吉原遊郭での死闘から、約二ヶ月の月日が流れた。
厳しい冬の寒さが和らぎ、蝶屋敷の庭には暖かな春の陽射しが降り注いでいる。しかし、柔らかな季節の訪れとは裏腹に、屋敷の道場からは凄まじい剣戟の音と男たちの荒々しい息遣いが絶え間なく響き渡っていた。
「まだまだ踏み込みが甘いよ、炭治郎!」
凛とした、しかしどこまでも優しく響く少女の声。
「くっ……! 速い……っ!」
炭治郎、善逸、伊之助の三人がかりによる猛攻。それを単身で、しかも息一つ乱さずに捌いているのは、栗花落カナヲだった。
彼女は蝶のように軽やかに宙を舞い、三人の木刀を滑るようにいなしていく。マヤ一家の四人の天才――マヤの身体操作と絶対的な体術、カナエの花の呼吸、しのぶの的確な急所把握、蜜璃の柔軟性――そのすべての技術を英才教育として叩き込まれたカナヲの実力は、すでに柱に匹敵する領域に達していた。
「雷の呼吸・壱ノ型――ッ!」
善逸が神速の踏み込みで背後から迫るが、カナヲは背中越しに気配を察知し、全く力むことなく体の軸を半歩ずらした。
「えっ!?」
空を切った善逸の足元を、カナヲの滑らかな足払いがすくう。
「猪突猛進!!」
すかさず伊之助が頭上から斬りかかるが、カナヲはふわりと微笑みながら、木刀の腹で伊之助の力を受け流し、そのまま円を描くように彼を道場の畳へと投げ飛ばした。
「二人とも、直線的すぎるよ。マヤさんに教わった『いなし』の理合い、もっと体を柔らかく使わなきゃ」
カナヲがコロコロと鈴を転がすように笑う。その屈託のない笑顔と、同年代の仲間を気遣う優しい眼差しに、炭治郎は床に膝をつきながらも思わず目を奪われていた。
(……すごい。強くて、優しくて……それに……)
春風に揺れるサイドテールの髪。汗ばんだ白い肌。彼女のふとした仕草や柔らかい声が耳に届くたび、炭治郎の胸の奥でドクン、と大きな音が鳴る。
「炭治郎? 大丈夫? どこか痛めた?」
カナヲが心配そうに顔を覗き込んできた。その顔が近すぎて、炭治郎はボフッ!と顔を真っ赤にして後ずさった。
「だ、だいじょうぶ!! 全然平気だぞ! カナヲは本当にすごいなぁ! 綺麗だし、強いし!」
「ふふ、ありがとう。でも、実戦はこんなもんじゃないからね。さぁ、もう一本いこう!」
炭治郎は(俺は一体何を言ってるんだ!?)と内心で頭を抱えながらも、彼女の魅力と、越えられない絶対的な『壁』としての実力に、どうしようもなく惹きつけられていくのを感じていた。
***
時を同じくして、蝶屋敷の広い裏庭では、さらに次元の違う極限の武術が交差していた。
「いきますよぉぉっ! 煉獄さん!」
「うむ! 来い、甘露寺殿!!」
凄まじい衝撃音が弾け飛ぶ。
炎柱・煉獄杏寿郎と、恋柱・甘露寺蜜璃による師弟組手である。だが、それは単なる剣術の稽古ではなかった。
蜜璃は特注の鞭のような木刀を振るいながら、同時にマヤ直伝の『徒手空拳』を織り交ぜて猛攻を仕掛けていた。
「ハァッ!」
しなる木刀が全方位から煉獄を襲う。煉獄がそれを『いなし』で受け流そうとした瞬間、蜜璃はその柔らかな体をバネにして極限まで踏み込み、煉獄の懐へと潜り込んだ。
特異体質による、岩をも砕く圧倒的な筋力。それがマヤの教えによって「拳の技術」として完全に昇華されている。
「くっ……!!」
煉獄は咄嗟に左腕を盾にするが、蜜璃の重い拳が直撃し、その屈強な肉体が数メートルも後方へ吹き飛ばされた。
「よもや!! 遠近両方の死角なき連撃……! さすがはマヤ殿の直弟子にして、俺の姉弟子だ!」
煉獄は地面を滑りながら体勢を立て直し、歓喜の笑声を上げた。
「えへへぇ! マヤさんに教わった拳、すっごく調子がいいんです!」
蜜璃が桜餅色の髪を揺らして笑う。遠距離からは変幻自在の刃が襲い、懐に潜り込めば規格外の拳が飛んでくる。この絶対的な理不尽さを前に、煉獄は防戦一方になりながらも、自身の『いなし』の技術を極限まで研ぎ澄ませていた。
その様子を、縁側からマヤとカナエが温かいお茶をすすりながら見守っている。
「蜜璃の奴、また一段と踏み込みが鋭くなったな。杏寿郎も、猗窩座戦を経て防御の勘が完全に完成してる」
「ええ。二人とも、本当に楽しそうに武を競い合っていますわね」
カナエが嬉しそうに目を細める。
その傍らでは、岩柱・悲鳴嶼行冥が、静かに数珠を擦りながら涙を流していた。
「南無阿弥陀仏……。なんという長閑で、力強い光景か……。子供たちがこうして笑い合い、共に高め合う日常……。マヤ、お前がもたらしたこの平穏に、私はどれほど感謝してもしきれない……」
「大袈裟だぜ、悲鳴嶼のおっさん。……あんたも、地下の奴らの面倒、よく見てくれてるな」
マヤが笑いかけると、悲鳴嶼はさらに涙を溢れさせて深く頷いた。
***
蝶屋敷の地下にある、厳重に管理された医療研究室。
そこでは、人類の歴史を覆すほどの『奇跡』が産声を上げようとしていた。
「禰豆子ちゃん、少しだけチクッとするわよ。動かないでね」
白衣を着たしのぶが、診察台に座る禰豆子の腕から静かに血液を採取していた。
禰豆子にはまだ、人間化の血清は打たれていない。上弦の血とは違う、始祖・無惨の極めて濃い呪いが刻まれた彼女の細胞に急激な変化を与えれば、ショック死する可能性があったからだ。
「ムームー……」
不安そうに唸る禰豆子の頭を、マヤの大きな手が優しく、何度も撫でる。
「大丈夫だ、禰豆子。お前の体に一番負担がかからないように、お前の血と合わせて専用の薬を作ってやるからな。……絶対治るぞ、禰豆子」
その絶対的な安心感を持つ声に、禰豆子はコクリと頷き、マヤの手のひらにすり寄った。
「採取、終わりました。……マヤさん、ついに完成しましたよ」
しのぶが注射器を置き、傍らに立つ珠世と顔を見合わせた。珠世の瞳は、これまでの長い苦氷の歴史が溶け出すように、深い感動に震えていた。
「奇跡のようなリレーでしたわ、旦那様」
珠世が、一本の輝くような血清が入った小瓶を手に取る。
「まず、無限列車で採取した猗窩座の血をベースに作った薬を、お館様に投与しました。呪いは完全に消え去り、そこから『浄化された産屋敷の血』を抽出できたのです。それが『人間帰りの薬α1』となりました」
珠世は、自らの頬にそっと手を当てた。
「そのα1を、私に打ちました。結果は……ご覧の通りです」
珠世の肌には、健康的な人間の血色が戻っていた。日傘なしでも太陽の下を歩ける、完全な『人間』への回帰。不可逆と思われた鬼化が、医学によって完全に覆された瞬間だった。
「そして、完全な人間へと戻った私の血清から、副作用を極限まで取り除いた最高品質の薬……『人間帰りの薬・完成版β』が誕生しました」
しのぶが、アタッシュケースの中に並べられた数本の注射器を指し示す。
「遊郭で保護した梅と妓夫太郎の細胞も分析しました。驚くべきことに、梅の鬼化は非常に浅いものでした。妓夫太郎が自身の肉と力を分け与えていただけなので、彼女は直接人を喰った量が極端に少ないのです」
「……なるほどな。だから梅の方が、人間に戻るのが早いってことか」
マヤが納得したように頷く。
「さぁ、旦那様。彼らに、希望を届けに行きましょう」
***
マヤ、しのぶ、珠世、そして蜜璃とカナエも合流し、一行は地下の最奥にある隔離室へと向かった。
最初の部屋には、累と陽子(元母蜘蛛)、そして彼らに寄り添う悲鳴嶼の姿があった。
「陽子さん、累くん。お薬の時間ですよ」
しのぶが優しく声をかけ、陽子の腕に『完成版β』を静かに注射する。
「あぁ……っ」
陽子の顔から、わずかに残っていた鬼の紋様が完全に消え去り、人間としての柔らかな表情が浮かび上がった。
「マヤ様、しのぶ様……珠世様。ありがとうございます……体が、本当に軽くて……」
陽子が涙ながらに微笑む。彼女はすでに人間の食事を摂れるようになり、太陽を克服するまであと数ヶ月という段階にまで回復していた。累にも同様の処置が施され、無惨の血が濃い累もまた、確実な人間化への道を歩み始めている。
「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……ッ!」
その奇跡を目の当たりにした悲鳴嶼は、床に両手をついて号泣し、神仏ならぬ目の前の人間たちへ深い祈りを捧げていた。
そして、一行は隣の隔離室へ足を踏み入れた。
鉄格子の中で、人間の姿に戻りつつある妓夫太郎と梅が、身を寄せ合うようにして座っていた。
「調子はどうだ、お兄ちゃん」
マヤが気さくに声をかけると、妓夫太郎はハッと顔を上げ、鉄格子越しにマヤを見つめた。
二人の腕に、しのぶが手際よく最後の血清を打ち込む。
ドクン、ドクンと脈打つ心臓。冷たかった体に、人間としての温かい血が巡り始める。肌の不気味な斑点は消え、梅の瞳からも鬼の文字が完全に抜け落ちていた。
「あぁ……あったけぇ……。俺たち、本当に……」
妓夫太郎が、自らの両手を震えながら見つめる。隣では、梅が大粒の涙をこぼしながら兄の胸に縋り付いていた。
「おい、旦那」
妓夫太郎が、涙を拭いながらマヤを真っ直ぐに見据えた。
「お前、遊郭で言ってたよな。……本当に、梅を嫁にもらうのか?」
「へッ!?」
梅が素っ頓狂な声を上げ、涙目で兄とマヤを交互に見る。
「ちょっとお兄ちゃん!? 何のことよ、アタシそんなの聞いてないわよ!!」
「まぁ、それは本人次第ってことだ。ゆっくりやっていこうや。……それより、紹介するよ」
マヤは苦笑しながら、後ろに控える女性たちを振り返った。
「俺の嫁の一人、珠世だ。元鬼で、今は完全な人間だ」
「え……?」
妓夫太郎と梅が息を呑む。
「珠世……? 逃亡者の、あの珠世か!? まさか、本当に人間に……?」
珠世が一歩前に出て、淑やかに一礼した。
「ええ。太陽の下でも活動できますし、人間の食事も摂れていますよ。ゆっくり治せば、貴方達も必ず大丈夫です。……旦那様を、よくぞ信じてくれましたね」
「だ、旦那様? この男が?」
梅が信じられないという顔でマヤを指差す。
「アンタ、何人妻がいるのよ!?」
マヤは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「四人いるな。みんな、不甲斐ない俺を助けてくれる最高の女性たちだよ」
その言葉を合図に、妻たちが次々と前に出る。
「恋柱の蜜璃です! 前の戦闘では後方で待機してました。マヤさんの妻ですっ!」
「私も柱で、現・蝶屋敷当主のカナエと申します。マヤさんの妻の一人ですわ」
「ふふふ。鬼である私ですら説得されたのです。旦那様の言葉には、深い重みがあったでしょう?」
珠世が上品に笑いかける。
圧倒的な美貌と、桁違いの実力を持つ女性たちが、全員この巨漢の男を愛し、寄り添っている。
その規格外の事実に、兄妹は完全に呆気にとられていた。
「こほん。そして、正妻のしのぶです」
最後に、しのぶが凛とした微笑みを浮かべて締めくくった。
「医療班でもありますので、貴方達の経過は私がしっかり見させてもらいますね。隣の部屋には、同じように人間に戻りかけている元下弦の鬼や一般の鬼の方々もいます。……もうすぐ、完全に人間に戻れるんですよ」
その優しく、力強い言葉が響いた瞬間。
妓夫太郎の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「旦那……」
妓夫太郎は鉄格子に額を擦り付けるようにして、深く、深く頭を下げた。
「ありがとう……。あんたを信じてよかった……。本当によかった……っ! クソみたいな人生だったが、生きてて……希望が見えた……っ」
妹を守るためだけに地獄を這いずり回ってきた男の、魂からの慟哭。
「お前自身の選択だ、お兄ちゃん」
マヤは鉄格子越しに、妓夫太郎の肩を優しく叩いた。
「女の笑顔ってのはいいもんだからな。俺はそれが毎日見られれば、腹いっぱいだよ。……な、梅」
マヤがニカッと笑いかけると、梅は顔を真っ赤にして「な、何よバカァ……っ」と俯いてしまった。
美しく、温かな救済の光景。
しかし、感動的な空気が流れる中、背後から冷ややかな声が鼓膜を打った。
「――さて、旦那様」
マヤが振り返ると、しのぶ、カナエ、蜜璃、珠世の四人が、見事な笑顔のまま、背後に黒いオーラを背負って並び立っていた。
「先ほどの『梅さんを嫁にする』という件について……そろそろ、私たちに詳しく説明していただけますよね?」
しのぶが、ピキリと青筋を浮かべて言う。
「いや、あれは言葉の綾というか、交渉のカードとしてだな……」
マヤが冷や汗を流しながら後ずさる。
「もーっ! マヤさんったら、女の子なら誰でもお嫁にしちゃうんですかぁっ!?」
「ふふっ。旦那様は本当にお優しくて、困ってしまいますわ」
「ええ。屋敷に戻ったら、たっぷりと『家族会議』をいたしましょうね、マヤ」
大正の闇を切り裂く、偉大なる医学の到達。
そして、蝶屋敷に広がる騒がしくも愛おしい日常は、かつての鬼たちをも巻き込みながら、力強く、そして限りなく温かく続いていくのだった。