鬼滅の薬   作:マイナーチョコ

49 / 55
第18話:開戦の狼煙

新月の夜。

産屋敷邸の広大な庭には、風に揺れる木々の葉音だけが静かに響いていた。

 

大広間には、現存する鬼殺隊の最高戦力――『柱』たちが一堂に会していた。

岩柱・悲鳴嶼行冥、風柱・不死川実弥、蛇柱・伊黒小芭内、水柱・冨岡義勇、霞柱・時透無一郎、音柱・宇髄天元、炎柱・煉獄杏寿郎。

そして、花柱・胡蝶カナエ、蟲柱・胡蝶しのぶ、恋柱・甘露寺蜜璃、さらに、彼らの中心で腕を組んで座る巨漢、日常柱・マヤ。

 

彼らの視線の先、上座に座っているのは、産屋敷耀哉である。

かつては顔の上半身をどす黒い呪いに侵され、伏せがちであった彼だが、今は違う。マヤたちがもたらした特効薬によって呪いを完全に克服した耀哉の肌には、艶やかな生気が宿り、その瞳は深く澄み切った光を湛えていた。

 

「皆、急な呼び出しに応えてくれてありがとう」

耀哉の心地よい、しかし凛とした声が大広間に響き渡る。

「……無惨に、わざと私の居場所のヒントを流した。そろそろ、向こうから来てもらおうと思ってね」

 

その言葉に、実弥や伊黒がわずかに肩を揺らしたが、誰一人として声を荒らげる者はいなかった。

「あちらは、上弦が次々と討たれ、禰豆子が太陽を克服したことで焦燥の極みにいる。そして何より……マヤ、君という得体の知れない存在への恐怖で、冷静な判断力を失っているはずだ」

耀哉は、マヤへ向けて静かに微笑んだ。

 

「病弱な当主を直接殺せば、鬼殺隊は崩壊する。パラノイアに陥った無惨は、必ず自らここへやってくる。……私たちは、これまでの受け身の戦いを終える。今夜、ここから私たちが盤面を支配するんだ」

当主としての絶対的なカリスマと、死の呪縛から解き放たれた力強い采配。

悲鳴嶼が「南無阿弥陀仏……御意に」と涙を流しながら深く頭を下げ、煉獄が「うむ! お館様の健やかなるお姿と共に戦えること、炎柱としてこれ以上の喜びはない!」と力強く応えた。

 

「作戦は共有した通りだ」

マヤが低く重い声で引き継ぐ。

「奴が来たら、真っ先に俺と柱数名で強襲をかける。狙うのは首でも心臓でもない。しのぶと珠世が作った『鬼滅の薬』――あの六つの複合毒を、奴の体内に確実に撃ち込むことだ」

「毒が回れば、無惨は無限城へと逃げ込むか、あるいは俺たちをそこへ引きずり込もうとするでしょう」

しのぶが冷静に言葉を添える。

「遅行性ですから、無惨はすぐに毒の効果に気づきません。無限城の中で毒が牙を剥くのを待ち、各個撃破の形をとります。……皆様、抑制薬の準備はよろしいですね?」

 

全柱が、懐に忍ばせた小瓶の感触を確かめるように無言で頷く。

「マヤさん、私たちもいつでもいけますわ」

カナエが、マヤの太い腕にそっと触れて微笑む。蜜璃もまた、「旦那様と一緒に、絶対にみんなで生きて帰ります!」と力強く拳を握った。

 

「ああ。絶対に死なせない」

マヤは妻たちへ頷き、そして月明かりに照らされた庭へと視線を向けた。

 

「――来るぞ」

 

マヤが立ち上がったその瞬間、産屋敷邸を囲む空間の空気が、重く、粘り気のあるものへと変質した。

庭の玉砂利を踏む、ゆっくりとした足音。

そこには、洋装に身を包み、氷のような赤い瞳を持つ男――鬼舞辻無惨が立っていた。

 

無惨は、縁側に立つ男の姿を見て、不快そうに眉をひそめた。

「……醜いな。産屋敷。顔の呪いをごまかすために、何か塗っているのか? いずれにせよ、今夜でお前たち一族の目障りな歴史も終わる」

 

だが、耀哉は縁側に堂々と立ち、微動だにせず無惨を見下ろしていた。

「それはどうかな、無惨。お前はもう、何一つとして正しく状況を認識できていない」

「……何?」

「私の顔の呪いは、完全に解けている。そして……お前を殺すための刃は、すでに振り下ろされているのだよ」

 

耀哉の言葉が終わるか終わらないかのうちに。

「――ドンッ!!」

 

爆発音にも似た踏み込みの音と共に、マヤが庭の空間を一直線に削り取りながら無惨の懐へと潜り込んだ。

「貴様は……!! あの時の!!」

無惨の脳裏に、かつて自分に底知れぬハッタリをかけてのけた巨漢の姿がフラッシュバックする。

無惨は即座に無数の管を背中から展開し、マヤを細切れにしようと放った。

だが、マヤはそれを防ごうともせず、管の軌道を『いなし』で紙一重に逸らしながら、自身の巨大な拳を無惨の腹部へと叩き込んだ。

 

「グハッ……!?」

凄まじい衝撃に無惨の体がくの字に折れ曲がった瞬間、マヤの背後から影のように飛び出したしのぶとカナエが、両サイドから無惨の首筋と肩口へ、特殊な注射器を深々と突き立てた。

 

「『鬼滅の薬』、投与完了です!」

しのぶの声と同時に、無惨の体内に、珠世と彼女が心血を注いで作り上げた六つの複合毒がすべて注入された。

 

「小賢しい真似を……!! この程度の毒で、私が死ぬとでも思ったか!!」

無惨が激昂し、全身から凄まじい衝撃波を放つ。

マヤたちは即座に後方へ跳躍して距離を取った。

 

無惨は腹部の痛みに顔を歪めながらも、自身の細胞が即座に崩壊しないことを確認し、狂気を含んだ笑みを浮かべた。

「愚かな……。遅効性の毒か? 多少の時間を稼いだところで、私を殺すには至らん。貴様ら全員、私の城で微塵に引き裂いてくれる!!」

 

無惨の足元に、ベンッ、という琵琶の音が響き、襖の模様を持つ巨大な空間の穴が開いた。

同時に、耀哉を除く産屋敷邸の至る所に無数の空間の穴が開き、柱たちや駆けつけていた炭治郎たちの足元を飲み込んでいく。

 

「無限城か……! 予定通りだ、お前ら、絶対に死ぬなよ!!」

マヤが叫ぶと同時に、彼ら全員の体が、重力に逆らうようにして無限城の異空間へと真っ逆さまに落下していった。

 

***

 

上下左右の概念が狂った、巨大な木造建築の迷宮。

通常の人間であれば、空間のねじれに方向感覚を失い、見知らぬ場所へと分断される恐怖に呑まれるだろう。

しかし、マヤは落下しながら、空中でぐるりと体勢を整え、微かに聞こえる『琵琶の音』の震源地へと感覚を研ぎ澄ませた。

 

(以前ここへ引っ張られた時、空間の繋がりと気配の法則は完全に覚えた。……あそこだ!)

 

マヤは空中に浮かぶ建物の柱を蹴り、壁を砕きながら一直線に軌道を変える。

そして、重力すら無視したような強烈な踏み込みで、とある広大な畳の部屋のど真ん中へと着地した。

 

ズドォォン!! と土煙が上がり、畳がめくれ返る。

 

「……!?」

その部屋の奥で正座し、琵琶を構えていた鬼――鳴女が、目を見開いて硬直した。

彼女の役割は、あの方(無惨)の命令に従い、鬼殺隊の剣士たちを城の各所へバラバラに分断し、上弦の鬼たちとぶつけることだった。

だが、その彼女の目と鼻の先に、城のギミックをすべて無視して、黒い陣羽織を着た巨漢が突然現れたのだ。

 

「よう、なきめちゃん。久しぶりだな」

土煙の中から立ち上がったマヤが、服の埃を払いながら気さくに手を挙げた。

 

「久々だな、マヤよ……。お前もやはり来たか」

鳴女は琵琶を構えたまま、しかしすぐには撥を振り下ろさなかった。かつて、自分に「演奏を聴かせてくれ」と頼んだ、この底知れぬ男への得体も知れない感情が、彼女の動きを止めていた。

 

「どうして、私がここにいると分かった? それに……」

鳴女は、自身の内側にある『違和感』に気づき、眉をひそめた。

「あの方の声が……呪いが、今は聞こえない。何かやったのか?」

 

「ご名答」

マヤはドカリと畳の上に胡座をかき、鳴女と真っ直ぐに向き合った。

「無惨の野郎に、さっき極上の毒を食わせてやったからな。その毒の最初の効果が、『お前ら鬼への支配力を断ち切ること』だ」

 

「私への、支配が……?」

「ああ。今のなきめちゃんは、無惨の操り人形じゃねえ。自分の意志で動ける、ただの琵琶奏者だ」

 

マヤの言葉に、鳴女は動揺を隠せなかった。

無惨の絶対的な恐怖による支配。それが途切れているという事実が、彼女の心に何百年ぶりかの『自由』という概念を呼び起こそうとしていた。

 

「まー、色々な。それで、今回は一つ提案があってな」

マヤが、極めて真剣な眼差しで鳴女を見据えた。

 

「お前、人間になりたくないか?」

「……は?」

「お前の琵琶はうまいからよ。人間に戻って、太陽の下で演奏してみたくないか? 何なら俺の専属奏者でもいいんじゃないか? 観客や身内を集めたりしてな。どうだ?」

 

あまりにも突拍子もない、しかし温かい提案に、鳴女はしばらく言葉を失い、やがて自嘲するように鼻で笑った。

「……人間に戻っていいような、鬼じゃないんだよ、私は」

 

「何かあったのかい?」

マヤが静かに問う。

「鬼になるやつは、だいたいのやつが、人間だった頃に理不尽に何かを奪われたり、命を脅かされたりしたって相場が決まってるけどな」

 

鳴女は、隠された瞳を伏せ、ぽつりぽつりと過去を語り始めた。

「……バカな女だろ? 生前、私は琵琶奏者だったが、日々の暮らしは貧しかった。ある日、博打狂いの夫が、私の一着しかない演奏用の着物を売り飛ばした。……私は逆上し、琵琶の調整に使う金槌で、夫を殴り殺したんだ」

鳴女の指が、琵琶の弦を震えるように撫でる。

「その後、ボロボロの服のまま仕事へ行き、強張った手で琵琶を弾いた。……だが、客たちは私の演奏を絶賛した。人を殺した後の、あの異様な高揚感と緊張感が、私の音を良くしたのだと勘違いした。それからだ……私が、演奏の前に人を殺すようになったのは」

 

人を殺した手で琵琶を弾く。その狂気のルーティンが彼女を鬼舞辻無惨と引き合わせ、鬼となるに至ったのだという。

「どうだ? 救いようのない、狂った人殺しだろ? あの方に殴りかかって返り討ちに遭い、鬼にされた……。今じゃ、琵琶は弾いても、誰に純粋な音を聴かせることもできやしない。……お前くらいだよ。あの時、私に『演奏を聴かせてくれ』と言った物好きは」

 

自らの罪を吐露し、諦めきったように微笑む鳴女。

だが、マヤはそれを聞いて、ひどく優しい顔で首を横に振った。

 

「なら、答えはもう出てるじゃねーか」

「……何?」

「人を殺したから弾けるようになった、じゃないと思うぞ。元から、お前にはそれだけの才能があったってことだろ」

 

マヤの言葉が、鳴女の胸の奥底に真っ直ぐに突き刺さる。

「旦那の暴力に怯えて、ずっと萎縮して演奏してたんだろ? そりゃ、夫を殺してタガが外れた時の高揚感を、『殺したから音が良くなった』って勘違いしちまったんじゃねーか。……お前はただ、恐怖から解放されて、本来の自分の音を出せただけだ」

 

「本来の……音……」

「それに、もう何百年も前の話だ。その間ずっと、純粋な音楽として琵琶を弾くことを許されず、空間移動の道具としてだけ使われてきた。……その罪の代償は、もう十分に払ったんじゃねーかな?」

 

鳴女は、目を見開いた。

何百年もの間、自分自身すらも騙し、狂気に身を委ねることでしか保てなかった心が、目の前の男の、あまりにも論理的で、大人の包容力に満ちた言葉によって、ボロボロと崩れ落ちていくのを感じた。

 

「俺の傍で、まずは人間に戻ったお前の演奏を聴かせてくれないか?」

マヤが立ち上がり、鳴女へ手を差し伸べた。

「俺は前にも言ったが、琵琶を聴いたのはあの時が初めてだ。お前の腕は、すこぶる上がってるはずだ。俺に琵琶を、教えてくれよ」

 

鳴女の目から、一筋の涙が頬を伝い落ちた。

「……そう、お前は言ってくれるのか。ありがたいな……。お前のためにまずは弾くのも、いいかもしれないな」

「ああ、よろしく頼むよ」

 

「鬼を口説く阿保がいるか。お前は、心底、分からん奴だ」

鳴女が涙を拭いながら、呆れたように、しかし確かな安堵の笑みを浮かべて言った。

「あ、俺の嫁に珠世がいるぞ? お前も知ってるだろ? お前より前の鬼だった。俺の愛する妻の一人だ。あの人も人間に戻ったんだぜ」

「はァ!?」

鳴女が素っ頓狂な声を上げた。

「お前……まさか、本当に鬼を人間にしたのか……。あの珠世殿を、妻の一人って……お前、何人いるんだよ……」

 

「今のところ、愛する妻は四人だぞ」

マヤがニカッと笑って指を四本立てる。

 

「はぁ〜……。とんでもない男に引っかかったね、私は」

鳴女は深くため息をつき、そして、自らの相棒である琵琶を愛おしそうに撫でた。

「でも……悪くないよ」

「よろしくな、鳴女」

「ああ。よろしくな、マヤさん」

 

その瞬間、無限城という巨大な盤面は、完全にゲームマスターを失い、マヤという新たな支配者の手に落ちた。

 

「よし。無惨は今、どこかの部屋で毒の分解に必死になって引きこもってるはずだ。奴は後回しでいい」

マヤが鳴女の隣に立ち、城の無数の部屋を見渡す。

「なきめちゃん。まずは、しのぶやカナエ、カナヲ、伊之助を……『上弦の弐』のいる蓮の池の部屋へ放り込んでくれ。俺も後からそこへ行く」

 

「分かった。そして、他の柱たちも的確な場所へ送ればいいのだな?」

「ああ。この城のルールは、今日から俺たちが決める。……分断なんかさせねえ、最高戦力による各個撃破だ」

 

鳴女が、力強く撥を振り下ろした。

――ベンッ!!

 

その心地よく、力強い旋律と共に、鬼殺隊の剣士たちの足元空間が次々と繋がり、マヤの思い描く完璧な戦場へと彼らを送り届けていく。

開戦の狼煙は上がった。

無限城という名の死地は、マヤの盤石な罠と交渉術によって、鬼たちにとっての『逃げ場のない処刑場』へと変貌を遂げたのであった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。