鬼滅の薬   作:マイナーチョコ

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第15話:その名は

蝶屋敷のさらに奥深く、ひんやりとした静寂が支配する地下医療施設。

薬品の匂いが微かに漂うその空間で、今日は一つの重要な処置が行われようとしていた。

 

「禰豆子ちゃん、少しだけチクッとするわよ。動かないでね」

 

診察台に腰掛けた禰豆子の細い腕を、白衣姿のしのぶが優しく固定する。

そのすぐ横に立ち、大きな手で禰豆子の頭をゆっくりと撫で続けているのは、マヤだった。

 

「大丈夫だぞ、禰豆子。すぐ終わるからな。ほら、あっちでお前を心配そうに見てるお兄ちゃんでも見てれば、こんなの一瞬だ」

「ムームー……」

 

禰豆子は少し不安そうに唸りながらも、マヤの手のひらから伝わる圧倒的な安心感に身を委ね、言われた通りに少し離れた場所で固唾を呑んで見守る炭治郎へと視線を向けた。

鬼化しているとはいえ、まだ年若い少女だ。本能的な恐怖はあるはずだが、マヤが頭を撫でて声をかけるだけで、その強張っていた肩の力が不思議なほどに抜けていく。

 

「えらいぞ、禰豆子。お兄ちゃんもちゃんと見てくれてるからな。わかるか?」

「ムー!」

「よしよし、良い子だ」

 

そのやり取りを見つめながら、炭治郎の胸の奥にじんわりとした温かさが広がっていた。

(すごいな……マヤさんは、禰豆子の言っていることが本当にわかっているみたいだ。まるで、本当の父親みたいに自然に……)

「マヤさん……ありがとうございます。なんだか禰豆子の言葉が通じているみたいで、俺、すごく嬉しいです」

炭治郎が深々と頭を下げると、マヤは頭を撫でる手を止めずにカラリと笑った。

 

「おう。ほら、炭治郎と話してる間にもう採血は終わってるぞ」

「えっ!? い、いつの間に!」

 

驚いてしのぶの手元を見ると、彼女はすでに血で満たされたアンプルを光にかざし、止血の綿を禰豆子の腕に当て終えていた。炭治郎がまったく気づかないほどの、神速かつ無痛の処置だった。

 

「ふふっ。こう見えても、私は旦那様の妻ですからね。この程度の連携はばっちりですよ。えっへん、というやつです」

しのぶが少し得意げに胸を張ると、炭治郎はパァッと顔を輝かせて「すごいです、しのぶさん!」と拍手をした。

 

「今後、この禰豆子ちゃんの血と、現在完成している『完成版β』の血清を合わせて、拒絶反応が起きないかを顕微鏡で入念に観察します。禰豆子ちゃんは鬼になってから日が浅く、無惨の血の呪いも濃いですからね。安全が完全に確認できたら、いよいよ投与の段階に入ります」

しのぶの言葉に、炭治郎は力強く頷いた。

 

「よかったな、禰豆子」

マヤが再び禰豆子の頭をポンポンと叩く。

「これでお前が人間に戻れば、いつか……お袋さんや兄弟たちにも、胸を張って顔を合わせられるな」

 

その静かで重みのある言葉に、炭治郎の瞳からホロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。

「マヤさん……っ。はい。俺たち……ずっと、それを目標に頑張ってきました。禰豆子を絶対、人間に戻すって……っ」

「おう。もうすぐだ。頑張って生きろよ? ……なんなら、ここらで俺が特別に特訓をつけてやってもいいぞ」

 

「いけません!!」

 

炭治郎が涙を拭おうとした瞬間、しのぶがピシャリと鋭い声を上げた。

「マヤの特訓なんて、柱の煉獄さんや蜜璃でさえボロボロになるほど厳しいのですから! 炭治郎君が壊れてしまいます!」

「えっ……そ、そんなになんですか!?」

炭治郎がビクッと肩を跳ねさせる。

 

「手加減はするさ。ミスっても死にはしない。ただ、治療期間が延びるだけってやつさ」

マヤがニヤリと冗談めかして笑うと、禰豆子が「ム!!」と怒ったようにマヤの陣羽織を引っ張った。大好きなお兄ちゃんがいじめられると思ったのだろう。

 

「おっと、禰豆子ちゃんが心配してるな。まー、まずはカナヲをいなせるようになるんだぞ?」

マヤはしゃがみ込み、炭治郎の顔を覗き込むようにして声を潜めた。

 

「……カナヲ、可愛いだろ? え? 炭治郎」

「へっ!?」

「あいつは、俺たちの娘みたいなもんだぞ。……頑張れよ?」

 

不意打ちで核心を突かれた炭治郎は、顔を林檎のように真っ赤にしてしどろもどろになった。

「い、いや、あの、その……えへへ……っ」

完全に言葉を失い、頭から湯気を出す炭治郎を見て、地下室にマヤとしのぶの楽しげな笑い声が響き渡った。

 

***

 

それから数日後。

マヤ、しのぶ、カナエ、蜜璃、珠世の五人に加え、炭治郎と禰豆子も同行し、隔離室で生活している妓夫太郎と梅の経過観測へと訪れていた。

 

地下とはいえ、彼らに与えられた部屋は鉄格子こそあるものの、ふかふかのベッドや清潔な家具が揃えられ、かつての羅生門河岸のあばら家とは比べ物にならないほど快適な環境が整えられていた。

 

「だからお兄ちゃん! アタシをお嫁に出すってどういうことよ!!」

 

一行が部屋に近づくと、鉄格子の奥から梅の甲高い怒り声が響いてきた。

「いや、あの旦那がよ、遊郭でそう言ってたからよ。俺たちを救ってくれた人だし、すげぇ良いとこの人みたいだから……悪くねーなって思ってよ」

妓夫太郎が頭を掻きながら弁解している。

「はぁ!? 何勝手に決めてんのよバカお兄ちゃん! だいたい、アタシたちはまだ人間になりつつある途中なのに……!」

 

「よう。お二人さん、随分と仲良くやってるみたいだな」

マヤが声をかけると、兄妹はビクッと肩を揺らして振り返った。

 

「定期健診にきましたよ。調子はどうですか?」

しのぶが微笑みながら、鉄格子の隙間から二人の顔色や脈、瞳孔の具合を素早く確認していく。

「安定して鬼の細胞が落ちてきていますね。前のように、血鬼術などは使えないはずです」

 

「そういえば……ここ数日、そういう力を使おうって発想すら頭に浮かばないわ。それに、今は普通に人間の食事が食べられるのがすっごく嬉しい! 今の時代のご飯って、おいしいものばかりなのね!」

梅が、花がほころぶような愛らしい笑顔を見せる。

「そうだな。あの江戸の時代の飯は……本当に悲惨だったからな。人間の飯がこんなにうまいとは知らなかったぜ」

妓夫太郎も、無邪気に喜ぶ妹の姿を見て心底安堵したように息を吐いた。

 

「腹いっぱい食えよ。……ま、腹壊さない程度にな」

マヤが気さくに言うと、しのぶが呆れたように深いため息をついた。

「はぁ〜。こういうところで締まらないんですよね、マヤは。昔からデリカシーがないというか」

「ふふっ。それがマヤだもの。私たちの愛する旦那様よ?」

カナエが隣でクスクスと笑いながらマヤの腕に触れる。

 

「こちらの血液の診断も申し分ないです」

珠世がカルテを見ながら静かに告げた。

「細胞の構造変化を見る限り……梅さんのほうが、お兄さんよりも先に完全に人間に戻れる可能性が高いですね」

「えっ!?」

梅が絶句し、妓夫太郎の顔を見た。

「兄ちゃん。お前、本当に自分の力を妹に分け与えて守ってたんだな。いい兄貴じゃねーか」

マヤの言葉に、炭治郎も深く共感するように何度も頷いた。

 

「そうだ。今日はよ、こいつらを合わせたくて連れてきたんだ。竈門炭治郎と、妹の禰豆子だ」

マヤが背中を押すと、炭治郎が一歩前に出た。

「どうも、初めまして! 炭治郎です。妹の禰豆子は、今、鬼なんです。ですが……希望があるので、ずっと耐えて人を喰わずに頑張ってくれているんです。最初は絶望しましたけど、禰豆子が頑張ってくれたから……僕もここまで来れました」

 

その真っ直ぐで裏表のない言葉に、妓夫太郎は少し驚いたように目を見張った。

「お前も、妹思いなんだな……。俺も、梅が一番大事だ。だから、旦那に嫁にやってもいいかと……」

 

バシィッ!!

 

「今はそういう話じゃないでしょ!! もう、お兄ちゃんは黙ってて!!」

梅が顔を真っ赤にして妓夫太郎の頭を思い切りひっぱたいた。

 

「僕たちは……鬼舞辻無惨に家族を殺され、禰豆子を鬼にされてしまったんです。そこを柱の方々に救っていただいて、長い年月をかけて、やっと希望が……」

 

炭治郎がそう口にした瞬間、妓夫太郎が不思議そうに首を傾げた。

「無惨? ……俺たちは、無惨じゃないぞ、鬼になったのは」

 

その言葉に、マヤの顔からスッと笑みが消えた。

 

「……ちょっと待て。今、なんと?」

「昔の話はしたよな? あの雪降る夜、死にかけてた俺たちに血を分けて鬼にしたのは……今の上弦の弐、『童磨』って野郎だぞ」

 

ピキリ、と。

地下室の空気が、文字通り『凍りついた』。

 

マヤの全身から放たれた、底知れぬ怒りと殺意の圧。それは鬼の妖気とも剣士の闘気とも違う、圧倒的な質量を持った暴力的な重圧だった。

息を吸うことすら苦しくなるほどの空気に、炭治郎も禰豆子も、そして鉄格子の中にいる妓夫太郎たちでさえビクッと体を震わせた。

 

「まさか……。氷を使う鬼か……?」

マヤの低い声が地を這うように響く。

「お、おう、そうだ。氷の扇を持ってた。……どうした旦那、急に圧がヤベェぞ……」

 

「マヤさん! 落ち着いてください! いつものマヤさんに戻って!」

蜜璃が泣きそうな顔でマヤの太い腕に強く抱きつき、反対側からはカナエが静かに、しかし深い慈愛を込めてマヤの背中を抱きしめた。

「やっと……名前が掴めたのね。ありがとう、妓夫太郎君。……マヤが怒るのも無理はないわ。マヤ、それは私の為でしょ?」

 

カナエの優しい声と、妻たちの温もりに触れ、マヤはゆっくりと深く息を吐き出し、恐ろしい闘気を霧散させた。

「……ああ。あいつとは、俺がまだ蝶屋敷の厄介になる前、身一つで放浪してた頃にちょいとあってな。腹に一発重いのを入れて森の奥まで吹き飛ばしたんだけど……結果的に逃がしちまったんだ」

 

「「「「上弦を吹き飛ばした!?」」」」

炭治郎や妓夫太郎がドン引きして叫ぶ。この大黒柱は、一体どれだけ規格外の力を持っているというのか。

 

「あの時、マヤが来てくれなければ……私は間違いなく、あの鬼にいたぶられて殺されていたでしょう」

カナエが静かに目を伏せる。

「姉さん……」

しのぶが痛ましそうに呟くと、蜜璃は「マヤさんは、一番大事な時にいつも助けに来てくれるんですね! ぐすっ、マヤさぁぁん!!」と感動して大泣きし、マヤの陣羽織に鼻水と涙をなすりつけ始めた。

「おいおい、汚いな……。まー、蜜璃、ありがとうな」

 

「上弦の弐、『童磨』……。私より若い鬼なのかもしれませんね。私は面識のない鬼ですので」

珠世が考え込むように顎に手を当てた。

「あんたは、戦国時代以前からの鬼だって聞いたことがあるぞ……。上弦の連中なんて、百十三年も顔ぶれが変わってねぇのに」

妓夫太郎が言うと、梅が再び兄の頭をひっぱたいた。

「お兄ちゃん!! 女性に年の話は禁句でしょ!!」

「い、いてぇ。すまんすまん……」

 

「まー、そんなの俺は気にしないさ」

マヤが珠世の肩を優しく抱き寄せる。

「ある意味、この数奇な運命を巡り合わせてくれた無惨や童磨には、感謝しねえとな。お前たち兄妹に出会えたし、禰豆子や炭治郎にも会えた」

 

マヤは愛する妻たちを見渡し、フッと笑った。

「愛する妻が戦国時代から生きているってのも、それはそれですげーな。昔の歴史を直に聞けるなんて、男のロマンだろ。俺はそういうの、嫌いじゃないぜ」

「痛っ……痛い痛い! 珠世、つねるなごめんってば!」

「もう……本当に旦那様はデリカシーがありませんね」

珠世が顔をほんのりと赤らめながら、マヤの腰の肉をギリギリとつねり上げた。

 

「他の鬼の事は、マヤ……」

しのぶが心配そうに見上げると、マヤは「ああ」と頷いて、妓夫太郎たちに向き直った。

「太郎、一応お前たちは呪いが完全に解除されてるから言うがな……俺、過去に無惨と直接会ってるんだわ。それで、『互いに手を出さず、フェアにやり合おう』ってお話をしてあるんだ」

 

「はァァァァ!? 旦那、無惨とお話しただと!? ヤバすぎじゃないか! ますます梅、お前をこんな規格外の男の嫁に……」

「だから!! 私の幸せを考えてくれるのはいいけど、もうお兄ちゃんは黙ってて!! ……でも、ありがとうね」

梅は怒りつつも、兄の不器用な優しさに少しだけ顔を綻ばせた。

 

(マヤさん、すごいな……始祖と直接交渉して約束を取り付けていたのか)

炭治郎は、マヤの底知れぬ器の大きさと大人の余裕に、改めて圧倒されていた。

 

「あ、これ内緒ね。お館様には言ってあるけど」

マヤが口元に人差し指を立てる。

「本当は、まだまだ隠し事してるくせに……はぁ〜」

しのぶがため息をつく。

(上弦の参と接触したことか……あれはいずれ話すさ。あと鳴女ちゃんな。あの子の琵琶、上手いんだよな)

マヤは内心で苦笑した。

 

「梅ちゃん、太郎君。二人ともゆっくり治療してくださいね。二人は人間の時のほうがずっと辛い思いをしてきたのですから……その昔を思い返さずに、明日へ向かってください」

しのぶの言葉に、兄妹は静かに頷いた。

 

「色々お話が聞けてよかったです! 兄妹仲良く生きられるのが、一番いいですよね!」

炭治郎の裏表のない屈託のない笑顔に、かつて人を喰ってきた妓夫太郎と梅は、少しだけ罪悪感に目を伏せた。

「もう、同じ食卓のご飯を食べてる仲じゃないですか。先輩の私が言うんだから、安心してくださいね」

珠世が優しくフォローを入れると、二人の顔にもようやく安堵の笑みが浮かんだ。

 

***

 

その夜。

マヤと妻たちのプライベートな自室。

ランプの柔らかな灯りが照らす中、マヤは静かに口を開いた。

 

「上弦の弐の名前がわかったな。……四年ぶりか。カナエ、お前を救ったきっかけは、あいつだったな」

「はい、そうですね。……貴方が来てくれて、本当に感謝しています」

カナエがマヤの手にそっと触れる。

「あの時、もし姉さんがいなくなっていたらと思うと……今でも怖いです」

しのぶが身震いし、蜜璃も涙ぐんでカナエに抱きついた。

「カナエさんが助かってくださって、本当によかったわ……っ」

珠世も静かに微笑んで頷いた。

 

「上弦の弐は、俺が逃がしたようなもんだ。きっちり、俺自身が落とし前をつける。……それとな、他にも昔、俺が人間帰りの薬のために利用した『生け簀』の始末も残ってる。近いうちに耀哉に会いに行って、その辺の話を煮詰めていく」

マヤの揺るぎない覚悟。

しかし、しのぶは悲しげに眉を下げた。

「マヤには……最前線で戦ってほしくないわ。貴方は私たちの日常を守る人でいてほしいのに……」

 

「こればかりは、俺の過去の始末だからな。……心配かけてすまないな、お前たち」

マヤが四人の妻たちを優しく見渡す。

「「「「……わかりました」」」」

彼女たちは、大黒柱の決断を、深い愛と共に静かに受け入れた。

翌日、マヤは産屋敷邸へ赴き、耀哉へ上弦の弐の名前と、過去の因縁に関する情報を極秘に共有したのだった。

 

***

 

数日後の蝶屋敷の昼下がり。

春の陽気に包まれた縁側で、炭治郎とカナヲが並んで座り、楽しそうに笑い合っていた。

 

「へぇ! 炭治郎の故郷では、そんな風に炭を作っていたのね。すごいなぁ」

「うん! 今度、カナヲにも見せてあげたいな。……あ、いや、迷惑じゃなければだけど!」

「迷惑なんかじゃないよ。私も……見てみたい」

カナヲが頬をほんのりと染めて微笑む。彼女自身の心からの笑顔だった。

 

「……ギィィィィィッ!!」

その甘酸っぱい光景を、少し離れた廊下の陰から見ていた善逸が、シーツを噛みちぎりそうな勢いで歯軋りしていた。

「なんで……なんで炭治郎の奴、あんなに可愛い子とキャッキャウフフしてんだよォォッ! 俺なんて、俺なんてェェッ!」

「うるさいぞ紋逸! 俺は……俺はまだ弱い……」

未だに遊郭での実力不足を引きずり、落ち込んで体育座りをする伊之助。

「ほら、伊之助! そんなとこでイジイジしてないで、ご飯食べなさい! 山でどんぐりも拾ってきたんだから!」

アオイが腰に手を当てて、呆れながらも優しく寄り添っていた。

 

そして、裏庭からは今日も凄まじい轟音が鳴り響いている。

「いきますよぉぉっ、煉獄さん! この間は拳だったので、今日は遠距離メインで!」

「うむ! 凄まじいしなりだ! 遠近死角なしの素晴らしい剣技! 来い、甘露寺殿!!」

 

大正の空に、平和で騒がしい、命の輝きに満ちた日常の音が響き渡っていた。鬼との過酷な戦いの合間にある、この何気ないひとときこそが、彼らが命を懸けて守り抜くべき『明日』であった。

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