氷のように冷たい空気が、無限城の一角に広がる広大な蓮の池の部屋を満たしていた。
水面には不気味なほどに美しい氷の睡蓮が咲き乱れ、その中央の橋の上で、上弦の弐・童磨がニタニタと笑みを浮かべていた。
「やあやあ! 可愛い女の子がいっぱいだね! 俺の部屋にようこそ! 皆、俺が残らず救済してあげるよ!」
童磨が、手にした二対の黄金の扇を広げて優雅にお辞儀をする。
その向かい側で日輪刀を構えているのは、胡蝶カナエ、胡蝶しのぶの姉妹、そして栗花落カナヲ、嘴平伊之助の四人である。
「相変わらず、吐き気がするほど気色悪いですね。ねえ、カナエ姉さん」
しのぶが、微塵の恐れも見せずに冷たく吐き捨てた。
「ええ、本当に。でも、今日はもう逃がしませんよ。6年前の決着を、ここできっちりとつけましょう」
カナエが静かに刀を抜き放つ。6年前、雪降る森の中で彼に殺されかけた記憶は、今はもう恐怖ではなく、確かな闘志へと変わっていた。
「あれ? 君、昔どこかで……ああ! 思い出した! あの時の花の剣士ちゃん! 生きてたんだね、感動だよ! あの時はお互い邪魔が入っちゃったけど、今日はゆっくり話そうね」
童磨が嬉しそうに手を叩く。
「……師範たちを、舐めないで。貴方の相手は、私と伊之助もいるわ」
カナヲが、一切の感情を乱すことなく、鋭い殺気を放ちながら一歩前に出た。
「おいおい! なんだこのヘラヘラした野郎は! 腹の底から気に食わねぇ! 猪突猛進で細切れにしてやるぜ!」
伊之助が二刀を打ち鳴らし、鼻息を荒くする。
「ふふっ、君たち楽しそうだね。俺も仲間に入れてよ。俺の中で永遠に――」
「うるさいですね」
童磨の戯言を遮るように、しのぶの姿がフッと掻き消えた。
神速の踏み込み。水面を滑るような『蟲の呼吸』の足捌きで、童磨の真正面に割り込んだしのぶの日輪刀が、容赦なく童磨の顔面へと突き込まれた。
グサッ、と鈍い音が響き、童磨の左眼に深々と刃がめり込む。
「おや?」
だが、童磨は痛みを感じた様子もなく、扇でしのぶの刀を軽く弾き返した。
「怖い怖い。だめだめ、そんな突きくらいじゃ、僕を楽しませてくれないとね。……そういえば」
童磨は、頭から血を流しながら、視線を伊之助へと向けた。
「そこの猪の少年。君のお母さんらしき人を、昔僕が取り込んであげたよ。酷い旦那から逃げてきた可哀想な女の人だった。救済だね」
「……まさか、母ちゃんを!?」
伊之助の動きがピタリと止まり、猪頭の下の空気が一気に張り詰めた。
「くくく、あははは! 母親だったのか! あの時逃げた幼子が君だとは、これはおもしろい!! 奇跡の再会だね!」
童磨が腹を抱えて笑い声を上げた、その瞬間だった。
ドドォォォンッ!!!
部屋の壁が、凄まじい爆発音と共に木っ端微塵に粉砕された。
舞い散る木屑と氷の破片の中から、巨大な黒い影が、豪奢な着物を着た一人の女(鳴女)を伴って悠然と姿を現した。
「よう、氷野郎。久々だな。随分と、いい笑いを聞かせてくれてるじゃねぇか」
「……え?」
童磨の顔から、一瞬にして笑みが完全に消え失せた。
視線の先に立つ、漆黒の陣羽織を羽織った巨漢――マヤ。
6年という歳月を経ても、童磨の細胞の奥底に刻み込まれた『圧倒的暴力のトラウマ』が、フラッシュバックして蘇る。あの雪降る夜、一切の予備動作なく放たれた一撃によって、自分の強靭な腹部が紙屑のように吹き飛ばされた、あの理不尽なまでの恐怖。
「あ……あぁ……っ」
感情の欠落しているはずの童磨の額から、滝のような冷や汗が吹き出し、黄金の扇を持つ手がガタガタと無様に震え始めた。
「あん時は、いきなり現れて腹殴っちまって悪かったな」
マヤは首をゴキリと鳴らし、深い怒りを隠そうともしない目で童磨を睨み下ろした。
「今日はちゃんと正面から、俺の愛する妻たちの落とし前をつけに来たぜ」
「旦那様、遅いですよ。言っておきますけど、美味しいところは私たちが頂きますからね」
しのぶが、刀に付いた血を振り払いながら微笑む。
「ふふっ。マヤさんは、私たちの後ろでサポートをお願いしますね」
カナエもまた、マヤの登場に深く安堵し、心からの笑みを向けた。
「おう。俺はお前たちの『絶対の盾』だ。……存分にやれ。怪我一つさせねぇからよ」
マヤが両手を広げ、圧倒的な威圧感で童磨の逃げ道を完全に塞いだ。
「ま、待ってよ! 俺、男の人と戦うの好きじゃないんだ……! ねえ、お話しよ……」
「問答無用だァァァッ! 斬り裂き裂きィィ!!」
童磨が命乞いのような声を上げた瞬間、母親の仇を前に怒り狂った伊之助が跳躍し、二刀を振り下ろした。
「ちっ……『粉凍り』……あれ?」
童磨が扇を振るって広範囲の氷の血鬼術を展開しようとしたが、扇からは微風一つ起きなかった。
自身の体内を探った童磨は、愕然と目を見開く。
「あへ? 血鬼術が……使えない……?」
「やっと効いてきましたか」
しのぶが、氷の橋の上を歩み寄りながら冷酷に微笑んだ。
「先ほどの突きで、貴方の体内に『貴方専用の毒』を打ち込みました。血鬼術を完全に封じ、身体能力を削ぐ遅行性の毒。……旦那様がいる前で、なぶり殺しにします。私達の、『未来の子』のためにも!!」
その言葉に、部屋の空気が一瞬だけピタリと止まった。
「……えっ?」
カナエが目を丸くし、伊之助もカナヲもポカンと口を開けた。
「え? 子供!? まさか、しのぶ、あなた……!!」
しのぶは、頬をほんのりと赤らめながら、カナエに向けて嬉しそうに微笑み、静かに頷いた。
「なんということなの……! あぁ……よかったわ、しのぶ……っ! これで私は、気兼ねなく当主の座を貴方に渡せるわ……!」
カナエが感極まって涙ぐむ。
「よかったです。しのぶ様!」
カナヲも、普段の冷静さを忘れて目を輝かせた。
「あのォ……」
伊之助が、二刀を構えたまま震える声で割り込む。
「今、そういうの話すの!? 俺の怒りとか、母ちゃんの仇とか、どうなってんだよ!!」
「ごめんなさい伊之助君、つい嬉しくて」
しのぶがクスクスと笑う。
一方の童磨は、血鬼術を封じられ、身体の自由も徐々に奪われていく中で、目の前で繰り広げられる「命の誕生を祝う家族の温かい光景」に、理解不能な恐怖を覚えていた。
「な、なんだよこれ……僕の部屋で、僕を無視して……」
「そういえば、禰豆子ちゃんは? 見当たらないのだけど」
マヤが、周囲を見渡しながら尋ねた。
「たぶん、産屋敷の館に取り残されたか、地上にいるかもしれません。彼女はすでに太陽を克服できているので、安全地帯にいます。無惨の狙いからは外れました」
「そうか。それはよかった」
マヤは深く息を吐き出すと、凄惨な顔で震える童磨へと視線を戻した。
「さて、終いにしよう。……任せるよ?」
マヤの合図に、しのぶ、カナエ、カナヲ、伊之助が同時に刃を構えた。
「「「「わかりました(いくぜ)!!」」」」
血鬼術という最大の武器を失い、ただの再生能力が高いだけの的となった童磨に、四人の剣士の怒りと悲しみを乗せた絶技が降り注いだ。
花の呼吸、蟲の呼吸、獣の呼吸。
反撃すら許されず、全身を細切れにされ、最後は伊之助とカナヲの交差する刃によって、上弦の弐の頸はあっけなく宙を舞った。
かつて多くの命を弄んだ氷の鬼は、家族の絆と温かい命の輝きを前に、何一つ理解できないまま惨めに崩れ去っていった。
***
童磨が塵となって消滅したのを確認し、マヤは満足げに頷いた。
「さて、次の連中を呼ぼう」
マヤが隣に立つ鳴女へ合図を送る。
鳴女が静かに撥を振り下ろすと、ベンッ、という音と共に空間が歪み、童磨の部屋の隣接空間に二つの影が転送されてきた。
「マヤ殿! 皆! 大事なかったか!?」
炎のような闘気を纏い、額に鮮やかな痣を発現させた煉獄杏寿郎が、周囲を素早く見渡して声を張り上げた。
「問題ない。そっちはどうだ?」
「こちらも問題ない! さぁ、決着をつけるぞ!」
煉獄の視線の先。そこには、上弦の参・猗窩座が立っていた。
猗窩座は、周囲の状況を把握するよりも先に、自身の内側で荒れ狂う嵐に苦しんでいた。
『なぜだ……。あの時、無限列車で、あの男(マヤ)が言った言葉が頭から離れない……』
『俺は、なぜ強さを求める? 誰を守りたかった? なぜ、女だけは絶対に殺す気にならない……? なぜ……俺の記憶は、こんなにも空っぽなんだ……』
「猗窩座」
マヤが低く呼びかけた。
「お前も呼んだぞ。……答えは出たか?」
猗窩座が、弾かれたように顔を上げる。
「マヤ……! 貴様か! 貴様、俺の過去の何を知っている……! なぜ俺に、あんな問いを投げかけた!」
「俺は何も知らない。お前が、自分で思い出すんだ。人間に戻るかどうかは、その後で自分で決めな」
「ふざけるな! 俺は至高の武を……!」
「悪いが、お前の相手は俺じゃない。……アイツだ」
マヤが視線を向けた先で、炎の闘気が空間を支配し、煉獄杏寿郎が進み出た。
「うむ! 再戦だな、上弦の参! 今夜こそ、貴様の頸を斬る!」
「杏寿郎……!」
猗窩座は戦慄した。列車で会って以来、この男の闘気はどれほど練り上げられているのか。人間とは、これほどの短期間でここまで強くなれる生き物だったのか。
「素晴らしい闘気だ……! だが、人間である限り限界が――」
「俺だけではない! 今夜は柱全員が、限界を超えた強さを持っているぞ! 来い、猗窩座!!」
二人の武人が激突した。
だが、その戦いは、かつての無限列車での死闘とは違った。
限界を超えた炎柱の絶技と、マヤから教わった究極の『いなし』。猗窩座の破壊殺はことごとく威力を殺され、逆に煉獄の刃が次々と猗窩座の急所を捉えていく。
圧倒的な力の差。それは、人間の持つ「未来へ繋ぐための無限の可能性」が、鬼の「停滞した永遠」を凌駕した瞬間だった。
(俺は……何のために……)
煉獄の刃が、猗窩座の頸を完全に捉え、斬り落とす段階に入ったその時。
猗窩座の脳裏に、かつての記憶の濁流が流れ込んできた。
病気の父親。薬を買うためにスリを繰り返し、罪人の証である入れ墨を刻まれた腕。
そんな自分を拾ってくれた慶蔵。そして、花火の下で「来年も行きましょうね」と笑ってくれた、愛する恋雪の顔。
その全てを、隣接する剣術道場の嫉妬による『井戸への毒の投げ込み』によって理不尽に奪われた、凄惨な過去。
(ああ……俺は……)
猗窩座は抵抗を止め、迫り来る煉獄の刃を、むしろ受け入れようと目を閉じた。
「……待て、杏寿郎」
マヤの声が響き、煉獄の刃が猗窩座の首の皮一枚を斬ったところでピタリと寸止めされた。
「猗窩座とやら、過去に何かあったんだろ? さっき、何か思い出したんじゃないか? 杏寿郎が首を斬ろうとした瞬間、お前、それを受け入れようとしただろ」
マヤが、静かに歩み寄る。
「……過去を、思い出した……」
猗窩座は、その場に膝をつき、両手で頭を抱えながら呻いた。
「俺は、罪人扱いを受けた過去がある……。ただ生きるために、父親の薬を買うために盗みをした咎人だ! そんな俺を受け入れてくれた、愛する人たちがいた……。だが、俺がいない間に……あいつらは、嫉妬に狂った門下生に毒殺された……!!」
血の涙を流しながら、猗窩座は己の絶望と罪を吐露した。
「俺は……俺はただ、あいつらを守れる強さが欲しかっただけなのに……!! ああぁぁぁっ!!」
無限城に、悲痛な慟哭が響き渡った。
「よもや、よもやだ……」
煉獄が、刀を下げて痛ましそうに呟いた。
「上弦とは……人よりも深い業と理不尽を受けた者が、なるものなのかもしれんな」
「杏寿郎にしても、冴えてるじゃないか」
マヤは静かに頷くと、猗窩座の肩にポンと手を置いた。
「鬼でもう頭打ちだし、弱点もあるしで、それって強いのかね? 猗窩座、お前は人間になってやり直したほうがいいと思うけど、どうだい?」
「うむ! 人となりて、また俺と一緒に鍛錬しようではないか、猗窩座!」
煉獄が、かつて自分を鬼に誘った男へ、底抜けに明るい声で手を差し伸べた。
猗窩座は涙を拭い、煉獄の真っ直ぐな瞳を見て、ゆっくりと立ち上がった。
「……お前の強さは、痛いほどわかった。お前の言う通りにする。だが……マヤ! お前は別だ!! 俺と戦え!」
「「「えっ?」」」
しのぶやカナエ、そして煉獄でさえも、ポカンと口を開けた。
「え? 何かまずいのか?」
猗窩座が不思議そうに首を傾げる。
「あのな、猗窩座殿」
煉獄が、ひどく真面目な顔で、猗窩座の肩をポンと叩いた。
「マヤ殿は、私の師匠であられる。……その、お前が想像しているより、遥かに強いぞ? なので、人間に戻ってから手合わせしてもらったほうが、そのなんだ……『嫌な思い出』にならずに済むと思うのだが。どうだろうか?」
「ふむ、一理ある。なら、見せようか」
マヤが、短く息を吐いた。
スッ……。
猗窩座の視界から、巨漢の姿が完全に掻き消えた。
(!!?)
猗窩座の動体視力すらも置き去りにした神速。
次の瞬間、猗窩座の腹部に、マヤの巨大な拳がトンッ、と軽く添えられていた。
「これが、前に煉獄が気絶したパンチの……『強めのバージョン』だ」
ズドォォォォォンッ!!!
「ぐはァァァァッ!!?」
触れただけに見えた拳から、凄まじい衝撃波が猗窩座の体内の細胞一つ一つを容赦なく叩き潰した。背中の皮膚が破裂し、猗窩座は大量の血反吐をぶち撒けて、ボロ雑巾のように畳の上へ崩れ落ちた。
「これが、あの浸透する拳の極致……!? よもやよもやだ!!」
煉獄が目を輝かせて感嘆の声を上げる。
「……わかった……」
猗窩座は白目を剥きかけながら、微弱な声で呻いた。
「……人間になろう……。少し、回復を……待ってくれ……」
「では、少ししたら、人間に戻す作業の薬を打ちますね」
しのぶが、手早く注射器を準備しながら淡々と告げた。
「それは後でいいな。先に移動しよう」
マヤが猗窩座の首根っこを掴んで軽々と持ち上げる。
「さて」
マヤは振り返り、しのぶに向かって優しく、深い愛を込めて微笑んだ。
「お前たちに怪我がなくてよかった。……それと、しのぶ。子供ができてたのか。ありがとうな、しのぶ」
マヤがしのぶの腹部にそっと手を当てて撫でると、しのぶは顔を真っ赤にしながら、しかしこの上なく幸せそうに目を細めた。
「どういたしまして、旦那様。……でも、旦那様」
しのぶが、悪戯っぽく唇に指を当てた。
「私にはまだ、旦那様を驚かせる『サプライズ』が残っていますよ?」
「えっ? サプライズ?」
「ふふっ。それは、あとでのお楽しみです」
意味深に微笑むしのぶに、カナエやカナヲもクスクスと笑い声を上げる。
マヤは首を傾げながらも、愛する家族に囲まれた温かさに頬を緩め、鳴女へと振り返った。
「よし、なきめちゃん。次の部屋へ頼む。黒死牟の所だ」
「承知した」
ベンッ!!
琵琶の音が響き、最強の上弦が待ち受ける最終戦の地へと、彼らは繋がれた空間を越えていくのであった。