鬼滅の薬   作:マイナーチョコ

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第4話 後編:アゲハの陣羽織と、隠れ家の医者

蝶屋敷での穏やかな騒動から数日後の、夕暮れ時のこと。

 

大正の風情が色濃く残る街並みは、西日に照らされて黄金色に染まり、やがて灯り始めたガス灯の淡い光が、行き交う人々の影を長く伸ばしていた。

活気ある通りを抜けた先にある、腕の良い老舗の仕立屋。その店の暖簾をくぐって出てきた男の姿に、胡蝶しのぶは思わず目を丸くした。

 

「……マヤさん。それ……」

 

仕立て上がったばかりの服に身を包んだマヤが、軽く腕を回しながら立っている。

厚く鍛え上げられた胸板と広い肩幅にぴたりと合う、仕立ての良い洋装ベースの服。しかし何より目を引くのは、その上から無造作に羽織られた『陣羽織』だった。

深い漆黒の生地に、薄紅色と紫が入り混じった、鮮やかなアゲハ蝶の意匠が大胆にあしらわれている。和洋折衷でありながら、マヤの赤い髪や野性味のある風貌と不思議なほど調和していた。

 

「ふふっ、やっぱり似合いますね、マヤさん」

 

隣で満足げに微笑むカナエを見て、しのぶの心境は複雑だった。

 

(まさか姉さんが、あんな派手な陣羽織をこっそり用意していたなんて……。しかも蝶の意匠って、完全にうちの身内扱いじゃないですか。いつの間にそんな採寸まで……!)

 

「おう、悪くないな。動きやすいし、肩周りも窮屈じゃねえ。ありがとな、カナエ」

 

マヤが素直に礼を言うと、カナエは嬉しそうに目尻を下げる。

その横で、マヤの陣羽織の裾を小さな手できゅっと掴んでいるカナヲが、蝶の模様をじっと見つめたまま、ぽつりと口を開いた。

 

「……とても、綺麗な服です」

 

「お、分かるか? カナエのセンスがいいからな」

マヤがしゃがみ込み、カナヲの頭を大きな手でわしゃわしゃと撫でる。カナヲはされるがままに目を細め、心地よさそうにその温もりを受け入れていた。

 

微笑み合う三人。

その光景を見て、しのぶの胸の奥に、ほんの少しだけ疎外感のような、もやもやとした感情が湧き上がった。

 

(……なんだか、姉さんとマヤさんがカナヲの両親みたいに見えますね……)

 

店を離れ、賑わう大通りを歩き始める。

自然な流れで、カナヲを真ん中にして、マヤとカナエが両側から手を繋いで歩いていた。しのぶは、少し離れてその横を並んで歩く形になる。

完全に家族の休日だ。しのぶは少しだけ唇を尖らせ、張り合うような、嫌味っぽいトーンで口を開いた。

 

「なんか、良い感じですね、姉さん。私と代わってもいいですよ?」

 

姉が妹の微妙な嫉妬心に気づかないはずがない。カナエはふふっと上品に笑い、歩みを止めずに答えた。

 

「ふふふ、少ししたら交代しましょうね」

「ん? 俺と代わるか? しのぶ」

 

空気を全く読まないマヤが、カナヲと手を繋いだまま、反対の空いている大きな手をしのぶに向かって無造作に差し出してきた。

 

「っ……!!」

しのぶの顔が一瞬で林檎のように赤く染まる。

 

(そうじゃないんですよ!! 誰があなたと手を繋ぎたいって言いましたか! カナヲと代わってどうするんですか、子供扱いしないでください!!)

 

喉まで出かかった膨大なツッコミを、しのぶは必死に飲み込んだ。往来で大声を出すわけにもいかない。しのぶがぷるぷると震えながらマヤの手を睨みつけていると、カナエが助け舟を出すように笑った。

 

「ふふ、そうじゃないと思いますよ、マヤさん。……あ、今日はせっかくですから、外食にしましょうね」

「おう。なんか、色々とありがとな。服までもらっちまって」

 

真っ直ぐに自分たちへ向けられる、一切の裏表がない感謝の言葉。

それを正面から浴びせられると、しのぶの毒気もあっさりと抜けてしまう。照れ隠しのようにそっぽを向きながら、しのぶはコホンと咳払いを一つした。

 

「……外食、いいですね。カナヲもいますし、少し珍しい洋食屋にしませんか? この先に色々あるようですし」

 

大正のロマンが漂う洋食屋での食事は、騒がしくも穏やかな時間だった。

ふわりと卵が巻かれたオムライスや、肉汁が溢れるハンバーグ。カナヲが初めて見るナイフとフォークの使い方に戸惑って固まっていると、マヤが「こうやって切るんだよ」と自分の分を切り分けてやり、しのぶが「マヤさん、それはお行儀が悪いです」と口を挟む。カナエは終始楽しそうに笑いながら、全員の様子を見守っていた。

美味しい食事と温かい空気に絆され、カナヲも「……おいしい」と、自分から少しだけ言葉を発するようになっていた。

 

店を出る頃には、日は完全に落ちて、夜の闇が街をすっぽりと包み込んでいた。

冬の夜風が肌を刺す。ガス灯の光が届かない路地裏には、濃い影が落ちている。

 

帰り道、大通りから少し外れた静かな道を歩いていた時だった。

 

ピタリ、と。

先頭を歩いていたマヤが、突然足を止めた。

その瞬間に変わった気配で、しのぶとカナエの表情から「休日の家族」の顔が消え去り、極限まで研ぎ澄まされた「鬼殺隊の剣士」の顔へと変貌する。

 

「……おい。この近くに、鬼がいるぞ」

 

マヤの低い声が夜の空気に響く。

しのぶが即座に毒の仕込まれた日輪刀の柄に手をかけ、カナエはカナヲを自身の背中へと庇った。

 

「えっ!? まさか、上弦ですか!?」

しのぶが周囲へ鋭い視線を巡らせる。しかし、彼女の感覚には鬼特有の禍々しい気配は一切引っかからない。

 

「いや」

マヤは目を細め、暗い路地裏の奥を見つめた。

「あの氷野郎みたいな、腐った嫌な匂いはしねえ。なんだこれ……ひどく静かな気配だ。こっちだ」

 

マヤが迷いなく歩き出した先は、建物と建物の間にある細い路地裏だった。

だが、その奥はレンガ造りの高い壁で完全に塞がっている。行き止まりだ。

 

「マヤさん、ただの壁ですよ?」

しのぶが訝しげに言うが、マヤは壁の数歩手前で立ち止まり、じっとその空間を見つめた。

 

「いや、なんかあるな。目には見えねえが、空間が歪んでる。……みんな、手をつないでろ。俺から離れなければ、大丈夫だ」

 

マヤの言葉に、しのぶは日輪刀から手を離し、カナエ、カナヲと並んで手を繋いだ。先頭に立つマヤが、しのぶの手をしっかりと握る。

その大きくて熱い掌から、微かに『闘気』が流れ込んでくるのが分かった。

 

「行くぞ」

 

マヤが、ただのレンガの壁に向かって、何の躊躇いもなく足を踏み出す。

ぶつかる、としのぶが目を閉じた瞬間。

水面を通り抜けるような奇妙な感覚と共に、周囲の景色がぐにゃりと歪み、反転した。

 

目を開けたしのぶの視界に飛び込んできたのは、行き止まりの壁などではない。

古びているが清潔に保たれた、立派な和洋折衷の家屋だった。

血鬼術による、極めて高度な幻術の結界。柱であるカナエやしのぶでさえ、触れるまで一切見破ることができなかった不可視の壁を、マヤは闘気の流れだけで強引に押し破ってみせたのだ。

 

「誰か住んでる……? でも、あの幻術は間違いなく血鬼術のものでした。中にいるのは……鬼」

カナエが小声で警戒を促す。

「少し慎重に行きましょう」

しのぶが再び刀に手をかけようとした時、カナヲが不安そうにマヤの陣羽織の袖をぎゅっと掴んだ。

 

その小さな手の震えを感じ取ったマヤは、ふうと短く息を吐き、結界の奥の家屋に向かって、突然声を張り上げた。

 

「すいませーん!!」

「な、なに言ってるんですか!?」

急な大声に、しのぶが裏返った声を出す。

 

「いるの分かってるんで! こちらに敵意はないです! そちらから敵意がないのも分かってますが、一人、殺気向けてる人、抑えてくれませんか!」

 

マヤは両手を軽く上げ、武器を持っていないことを示しながら堂々と言い放った。

(な、なんて無茶苦茶な……!)としのぶが止めに入ろうとするが、カナエがしのぶの肩にそっと手を置き、小声で囁いた。

「ここは、マヤさんに任せましょう。……あの人、こういう死線での交渉事、ものすごく手慣れている気がします」

 

カナエの観察眼は正確だった。

マヤはただ大声を出しているわけではない。幻術を突破できる圧倒的な実力を示しつつ、「敵意はない」「殺気を向けている一人(伏兵)の存在も把握している」と伝えることで、相手に『交戦の無意味さ』を瞬時に悟らせているのだ。

 

ギィ……と、重い木の扉が開く音がした。

薄暗い玄関口から姿を現したのは、透き通るような美しさを持つ和服の女性と、彼女を庇うようにして鋭い殺気を放つ、鋭い目つきの少年の鬼だった。

 

珠世と愈史郎である。

鬼殺隊の剣士らしき者たちに結界を破られ、珠世は静かに死を覚悟していた。しかし、目の前に立つ陣羽織の男からは、鬼殺隊特有のあの刺すような殺気も、憎悪も感じられない。それどころか、その後ろには幼い子供まで連れている。

 

マヤは女性の鬼――珠世から、薬草と、ひどく清潔な血の匂いを感じ取った。

 

「……お前ら、医者か? 薬の匂いがするな。鬼だけど……人間に似てるって感じかい? ずっと逃げ隠れしてたのか。大変だったな」

 

警戒ではなく、純粋な労い。その言葉に、珠世は思わず目を見開いた。

 

「あなた方は……一体……?」

「立ち話もなんなんでよ、家の中に入って話そう。こちらには敵意はない。敵意があれば、すでに交戦してるだろ?」

 

マヤは一歩前に出ると、ゆっくりと胸に手を当てた。

 

「あ、わりぃ。俺は、マヤだ。まずは俺だけの名前を明かす。そちらも、そのお姉さんのほうだけ名前を教えてくれないかい? そっちの男の子の名前はこちらも聞かない。言いたくなったら言うって感じでどうだい?」

 

相手の退路を用意し、情報を少しずつ開示させる。その絶妙な距離感の詰め方に、珠世の背後に立つ愈史郎の殺気が、戸惑いへと変わっていく。

 

「それに、こっちには子供もいるしな。あまり血なまぐさいやり取りは、お互いよくないだろ?」

 

マヤの袖をしっかりと握り、彼を信頼しきっているカナヲの姿。それを見た珠世は、この男が残忍な人間ではないと確信し、ふっと肩の力を抜いた。

 

「……私は、珠世と申します」

「ありがとう、珠世さん。マヤって呼んでくれ」

「分かりました、マヤさん。……では、中へどうぞ」

 

案内された室内は、病院の医務室のように清潔で、様々な薬品の匂いが立ち込めていた。

応接間のような部屋のソファーに向かい合って座る。しのぶは、マヤの横顔を見つめながら小声で姉に囁いた。

 

「姉さん……マヤさん、凄く交渉慣れしてませんか?」

「ええ。相手の警戒を解くのが、本当に上手ですね」

 

お茶が出されるわけでもない、張り詰めた空気の中、マヤが口を開いた。

 

「まずは、中に入れてくれてありがとうな。勝手に幻術破ったのは申し訳ない。こちらもちょいと前に、凶悪な鬼に襲われてな……少し警戒してたが、それも大丈夫そうだな。あの氷野郎とは違うみたいだしな」

「……氷野郎、ですか?」

珠世が怪訝な顔をする。

「あ〜どうすっかな。俺も鬼のことはよく分かんないんだよね。俺は、しがない蝶屋敷の門番なんでね」

 

困惑する珠世に対し、カナエが姿勢を正し、静かに告げた。

 

「私は鬼殺隊の柱です。先日、上弦の弐と交戦し……このマヤさんに助けられたのです」

 

珠世と愈史郎の体に、雷に打たれたような激震が走った。

鬼殺隊の最高位たる『柱』が目の前にいること。そして何より、遭遇すれば確実な死を意味する『上弦の弐』と交戦し、生き延びたということ。いや、それだけではない。この『門番』と名乗る男が、上弦から柱を助け出したというのか。

 

「え……鬼殺隊の柱が、ここへ? というか、上弦と戦って生き残ったのですか!?」

何百年も生きてきた珠世が、声の震えを隠しきれずに問う。

「そうそう。その氷野郎を俺がぶっ飛ばしたから、そいつの気配と珠世さんたちの気配が違うのが俺には分かるんだよ。珠世さんたちは、何をしてたんだい? こんな場所で」

 

上弦をぶっ飛ばした。

その冗談のような事実を平然と口にするマヤの底知れなさに、珠世はごくりと息を呑んだ。しかし、カナヲがマヤの傍で完全に安心しきっている姿を見て、珠世は彼らを信じることを決断した。

 

「……ま〜、これだけ薬品の匂いがしてるから、何か研究でも? って感じかね」

「だから……! 雑なんですってば、マヤさんは!」

 

深刻な空気をぶち壊すマヤの推察に、しのぶがたまらずツッコミを入れる。

「しのぶは細かいな。匂いがしてるんだからいいだろ?」

「そういうことじゃないんですって! デリカシーがないって言ってるんです!! もう〜!」

 

「ふふ……」

漫才のようなやり取りに、珠世の口から自然と笑みがこぼれた。

「少し、面白い方ですね。……分かりました。お話ししましょう。実は……鬼が鬼の研究をしているんです。私は、無惨の呪いを外していますので」

 

「??? 無惨の呪い? とは? え、無惨から生まれてないってこと?」

 

マヤが首を傾げる横で、カナエとしのぶは絶句していた。あの鬼の始祖の呪いを外している鬼が存在するなど、鬼殺隊の長い歴史の中でも聞いたことがない。

 

「いいえ。私は確かに無惨から鬼にされました。無惨は配下に呪いをかけて、細胞から縛り付けるんです。それを解く研究をしたり……あとは、鬼を人間に戻せないかの研究を、何百年もしています」

「! 凄いな!! そんなに長いこと研究してるのか!」

 

マヤの瞳が、パァッと輝いた。

偏見も嫌悪もなく、ただ己の研究と費やした時間を純粋に称賛してくれた。その事実が、珠世の孤独だった何百年の心に、温かい光のように差し込んだ。

 

「ちょうどいい!」

マヤはポンッと手を叩き、隣に座るしのぶを指差した。

「こっちの機嫌悪そうなのも医者なんだ。珠世さん、鬼を人間に戻す方法、一緒に手伝ってやってくれないか? こいつは、かなり凄い天才なんだよ」

 

「誰が機嫌悪そうなんですか!! それに、勝手に話を進めないでください!」

顔を真っ赤にして抗議するしのぶだが、その瞳の奥には、同じ『医者』としての強烈な興味と希望が燃え上がっていた。

 

「……どのような研究を?」

珠世が、身を乗り出すようにしてしのぶに問う。

「……秘密なんですよ、マヤさん、本当は……。でも……私は、藤の花から、鬼を殺せる毒を抽出して作りました」

 

若い少女が、鬼を殺すための毒を実用化させた。

その凄まじい執念と才覚に、珠世は目を見張った。

 

「もしや、人間に戻す方法も……?」

「それは……マヤさんが最近勝手に言い始めて、まだ机上の空論ですね。鬼の血を採取できれば少しは研究できるかもですが。マヤさんが『俺が鬼から採取してくる』と言っているので……それを待っている段階です」

 

しのぶの言葉に、珠世の中で、長年止まっていた運命の歯車が激しく回り始めるのを感じた。

上弦を退けるほどの圧倒的な武力を持つ男が、鬼の血液という極めて危険な検体を調達し。

鬼を殺す毒を独自に開発した天才的な薬学の才を持つ少女が、共に分析を行う。

 

「……それなら」

珠世の声が、微かに震えていた。

「ある程度強い鬼の血を持ってきてくだされば、私のこれまでの研究成果もお見せして……共同でやるのはどうでしょうか」

 

「それなら、かなり研究を進められると思いますね」

しのぶの顔に、研究者としての誇りと高揚感が浮かぶ。

 

「いいね、いいね。まず弱い鬼のも採取してみて、反応を見せるところからしのぶは始めたらどうだ? 資料だけ見てもあれだろうしな」

「それも一理ありますね」

珠世が深く頷く。

 

張り詰めていた路地裏の隠れ家に、前代未聞の『鬼殺隊と鬼の共同研究』という、奇跡のような同盟が結ばれた瞬間だった。

 

「突然来てとんとん拍子にいってよかったわ。いい鬼の気配ってやつがどんな感じか分かったしな。よろしくな、珠世」

 

マヤが、まるで近所の友人にでも言うような軽さで、満面の笑みを向けた。

 

「ええ、よろしくお願いします。マヤさん」

珠世もまた、何百年ぶりかに、心からの柔らかな笑みを返した。

 

その和やかな空気を、しのぶの鋭い声が引き裂く。

 

「こほんっ! 女性相手にいきなり呼び捨てはどうかと思いますよ? マヤ」

「え?」

カナエが目を丸くして妹を見る。

「しのぶ、今、マヤって……呼び捨てに……」

「ん? 呼び捨てでもいいだろ? もう同じ目的を持った仲間さ。な? 珠世」

「ふふふ。本当に、不思議な方ですね」

 

マヤのペースにすっかり巻き込まれ、無自覚に呼び捨てにしてしまったしのぶは、カナエに指摘されてハッとし、耳まで真っ赤にして顔を背けた。

その横で、最後まで名前を聞かれず、ただの背景と化していた愈史郎だけが、額に青筋を浮かべて内心で絶叫していた。

 

(さん、を付けろ!! それか様だろうがァァァ!!)

 

そんな愈史郎の静かな殺気などどこ吹く風で。

カナヲは、マヤの陣羽織の袖をしっかりと握りながら、「マヤ……ん」と嬉しそうに小さく頷いていた。

 

こうして、ただの休日の買い出しは、世界を救うための極秘の共同研究へと繋がった。

歴史の裏側で、無惨を討ち滅ぼすための反逆の毒が、静かに、しかし確実に芽吹き始めていた。

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