「待って! 待ってください鋼鐵塚さん!! 悪気はなかったんですゥゥッ!!」
「許さァァァん!! 儂の打った刀を刃こぼれさせるなど万死に値する!!」
木々のざわめきと、心地よい鉄を打つ音が響く隠れ里。
外界から隔絶された刀鍛冶の里の広場で、両手に包丁を持ったひょっとこ面の男――鋼鐵塚蛍が、すさまじい殺気で炭治郎を追い回していた。
遊郭での激闘の末、刀を刃こぼれさせてしまった炭治郎は、直接謝罪と刀の打ち直しを頼むためにこの里を訪れていたのだ。
「鋼鐵塚さん、落ち着いて! 相手は上弦の陸だったんですよ!?」
「言い訳など聞きたくなァァい!!」
鋼鐵塚が包丁を振り下ろそうとした、その瞬間。
「……まぁ、落ち着けよ。職人さん」
ドスッ、という鈍い音と共に、鋼鐵塚の両腕がピタリと空中で止まった。
背後から現れた漆黒の巨漢――マヤが、鋼鐵塚の両手首を、まるで子供の手を握るように軽く掴んで制止したのだ。
「な、なんじゃ貴様は! 離せ! 儂は怒り心頭なんじゃ!!」
「上弦の鬼と打ち合って、刀が折れずに刃こぼれで済んだんだろ。それは、あんたの打った刀がそれだけ頑丈で、最高の業物だったって証明じゃねえか」
マヤが落ち着いた大人の声で諭すと、暴れていた鋼鐵塚の動きがピタッと止まった。
「……最高の、業物……」
「ああ。あんたの刀のおかげで、この少年は命を落とさずに済んだ。誇っていい仕事だぜ、鋼鐵塚さん」
マヤが手を離すと、鋼鐵塚は包丁を取り落とし、「うおおおぉん! そうじゃろそうじゃろ! 儂の刀は最高なんじゃぁ!」と突然号泣し始めた。
「あ、ありがとうございます、マヤさん……!」
息も絶え絶えにへたり込む炭治郎。その後ろから、刀鍛冶の鉄穴森が「いやぁ、助かりました。鋼鐵塚さんは刀への愛が強すぎるもので」と苦笑いしながら頭を下げた。
「マヤさーん! しのぶさーん! お団子美味しいわよぉ!」
広場の奥から、桜餅色の髪を揺らして甘露寺蜜璃が大きく手を振っていた。その隣では、霞柱・時透無一郎が、ぼんやりと空を見上げながらお茶をすすっている。
蜜璃が里に刀の調整に向かうと聞き、マヤは妻の護衛(という名目の温泉旅行)として同行していた。そしてしのぶもまた、禰豆子の容態チェックと、いざという時に血清を打てるよう準備を整えて共に来ていたのだ。
「禰豆子ちゃんの様子はどうですか、しのぶさん」
炭治郎が、日陰に置かれた木箱を優しく撫でるしのぶに尋ねた。
「ええ、とても安定しています。完成版の血清の微量投与のおかげで、鬼としての細胞の呪いは極限まで薄まっています。……あとは、最後のひと押しですね」
しのぶが微笑むと、箱の中から「ムームー」と機嫌の良い声が返ってきた。
「よーし! じゃあ俺は、修行に行ってきます!」
炭治郎は気合いを入れ直し、山奥へと向かった。
***
森の開けた場所で、凄まじい駆動音が鳴り響いていた。
「遅い遅い! そんな動きじゃ、百年経っても上弦には勝てませんよ! 切腹してください!」
毒舌を吐きながら絡繰人形『縁壱零式』を操作しているのは、里の少年・小鉄だ。
「くっ……! 腕が六本もあるから、どこから攻撃が来るか予測できない……っ!」
炭治郎は息を弾ませながら、木刀で必死に絡繰人形の連撃を躱していた。
そこへ、様子を見に来たマヤと蜜璃がふらりと現れた。
「あらら、炭治郎君苦戦してるわねぇ」
「……炭治郎、動きが硬いぞ」
マヤは腕を組み、絡繰人形の動きをじっと観察した。
「あれは過去の凄い剣士を模した人形らしいが、所詮は絡繰だ。感情や殺気がない分、動きは完璧に『論理的』だ」
マヤの言葉に、炭治郎がハッと顔を上げる。
「腕の動きを予測しようとするな。人形の関節の駆動音、風を切る音、周囲の空気が押し出される『圧』を感じろ。……力で受けるな、風のように『いなせ』!」
「風のように……!」
炭治郎は目を閉じ、深く呼吸をした。全集中・常中。
マヤ一家から叩き込まれた『身体操作』の記憶が蘇る。
(見えた……!)
六本の腕が同時に迫る。炭治郎は刀を盾にせず、自身の体の軸を半歩ずらし、人形の腕の側面に木刀を滑らせるようにして威力を完全に外へ逃がした。
「いなし……そこだッ!」
踏み込みの推進力を利用し、炭治郎の木刀が見事に『縁壱零式』の懐を捉え、その装甲を強く打ち据えた。
「やりましたね、炭治郎さん!」
小鉄が目を輝かせて歓声を上げる。
「すごいわ炭治郎君! マヤさんの教え、しっかり体に染み込んでるのね!」
蜜璃も拍手をして喜んだ。
炭治郎は汗を拭いながら、充実した笑顔でマヤに一礼した。
「ありがとうございます、マヤさん!」
「おう。いい動きだったぜ」
温泉の湯気、刀を打つ音、美味しい食事、そして仲間たちとの切磋琢磨。
過酷な運命に翻弄されてきた炭治郎たちにとって、マヤ一家と共に過ごすこの騒がしくも温かい交流は、何にも代えがたい安心感を与えてくれていた。
このまま、この穏やかな時間がいつまでも続くのだと、誰もが信じていた。
しかし、無惨の執念は、その平穏を唐突に引き裂いた。
***
夜闇を縫って里へ侵入した二つの異常な気配。
上弦の伍・玉壺と、上弦の肆・半天狗の強襲である。
「ヒョッヒョッヒョ! 美しい私の芸術作品の数々……」
無数の異形の壺鬼たちが里を蹂躙し始める。
「霞の呼吸……」
時透無一郎は一切の感情を交えずに刀を抜き、玉壺とその眷属たちを迎え撃つべく、森の奥へと単身駆け出していった。
一方、炭治郎、禰豆子、そして玄弥の前に立ち塞がったのは、斬られるたびに分裂し、若く屈強な姿へと変貌していく半天狗の分身たちだった。
「喜怒哀楽」の文字を舌に刻んだ四体の鬼、そしてそれらが合体した『憎珀天』の圧倒的な力。雷が落ち、突風が吹き荒れ、巨大な木竜がうねる。
「恋の呼吸・参ノ型――恋猫しぐれ!」
しなる鞭刀を振るい、蜜璃が憎珀天の術を次々と斬り裂いていく。彼女の特異体質と、マヤから教わった『いなし』の体術が合わさり、上弦の猛攻をギリギリのところで凌いでいた。
だが、それでも上弦の力は理不尽だった。
戦場から少し離れた屋根の上。マヤは静かに腕を組み、その激闘を見下ろしていた。すぐ隣にはしのぶが立ち、息を詰めて戦況を見守っている。
「マヤ……行かなくて、いいのですか?」
「……ああ。あいつらは今、壁を越えようとしている。無一郎も、炭治郎もな。俺が手を出せば、あいつらの経験を奪うことになる」
マヤの声はひどく冷静だった。
だが、その視線の先で、憎珀天を蜜璃たちに押し付け、野ネズミほどの大きさに縮こまって姑息に逃げ回る半天狗の『本体』を見た瞬間。
マヤの纏う空気が、一変した。
温厚で、大人の余裕に満ちていた『日常柱』の気配が完全に消え失せ、冷たく、どす黒い、鉛のような殺意が滲み出す。
「……分裂か。情けない鬼だな。心底、うんざりだ」
マヤが短く吐き捨てた言葉に、しのぶはハッと息を呑み、そして悲痛な面持ちでマヤの分厚い背中を見つめた。
彼女は知っている。マヤがどれほどの十字架を背負い、この四年間、その男の首を夢に見てきたかを。
東の空が、白み始めていた。
「夜明けだ……!」
炭治郎が叫ぶ。だが、状況は最悪だった。逃げ惑う半天狗の本体を追い詰めかけたその時、朝日が山の稜線から顔を出し始めたのだ。
「禰豆子!!」
炭治郎は絶叫した。鬼である禰豆子が朝日に晒されれば、骨まで焼け焦げてしまう。禰豆子を庇って日陰に隠すべきか、それとも、このまま逃げようとする半天狗の本体を斬るべきか。
決断の天秤に魂が引き裂かれそうになった、その刹那。
「――俺が行く」
重い地鳴りのような声と共に、マヤが炭治郎の頭上を飛び越え、逃げる半天狗の本体へと一直線に跳躍した。
「マヤさん!!」
炭治郎の顔に、希望の光が差す。
(よかった……マヤさんがいてくれて!)
炭治郎が禰豆子に覆い被さろうとしたその時、背後からしのぶが静かに炭治郎の肩に手を置いた。
「……旦那様に任せましょう。炭治郎君」
「しのぶさん! でも、半天狗の本体は逃げ足が速くて……」
「いいえ。……これは、旦那様の戦いなのです」
しのぶの言葉には、有無を言わせぬ重みと、深い悲しみがあった。
そして、奇跡は起きた。
「う、あ……あぁ……っ」
朝日の光が禰豆子の肌を焼き始めた直後。ジュゥゥと煙を上げていた彼女の皮膚が、唐突に再生を始め、火傷がピタリと止まったのだ。
「禰豆子……?」
炭治郎が信じられないものを見るように目を見開く。しのぶもまた、驚愕に息を呑んだ。
(まだ、血清の最終投与は済んでいないはず……! なのに、鬼のまま、自力で太陽を克服したというの!?)
朝焼けの光を全身に浴びながら、禰豆子はゆっくりと立ち上がり、マヤの背中へと視線を向けた。
***
「ヒィィィィッ! 逃げなきゃ……逃げなきゃァ!!」
野ネズミほどの大きさで草むらを逃げ惑っていた半天狗は、突如として天から降ってきた巨大な影に絶望した。
バシィッ!!
「ギャァァァァッ!?」
マヤの巨大な両手が、逃げる半天狗の体を、まるで小さな虫でも捕まえるかのようにガッチリと包み込んで掴み上げた。
「ヒィッ! な、なんだお前はァッ! 可哀想な弱い儂をいじめるなぁっ!!」
半天狗は、マヤの顔を知らない。四年前、自分が人間を捕食しようとした瞬間、得体の知れない巨漢に一瞬で意識を刈り取られ、血を限界まで抜かれたことなど、気づきもしなかったのだから。
マヤは、両手の中にすっぽりと収まる半天狗を見下ろし、極めて静かな声で問いかけた。
「おい、お前……名前を言え。助かるかもしれないぞ?」
「へっ……?」
半天狗は、その言葉に微かな希望を見出した。この巨漢は、許してくれるかもしれない。言葉が通じる相手かもしれない。
「へ、へ、半天狗っていいやす……。儂は弱くて、可哀想な……」
「……半天狗か」
マヤの声が、ひどく低く、震えていた。
「やっと、お前の名前を知れたよ。ありがとうな」
「ヒヒッ……じゃあ、放して……」
半天狗が安堵の笑みを浮かべかけた、次の瞬間だった。
「やっとだ……っ!! やっとだ……!! やっとだァァァァァッ!!!」
突如として、マヤの口から、雷鳴のような絶叫が迸った。
それは強敵への闘志などでは断じてない。言葉にならないほどの慟哭と、魂を引き裂くような深い悲哀の爆発だった。
「貴様に会いたかったぞ!! 会いに行って、今すぐ殺してやろうかと、この四年間……何度も、何度も思った!!!」
森の木々を震わせるほどのマヤの咆哮に、玉壺を倒して駆けつけた無一郎や、玄弥、炭治郎たちは完全に呆気に取られた。
(なんだ……? マヤさんが、あそこまで感情を露わにして怒るなんて……!)
無一郎でさえ、初めて見るマヤの修羅のような姿に言葉を失った。
だが、しのぶと蜜璃だけは違った。
「マヤさん……っ」
蜜璃の大きな瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちる。
「……ええ。彼はずっと、一人で苦しんでいたのですから」
しのぶもまた、唇を噛み締めながら、視界を滲ませた。
四年前に下した、苦渋の決断。
人間に戻る特効薬を作るための『生け簀』として、半天狗を生かして放置するという大罪。その代償として、名もなき町の住人たちが犠牲になった。マヤは、遺体を並べ、自らの陣羽織を血で染めながら、その犠牲となった者たちへの贖罪をたった一人で背負い続けてきたのだ。
「これは、俺の私怨だ!!」
マヤの怒号が、朝の空気を切り裂く。
「お前にとっては、喰った人間なんて取るに足らない者たちだっただろうな! だが俺は……っ! こそこそとここでもお前は、弱者のフリをして逃げ回るのか!!」
マヤの両手が、ギリリと音を立てて半天狗を締め付ける。
「お前はもう死ぬよ。ここから逃げても太陽に晒される。俺の手の平で潰されても死ぬ」
マヤは、冷徹な死神のような声で宣告した。
「暴れろよ? 俺の手をもぎ取ってみろよ!!! ……やれば、お前も死ぬけどな?」
「ヒィィィィッ!! 助けてくれェェッ!!」
半天狗はマヤの手の中で発狂したようにもがく。
「まだ道はある! 俺を日陰に連れて行けばいい! そうすれば、儂は……!」
「……その必要性を感じないな。じゃーな」
マヤは、冷酷なまでに淡々と告げると、両手の平を、ゆっくりと……じわじわと開いていった。
指と指の隙間から、朝日の強烈な光が、一直線に半天狗の肉体を射抜く。
「ギャァァァァァァッ!! 痛いィィッ! 燃えるゥゥッ!!」
「ゆっくりそこで、自分の罪と後悔に包まれていけ。……全部の手は開かんよ。逃げられると困るからな」
ジリジリと、マヤの手の中で上弦の肆が灰へと変わっていく。
それは、強敵との熱い死闘などでは断じてない。ただの、惨めで、無慈悲な処刑だった。
半天狗が完全に発狂し、断末魔の叫びを上げながら、太陽の光によって一寸の塵も残さずに消滅するまで、マヤは決してその手を開かなかった。
やがて、手のひらの中から一切の気配が消え失せた。
マヤは、空っぽになった手のひらを、すべて開いた。
朝の風が、残った灰を優しく吹き飛ばしていく。
彼が背負い続けてきた長く重い十字架が、ようやく、下ろされた瞬間だった。
「マヤ……!」
「マヤさぁぁぁんっ!」
真っ先に駆け寄ったのは、しのぶと蜜璃だった。二人はマヤの分厚い体に抱きつき、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
マヤは大きく息を吐き出し、二人の頭を撫でようとした。
その時。
ザッ、ザッ。
草を踏む音と共に、一人の少女がふらふらと歩み寄ってきた。
太陽の光を浴びながら、鬼の牙を持ったままの禰豆子だった。
マヤは驚愕に目を見開いた。
「……禰豆子!? お前、太陽を克服したのか……!?」
禰豆子は、ポロポロと涙を流しているマヤを見上げ、その無骨で大きな顔に、そっと両手を伸ばした。
そして、マヤの頬を優しく撫でながら、はっきりと、人間の言葉を紡いだ。
「よかったね。……旦那様」
ピタリと、時が止まった。
禰豆子には、見えていたのだ。マヤが心の奥底でずっと泣いていたことが。そして、彼がどれほど蝶屋敷の妻たちに愛され、自らを犠牲にして全員の未来を守り抜こうとしてきたかが。
だからこそ、彼女は最大の敬意と親愛を込めて、妻たちと同じように彼を呼んだ。
その純粋で温かい労いの言葉に、マヤの目から、ついに堪えきれない涙が溢れ出した。
「あぁ……っ」
マヤは膝をつき、禰豆子と、しのぶ、蜜璃をまとめてその太い腕で抱きしめた。
「ありがとうよ……。最高の笑顔だ、禰豆子。……そして、しのぶ、蜜璃。ずっと、心配かけてすまなかったな……っ」
禰豆子が、マヤの背中をポンポンと叩く。
「よかったね」
そして、ポカンとしている炭治郎の方へも振り返り、満面の笑みで告げた。
「よかったね」
(禰豆子、よかった……。マヤさんにも何か深い事情があったんだな、本当によかった! ……よかったけど!!)
炭治郎は、一人だけ激しく混乱していた。
(禰豆子、マヤさんに懐きすぎてないか!? なんで旦那様!?)
マヤは涙を拭い、照れくさそうに立ち上がると、炭治郎に向けてニカッと笑った。
「良い妹を持ったな、炭治郎。ありがとうな」
「あ、いえ! ありがとうございます、禰豆子を救ってくれて……!」
炭治郎が慌てて頭を下げる。
「違うさ。それはお前が、絶対に諦めずに妹を救い抜いたんだ。胸を張れよ……」
マヤは、さらに悪戯っぽく笑みを深めた。
「――お兄さん」
「え? ……お兄さん? え??」
炭治郎の頭が完全にショートした。
俺が、マヤさんのお兄さん? ということは、禰豆子がマヤさんの五人目の妻に……?
「よかったね、旦那様!」
禰豆子が満面の笑みで追撃をかける。
「えええええええええっ!?!? ちょ、ちょっと待ってくださいマヤさん!! 禰豆子はまだ十四歳で、あの、その!!」
大パニックに陥ってじたばたする炭治郎を見て、しのぶも蜜璃も、涙を拭いながら吹き出すように笑い声を上げた。
大正の朝焼けの空に、明るく、澄み切った笑い声が響き渡る。
長く暗い因縁の夜が明け、彼らの守るべき日常が、確かな希望と共に再び幕を開けたのだった。