか?」
屋根の縁に、音もなく胡蝶しのぶが降り立った。
ニコニコと青筋を浮かべた本妻の登場に、炭治郎は(あ〜、しのぶさん来ちゃいましたよ!?)と頭を抱える。
「よく来てくれた、しのぶ。紹介するよ兄ちゃん。お前達兄妹を救える、最高の女性のお出ましだ」
「お嫁どうこうは後でにしてください。話がややこしくなるんですよ、まったく」
しのぶはため息をつきつつも、状況を一瞬で把握していた。(マヤさんが、血を流さずにこの鬼を説得してくれたのですね……)
マヤは真剣な眼差しに戻り、妓夫太郎を見据えた。
「兄ちゃん。妹を呼んで、二人仲良く新しい人生を歩んでみる気はないか? そのカギはもう、お前に渡してある。そのカギは……お前が俺を信じるかどうかだ。判断しろ」
「鬼になって何百年だと思ってやがるんだ!! 無理だろ、そんなの!!」
「無理じゃない。俺を信じろ。……妹も呼ぶか? 俺としては、まず兄ちゃんに決めてほしいわけよ。長男だろ?」
少しの間を置き、マヤは最も深い言葉を投げかけた。
「いいか。兄ちゃんが妹の幸せを願ってるのはわかってる。人を信じられないのもわかる。……だが、今、俺はお前を倒せるだけの時間と猶予があった。だがお前は生きているし、話をしている。それが答えなんじゃないか? ……妹の笑顔を、もう一度見たいだろ?」
妓夫太郎から、力が抜けた。
血鎌が屋根瓦の上に転がり落ち、彼は深くうなだれた。
「……おい!!!」
マヤが突然、夜空に向かって怒鳴り声を上げた。
「天元!! 妹をこっちによこせ!! 兄は俺が預かった!!」
『……ハッ、意味わかんねえが、そういうことなら任せとけ!!』
遠くの屋根から宇髄の笑い声が響いたかと思うと、ドサァッ!と、帯で縛り上げられた堕姫がマヤたちの目の前に放り投げられた。
「お兄ちゃん!!! 何なのよこれ、何してんの!!」
「よう、べっぴんさん」
マヤが堕姫を見下ろして笑う。
「お兄ちゃんと話し合いをして、お前の笑顔を守る事に決めたんだわ。戦闘は終わりだ」
「梅……戦闘は終わりだ。俺は、こいつを信じる事にした」
妓夫太郎の静かな言葉に、堕姫は目を丸くした。
「はぁ!? 意味わかんないんだけど!!」
「しのぶ、例のものを」
「……はい」
しのぶがアタッシュケースを開き、太い注射器を取り出してマヤに渡した。
「梅っていうのか。色々な意味があるが、梅の花は綺麗だし、梅干しはうまいし、良い意味もたくさんある名前じゃないか。よろしくな」
「アンタ、いかれてるの!?」
「これは手厳しい。よく言われるわ。……まずは兄ちゃんからだ。少し、チクッとするぞ」
「梅、見てろ。俺はこいつを信じた」
妓夫太郎が、自ら震える腕を差し出した。
マヤが躊躇いなく注射器を突き立てる。
「ガァァァァッ……!!」
直後、妓夫太郎が激しくもがき苦しみ始めた。猗窩座の血を元に作られた『完成品の試作(β版)』が、彼の細胞を劇的に書き換え始めているのだ。
「耐えろ。それが明日への道だ。……梅、お前にも打つぞ」
「お兄ちゃん!? ねぇ、お兄ちゃんは大丈夫なの!?」
「問題ない。腕借りるぞ」
呆気にとられている堕姫の腕に、マヤは手早く注射を打った。
「あぁぁぁぁっ!!」
堕姫もまた、苦鳴を上げて瓦の上に倒れ込む。
マヤは静かに目を閉じ、全神経を研ぎ澄ませた。
(……来ないな)
鬼が人間に戻る薬を打たれた。通常であれば、無惨が遠隔で呪いを発動し、細胞を破壊して殺すはずだ。
しかし、遊郭の周辺にマヤがいることを察知した無惨は、かつて受けた『繋がりを逆探知される恐怖』に怯え、呪いを発動するどころか、自ら彼らとの通信を完全に切断し、見捨てたのだ。
「……これで良い。あとは経過観測だ」
マヤが息を吐くと、しのぶが冷ややかな目でマヤを見た。
「先ほどの『嫁にする』という件は、屋敷に戻ってからたっぷり家族会議ですからね」
「……善処します」
炭治郎は、人間の姿へと戻りつつある兄妹を見て、ボロボロと涙を溢れさせた。
「救えたのか……? よかった……本当によかった……っ」
禰豆子も、嬉しそうに炭治郎に抱きつく。
「ド派手にやりやがったな!!」
後方から、無傷の宇髄が善逸や伊之助と共に駆けつけてきた。
「さすがだぜ旦那! あんたのおかげで、うちの嫁さんたちも全員無事に見つかったぞ!」
大正の夜を彩る遊郭の惨劇は、誰一人欠けることなく、そして罪を背負った兄妹の魂すらも救済するという、かつてない完全な形での決着を迎えた。